江戸期のみさき道 (帰路ほか)」カテゴリーアーカイブ

三和公民館中庭の明治32年建「脇岬村路」標石その後 ( 長崎県 )

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三和公民館中庭の明治32年建「脇岬村路」標石その後

この標石については、本ブログ次を参照。概要は次のとおり。
明治32年建「脇岬村路」の標石と半島東回りルート推定図
https://misakimichi.com/archives/23
無残! 明治32年建「脇岬村路」の標石
https://misakimichi.com/archives/4054

三和公民館ホールの中庭に展示されている「明治三十二年十一月建」「東 脇岬」「西 髙濱」などと刻みのある標石の、もともと建っていたところは、埋め立て前の川原小池の上手である。
明治18年「西彼杵郡村誌」の記録によると、川原村に記す「脇岬村路」の起点となり、「髙濱村路」と分岐する。標石がここに戦後まで建っていたことは、証言を得て地点を確認している。

「みさき道」本道の今魚町系でない、明治の標石となるが、長崎半島を川原から脇岬へ至る東回りの「みさき道」コースも、江戸期からあったと推測させる貴重な標石である。
安永2年(1773)、当時の長崎代官「高木作右衛門支配所絵図」に、この道と思われる道が描かれている。また、川原小池の脇を上っていることは、長崎名勝図絵「河原池」に描かれている。

2014年8月、三和公民館図書室へ行った。ここの中庭は、浦川建設によって「三和公民館耐震補強工事」が行われていた。中庭を全部壊し、鉄骨が組まれるという。あろうことか私が見たときは、この貴重な標石がブルドーザーのすぐ脇に横倒しされていた。
ガラス越しに見ると、何か工事の傷がすでに見える。あまりの工事の無神経さに、三和行政センター所長へ苦情を言った。大切に扱うよう注意すると、すぐに別の場所へ移すと返答した。
長崎市文化財課にも、早急に対応を検討するよう電話した。標石の文化財的価値をもっと認識してほしい。

以上がこれまでの経過である。2015年1月末で「三和公民館耐震補強工事」が完了したと連絡を受け、標石のその後を確認に行った。ホール中庭への再建立状況は、写真のとおり。ガラス越しの手前に寄せ、ブルドーザーの傷跡はヤスリをかけて補修している。屋内展示はしてもらえなかった。
「往時の道路交通の様子を物語る大切な歴史資料」として標石の価値を認識し、市文化財課がプラスチックの説明板を設置したのは良いが、長崎半島を川原から脇岬へ至る東回りの「みさき道」コースも、安永2年(1773)当時の江戸期からあったと推測させる貴重な標石である検証が足りないだろう。
「東 脇岬、「西 高濱」と刻字されています。は、脇岬の後ろに”」”抜けの説明板である。同じ予算を使うなら長崎市は、市民にもう少しわかりやすい説明板と、見識のある仕事ぶりをお願いしたい。

無残! 明治32年建「脇岬村路」の標石

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無残! 明治32年建「脇岬村路」の標石

この標石については、まず本ブログ次を参照。概要は次のとおり。
明治32年建「脇岬村路」の標石と半島東回りルート推定図
https://misakimichi.com/archives/23

現在、三和公民館ホールの中庭に展示されている「明治三十二年十一月建」「東 脇岬」「西 髙濱」などと刻みのある標石の、もともと建っていたところは、埋め立て前の川原小池の上手である。
明治18年「西彼杵郡村誌」の記録によると、川原村に記す「脇岬村路」の起点となり、「髙濱村路」と分岐する。標石がここに戦後まで建っていたことは、証言を得て地点を確認している。

「みさき道」本道の今魚町系でない、明治の標石となるが、長崎半島を川原から脇岬へ至る東回りの「みさき道」コースも、江戸期からあったと推測させる貴重な標石である。
安永2年(1773)、当時の長崎代官「高木作右衛門支配所絵図」に、この道と思われる道が描かれている。また、川原小池の脇を上っていることは、長崎名勝図絵「河原池」に描かれている。

