月別アーカイブ: 2009年11月

市制120年のあゆみ展  (6) 蚊焼県道三叉路

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長崎市制120年のあゆみ展  (6) 蚊焼県道三叉路

長崎市制施行120周年記念「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、4月に長崎県美術館(出島町)、5月に歴史民俗資料館(平野町)で開催された後、合併各地区を巡回し、11月17日三和地区で終了した。
古写真の展示が主。古写真の内容は会場によって変えている。そして、合併町独自の町を振り返る写真がある。たまたま見学した最終日の三和公民館会場の展示。タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真の、現地確認などの結果を報告する。

〔写真説明〕  昭和30年頃 蚊焼の段々畑
秋葉神社から見た蚊焼の風景。左下に伸びる道は蚊焼小学校への下り道。中央には地蔵寺が見える。

〔写真説明〕  昭和30年 蚊焼県道三叉路
蚊焼秋葉神社から見た県道と蚊焼小学校へとくだる道。右に地蔵寺、左に氏神様が見える。段々畑ばかりの頃。

〔写真説明〕  現在の蚊焼県道三叉路  (平成15年10月)
段々畑は一変して、野母崎町へ行く県道499号線と蚊焼にくだる三叉路も見えないくらい山の上まで民家が建ちならんでいる。道路をくだると蚊焼港にでる。上から見る蚊焼港は絶景である。

■確認結果

国道499号は、長崎県長崎市から鹿児島県阿久根市に至る一般国道。長崎半島を縦断し、海上区間を経て阿久根市に至る。阿久根市内の距離はごくわずか(62m)しかない。2008年現在、海上区間を連絡する交通手段は存在しない。
1993年(平成5年)4月1日:路線指定。長崎県内の路線はほとんどが、長崎県道13号線長崎野母港線から国道499号線に指定された。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「県道499号線」は「国道」の説明誤り。秋葉神社は、蚊焼「秋葉大権現」のこと。タカヒラ電器角から浜津橋の方へ旧道を行くと、途中に参道口の鳥居がある。テレビ中継塔近くの社殿へ登っても木立が高く、三叉路方向は望めなかった。
蚊焼バス停三叉路先の国道は、改良工事によって直線となっている。地蔵寺の左に写る氏神様は「歳神社」のことだろう。

市制120年のあゆみ展  (5) 三和町役場庁舎

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長崎市制120年のあゆみ展  (5) 三和町役場庁舎

長崎市制施行120周年記念「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、4月に長崎県美術館(出島町)、5月に歴史民俗資料館(平野町)で開催された後、合併各地区を巡回し、11月17日三和地区で終了した。
古写真の展示が主。古写真の内容は会場によって変えている。そして、合併町独自の町を振り返る写真がある。たまたま見学した最終日の三和公民館会場の展示。タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真の、現地確認などの結果を報告する。

〔写真説明〕
平成元年頃 右上の建物は旧役場庁舎(現 さんとぴあ)。役場は平成6年に現在の栄上に移転した。

■確認結果

昭和41年(1966)8月、旧三和町役場庁舎は為石に完成している。この古写真では、建物の全体がわからないので、町制施行50周年記念誌○長崎県三和町「さんわの足跡 1955−2004」49頁から、正面側からの写真を載せる。その後の増改築があっているようである。

平成6年(1694)8月、三和町役場新庁舎が現在の栄上に完成。8月29日から供用開始した。平成17年(2005)1月4日、三和町は長崎市に編入され、現在は「長崎市役所三和行政センター」となっている。

為石の旧役場跡地に平成8年から建設されたのが「さんとぴあ21」。周辺の道路整備も含めた為石地区都市再開発のモデル事業として整備された建物には、住宅52戸のほか集合店舗も併設され、平成10年(1998)に完成した。

市制120年のあゆみ展  (4) 高島への海底水道工事

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長崎市制120年のあゆみ展  (4) 高島への海底水道工事

長崎市制施行120周年記念「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、4月に長崎県美術館(出島町)、5月に歴史民俗資料館(平野町)で開催された後、合併各地区を巡回し、11月17日三和地区で終了した。
古写真の展示が主。古写真の内容は会場によって変えている。そして、合併町独自の町を振り返る写真がある。たまたま見学した最終日の三和公民館会場の展示。タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真の、現地確認などの結果を報告する。

