長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5297 大浦川上流より見る大浦川と
大浦居留地
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5297 大浦川上流より見る大浦川と大浦居留地
〔画像解説〕
上野彦馬アルバム所載の1葉。大浦川の中流域には、古くからの藁葺きの農家に加えて恐らくは居留地関連の仕事に従事する瓦葺きの民家が早くから密集していたようである。一番手前の家には大量の洗濯物が干されているのもその例であろう。現在の大浦東町から川上町にかけてである。しかし上流部はまだ棚田や段々畑のままであった。川上町の外国人墓地から撮影されたのであろう。さらに上流部の出雲町に遊廓が形成されるのは明治24年(1891)以降だが、同30年頃にはこうした田園風景は既に消え市街地化していた。大浦川河口部には慶応元年(1865)架設の弁天橋に加えて明治3年(1870)架設の松ケ枝橋もあるので、これ以後は確実だが、右岸の洋館群の様子からするとその直後とみられる。画面手前に蛇行する大浦川は現在暗渠化され、ほぼそのままの形で田上へ通ずる道路が走っている。対岸には稲佐山から岩屋山、烏帽子岳の山並みが望まれる。
■ 確認結果
撮影場所を大浦川上流より見るとし、「川上町の外国人墓地から撮影されたのであろう」と解説している。大浦国際墓地(川上町の外国人墓地)近くだが、正しくは大浦国際墓地からではない。
古写真のポイントは、右に大浦川の本流、左に出雲の谷が少し写っている。左右を見渡せるある程度の高台でなければならない。国際墓地は大浦川の谷間を向いてあるから、出雲側が確認できない。
あと1つのポイントは、写真右側に写っている遠くの光景。旧北大浦小学校の校舎となった尾根の後ろ上に、かすかに活水大学の尾根があり、そのまた後ろに金比羅山の尾根が写っている。
背後のかすかな山は、アンテナ塔があるが琴ノ尾岳ではない。西浦上の奥となり、泉・女の都あたりが考えられる。川上町から浦上方面の北を向いて撮影しているから、滑石トンネル上の「烏帽子岳」とはならないだろう。
現在の大浦国際墓地のどこから見ても、旧北大浦小学校の校舎となった尾根に塞がれ、活水大学の尾根や金比羅山の尾根が見えない。
背景の岩屋山が右へ寄りすぎ、背後の山の全体がまったく見えない。国際墓地外の高台に上がると、やっと背後の山の一部が4枚目の写真とおり見える。
大浦国際墓地の周りは、現在は妙行寺墓地である。古写真中央の田も、住宅や墓地となっている。大浦川の蛇行はそのまま暗渠にしてバス通りになった。これから撮影場所を推定すると、大浦国際墓地の右上手あたりの現妙行寺墓地内。
桐ノ木保育園や旧出雲浄水場へ上がる墓地坂段の途中(蛇行する暗渠のバス通りがちょうど右斜め下に見える地点)から撮影されていると思われる。これが2枚目の写真である。古写真で大浦国際墓地の場所を言うと、写真右下になるようである。
このような画像解説になったのは、古写真右側に写る遠くの光景をあまり考えられていないためと思われる。
(追 記 2009年8月9日)
8月9日に現地を再訪。墓地坂段の途中とは、川上町バス停から石段を60段ほど登った、ちょうど由緒ある「林家墓地」あたりである。石橋(大浦橋)寄贈者の「林増五郎」氏の墓石があった。
岩屋山の右に遠く写る山を双眼鏡で覗くと、拡大写真のとおりアンテナのある山と大きなマンションが見える。ココウォーク屋上で中継ぎし、マンションは泉2丁目「泉街コリンズアドバンスマンション」と目星をつけ直行した。
ここからの写真は上のとおり。川上町の高台が望める。古写真左の山は、マンション西方、浦上自動車学校上の山となるし、右の三角形の山はアンテナ(実は高圧線鉄塔)の形から、浦上水源地を挟んだ対面の川平有料道路泉トンネル上の山と考えられる。確認を続行中。
(追 記 2012年2月25日)
伊能忠敬研究会の入江様から、目録番号:5297「大浦川上流より見る大浦川と大浦居留地」には、写真左端中ほどに戸町峠(二本松)へ登る「みさき道」が写っていると、知らせをもらった。
目録番号:3847「出雲町全景」にも、「みさき道」ははっきり写っている。