おととい2014年8月29日(金)、三和公民館図書室へ行った。現在、ここの中庭は、浦川建設によって「三和公民館耐震補強工事」が行われている。中庭を全部壊し、鉄骨が組まれるという。あろうことか私が見たときは、この貴重な標石がブルドーザーのすぐ脇に横倒しされていた。
ガラス越しに見ると、何か工事の傷がすでに見える。あまりの工事の無神経さに、三和行政センター所長へ苦情を言った。大切に扱うよう注意すると、すぐに別の場所へ移すと返答した。

どこへ移したかきょうは日曜で、工事現場へ確認に行った。工事現場の離れた片隅に、ほかの庭石とともに野積みされていた。標石を壊さないよう、人手で運ぶよう注意していたのに、その形跡はない。標石の損壊状況を写してきた。あまりに無残である。
深堀陣屋跡の遺構石垣破壊に続き、最近の長崎市の仕事ぶりは、見識を大いに疑う。三和行政センター所長も、あとどうするのかまったく考えていない。

標石の今後について私の考えは、三和物産販売所「みさき駅」前に「みさき道」道塚と並べて屋外展示する方法や、もともとあった川原小池上へ戻す方法もあるが、標石の表面はすでに一部欠損し、刻字も薄くなっている。屋外展示には問題がある。
西海市西海歴史民俗資料館3階展示品「旧県道一里塚」のように、三和公民館展示ホールの歴史資料コーナーの一角に、説明板とともに屋内展示してもらいたい。 https://misakimichi.com/archives/2383

長崎市長の大型コンベンション施設、MICE建設計画は、地元の身近な予算を削る。財政調整資金も勝手に使ってもらっては困る。三和行政センターは予算がないと言うなら、職員の手製でできないか。
長崎市文化財課にも、早急に対応を検討するよう電話した。標石の文化財的価値をもっと認識してほしい。

宮崎川の呼称表記と石橋  「モウタレ」は「馬渡」?

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宮崎川の呼称表記と石橋  「モウタレ」は「馬渡」?

長崎市宮崎町を流れる「宮崎川」。上流に宮崎ダムができ、川原海水浴場の北側で橘湾へそそぐ。三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊、「第一章 交通・運輸 第一節 交通」458頁の記述は、次のとおり。
二 陸上の交通
…昔の街道を『橘湾の漁労習俗』(五八・三)には次のように書いている。
(一)川原道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷にでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入る約三・五キロの道をいう。
(以下、(ニ)蚊焼道から(六)深堀道は、省略)

引用資料「橘湾の漁労習俗」は、香焼図書館の蔵書としてある。昭和58年3月長崎県教育委員会発行の「長崎県文化財調査報告書第63集」である。第1章民俗環境の「交通」の項で道路が出てくる。地元の故老を話者とし集め、聞きとり調査を中心に、観察と文書調査等をあわせて行った。
「為石・川原・宮崎」地域の調査結果は、三和町郷土誌458頁「陸上の交通」にあるとおり、それ以上の街道の道の記述はない。
この項は、次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/23250590.htm

(一)川原道に記された「モウタレ川」は、「宮崎川」のことである。地元故老の話として出てきた、おもしろい呼称の川名ではないか。
県立長崎図書館所蔵、庶務課史誌挂事務簿「西彼杵郡村誌」明治18年5月脱稿の、「河原村」川の項は次のとおり。「宮崎川」ですでに記されている。
宮 崎 川  三等深処二尺浅処五寸広処六間狭処一間清水ニシテ緩流タリ舟筏不通水源ハ村ノ西方高浜村界ナル大岳ノ諸渓潤ヨリ出デ東流シテ字宮崎ニ至リ海ニ入ル長三十一丁四十間

「モウタレ」を「牛」のよだれか小便ぐらいにしか思っていなかったところ、最近になって貴重な史料を見つけた。伊能忠敬研究会の長崎入江研究室HP「伊能忠敬の長崎市測量」。
http://www6.cncm.ne.jp/~fab4wings/0911_new.htm
「みさき道」ルートも現在、解明依頼中。完成次第、本ブログで詳細地図を報告したい。 