〔写真説明〕
昭和32年頃 岳路海岸の異変? 高島への海底水道工事が始まると、静かな集落は、世紀の大事業に連日見学者が集まった。

〔写真説明〕
昭和32年頃 岳路海岸で世界初! 高島への海底水道工事。

■確認結果

●海底水道 「…水のない苦しみとの闘い−それが高島の水の歴史である。(中略)大正時代から昭和32年まで約40年間は長崎市の鹿尾川の水を給水船で運搬した。給水時間になると、どの家からも人が出て、1日におけ1,2杯の水をかついで運び飲料水にした。しかし、海上が荒れると、その船も来なくなることがしばしばだった。(中略)水の苦しみから町民を解放したのが昭和32年10月13日、日本の最先端技術を駆使して完成した海底水道だ。西彼三和町と高島町を結ぶ延長約5キロの高島海底水道は世界初の画期的工事といわれ、町民は世紀の送水に喜びに沸いた」 (長崎新聞平成8年5月13日付「わがまち水物語」から)

海底水道の詳しいことは、「海底の生命線」を参照。
http://www.gunkanjima-odyssey.com/GS22-06-03.htm
トップページは、軍艦島オデッセイ − O project presents | Gunkanjima Odyssey −
http://www.gunkanjima-odyssey.com 

以上が概要だから、古写真の説明は「高島・端島への海底水道工事」とした方が良いのではないか。最初の古写真の工事現場は、岳路海水浴場がある海岸部でなく、100mほど手前の車道から右折した所の道路地下に中継貯水槽があった。古写真の背景から、このあたりの光景と思われる。
後の写真は、沖の右が「高島」、左が「端島」(軍艦島)。高島には現在も送水している。海水浴場右側に海底工事現場跡?が見られ、砂浜にも支柱のコンクリート礎石片が残っていた。
高圧電力海底ケーブルもこの海岸から敷設されている。

市制120年のあゆみ展  (3) 布 巻 村

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長崎市制120年のあゆみ展  (3) 布 巻 村

長崎市制施行120周年記念「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、4月に長崎県美術館(出島町)、5月に歴史民俗資料館(平野町)で開催された後、合併各地区を巡回し、11月17日三和地区で終了した。
古写真の展示が主。古写真の内容は会場によって変えている。そして、合併町独自の町を振り返る写真がある。たまたま見学した最終日の三和公民館会場の展示。タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真の、現地確認などの結果を報告する。

〔写真説明〕  布 巻 村  (年代不詳)
明治14年布巻村は独立して形成していた。戸数78戸、人口325人で、1戸平均4.1人と少ない。深堀領だったから士族が11%の9戸もあった。道路は長崎往還という名前のついた主要道路であり、布巻川に沿い平山村に至る15町、道幅1間半というから、2.7mであった。明治
22年蚊焼村と合併した。

〔写真説明〕  現在の布巻  (平成15年10月)
写真は、「コメリ三和店」の裏手にあたる。布巻は、川をはさんで県道沿いに栄上一体までで、現在、商業、病院、福祉施設、公園等が建って三和地区の中心地となっている。

■確認結果

「布巻村」の説明は、三和町「三和町郷土誌」昭和61年発行の「町の成り立ち、蚊焼村の歩み」328〜329頁の中から抜粋しているようだが、誤解を生む説明ではないだろうか。
布巻村は、廃藩置県後、明治5年以降一村として存在し、川原、為石と三か村連合戸長のもとに管理された。明治18年脱稿の長崎県地誌「西彼杵郡村誌」によれば、明治14年頃の布巻村(蚊焼村と同じく、一村を形成していた)の戸数等は上記のとおり。明治22年、布巻村は蚊焼村と合併した。という意味であろう。

「長崎往還」も同「西彼杵郡村誌」の記録で、明治14年頃の道路である。古写真に写っている「佐賀里橋」を渡って布巻村集落内へ入っている広い道路のことではない。
「三和町郷土誌」には「布巻村の道路は長崎往還という名前のついた主要道路が(「で」でなく「が」)あり、布巻川(現在の大川)沿いに平山村に至る」という意味を書いている。
「長崎往還」は、布巻村の中心となる集落内は通らなかったと思われる。佐賀里橋を逆に渡り大川沿いに平山村まで遡る。「明治34年測図国土地理院旧版地図」を参照。「萬延元年高来郡布巻村図」(長崎県歴史文化博物館所蔵)もある。

具体的な道筋は、反対方向に平山から為石へ説明しているが、下記のとおりである。
当会研究レポート”江戸期の{みさき道」”第2集20頁に掲載。ルート図は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/59

