月別アーカイブ: 2009年7月

長崎の古写真考 目録番号:4812 諏訪神社境内から市街地中心部を望む(続き)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4812 諏訪神社境内から市街地中心部を望む
(続き 丸場場の石垣跡と街灯が残っていた)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4812 諏訪神社境内から市街地中心部を望む
〔画像解説〕
諏訪神社境内付近から、長崎県庁越しに長崎湾口を撮影した写真である。長崎県庁の洋館風の木造2階建ての建物が写真の中央に見える。写真手前が諏訪神社の社杜であり、右下に街灯が見える。これらのことから撮影時期は明治10年(1877)後半から明治20年(1887)代中期と思われる。この写真の特徴は、長崎の市街地を、諏訪神社と県庁を結ぶ、長崎市街地の骨格から撮影したところである。左の山裾が寺町であり、右の海岸線が大波止から浦五島町である。林の下の規模の大きな建物は、勝山小学校である。明治6年(1873)3月、第1番小学向明学校が勝山町に創設された。明治7年(1874)、向明学校を勝山小学校とした。写真中央に、長崎街道の通りが、長崎県庁に向けて通り、その先に県庁舎が見えている。写真左の市街地は、長崎市の中心市街である。写真中央付近に、梅香崎居留地から大浦居留地が見える。長崎市街地内部を撮影した貴重な写真である。

■ 確認結果

撮影場所はタイトルからすると「諏訪神社境内」となっているが、正しくは諏訪の杜にある「長崎公園」内。噴水や月見茶屋のある高台広場の長崎港を向いた展望所から、丸馬場越しに市街地中心部を撮影しているものと思われる。タイトルも変えた方が良いのではないか。
長崎公園は明治7年(1874)開設され、日本でも古いといわれる噴水があった(現在のは復元されたもの)。月見茶屋も創業は明治18年(1885)で、124年の歴史を持つ。…

以上を前項により他の間違いを除き、確認結果として報告していたが、きのう現地へ再び行くと、新しいことがわかった。古写真に写っている丸馬場へ坂段を登った石垣の入口と左横の街灯。黄線枠で囲んだ。現在の石門がある所ではない。
日本銀行長崎支店の外側石段を月見茶屋へ向けて登る。丸馬場下の珍しいトックリの木の大木がある所に公衆便所がある。右側木立の中の石垣を見てみよう。石段を埋めたような縦線2本がある幅広い石組み跡となっている。

次に丸馬場まで上がって、この場所を見てみよう。藤棚の休憩所となっており、上から石垣は覗かれないが、藤棚の左側に今も新しい街灯が立っている。古写真と同じ場所なら、証拠となる丸馬場の石垣跡と街灯となるだろう。
もちろん古写真の撮影場所は、ここから一段上。噴水や月見茶屋のある高台広場の長崎港を向いたここも藤棚の展望所から、丸馬場越しに市街地中心部を撮影しているものと思われる。
石垣の例は神の島教会でも見られる。 https://misakimichi.com/archives/1688

瓢瓶(ひょうへい)? 興福寺本堂の大棟  長崎市寺町

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瓢瓶(ひょうへい)? 興福寺本堂の大棟  長崎市寺町

気がけて見ないが、東明山興福寺本堂(大雄宝殿)の屋根上中央にあるひょうたん。「瓢瓶」(ひょうへい)というが、火除けのまじないで珍しい。興福寺HPのロゴマークになっている。
長崎観光情報「ここは長崎ん町」(歴史の街長崎ぶらり散策)の長崎史跡めぐりによる説明は次のとおり。
興福寺本堂(大雄宝殿・だいゆうほうでん)

国指定重要文化財 (昭和25年8月29日指定)
本堂を大雄宝殿と呼ぶのは釈迦(大雄)を本尊として祀ることからくる。正面壇上に本尊釈迦如来、脇立は準提観音菩薩と地蔵王菩薩を祀る。
寛永9年(1632)第二代黙子如定禅師が創建。元禄2年(1689)再建、慶応元年(1865)暴風で大破したため、明治16年(1883)再建され現在に至る。材料は中国で切り込み、中国から招いた工匠が作った純中国式建築。柱や梁には巧緻な彫刻、 とくに、氷裂式組子(ひょうれつしきくみこ)の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟の瓢瓶(ひょうへい・災害が振りかかると瓢瓶が開いて水が流れ、本堂を包み込むという意がある火除けのおまじない)高さ1.8mなどが珍しい。

遊園地? タンク上のジャングルジム  長崎市川上町

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遊園地? タンク上のジャングルジム  長崎市川上町

土地は狭いが、れっきとした遊園地である。川上町バス停のすぐそば。水道タンクらしいものは、上の山手に長崎市水道局の前出雲浄水場があったので、その関連施設だったと思われる。
出雲浄水場跡は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1204

