長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む
〔画像解説〕
南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。
(参考写真)
目録番号:5880 南山手の洋館群(4)
■ 確認結果
目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」の画像解説は、「南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である」としている。南山手から撮影された写真に間違いないが、はたして「グラバー住宅」付近からだろうか。
右下側に尾根を回りこんだ道がある。その下の洋館にははっきり見えないが、支えをした旗竿が立つ。この道はグラバー園内の道でなく、あと一段下の大浦天主堂から現海洋気象台の前を通り、浪の平へ通じる当時から居留地内の重要な道と思われる。
現在も「須加五々道美術館」へ下る所に、同じカーブの地形があり木立が残る。
この項は次の記事を参照。その時は超高精細画像の解説を知らなかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/archive/2009/1/6
次に道下に立つ旗竿だが、2枚目の横長の古写真は、長崎市教育委員会「長崎古写真集
居留地編」平成15年刊第3版の28頁にある「11 長崎居留地のパノラマ(4枚続き)」横浜開港資料館所蔵。ベアトのパノラマ写真だろう。左端に写っているのが、同じ旗竿と思われる。
国旗がはっきりしないが、旗竿が立つ洋館は、現在、三菱重工長崎造船所南山手外国人住宅が建っている所と思われる。
パノラマの撮影場所は「南山手(グラバー邸内展望所の下付近)」からと図版解説をしている。(目録番号:6151「長崎港のパノラマ(9)」にも同じような写真がある)
後ろの3枚が、グラバー邸付近や展望所下付近からとした場合の光景。
撮影場所を確認するポイントは、写真左側に写る稲佐山から下った尾根と奥の岩屋山尾根の重なり具合である。これからするとグラバー邸付近や展望所下では高度が高すぎ、山の重なりが少々合わない。その上、写っている道の地形が考慮されていないようである。
したがって、どこから撮影されたかとなると、浪の平への道の少し高い右側道上となるので、現在の長崎海洋気象台あたりからが考えられる。
参考写真として目録番号:5880「南山手の洋館群(4)」を追加した。ロシア領事館を撮影したものだが、ここが現在の長崎海洋気象台となっている。旗竿の位置が良くわからないが、石垣の下に道があり、旗竿はこの道下に立っているようである。
湾奥の山の景色は、最初の古写真目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」と同じと見てよい。