玉園稲荷の「抱き大楠」 長崎市上西山町諏訪神社境内
諏訪神社境内と隣接する長崎公園の、「諏訪の杜」と呼ばれる一帯は、大きなクスノキが多い。
玉園稲荷は、諏訪神社本殿の右上にある。「抱き大楠」が、この森で最も巨樹というわけではない。珍しい説明板があったので、記録しておく。幹周りは、5.6mほど。
これくらいの大きさは、どこでも見る。「諏訪の杜」の正確な巨樹調査を知りたい。
玉園稲荷の「抱き大楠」 長崎市上西山町諏訪神社境内
諏訪神社境内と隣接する長崎公園の、「諏訪の杜」と呼ばれる一帯は、大きなクスノキが多い。
玉園稲荷は、諏訪神社本殿の右上にある。「抱き大楠」が、この森で最も巨樹というわけではない。珍しい説明板があったので、記録しておく。幹周りは、5.6mほど。
これくらいの大きさは、どこでも見る。「諏訪の杜」の正確な巨樹調査を知りたい。
グランド将軍植樹?のアコウ 長崎市上西山町長崎公園内
グランド将軍(アメリカ合衆国第18代大統領)が植樹したというアコウ。長崎公園丸馬場のところにある。長崎市が設置した表示板があり、記念碑が残る。
HP「長崎遊楽 諏訪神社散策 玉園山」による説明は、次のとおり。「榕樹」はアコウのこと。
コメント参照。現在の木は戦後、占領軍があらためて植樹しなおした木のよう。長崎大学古写真データベース目録番号:5102を掲げていたが、HP「NAGASAKI GENEI」長崎古えはがきから、関係作品も確認のため載せる。
長崎市の表示板は、誤解をまねく説明のため、設置場所とも検討をお願いしたい。
19 米国グラント将軍記念樹
グランド将軍手植榕樹記念碑
縣令内海忠勝君の需に應し余室家と與に各自樹木一株を長崎公園内に裁植せり翼くは雙樹繁茂成長し永遠の壽を保ち以て日本の将來を表明せん事を
紀元一八七九年六月二十二日
日本長崎ニ於テ
ユーマス グランド誌
【ユリシーズ・シンプソン・グラント】 (Ulysses Simpson Grant)
(一八二二〜一八八五年)
アメリカ合衆国第一八代大統領。
一八二二年四月二七日 オハイオ州クレアモント郡ポイント・プレザントでジェシー・R・グラントおよびハンナ・シンプソン・グラントの息子として生まれた。
一八四三年(天保一四)、ウェストポイント陸軍士官学校を卒業。南北戦争に活躍。
一八六四年(元治元)、中将となり、合衆国軍司令官に就任し、翌年、南軍のリー将軍をリッチモソドに降し、大将に昇進した。
一八六八年(明治元)、共和党から大統領に当選し、アメリカ合衆国第一八代大統領となる。
一八七二年三月三日には、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見し、条約改正交渉に応じた。
一八八五年七月二三日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去。北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている。またグラントの肖像は五〇ドル紙幣に採用された。
グランド将軍は(大統領職二期目の終了後に)米艦リッチモンド号に乗って二年間の世界一周旅行中、日本における最初の訪問地を長崎とし、インド、香港、上海を経て明治一二年(一八七九)六月二一日午前一〇時)長崎に入港、上陸した。
これを、勅使吉田清成全権公使、政府派遣の接待役蜂須賀茂明、伊達宗城、鍋島直大およびビンガム米国公使らが将軍を出迎えた。
長崎では迎賓の準備を整え新町の県立長崎師範学校を将軍の旅館にあてた。一行は上陸後、県立師範学校へ二人引きの人力車で迎えられ、長崎に五日間滞在した。
六月二二日には長崎公園丸馬場に榕樹(ガジュマル)二株を植樹した。翌二三日には長崎県の歓迎会、二四日は市民主宰の歓迎会に臨み二五日は飽の浦の三菱造船所を視察した。