C 川原回りの「みさき道」
1 平山から為石までの道はどう行ったか(長崎往還)
長崎から竿浦を通り平山までの道は、先のレポートにおいて関寛斎一行の往路・復路として説明している。明治18年「西彼杵郡村誌」にあった街道筋(長崎道)などである。平山村の道路の項によると高野医院前が字ホタチメで大籠村道と分岐する。
為石・川原方面へは、次のとおりの道となる。
① 高野医院の裏手に地蔵があって旧道がある。為石にそそぐ大川に出て橋は渡らず川の右の土手を布巻村との村界字尾流川まで行き、平山台からそそぐ小さい方の川を渡る。菅原神社の下である。
② 布巻村に入ると街道筋は長崎往還となる。OKホームセンター(前 今はエレナ)の中を通り(字図赤道確認済)、大川沿いにエレナ(前 今はコメリ)横の佐賀里橋まで行き、橋を渡って今度は大川の左側を道に沿い高島町貯水場まで行く。ここが字元宮で為石村へ入る。途中の蚊焼分岐は共立工建前あたりにあり、川を渡った。
③ 蚊焼から船に乗る出征兵士を見送る飛石渡りが保健センター前にもあり、「兵隊さんの別れ」と言った。長崎往還は大川の左側をそのまま下るが、墓地の所は大きな崖を捲く「どんどん坂」があり、今も坂の道が一部残る。
④ 三和中グランド脇を通り、為石橋から県道に出て大川橋まで行く。この付近が字舟津で長崎往還の起点であり、茂木・天草・樺島などからの船着場の入江である。

現在の布巻(平成15年10月)において、「布巻は、川をはさんで県道沿いに栄上一体まで」は、1993年(平成5年)4月1日:路線指定。長崎県内の路線はほとんどが長崎県道13号線長崎野母港線から「国道499号線」に指定された。「一体」も「一帯」であろう。

市制120年のあゆみ展  (2) 長崎駅前

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長崎市制120年のあゆみ展  (2) 長崎駅前

長崎市制施行120周年記念「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、4月に長崎県美術館(出島町)、5月に歴史民俗資料館(平野町)で開催された後、合併各地区を巡回し、11月17日三和地区で終了した。
古写真の展示が主。古写真の内容は会場によって変えている。そして、合併町独自の町を振り返る写真がある。たまたま見学した最終日の三和公民館会場の展示。タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真の、現地確認などの結果を報告する。

〔写真説明〕  長崎駅前
昭和17年頃、長崎駅前の大黒町付近。車の走る様子はなく荷物は馬車に引かせ、人は歩くか自転車に乗る程度である。

■確認結果

長崎市広報課の所蔵写真らしいから、撮影年代の「昭和17年頃」、場所の「長崎駅前の大黒町付近」は間違いないと思われるが、この古写真の別のポイントは、中央右の広場に電車が走り、奥の高台には寺が写っている。
これらの説明が必要であろう。電車について言えば「人は歩くか自転車に乗る程度である」とはならないと思われるし、寺については長崎駅前では、筑後町「本蓮寺」が考えられる。

現在の長崎駅前は高いビルが建ち込み、本蓮寺はまったく見えない。西坂公園入口に行ってやっと見えた。本蓮寺の昔の建物は国宝だったが、原爆のため山門・本堂など全て焼失した。
現地説明板から戦前の本蓮寺の姿を写してきた。古写真では本堂真下の大きな山門が確認できない。駅前から寺を眺めると、本堂の後ろに山が写つるようだし、山門と本堂の配置、同建物の姿がしっくりいかない。

同じような構図となる寺は、銭座町に「聖徳寺」がある。ここも原爆により焼失。戦前の寺の姿の写真を写させてもらった。本堂両脇の石燈籠だけ残り、原爆落下中心地公園に移設されている。
ここでは本堂の後ろに山はないが、本堂の姿がこの寺も合わない。電車の線路は、ここから以前は長崎駅前の方へ国鉄鉄道沿いに走った。

撮影場所ははたしてどちらか。可能性としてはやはり「長崎駅前」付近、寺は「本蓮寺」と考えられるようだが、詳しく検証して古写真説明に反映してほしい。

川上さんのロマン“ゆうこう”追跡記録展  ピースミュージアムで開催中

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川上さんのロマン“ゆうこう”追跡記録展  ピースミュージアムで開催中