この光景は以前、あすみさんブログに紹介があって覚えていた。通りかかったので写してきた。

いろいろ? 妙行寺墓地の墓石  長崎市川上町 

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いろいろ? 妙行寺墓地の墓石  長崎市川上町

大浦国際墓地の上段となる高台は、妙行寺墓地である。川上町バス停から登る。自然石を利用した見事な墓石。ひときわ目につくのは「村川家累代の墓」。
村川家とは、アーチ式石橋「大浦橋」(暗渠下に現存)を、林増五郎氏と寄附した「村川勝太」氏の村川家ではないだろうか。次を参照。 https://misakimichi.com/archives/352

後ろの写真、あと1基の墓石は、刻字不明。

抱かれて? 大浦国際墓地  長崎市川上町

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抱かれて? 大浦国際墓地  長崎市川上町

友人?2人に抱かれて眠る。1885年(明治18年)長崎で死亡したアメリカ人水兵ルドウィグ・エンゲルハートの墓。友人もセーラー服姿。
「ナガジン」発見!長崎の歩き方「長崎に眠る異国の人々」大浦国際墓地の説明は次のとおり。

大浦国際墓地は、居留地から稲佐悟真寺まで船で遺体を運ぶのが不便だったため、居留地の近くに文久元年(1861)に開かれたもの。
ここには船員さんが圧倒的に多く、事故や自殺、病死など、遥か異国の地に来て母国へ帰ることもなく亡くなった多くの男達が眠っている。
★ブライアンさん
「彼らの波乱の生涯から、大浦国際墓地は事故と喧嘩の墓と呼べるんじゃないでしょうか」
居留地跡の南山手、東山手から程近い川上町の丘にきちんと列を成した墓地区域。ここ、大浦国際墓地に眠る人物の4人の「物語」を紹介しよう。

とあるが、ルドウィグ・エンゲルハートの話はなく、どんな人物か不明。墓は大浦国際墓地の下段の一番奥の方にある。
国際墓地の「境堺石」?と「猿田彦大神」の標石を見かけた。

長崎の古写真考 目録番号:4812 諏訪神社境内から市街地中心部を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4812 諏訪神社境内から市街地中心部を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4812 諏訪神社境内から市街地中心部を望む
〔画像解説〕
諏訪神社境内付近から、長崎県庁越しに長崎湾口を撮影した写真である。長崎県庁の洋館風の木造2階建ての建物が写真の中央に見える。写真手前が諏訪神社の社杜であり、右下に街灯が見える。これらのことから撮影時期は明治10年(1877)後半から明治20年(1887)代中期と思われる。この写真の特徴は、長崎の市街地を、諏訪神社と県庁を結ぶ、長崎市街地の骨格から撮影したところである。左の山裾が寺町であり、右の海岸線が大波止から浦五島町である。林の下の規模の大きな建物は、勝山小学校である。明治6年(1873)3月、第1番小学向明学校が勝山町に創設された。明治7年(1874)、向明学校を勝山小学校とした。写真中央に、長崎街道の通りが、長崎県庁に向けて通り、その先に県庁舎が見えている。写真左の市街地は、長崎市の中心市街である。写真中央付近に、梅香崎居留地から大浦居留地が見える。長崎市街地内部を撮影した貴重な写真である。

■ 確認結果

撮影場所はタイトルからすると「諏訪神社境内」となっているが、正しくは諏訪の杜にある「長崎公園」内。噴水や月見茶屋のある高台広場の長崎港を向いた展望所から、丸馬場越しに市街地中心部を撮影しているものと思われる。タイトルも変えた方が良いのではないか。
長崎公園は明治7年(1874)開設され、日本でも古いといわれる噴水があった(現在のは復元されたもの)。月見茶屋も創業は明治18年(1885)で、124年の歴史を持つ。

古写真右下の木立の間に寺のような屋根が覗いているが、現在、復元されている長崎奉行所立山役所の入口門と位置が合う。解説では「林の下の規模の大きな建物は、勝山小学校である」と説明しているが、「勝山小学校」はかえって写真中央の大きな木造建物でないだろうか。
小学校の右側に「長崎市役所」の古い建物も一部写っているようなので、検証をお願いしたい。