二六日にリッチモンド号で東京に向かって長崎を出航した。
東京では八月一〇日明治天皇と、歓談し琉球問題等について話した。増上寺で松を植樹、上野公園では檜を植樹している。
現在長崎公園にあるのは、この時の手植えの樹及び自筆の記念碑である。
長崎税関のソテツ 長崎市出島町
長崎税関庁舎の国道側前庭にあるソテツ。数株あり、すべてか、どれかは不明。
「長崎税関のあゆみ 2003 長崎税関再開50周年記念」長崎税関/編による説明は、次のとおり。
⑦出島周辺の税関関連史跡 本関の蘇鉄 場所:長崎税関
昭和28年12月25日に奄美大島が日本に復帰し、名瀬税関支署が設置されました。同支署には当時監視艇「みちしお」が配備されていました。本関庁舎の庭に植えてある蘇鉄は、昭和34年か35年頃「みちしお」が定期ドックのため長崎へ回航されたときに職員が奄美大島の蘇鉄を本関に持ってきて植えたものです。
なお、庁舎周辺の庭の土は、当時守衛として勤務されていた岩石氏のお兄様が長崎市愛宕町にお住まいになっておられ、その方の家の土を運んだものとのことです。
当時、柔剣道部員がトラックを使用し数日がかりで運んだそうです。
長崎県庁玄関前の孝子ソテツ 長崎市江戸町
長崎市江戸町の長崎県庁玄関正面の植え込み。北村西望翁の彫塑像「獅子吼」の背後にある。現地説明板は、次のとおり。加津佐町に生えていた由緒ある「孝子ソテツ」を、移植している。
現在の県庁の建物は、昭和28年(1953)できてから60年が経つ。そうするとソテツの樹齢は360年以上。長崎らしい見事な巨樹名木である。
ヒマラヤスギの幹囲2.5mくらいの大木も近くにあった。Go!Go!ともっちやさるくちゃんは、こんなことも紹介してほしい。
『蘇鉄 県庁へお嫁入り』 本朝24孝の1人が植えた由緒の品
去る6月近代建築の粋を集めて新装成った県庁へ日本24孝の1孝子が親のために植えたという樹齢300年を越える由緒ある蘇鉄2本が寄贈され、27日その玄関に姿を現わした。
この蘇鉄は延宝年間南加津佐町津波見名の安永安治さん(通称久右衛門)が父安兵衛さん夫婦の老後を慰めるため現在の同名字乙名に隠居場を建てその入口両側に植えたもので、現在根本の直径一尺高さ一丈五尺に上り、年中青い葉を付け、生き生きと風格を備えている。
安治さんは朝な夕な農耕にいそしむ傍ら年老いた父母の身を案じて痒いところに手の届くように面倒を見てつかえていたが、これが領主松平忠房公の耳に聞え延宝7年12月5日召出されて町民の模範としてお誉めになった。感激した安治さんはいよいよ両親の孝養に努め、その後も度々金品を賜って領主からお誉めにあずかったことが記録に残っている。
加津佐町ではこの遺徳を讃えるため孝子の命日である4月24日を記念し、毎年「孝子祭」を催してその供養を行うとともに青年団が主体となって町内孝子の表彰などをしているが、終戦後その子孫である安永ヨシさんが外地から引揚げてから元陸相荒木貞夫大将の題字を貰って新たに孝子の碑を建立、孝子祭もより盛大に行われるようになった。
現在同家跡にはその末えい安永軍蔵氏が居住しているが、同町長栗原大島太郎氏は、今回県庁が立派に竣工したのを機会にその玄関へこの由緒ある蘇鉄を持って行って植えたら県民の敬老心の作興にまことに意義深いと思立ち軍蔵氏に話しを持ちかけたところ同氏も快く承諾”無償で県へ寄付しょう”ということになったもの。
県では”それはまことに奇篤な”と大喜びで26日トラックに載せ運搬27日周到な地ならしをして植え付けた。
〔長崎民友新聞 昭和28年8月28日(金)〕 *注意*一部を常用漢字に修正しています。
三和地区の大ツバキ 市指定「藤田尾のツバキ」ほか
