月別アーカイブ: 2015年1月

神埼町姉川城跡のクリーク  神埼市神埼町姉川 ( 佐賀県 )

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神埼町姉川城跡のクリーク  神埼市神埼町姉川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号姉川バス停から北へ入ると、案内標識がある。
後ろの新しい史跡説明板は、ここの農村公園にも反対向きに建っていたので気付かなかった。

神埼町姉川城跡のクリーク かんざき、あねがわ
神埼市 姉川上分 クリーク 江戸期 国史跡 WEB

佐賀県教育委員会HP「佐賀県の文化財」による説明は、次のとおり。 

国指定(史跡の部)03  史跡 姉川城跡(あねがわじょうあと)
平成22年2月22日指定(一部に県史跡を含む)
神埼市神埼町姉川
中世の城館跡と周囲の集落跡
南北朝期にこの地に土着した、菊池氏の分族を称する姉川氏が構えた城とされ、戦国末期までその居城となっていた。
1570〜80年代頃、龍造寺隆信が姉川氏を服属させた後は、龍造寺氏の神埼郡支配の要衝とされた。天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州統一後は、国内の城郭の統廃合政策に伴い廃城となったと推察される。
遺跡規模は東西最長600m、南北最長800mに及び、その中核となる姉川城本体が遺跡全体の東半域を占めている。城の中心部は平面台形状の半町ほどの曲輪(くるわ)で、内部に大型建物や門を備えていたことが過去の試掘調査で判明している。
その周囲には小規模な曲輪群や家臣屋敷跡、寺社跡などが付属し、さらにその西側外縁の中地江川沿いに、一般住人や下級武士層の小規模な屋敷群が並んでいる。各空間は大型の濠で細分され浮島状をなしており、中世以来の「水辺」の村落景観が広範かつ良質な状態で、現在もなお保たれている。

水ケ江の石敢當  佐賀市水ケ江2丁目 ( 佐賀県 )

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水ケ江の石敢當  佐賀市水ケ江2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道264号材木橋交差点から南へ下る。水ケ江2丁目11−23中野建設ビル裏の南西隅敷地に石敢當はある。

水ケ江の石敢當 みずがえ
佐賀市 石敢當(砂岩) 高62㎝,幅20㎝,厚12㎝ 寛政6(1794) 日本の石敢當p105 C

善左衛門橋  佐賀市田布施1丁目 ( 佐賀県 )

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善左衛門橋  佐賀市田布施1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。護国神社境内の北西隅に隣接して、多布施川に架かる。

善左衛門橋 ぜんじゃあ
佐賀市 一般道/多布施川 石桁橋 長8m(5G),幅5m 明和元(1764) WEB(石橋) 明治33に改修/橋脚は江戸期のもの 旧土橋が老朽化したため、宇野善左衛門が自費で石橋に架け替えた 3 B

佐賀市地域文化財データベースサイト”さがの歴史・文化お宝帳”の「善左衛門橋」も参照。
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=994

多布施反射炉・跡  佐賀市田布施3丁目 ( 佐賀県 )

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多布施反射炉・跡  佐賀市田布施3丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。

多布施反射炉・跡 たふせ
佐賀市 反射炉(煉瓦造) 嘉永6(1853) WEB 場所は特定されているが遺構ゼロ ペリーの浦賀来航(6月)→品川台場の造営命令(7月)→幕府が佐賀藩に大砲50門(36ポンドカノン砲25門、24ポンドカノン砲25門)を注文→多布施に公儀石火矢鋳立所を置く(上記「築地反射炉」では対応できなかったため)→鍋島志摩を鋳立方頭人として大砲の鋳造に当たらせた→安政2(1855)に25門を鋳造〔しかし、嘉永7(1854)2月には、ペリーが江戸湾に9隻の艦隊を集結させ、結果的に3月には日米和親条約が締結され、台場の大砲が使われることはなかった〕 4 A

佐賀市地域文化財データベースサイト”さがの歴史・文化お宝帳”の「多布施反射炉跡」も参照。
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=451