写真左側の小高い山は「鍋冠山」である。超高精細画像を拡大して見てもらうとわかるが、麓に大浦天主堂が写っている。その手前の左横から張り出している尾根は、現在、海星学園や活水大学がある東山手の尾根で、ドンの山からの山裾となる。
それなのに「左の山裾が寺町であり」と説明している。大徳寺も写っていないのに、寺町はまだ左方になるので、「寺町」が写真に収まることはありえないと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:5317 樺島湊  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5317 樺島湊  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5317 樺島湊
〔画像解説〕 超高精細画像タイトル:樺島湊
樺島は長崎半島の先端近く、長崎県西彼杵郡野母崎町脇岬の南方300mにある周囲7.5kmの島である。現在は、樺島大橋が架設され本土とつながれている。写真は、明治初期から中期にかけての樺島湊のある湾奥から脇岬方向の、湊内の船の輻輳する状況を撮影したもの。樺島湊は、江戸時代以前から長崎港に出入りする船の、風待ち、潮待ちの湊として繁栄してきた。明治時代になっても、遠くから多くの物資を運搬するための主要運搬手段は、沿岸を航行する船であった。樺島は良好な湊があったために、近世から近代の初頭にかけて大いに繁栄した。島内には多くの遊女屋があり、写真が撮影された明治10年代でも、7軒から9軒の貸座敷があったと記されている。湊内に停泊する廻船の数から、明治初頭の繁栄した樺島村の状況が分かる貴重な写真である。写真前方の島は、現在樺島大橋が架設されている中島、前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である。

目録番号:5326 野母の観音寺
〔画像解説〕
目録番号5318(整理番号102-24)と同じく上野彦馬アルバムに収載されMisakiと鉛筆書きされている。従って撮影は明治6年(1873)頃。写されているのは野母崎の御崎円通山観音禅寺である。『長崎名勝図会』によれば、本堂の創営は和銅2年(709)と伝承されその後、仁和寺の荘園と関わる。天文6年(1537)御崎備後守重広が再建。本堂の天初院は元和2年(1616)で、この時深堀から曹洞宗の一翁純和和尚を招く。長崎をはじめ近郷在住の信仰の対象で、海に携わる商人、漁業従事者、中国人の霊場であった。観音堂には、弘化3年(1846)川原慶賀の描いた4枚の絵や石崎融思の作品を含む150枚の天井絵(県指定有形文化財)が、長崎町民などから寄進されている。写真に写されている半円アーチ型の第一石門は寛政10年(1798)長崎町民と御崎村の人々が寄進した。石工は彦兵衛。場所は長崎から20キロと離れているが、彦馬は長崎の代表的古刹としてこれを撮影したようである。

■ 確認結果

目録番号:5317「樺島湊」は、2年ほど前、 初めて東山手町の「長崎市古写真資料館」を見学に行ったら、「居留地の海岸」のようなタイトルで展示されていてびっくりした。
いきさつは次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1550

古写真の撮影場所は、長崎バス「樺島」終点から樺島小学校の方へ向かうと、すぐ「金比羅神社」の鳥居がある。鳥居をくぐってすぐ上の参道あたりから撮影されている。
〔画像解説〕によると、超高精細画像のタイトルは「樺島」。「樺島湊」に合わせた方がよい。また説明の最後に「前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である」としているが、「遠見山」(標高259.0m)は写真中央左のずんぐりした山。正面に写っている山は「殿隠山」(標高263m)なので、説明をわかりやすくしてほしい。

目録番号:5326「野母の観音寺」は、画像解説で「同じく上野彦馬アルバムに収載され、Misakiと鉛筆書きされている。従って撮影は明治6年(1873)頃。写されているのは「野母崎の御崎」円通山観音禅寺である」と説明しながら、なぜタイトルは「野母の観音寺」なのだろう。
「野母崎」は、「野母」と「脇岬」など含む前野母崎町の概念。「野母」と「脇岬」は別の集落である。「御崎(みさき)の観音」と呼ばれた寺だから、タイトルは「脇岬の観音寺」が良い。

長崎から脇岬の観音寺まで、みさき道は「七里」の道である。里程を示した道塚が徳道の三叉路に残る。したがって、距離は「約28km」とされるのが、一般的である。上野彦馬が撮影したとされる明治6年頃でも変わらない。現在の国道でも約30kmある。「20キロ」は直線距離だろうか。もちろん海路もあった。
徳道の里程道塚は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/355

長崎の古写真考 目録番号:5310 稲佐海岸

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5310 稲佐海岸

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5310 稲佐海岸
〔画像解説〕 超高精細画像タイトル: 長崎湾水の浦
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治初期の写真である。目録番号1206(整理番号26-25)と同じ場所のものである。この写真に長崎市街地が撮影されているために場所の特定ができた。入り江に浮かぶ船に、人物を3人配して、背後の純日本風な風景を背景にした演出写真である。目録番号1206(整理番号26-25)の写真にも岬の先にある風格ある屋敷が写されている。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。