伊能忠敬『測量日記』  (現代語訳)
文化10年(1813)  測量地  現在の町名 野母崎樺島町・為石町
九月十一日
晴れ曇り。…我等(ワレ。忠敬).門谷.尾形.保木.佐助は六っ時後(午前6時過ぎ)に脇御崎村即ち高来郡佐嘉領を出立した。
同所の字トイカケ浜のト印より初めて、左山の方に沿海を測る。仏崎。スシ鼻。字木場(長崎市脇岬町)。御料所高木支配の川原村字木場(長崎市宮崎町)。岡ノ尾鼻(大瀬鼻)。女池(大池)が海辺にある。東西に五町(545.45m)ばかり、南北に三町(327.27m)ばかり。池の御前(池の御前神社。阿池姫伝説がある)という小社がある。この池の主を祭るという。又、男池がある。なお大きな池であるという。字宮崎。又は池ノ浜という。川原本村。馬渡川(宮崎川)は小流。恵美須崎(蛭子崎)。佐嘉領高来郡為石村。為石川(大川)は小さい砂の川である。止宿の測所下に為印で打ち止める。

沿海一里三十五町五十間(7,836.36m)。八っ半時(午後3時)に為石村(長崎市為石町)に着く。
止宿は本陣が利右衛門宅、脇宿が定治郎宅。茂木村の庄屋頭で年寄の又平治が(挨拶に)来る。この夜は晴天で測る。

伊能忠敬『測量日記』には、「川原本村。馬渡川(宮崎川)は小流。恵美須崎(蛭子崎)」とある。この「馬渡川(宮崎川)」が、訛って「モウタレ川」と地元で呼ばれたのではないだろうか。「馬」が「牛」に変わった? 地図は同HPから。
九月四日の日記では、高島・中の島・端島(軍艦島)などは、御料所と佐嘉領の所領入り乱れ、争論があったことがわかる。

あと1つは、地元故老の「モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入った」という、石橋があったかどうかの話。年代がはっきりしない。現地は現在の県道34号「宮崎橋」の少し下流を、宮崎川へ降りて渡ったようである。
「三間ま(?)申」は意味がわからない。長さとすると約5.4mの石橋。三和町郷土誌の編さん委員だった地元の故高崎市郎先生に聞いても、石橋はご存知なかった。両岸から石垣を築き、間が木橋だったのではないかとは話していた。

現在の川底でも、飛び石を削ったような岩面とか、せんたく石と言われる石は残っている。この場所を渡っていたという地元の方の話は聞いており、地蔵堂が川岸に残っている。
三和町今昔(4)「宮崎橋とせんたく石のこと」の、記事と写真を参照。
https://misakimichi.com/archives/2139

伊能忠敬研究会の入江様のアドバイスは、次のとおり。
「モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り」の部分についてですが、「モウタレ川三間、ま申の石橋を渡り」と読み、「ま申」という地名や字にある石橋とは考えられませんか。「真申(まさる)」という地名は、佐世保市中心部の西、相浦の北にもあります。
測量日記には「馬渡川」と書いていますが、忠敬は聞き書きで書いていることが多く、日記と藩の書き上げのでは読みが同じでも文字が違うことはままあります。ですので、地元の案内人(庄屋が多い)か付廻役が「モータレ川」と言ったのを「馬渡川」と記入したのではないでしょうか。

ゴルフ場道塚に刻む「川原道」の実地踏査 (宮崎ダムー徳道間)

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ゴルフ場道塚に刻む「川原道」の実地踏査 (宮崎ダムー徳道間)

平成2年11月「三和町 今昔2」53頁は、「徳道」の風景。「昭和30年ごろまでは、この山道を、毎日子供達は学校に通っていました。小学校まで約1里あります。今はだれも通らなくなったこの旧道に地蔵菩薩だけが残されている。…」
地蔵菩薩は、「夜泣き地蔵(川原の森園地蔵)」という。平成15年、この谷に「宮崎ダム」が造られ、ダム展望広場先の車道脇へ移設された。
森園地蔵は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/207

