月別アーカイブ: 2016年6月

長崎市政への提案  長崎原爆遺構の国指定史跡申請 ( 長崎県 )

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長崎市政への提案 長崎原爆遺構の国指定史跡申請

長崎市政への提案・回答は、次のとおり。画像は長崎新聞関係ニュースと、平和公園(爆心地公園)に移設・展示されている浦上天主堂の廃墟の一部、平和公園内の長崎刑務所浦上刑務支所跡の原爆遺構。

ご意見(要旨) 【長崎原爆遺構の国指定史跡申請】  性別:【男性】 年代:【70代】 【2016年06月受信】

国の文化審議会は6月17日、長崎原爆の爆心地(松山町)、旧城山国民学校校舎(城山町)、浦上天主堂旧鐘楼(本尾町)、旧長崎医科大学門柱(坂本1丁目)、山王神社二の鳥居(同)の5件の被爆遺構で構成する「長崎原爆遺跡」を国史跡に指定するよう文部科学相に答申した。国は、早ければ11月にも指定する。被爆の実相を伝える国指定史跡は、広島市の原爆ドームに続き2例目になる。
長崎市民として疑問を感じるのは、浦上天主堂の廃墟の一部を平和公園内に移設し、原爆遺構として保存、高さ13メートル、幅3メートルの側壁を復元しているものや、長崎刑務所浦上刑務支所跡が平和公園「願いのゾーン」敷地外周部にコンクリート製の外塀跡基礎部分、公園南側に赤レンガ造りの拘置所 基礎部分の遺構(約1100平方メートル)が保存展示されているものがある。
これらがなぜ国史跡に同時に指定されないのか、移設・復元したものなどとはいえ、世界に類のない原爆の悲惨さを伝える貴重な長崎の被爆遺構です。
国の認定基準を詳しく知りませんが、制度の改正を含め、バランスある働きかけの申請をなぜ長崎市が国に行わなかったのか、長崎市長から納得できる説明をお願いします。長崎原爆の爆心地(松山町)に包括されるのでしたら、これらの広報を正確にお願いします。

回 答 【被爆継承課】  【2016年06月24日回答】

今回、指定を受ける見通しとなりました長崎原爆遺跡は、平成25年8月に国の文化財に登録された旧城山国民学校校舎をはじめとする4つの被爆遺構を構成要素としています。被爆遺構は、原子爆弾による被爆の痕跡をとどめているもので、かつ被爆による影響が見られる原位置をとどめているものです。これらに、長崎原爆遺跡調査検討委員会の審議により、破壊の起点としての爆心地を加え、原子爆弾がもたらす破壊を包括的に語る遺跡となりました。
ご指摘の構造物は、原位置が変更されているため、史跡指定を目指す調査検討の対象に含まれておりませんでした。しかしながら、今後も長崎原爆遺跡調査検討委員会において、長崎原爆遺跡のより広い範囲での追加調査を実施することとしておりますので、その調査により、学術的価値を立証することができる遺構については、さらなる文化財指定も検討してまいります。
なお、平和公園は平成20年に名勝関係の記念物として国の文化財に登録されており、長崎刑務所浦上刑務支所の遺構につきましても、国の文化財制度のもと緩やかな保存と活用が計られている旨を申し添えます。

関係所属
被爆継承課 【直通番号】:095-844-3913】

さるく説明板「伊能忠敬(長崎町測量 止宿:大同庵跡)」を設置 ( 長崎県 )

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さるく説明板「伊能忠敬(長崎町測量 止宿:大同庵跡)」を設置