長崎半島の樹木で、長年、探しているのは、「ゆうこう」とともに、「ツバキ」の大木である。
茂木地区の「大崎の大ツバキ」が、かつて長崎市天然記念物だった。平成7年当時、すでに極限状態で、枯れ死しすぐに指定が取り消された。幹周り1.2mくらいの木だったろう。
https://misakimichi.com/archives/425
2005年(平成17年)1月、三和町が長崎市に編入した。町指定の「藤田尾のツバキ」(写真 1〜 3)が、長崎市天然記念物となり引き継がれた。
当時の現地説明板は、次のとおり。なお、この30mほど下方の海岸の景色が見えるところに、幹周り1.63mの別のツバキの大木(写真 4)が生える。
https://misakimichi.com/archives/220
指定の理由 藤田尾のツバキ
市内で最大のツバキである。県指定天然記念物”福江の大ツバキ”に匹敵するほどの大きさである。根元より幹は2つに分かれ地上2mのところから大枝を出して樹勢も極めて旺盛である。
指定の参考資料
目通り 1.48m(大) 0.9m(小) 樹 高 11.2m
樹 広 9.7m東西 7.6m南北 樹 齢 推定約300年
根元周り 2.8m
長崎市教育委員会が、平成20年2月に新しく設置した説明板では、次のとおりとなった。
https://misakimichi.com/archives/1573
市指定天然記念物 藤田尾のヤブツバキ
指定年月日 平成17年8月22日(旧町指定年月日 平成元年3月16日)
所在地 長崎市藤田尾町472番地
樹齢約300年(推定)、樹高約11m、根回り約2.8mを測る。根元より幹は2つに分かれ、地上約2mのところから大枝を出している。樹勢は極めて旺盛である。
この地域はヤブツバキの古木が多く、その中でもこの木は最大のものである。
長崎市教育委員会 (平成20年2月設置)
「藤田尾のツバキ」は、根回り約2.8mを測るが、根元から2本の幹がすぐ分かれる。現在では目通り1.8m(大) 1.0m(小)と大きくなっていた。この30mほど下方の別のツバキの大木も、幹周り1.7mくらいだった。
先日、生育条件が同じような三和地区で、2本の大ツバキに偶然出会った。
まず1本は、宮崎町にある(写真 5〜 8)。川原大池先のバス終点「川原木場公民館前」バス停から、左下の集落へ下る。人家が途切れ、農道の行き止まりまで下る。右の石垣に、根か幹かわからないような、複雑にからみあったツバキの古木が生えている。
高さ1.3mの目通りで単純に測ると、大きさは2.2mほどあった。この上で2本の幹に分かれ、分幹は1.2m(大) 1.0m(小)。樹高12mくらいである。
あと1本は、布巻町にある(写真 9〜11)。栄上手前の「元宮公園」バス停から三和病院の左後側へ回る。登りにかかる三叉路で左の道に行くと、民家玄関の登り坂段の石垣に生えている。ツバキの2本の幹を利用し、樹上にベランダ付部屋を建てていた。
これは根元の大きさだが、2.0m(大) 1.3m(小)あった。樹高約12m。
樹形・樹勢は、長崎市指定天然記念物「藤田尾のツバキ」に到底、及ばない。1本の幹だけ比べると、これより幹周りが大きく(計測は再調査要)、珍しい。5年越しの念願が、なんとかかなったような2本の大ツバキの木である。
五島列島の大ツバキは、本ブログ次を参照。
福江の大ツバキ(大窄) https://misakimichi.com/archives/1072
月ノ浦のツバキ(上五島) https://misakimichi.com/archives/1159
稗ノ口のツバキ(青方) https://misakimichi.com/archives/1160
長崎市最大のイチョウは、茂木玉台寺の木?