2001年に“ゆうこう”に出会ってから、今なおその謎に挑む川上さんのロマン豊かな追跡の記録を紹介する企画展が 次のとおり開催されていますから、ご案内します。

<展示協力>
根角博久(農研機構カンキツ研究部):黒川陽子(料理研究家):長崎市「ながさきの食推進室」:長崎・土井首「愛のゆうこう園」:西出津町「フェルム・ド・外海」農園:Mみさき道歩会ほか。 *敬称略

2009年11月17日(火)〜12月6日(日)
● 開館・AM9:30−PM5:30 (最終日・12/6 PM2:00)
● 休館・11/24(火)・30(月)
● 入館無料 

ナガサキピースミュージアム
長崎市松が枝町7−15 路面電車「大浦海岸通下車」徒歩3分
電話 095−818−4247  E-mail  museum@nagasakips.com
(さだまさしさんが、NPO法人ナガサキピースフィア貝の火運動会長です)

食のたからもの再発見  「ゆうこう」

日本では、ユズやカボスのように酸が多く優れた香気のあるカンキツが古くから栽培されている。長崎県長崎市の土井首地区、外海地区などに自生する「ゆうこう」もまた、この在来の香酸カンキツの1つ。由来は不明だが、長く庭に植えられ、自給的に利用されてきた。
昭和35年以降に導入された温州みかんへの交雑が恐れられたこと、手軽な酢などの調味料が普及したことで急速に姿を消した「ゆうこう」だが、地元では、地域の宝として苗作りなど振興の動きが進んでいる。(展示パネルから)

市制120年のあゆみ展  (1)  三和公民館会場の様子

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長崎市制120年のあゆみ展  (1) 三和公民館会場の様子

長崎市は、明治22年4月1日に市制施行から、今年で120周年を迎えた。市民にその足跡やまちの魅力にふれてもうらうため、記念事業が開催されている。「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、4月に長崎県美術館(出島町)、5月に歴史民俗資料館(平野町)で開催された後、合併各地区を巡回し、今回が最終とのこと。

古写真の展示が主。6月下旬、香焼公民館を見に行き、一部疑問を指摘していた。きのう三和公民館へ図書調べに行くと、偶然、三和地区展示の最終日であった。
古写真の内容は、会場によって変えている。そして、合併町独自の町を振り返る写真がある。三和公民館会場の展示で、タイトル・撮影場所・説明など内容の疑問を持った写真。現地確認などの結果を以下、報告する。

まずは、会場の展示様子。次のいくつかの写真は順不同。今頃、言ってもどうしようもないが、今後の課題としてもらいたい。

妙相寺奥の桁石橋と紅葉状況  長崎市本河内4丁目

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妙相寺奥の桁石橋と紅葉状況  長崎市本河内4丁目

本河内高部水源池の奥、瑠璃光山妙相寺へ11月15日夕方立ち寄る。不動の滝前の石橋撮影のためと紅葉状況を見る。モミジの紅葉にはまだ早い。
石橋は単径間桁橋。板石を斜めにカットしたものが中央にある。流された欄干の一部が近くに残されていた。滝の上は大きな砂防堤がそそり立ち、水を雨樋で引いていた。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006春刊の25〜26頁による説明は次のとおり。

(8)不動の滝辺り
此の地までは80程の石段ですが、道も良いので老若労せずして来れます。小川沿いの石段を上り詰めた不動の滝一帯は霊域となり、数々の奉祀石仏が据えられています。手前左上方に戸隠権現続いて岩戸大明神、秋葉大権現、長崎西国十七、十八霊場等のお堂があります。
反った小型の石橋には欄干柱穴が残り、欄干は昔、豪雨で流されてしまったのでしょう。記録では亀井戸天満宮に擬し、精緻を極めたと記されています。5mほどの高さの滝も今では水量僅かのため、滝としての面影はありません。…

(註) 記録とは「長崎市史 地誌編」妙相寺の項。720頁は次のとおり。
天満天神祠  秋葉大権現祠の下手にある一石祠 高六尺、入貮尺貮寸、幅貮尺五寸五分 で享保二十酉年卯月吉祥日と刻してある。現時神體は妙相寺内不動堂に合祀してある。祠前の石橋と石階とは東京亀井戸天神に擬し精緻を極めたものであったけれども今は荒廃して居る。 