長年、長崎市観光政策課へ要望していたさるく説明板「伊能忠敬(長崎町測量 止宿:大同庵跡)」が、やっと6月20日設置された。場所は、諏訪神社の下、長崎市炉粕町7番地の立正佼成会長崎教会前庭植え込みのところである。説明文の内容は、次のとおり。
長崎街道ネットワークの会などで、説明板の左脇に顕彰石碑を近々建て、9月18日(日)午前10時から、関係者により簡単な落成式を行い、伊能忠敬足跡ウォーキングを予定している。この項は、本ブログ次を参照。
伊能忠敬長崎測量の止宿は、諏訪神社下の地  https://misakimichi.com/archives/4394
伊能忠敬長崎測量止宿大同庵跡碑(案) など  https://misakimichi.com/archives/5093

伊能忠敬(長崎町測量 止宿:大同庵跡)

伊能忠敬ら江戸幕府天文方測量御用一行は、九州第二次測量において、文化10年8月18日から9月2日
(1813年9月12日〜9月25日)と9月16・17日(10月9・10日)の16日間、ここにあった大同庵(皓台寺末庵)を宿舎とした。新大工町木戸から測量を始め、海岸線や町中を縦横に測量した。くんち前のお旅所の様子や出島で象を見た事なども『測量日記』に書き残している。

高城町穂満坊の石敢當  都城市高城町穂満坊 ( 宮崎県 )

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高城町穂満坊の石敢當  都城市高城町穂満坊

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から国道10号により高城町穂満坊交差点の少し先まで行く。穂満坊バス停先から左折、政所病院へは曲がらずまっすぐ進むと、左側の榎園家入口にこの石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」134頁による記録は、次のとおり。当時の写真は134頁(写真119)にある。

穂満坊(馬場地区)3189 榎木家(「榎園家」が正)裏カーブ突き当たり生垣側路傍に、高さ50cm、幅44cm、厚さ20cmの丸みのある自然石に「石散堂」と刻した碣が立っている(写真119)。脇に御幣、供えものがされている。

山之口町山之口の石敢當1 (永野の石敢當)  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口町山之口の石敢當1 (永野の石敢當)  都城市山之口町山之口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市街から国道269号により山之口町麓交差点まで行く。ここから左折し県道422号に入ると、永野橋の手前右側にこの石敢當が見える。
永野橋を渡った先には、史跡「島津寒天工場跡」の入口案内板があった。

山之口町山之口の石敢當1 (永野の石敢當) やまのくち、やまのくち
都城市 (永野) 石敢當(凝灰岩) 高45㎝,幅23㎝,厚15㎝ 享和元(1801) 日本の石敢當p135/市教委(山之口町史) 移設 (正面)「石敢當」 2 –

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」135頁による記録は、次のとおり。当時の写真は135頁(写真120)にある。

永野1565 永野家前の三叉路の突き当たり内庭前路傍に「石敢當」と陰刻した、高さ45cm、幅23cm、厚さ15cmの頭がやや丸味をおびた凝灰岩の碑が立っている(写真120)。碑の正面の右左に「享和元年」「九月吉日」と刻されている。享和元年は1801年、いかにも永年の風雨に耐えた古色蒼然たる石敢當である。この石敢當は反対側の道路脇にあったが、道路整備で現在地へ移設したという。供花供水をしている。県内では4番目に古い。

山之口麓のその他の石敢當  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口麓のその他の石敢當  都城市山之口町山之口

都城市街から国道269号により北東へ山之口町麓の交差点先まで進む。国道の左右側に麓武家屋敷道が残る。石敢當については、前記事で2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」の記録から、造立が古いと思われるものを2基載せた。
これはその他、麓地区で見かけた石敢當。場所説明は省くが、説明板はあるものの現物が所在しなかったり、新しい石柱の石敢當である。宮崎では、あまり大事にされていなく、「日本の石敢當」のデータはほとんど役に立たないと聞いている。

山之口町山之口の石敢當7 (麓の石敢當5)  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口町山之口の石敢當7 (麓の石敢當5)  都城市山之口町山之口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から国道269号により北東へ山之口町麓の交差点先まで進む。山の口ふもと保育所の方と反対の国道対面側へ右折し、奥の小川が流れるごぜ道遊歩道のところまで行くと、この角の電柱根元に説明板と石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137頁による記録は、次のとおり。当時の写真は136頁(写真126)にある。