長崎市鍛冶屋町、大音寺の本堂裏手の墓地内にあるイチョウが、長崎市指定天然記念物となっている。現地説明板は次のとおり。
長崎市の文化財HPは、「長崎市では最大のもの」と解説していないが、現地説明板を読むかぎり、イチョウは大音寺のが市内最大の木であり、天然記念物指定の一要件となったと思われる。
市指定天然記念物 大音寺のイチョウ
指定年月日 昭和51年7月20日 所有者 大音寺
イチョウは、中国原産の落葉潅木で雌雄異株である。日本には鎌倉時代に渡来したと考えられ、寺院の境内に老木が多いことから、僧侶によってもたらされたという。
このイチョウは、長崎市では最大のもので、胸高幹囲3.90m、樹高20m、斜上した枝は東西19m、南北17mの樹形をつくる。樹齢は300年をこえると思われる老木のために、枝の基部から多くの乳房状の突起を出している。この木は雄株で、もちろん「ぎんなん」はならない。
長崎市教育委員会 (平成元年3月設置)
はたしてそうだろうか。長崎市茂木町の玉台寺の境内に大イチョウがある。2008年12月の記事としていた。住職の話では、寛政4年(1782)眉山噴火(島原大変)で多くの人が亡くなり、漂着した死者をこのあたりに埋めた。それを栄養に大きくなった?らしい。
イチョウの紅葉には早かったが、きのう念のため、木の大きさを計測してきた。私の計測のため正確さを欠くが、大音寺のイチョウは、胸高(地上約1.3m)幹囲4.50m、樹高25mほど。
玉台寺のイチョウは、胸高幹囲5.10m、樹高30mほどと思われる。ともに雄株で実はついてない。玉台寺の方が幹囲は大きかった。
茂木町が長崎市に編入したのは、昭和37年(1962)1月。大音寺の木の指定当時、茂木はすでに長崎市内だった。幹囲だけが必ずしも指定の要件ではないだろうが、「玉台寺の大イチョウ」も長崎市天然記念物に指定しないと、茂木地区の人にとっては、片手落ちと感じるだろう。
茂木には、玉台寺の木と対をなす「裳着神社のイチョウ」がある。これは雌株で、2本は「夫婦銀杏」と呼ばれる。胸高幹囲3.80m、樹高20mほどだった。
大音寺のイチョウと、玉台寺のイチョウは、本ブログの次の記事を参照。紅葉時の写真も出てくる。東長崎の教宗寺境内にもイチョウがある。幹囲4mくらいだろう。
出島にしかないという県指定天然記念物「デジマノキ」が、琴海の尾戸町に樹齢140年以上の木が生えていた。これらについても長崎市において正しい調査や計測をし、正確な広報をお願いしたい。
https://misakimichi.com/archives/279
https://misakimichi.com/archives/1599
https://misakimichi.com/archives/2454
https://misakimichi.com/archives/1514
https://misakimichi.com/archives/1524
https://misakimichi.com/archives/2132
同様な例だが、南島原市や島原半島世界ジオパークHPと現地説明板で、北有馬町「面無橋」が日本唯一の自然石アーチ式石橋と記していた。
長崎市本河内高部水源池のダム底に「まぼろしの石橋」が残るなど知らせた。私に返答はなかったが、項目全体の内容や写真が更新されるきっかけとなったよう。
長崎大学附属図書館の「幕末・明治期日本古写真データベース」や、国登録有形文化財「ボードインコレクション」及び同写真集の画像解説に、疑問が多いのも困っている。
文化庁に対し、研究員の配置など含め、長崎大学学長を指導するよう先月、要望した。返答は今もってない。学生に任せた方が研究となり、予算を要せず成果があろう。
市民の森入口の大スギ 長崎市星取2丁目
小ヶ倉水源池上流部にある巨木スギは、次の記事を参照。長崎市民の森「森林体験館」から
20分、道標により遊歩道を下る。1922年(大正11年)に植林された幹囲2〜3m内外の巨木スギが10本ほど谷間に見られる。
https://misakimichi.com/archives/219