みさき道の途中、野母崎ゴルフ場管理事務所内にある道塚2本。No.⑧は、墓石を転用。正面は地蔵彫刻。右側面「右 御崎道」左側面「左 川原道」。No.⑨は、その奥5mに立つ。正面「みさき道 今魚町」左側面「上 川原道」。
通学路は想い出をコメントなどで聞いていたが、私にとっては、すなわちゴルフ場道塚の「川原道」。以前から一度は実地踏査を考えていた。

道塚に刻む「川原道」は、みさき道から分岐し、今、管理事務所となった裏手を上がる。旧町境鞍部を越して、徳道の集落へ行く。現在の便利な車道は、昭和35年頃、できたようだ。
徳道公民館までしばらく車道を行く。公民館裏手に集落の古い水場があり、水場先の竹林を抜けると、宮崎ダムの左右から上がってきた車道合流点に出る。
ここまではわかっていたが、この先まっすぐ尾根から谷間を下る道。車道が開通するまでは、川原小学校へ通った山道の通学路であり、地区住民の重要な生活道(木場回りに車道?)だった。

2月23日、鶴山の帰りに宮崎ダムへ下る。川下からが調べやすいだろうと、思いたってこの道を上部へ踏査した。明治34年測図国土地理院旧版地図は、上図のとおり。
ダムで寸断されたため、入口は不明。長年、人はまったく歩いていない。途中で川の左右岸沿いに旧道発見。水路跡や渡りの桁石橋が2橋残っていた。「吠え岩」とか「立石」という岩はわからなかった。瓦に埋もれた廃家跡1軒があった。
徳道集落に近い上部は、車道や農道が入れくり、先はまたどの道か不明。宮崎ダムの左右から上がってきた車道合流点に、すんなり出なかったので、次としたい。

川原の「まだら」や「ハイヤ節」は、みさき道となにか関係ないか

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川原の「まだら」や「ハイヤ節」は、みさき道となにか関係ないか

川原の民俗芸能に「まだら」というのがある。一種の祝い歌にもなり、新築祝や結婚式では「祝いめでたの若松さまよ、枝も栄えて、葉も茂る」となる。昭和40年頃までは良く歌われた。ただし川原でも上川部落だけである。「まだら」は曼荼羅の訛ったものである。曼荼羅のように祝事によって歌詞が異なるところから名付けられたものという。佐賀県玄海町沖馬渡島にルーツがあるという説もある。川原では長い間途絶えていたが、1本の古いテープによって、平成15年復活した。
川原の「ハイヤ節」は、ハイヤ節の源流といわれる平戸の「田助ハイヤ節」の歌い出しによく似ている。「まだら」「ハイヤ節」とも歌詞の中で、「みさき道」に関係するものは見あたらない。

「三和町郷土誌」によると「帆船の時代には浦々に風待ちの港があり、船が入ると船乗りたちは、そこで何日かを過し、いろいろな情報の伝達者ともなる。そのような人達によって伝えられたものかもしれない」とある。ある時、「みさき道」との関連を問われていたので参考のため調べた。