麓3119 原口家前三叉路突き当たりに、上部が欠けた高さ45cm、幅15cm、厚さ10cmの凝灰岩に「敢當」と彫られた碑が立っている(写真126)。上部が欠けているので、「石敢當」であったかもしれない。これは別の場所から移設されたものという。古いものらしいが造立年銘がない。

山之口町山之口の石敢當6 (麓の石敢當4)  都城市山之口町山之口 ( 宮崎県 )

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山之口町山之口の石敢當6 (麓の石敢當4)  都城市山之口町山之口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から国道269号により北東へ山之口町麓の交差点先まで進む。山の口ふもと保育所の方へ左折し奥まで行くと、右側の方の突き当たりに、石敢當の説明板と石垣に組み込まれた石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137頁による記録は、次のとおり。当時の写真は136頁(写真125)にある。

麓2995 橋口家空屋敷の石垣に嵌め込まれた、高さ53cm、幅33cmの凝灰岩に「石敢當」と彫られたやや長方形の碑がある(写真125)。古いものらしいが造立年銘がない。

長田の石敢當2  三股町長田 ( 宮崎県 )

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長田の石敢當2  三股町長田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータにはなし。都城市街から県道33号により東へ三股町まで進む。県道沿いの三股町梶山小学校先から左折。坂の突き当たりカーブミラーと電柱の間に、コンクリート台上のこの石敢當がある。

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137頁による記録は、次のとおり。当時の写真は138頁(写真128)にある。

大字長田梶山上馬場2914 小牧家前T字路突き当たりのコンクリート台上に「石敢當」と刻された、高さ53
cm、幅33cm、厚さ16cmの丸い形の自然石の碣が立っている(写真128)。造立年銘はない。

稲佐山公園の薬草講座 ( 長崎県 )

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稲佐山公園の薬草講座

2016年6月7日(火)晴。三和公民館の薬草講座で、妻らが長崎市西部の稲佐山公園へ。ツツジが原は満開だった。
アカメガシワ、ヒカゲカズラ、ニハトコ、ヤマボウシ、ハクサンボク、ナンバンキブシ、キキヨウソウ、カワラケツメイ、ヤクシソウ、悪ナスビ、キンポウジュなど

長田の石敢當  三股町長田 ( 宮崎県 )

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長田の石敢當  三股町長田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市街から県道33号により東へ三股町まで進む。三股町梶山小学校のすぐ先の県道沿い右側に鈴木家の屋敷がある。
長田の石敢當は、鈴木家敷地の西角に立っていたのを、県道拡幅工事があり、同家内の庭に移設し横倒しに置いてあるので、家人に断って見学する。

長田の石敢當 ながた
(北諸県)三股町 (梶山下馬場) 石敢當(砂岩) 高84㎝ 江戸初期?? 日本の石敢當p138 不詳 本当に「江戸初期」なら、国内で2番目に古い石敢當のなる可能性あり B

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137〜139頁による記録は、次のとおり。当時の写真は138頁(写真129)にある。

大字長田梶山山下馬場2884 鈴木家の畑中に、高さ84cm、幅31cm、厚さ24〜27cmの砂岩の自然石上部に梵字、下に「石敢當」と刻されたものが立っている(写真129)。
『みまたの石造文化』(平成5年3月発行・三股郷土史研究会)には次のような解説がある。
[石塔の種類−石敢當(庚申塔婆)]この石敢当は、鈴木さん宅地の畑の中にあるが、この位置は梶山城大手口に通ずる三叉路の位置にあたる。種子ボロンは、諸仏一切結合の種子である。石敢当は他町村などにも多くあるが、ボロンの種子を刻出したものは他に発見されていない。貴重な庶民の文化遺産である。この石敢当は庚申信仰の衆中によって造立されたものである。都城盆地内唯一のものである。造立年は不明なるも江戸後期と推定。…(以下、省略)