高城山日見城跡から網場金比羅岳へ  平成21年11月

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高城山日見城跡から網場金比羅岳へ  平成21年11月

平成21年11月15日(日)曇り。古城跡、高城山日見城跡から網場金比羅岳(標高278m)へ。史跡探訪を兼ねた山歩き。参加10人。
網場道バス停9時30分発—日見宿跡ー日見霊園—高城山日見城跡—林道出合ー網場金比羅岳下広場(昼食)—網場金比羅岳ー住吉神社下山路ー長崎総合科学大学前ー網場市民プール前14時10分着(徒歩距離 約10km)

長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査報告書」平成3年5月20〜22頁による報告は次のとおり。1枚目写真の中央に見える山が、高城山と呼ばれる日見城跡。
築城の時代は、南北朝とか中世期、長崎甚左衛門が深堀方を警戒するため築いたとの説がある。日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊には、重籠へ通じる昔の連絡道が昭和初期まで歩けたとの寄稿記事*があり踏査に行ったのだが、高城山先の稜線は植林地となり、はっきりしなかった。 *高城大権現 https://misakimichi.com/archives/1764

山腹を巻く林道へ出たところで、網場金比羅岳に林道をそのまま左へ向かった。きよう歩いたルートには、給水タンク上の山道及び網場金比羅岳山頂に、「長崎要塞区域標」が2本見られる。下山路の大木は栗。日見地区公民館まつりの日見中学校コッコッデショ。

日見城跡   所在地 長崎市網場、宿町  調査年月日 昭和59.5.3

1 所在地及び周辺
東は橘湾に浮かぶ牧島を遠望し、眼下に網場漁港、北は長崎から諫早へ通ずる曲がりくねった国道、谷間に宿町の住宅街、南又は西側は、深い山に囲まれている。網場町から日吉青年の家、田手原方向へ通ずる旧道に通じている。
当城は長崎水族館付近より登り、途中給水タンク、テレビ塔付近を通り山の尾根に登りつめた標高210mの地点にある。

2 遺構の状況
この山は山頂付近に全然広場がなく平均して約5mの尾根が北から南へ連なり、東又は西側斜面は急な傾斜になっている。
本丸跡と考えられるところは尾根が一部分広くなったところで、長さ約100m、幅は広いところで、17mある。南側に尾根を遮断するように盛り上がった自然地形の岩盤があり、岩盤南側に空堀が1本、更に南側30mのところにも又1本の空堀があるが、今では埋まった状態で浅くなっている。又尾根上より東側方向へ約37m下に土を掻下げて幅1.5m、長さ253mの曲輪が設けられている。
現在給水タンクが据え付けられている広場は幅約40m、長さ約40mあり、出丸的性格の場所である。テレビ塔が建てられている約50㎡の広場が見張所跡であろうと想像される。

宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/22244199.html
のりさんのは、  http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/9513114.html

薩摩川内市下甑町(下甑島)の風景・史跡 (3)

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薩摩川内市下甑町(下甑島)の風景・史跡 (3)

甑島列島は、鹿児島県薩摩川内市に属し、串木野新港から38kmの県西方海上にある。上甑島・中甑島・下甑島が連なり、全長は約35km。面積は約119k㎡。甑島県立自然公園となっている。串木野新港から甑島の玄関・里港まで、高速船50分、フェリー1時間10分である。
鹿児島県総合観光サイト「ゆっくり悠・遊 観光かごしま」観光スポット下甑町などによる説明は、次のとおり。

写真  1〜 11   下甑歴史民俗資料館     下甑町手打
昭和57年、手打の武家屋敷の町並みが続く旧道のなかほどに建設された資料館で、展示室には先人達が使用していた日常の生活用具や農林漁業の作業用具、古美術点など1200点余りが陳列され、この地域の歴史的文化を知ることができます。(下甑郷土館 入館料100円)

写真 12〜 13   薩摩半島眺望の丘      下甑町青瀬
手打〜青瀬間の県道沿いに設けられた展望所で、晴れた日には、ここから中甑島・上甑島をはじめ、遠く薩摩半島を眺望することができます。

写真 14〜 18   観音三滝公園         下甑町青瀬
観音三滝は、瀬尾川上流にある緑に囲まれた美しい滝です。55メートルの高さから滝壺ができており、三段になって落ちています。滝壺の近くに、観音像が祀られていることから、このように呼ばれています。滝の周囲には涼気が漂い、とりわけ夏場には避暑地として人々の憩いの場となっています。周辺は観音三滝公園として整備されており、休憩所・展望所・キャンプ場などがあります。