きょうの記事は、別の大スギ。唐八景から市民の森へ入る「八郎岳縦走登山口」案内板のある車道4叉路の所。写真のバラス林道があと1本、唐八景側から交わっている。
先は行き止まりだが、少し登ると、下の谷間と道脇に大スギが4本ほどある。道脇右の最も大きいのは、幹囲2.7mほどあった。森林体験館から聞いて訪ねた。
市民の森のヒメシャラ群落 長崎市上戸町4丁目
長崎市民の森「森林体験館」の道路入口から右に入る遊歩道に、「巨木スギ20分 ヒメシャラ5分」の案内板がある。バラスの林道をしばらく行き、右手の谷間へ山道を下ると、ヒメシャラの中木が、左右一面に広がり林を成している。
ヒメシャラはツバキ科。荒れた森林に最初に出現することが多い。ここは植林地の伐採跡。日当たり良く、適度に水分がある谷間であったのだろう。森林体験館の話では、これだけの広さの群落は珍しいそうである。初夏に小さな白い花を咲かせ、秋には紅葉する。
市民の森の巨木スギは、 https://misakimichi.com/archives/219
茂木地区のイチョウの大木 長崎市千々町・茂木町
長崎の紅葉も見頃を過ぎてきた。きのうは快晴。為石から県道34号野母港宿線により網場まで行く。千々町と茂木町に、次のイチョウの大木がある。
昨年12月載せたが、時期はずれの裸の木でお粗末すぎた。鮮やかな黄色の葉に撮り直しである。
茂木玉台寺のイチョウは、私が見たところ長崎市内一の大木。市指定天然記念物の寺町大音寺墓地のより大きいと思われる。茂木の町並み、港とともに、寺後ろの墓地高台から写したかった。玉台寺は毎日、庭を丹念に掃いているから、黄色の絨毯は無理だった。
裳着神社の木と「夫婦銀杏」と言われる茂木史談による話は、以前の記事を。それぞれからツーショット。
茂木小学校のは、木に登って遊んだというコメントをもらっていた。この木だろうか。若菜川河口へ行くと、4年生が「EM菌」(有機微生物群。ヘドロ中の有害物質を浄化し水質を向上させ悪臭も抑える効果があるとされる)の土団子を干潟に埋めていた。大悲魚濫観音祭りは、12月4日。
写真 1〜 4 千々町 四国茂木60番札所裏のイチョウ
千々川岸。背景は小八郎岳下の猿岳(秋葉山)。幹囲は3mはある。
写真 5〜 6 茂木町 立石海岸と茂木港沖防波堤
沖防波堤に釣り人多数が上がっている。霞むのは雲仙と島原半島。
写真 7〜 13 玉台寺のイチョウ
幹囲は4.7mほど、20m以上の大木。前記事は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1514
https://misakimichi.com/archives/1524 (夫婦銀杏)
写真 14〜 16 裳着神社のイチョウ
幹囲は3mほどだが名木。神社は史跡の項を参照。
https://misakimichi.com/archives/1515
写真 17〜 18 長崎市立茂木小学校のイチョウ
写真 19〜 21 若菜川河口干潟、魚濫観音堂
烽火山昔の番所道のスタジイ 長崎市鳴滝3丁目
長崎市東部の山、烽火山(標高426m)昔の「番所道」については、次の記事ほかを参照。
現在の登山ルートでなく、鳴滝の奥、七面山妙光寺に至る鳴滝3丁目の車がUターンする橋脇まで行き、すぐ右道へ入り左坂段を上がると、烽火山の南肩「大荷床」に達する山道が残っている。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/15433762.html
山頂の烽火台が使われた頃の当時の正道であり、古書や古絵図に表われ、新・旧番所跡の石垣が現在でも見られる。スタジイの大木は、この「番所道」の新番所跡と上部の旧番所跡との中間あたり道脇右に立つ。
参照記事にもスタジイの写真を載せていたが、きのう行って幹囲を測ると5.1mはあった。えぐられた昔の登山道の土手上に立ち、堂々とした姿の大木である。樹高は約18m。樹形が良い。後ろの写真は、この先にある旧番所跡の地。瓦片を見つけており、石垣に差し込んでいる。