川原を訪れた長崎奉行牛込忠左衛門  三和町郷土誌から

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川原を訪れた長崎奉行牛込忠左衛門  三和町郷土誌から

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊643〜644頁の記述は次のとおり。

川原を訪れた長崎奉行牛込忠左衛門
川原の池を“竜池”という。ここの池は古くから大池・小池と言っていたようであるが、竜池とはいつごろから言われた呼称であろう。寛永(1624〜44)に創立の法音寺は竜池山法音寺というが、古くは河原山竜池院であったという。とにかくそのころから竜池という呼称は用いられていたものであろう。
長崎奉行牛込忠左衛門は奉行として珍らしく川原を訪れている。延宝六年(1678)のことである。
同年二月には野母と樺島、四月に川原に行き池を見分している。奉行の巡検とあって、迎える村々では大事であったに違いない。ここでも今村・森両家をはじめ有志の人々に迎えられたと思われる。いろいろと下にもおかぬ歓待のもてなしであったろうが特に池を眺めて竜女の伝説など興味深く聴いたことは想像される。長崎でも“鳴滝”や“梅香崎”などの雅名を与える牛込奉行であるから“竜池”という言葉を聴いて大へん喜んだことがうかがえる。同奉行はかねてより長崎聖堂の南部草寿、大通詞彭城東閣や林道栄などの学者や文人墨客と深く交わり、学芸に秀でていた。
牛込奉行は十か年長崎奉行としてその職にあり、その間の事蹟としては、内にあっては、
延宝元年 ○倉田水樋(飲料・防火用水)造成の本五島町大名倉田氏の「水樋掛」世襲の許可
○立山役所を設置
延宝四年 ○立山に聖堂を再興(寛文大火で焼失のもの)
また、巡検などは、
延宝二年 ○野母樺島へ捕鯨の見分
延宝四年 ○島原侯と各所を巡視 ○深堀領主鍋島志摩の鹿狩に参加
延宝六年 ○野母、樺島と川原の池を検分
など、大へん多角的な行動をしている。牛込奉行の墓は東京新宿宗参寺にある。
寛文(1661〜73)以降も歴代奉行は随時近村へ迎えられ出向くこともあったようだが記録されているものは少ない。しかし、将軍交替時の幕府巡検使はともかく、文化(1804〜18)ごろからは幕末まで異国船取締りの面もあり、毎年のように野母など巡見を行い、港内警備を留意している。  (編 集 子)

(注) この資料のとおり、各村や遠見番所・台場などの巡見は、幕府側、佐賀藩とも随時あっているようであるが、経路の記録はない。

千々・藤田尾・為石間の古道 一部山道が残る

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千々・藤田尾・為石間の古道 一部山道が残る

明治34年国土地理院旧版地図から千々・藤田尾・為石間を掲げてみる。長崎半島東回り「みさき道」の参考にしたく、当時の古道を調べている。この間も現在は県道34号線となり、整備や拡幅が特になされ、干藤トンネルもできて大きくルートが変わった。
新旧の対比図を掲げるべきだが、旧地図と現在残る山道(旧地図にその区間だけ黄線とした)の入口・出口などの写真だけ紹介したい。手持ちの現行地形図を広げ、どう変っているか、それぞれで考えてほしい。

この間はバスも通わず、戦後も長らく集落を結び、学校への通学路として利用された。最短の距離となり、まだ寺岳の山歩きや津々谷の滝行き帰りに利用できる山道が、ほどよく残っている。

夜泣き地蔵(川原の森園地蔵)の昔と今

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夜泣き地蔵(川原の森園地蔵)の昔と今

三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」平成2年12月No.103掲載記事から。これはまとめられて、高崎市郎さんの「ふるさとものがたり」として本がある。
森園地蔵は、川原から徳道へ谷を上る道にかつてはあった。今は宮崎ダムの完成によって道は湖底に沈み、地蔵は展望台先の徳道、熊の岳へ登る車道脇に移転している。
徳道の古写真は、平成2年11月「三和町 今昔2」53頁から。「吠え岩」とは、森園地蔵近くにあり、巨大な岩に近づくと得体の知れない食用蛙や牛の吠えるような音を出したらしい。何かの反響音と思われるが、これも遠い昔の話となった。