■ 確認結果

撮影場所の正しくは、現在の丸尾町公園西隅にあった波止場の入江である。旭町商店街通り沿い横の川に架かっている「黄金橋」あたりの海岸で、当時は稲佐崎と丸尾山に囲まれ、入江はイサバ船などの格好の停泊地になっていた。
「長崎湾水の浦」としていたタイトルが指摘により「稲佐海岸」と訂正されたが、超高精細画像のタイトルがまだ「長崎湾水の浦」のままとなっている。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/142
https://misakimichi.com/archives/1557
https://misakimichi.com/archives/654

現在のこのあたりは埋め立てられ、旭町・丸尾町・大鳥町・平戸小屋町・江の浦町が昔の入江に沿ったように境を接している。水の浦はまだ飽の浦側の離れた海岸である。
訂正された解説で「平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したもの」と説明しているが、当時そう呼ばれたのか、具体的に現在の町名とともに場所を示し説明してほしい。

平戸小屋は町名となったとおり、江戸時代は平戸藩屋敷があった所で、この入江一帯の歴史は古い。さて「外国人墓地」だが、「稲佐悟真寺国際墓地」というとおり、公有地でなく、寺の歴代住職によって守られてきたという珍しい歴史を持つ。昔から外国人を受け入れ異文化を取り入れてきた長崎らしい特性の国際墓地である。
慶長7年(1602)唐人墓が最初に造られ中国人墓地となり、次に出島オランダ商館のオランダ人のためオランダ人墓地が造られた。それからしばらく時が過ぎた安政5年(1858)にロシアから艦隊が来航した際、病死した船員を葬るためのロシア人墓地が造られた。その後もポルトガル、アメリカ、イギリス、フランス人が葬られている。(「ナガジン」発見!長崎の歩き方から)

画像説明には「稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった」とあるが、「稲佐地区は、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。外国人墓地も早くから造られた」としないと、意味が逆に取られ違うのではないか。

ペーロン?  長崎県ペーロン選手権大会  長崎市松が枝国際観光ふ頭

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ペーロン?  長崎県ペーロン選手権大会  長崎市松が枝国際観光ふ頭

松が枝橋を通りかかったら、長崎港で平成21年度長崎県ペーロン選手権大会があっていた。
7月25日(土)は、中学校・職域・女性対抗レース。女神大橋の方へ向けて、往路630m、復路520m、往復1150m。
Alicoチームなど華やいでいた。熱戦を近くで写せないので人出を見てもらう。

7月26日(日)は、一般対抗レース。雨だが予定どおり実施中とのこと。夜はみなとまつり花火大会がある。

長崎の古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む
〔画像解説〕
南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。

(参考写真)
目録番号:5880 南山手の洋館群(4)

■ 確認結果

目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」の画像解説は、「南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である」としている。南山手から撮影された写真に間違いないが、はたして「グラバー住宅」付近からだろうか。

右下側に尾根を回りこんだ道がある。その下の洋館にははっきり見えないが、支えをした旗竿が立つ。この道はグラバー園内の道でなく、あと一段下の大浦天主堂から現海洋気象台の前を通り、浪の平へ通じる当時から居留地内の重要な道と思われる。
現在も「須加五々道美術館」へ下る所に、同じカーブの地形があり木立が残る。
この項は次の記事を参照。その時は超高精細画像の解説を知らなかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/archive/2009/1/6

次に道下に立つ旗竿だが、2枚目の横長の古写真は、長崎市教育委員会「長崎古写真集
居留地編」平成15年刊第3版の28頁にある「11 長崎居留地のパノラマ(4枚続き)」横浜開港資料館所蔵。ベアトのパノラマ写真だろう。左端に写っているのが、同じ旗竿と思われる。
国旗がはっきりしないが、旗竿が立つ洋館は、現在、三菱重工長崎造船所南山手外国人住宅が建っている所と思われる。
パノラマの撮影場所は「南山手(グラバー邸内展望所の下付近)」からと図版解説をしている。(目録番号:6151「長崎港のパノラマ(9)」にも同じような写真がある)
後ろの3枚が、グラバー邸付近や展望所下付近からとした場合の光景。

撮影場所を確認するポイントは、写真左側に写る稲佐山から下った尾根と奥の岩屋山尾根の重なり具合である。これからするとグラバー邸付近や展望所下では高度が高すぎ、山の重なりが少々合わない。その上、写っている道の地形が考慮されていないようである。
したがって、どこから撮影されたかとなると、浪の平への道の少し高い右側道上となるので、現在の長崎海洋気象台あたりからが考えられる。

参考写真として目録番号:5880「南山手の洋館群(4)」を追加した。ロシア領事館を撮影したものだが、ここが現在の長崎海洋気象台となっている。旗竿の位置が良くわからないが、石垣の下に道があり、旗竿はこの道下に立っているようである。
湾奥の山の景色は、最初の古写真目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」と同じと見てよい。