郷土誌余聞 その12「夜泣き地蔵と吠え岩」  高崎 市郎

為石の漁村をはじめ川原の人々も、御崎の観音参りは毎年の事で親族仲間などと、弁当こしらえで出かけていた昔の物語である。
若くして夫を亡くし、娘の成長に夢を託した母親が、観音さまに願かけをしていたが、その夢もむなしく娘は年頃になって病死した。
自分の信仰が足りなかったのだろうか?と、母親は毎日泣き暮らし、其の後も観音参りを続けていたが、いつの頃からか途中の険しい谷川のほとりで、しくしく女の泣き声がするようになった。
母親はその泣き声が今は亡き娘の声に余りにも似ているので、村に帰ってこの話をした。
為石若者宿の青年達は話しあいの結果、娘さんの霊は道に迷っているのかも知れないので霊を弔う意味で、其の地に地蔵尊を祀ることにしようと話が一決した。天保五年、今より一五六年前のことである。それ以後女の泣き声はしなくなったという。ちなみにこの道は茂木、為石方面からの御崎参りの道中で、しかも狐狸の出る谷と人々が恐ろしがった場所でもあった。
時代が大きく変わりその道も現在では谷間の草に埋もれて当時を知る人も少なく、この記事をみて何人の村人が想い出してくれるであろうか。
娘の母親もそしてこの地蔵を造立した青年宿の若者も今はこの世になく、遠い昔の出来事になってしまった。(郷土誌の森園地蔵を御覧頂きたい)…

関寛斎一行は野母権現山へ行ったか

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関寛斎一行は野母権現山へ行ったか

野母崎町「野母崎町郷土誌」改訂版 昭和61年刊の野母崎町町史年表264頁によると「1861 文久1 長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)4月4日 棚瀬を見て野母権現山へ行く」とある。遠見番所は安政6年(1859)の開港ですでに休止していたか、この番所の廃止は明治元年(1868)である。
関寛斎日記は紛らわしい書き方をしているが、記述はこうである。

「船塲に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由って只一望のみにて漁家に喫茶す、此の處二百許り漁師住めり南西に高山あり四五年前には絶えず此の頂上にて望遠鏡を用ひ黒船を見張せしといふ、長崎迄一望中にあり且つよく遠方を見得て殊に景地なり。五つ半時(午前9時)發足し堂山の西を通り高濱に出て」

「只一望」が前にきて以下権現山の説明がある。脇岬を朝出発して野母を9時位に出る船に乗るつもりだったが、北風が強く船は出なかった。漁家に寄って喫茶しながら権現山を望んだだけのようである。山頂への往復は2時間かかり、天気のよい日でなく、時間的に無理であろう。

脇岬海岸にある「従是観音道」「山道十町」の道塚はなにか

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脇岬海岸にある「従是観音道」「山道十町」の道塚はなにか

長崎から行くと、脇岬海岸に出た角のガソリンスタンドから、200mほど国道を行った崖の擁壁の石段上にこの道塚はある。
「従是観音道」「山道十町」。元禄十年(1697)建立の刻銘がある大きな石柱だが、敬建願主がだれかわからない。今魚町が建てた観音寺境内の「道塚五十本」の天明四年(1784)より、年代は87年遡る。

道塚の意味は、野母まで船や歩いて来て、この場所までは海岸沿いに道は来られたが、「これから断崖を捲くため山道となり、観音寺まで約1kmある」という道塚と思われる。ここに海に突き出た大きな断崖があったことは今でもわかるし、明治地図にも表われている。

この山道は佐賀藩が作製した御崎村地図に描かれ、今の字図でも赤道として残っていた。そのルートは、道塚からクリーンセンター下の給水タンクまで上がり、横に同じ高さくらいで沢を2つ跨ぎ、海水浴場手前の稲荷神社参道口に出る道である。この先は国道を少し行きすぐ左へ広い畑の畑道に入り観音寺に達する。
道跡を探しに現地を踏査したが、寸断しながらも道は残り、不明の所も暖竹が境目となってなんとなくわかる。崖を捲くと言っても、最低限であろうし、山道がすべてでない。この道は、戦後も海が大荒れの日や海岸道が決壊したとき使われたようである。

このあたりの字は「矢戸」と言って区域が広い。脇岬の人が言う「矢戸越し」は、稲荷神社の道からクリーンセンターを越し出口集落に出て長崎へ行く道のようである。従って一部区間は観音道と重複している。海岸埋立ての進捗によって、観音道の出口=矢戸越入口は、少しずつ変わっている。