佐賀市HPの世界遺産の項「多布施反射炉跡」には、次のとおり記している。
■現在の姿
現在、その跡地は住宅などの建物が立ち並び、全くと言っていい程その遺構を残していません。
反射炉敷地推定地南端に所在する赤石組みの水路と往時から変わらない清流の多布施川だけが、当時の姿を偲ばせてくれます。
平成21年度には、世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補入りを目指して、発掘調査を行いました。

長瀬町の道標  佐賀市長瀬町 ( 佐賀県 )

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長瀬町の道標  佐賀市長瀬町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道207号長瀬町バス停近く。裏通りの旧長崎街道を西側へ進むと、長瀬町5−54にある。

長瀬町の道標 ながせ
佐賀市 <長崎街道> 石道標(安山岩) 高122㎝,幅21㎝ 江戸中期以降 市有形 市教委/WEB 一時撤去→平成17に8mほど移設し再建立 (正面)「(左指差し)ながさき道/(右指差し)こくらみち」、(右面)「(左指差し)いさはや とかい塲」、(左面)「(右指差し)いさはや とかい塲」2 C

佐賀市地域文化財データベースサイト”さがの歴史・文化お宝帳”の「旧城下町の道標(1基)」も参照。
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=406

北浦溜池  小城市小城町松尾 ( 佐賀県 )

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北浦溜池  小城市小城町松尾

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。小城町中心部から県道44号により富士町方面へ向かう。北浦溜池は長崎自動車道小城PA手前にあり、北浦公民館前の延福寺横から堰堤へ上がる道がある。

北浦溜池 きたうら
小城市 祈園川<小城藩> 溜池 長192m,高17.9m 江戸期 市教委 昭和23 嵩上げ 3 C

松土居・跡  小城市芦刈町永田 ( 佐賀県 )

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松土居・跡  小城市芦刈町永田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道444号六角川の住ノ江橋を渡り、しばらく行って海遊ふれあいパーク案内標識がある車道に入り、そのまま進んで行くと、大カーブ地点に松土居跡説明板があった。

松土居・跡 まつ
小城市 土堤防 長約3㎞ 寛永末〜天和頃 (1630〜80)? 芦刈町史p38-44 道路化(盛土は残る) 筑後川〜六角川の間の干拓堤防→『芦刈町史』では六角川〜廻江里川間の五千間土居とは分けて記述/「松土居」→かつて堤防上に松並木があったことからきた呼称 2 B

五千間土居(松土居)・跡  白石町大字牛屋 ( 佐賀県 )

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五千間土居(松土居)・跡  白石町大字牛屋

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道207号肥前竜王駅近くから有明スカイパークふれあい郷の方に入り、有明東小学校へ向かうと、途中に豊前坊とも呼ばれる谷神社はある。
ここに六千間土居跡の説明板もあった。白石町発行「干拓の歴史遺産散策マップ」を参照。

五千間土居(松土居)・跡 ごせんげん
(杵島)白石町 <佐賀藩> 土堤防 長約9㎞→(北部)長1.4㎞,(南部)長1.8㎞ 寛永期(1624-34=成富兵庫の没年) 町教委 一部を国道444号線として転用/谷神社内にごく一部を保存 有明海干拓のための潮受け堤防(成富兵庫茂安)/50〜100mごとに屈曲をもたせる→荒波を抑える工夫/「松土居」→かつて堤防上に松並木があったことからきた呼称 2 A

谷口石切丁場の石曳き道・跡  唐津市浜玉町谷口 ( 佐賀県 )

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谷口石切丁場の石曳き道・跡  唐津市浜玉町谷口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。掲載図・現地写真は唐津市教育委員会作成資料から。「石曳き道」は山頂から北側へ下って確認した。谷口石切丁場・跡は、前記事参照。

谷口石切丁場の石曳き道・跡 たにぐち
唐津市 (黒田山山腹) 石曳き道(凹状の直線斜路) 長約50m,幅2-3m 江戸初期(1620-29)? 市教委 石切り場と石曳き道が一体として残る例は稀 山頂から川まで修羅で石材を降ろした際の通路 2 B

谷口石切丁場・跡  唐津市浜玉町谷口 ( 佐賀県 )

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谷口石切丁場・跡  唐津市浜玉町谷口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。所在図は唐津市教育委員会作成資料から。黒田山山頂には、渕上公民館を通り南側から魚見台公園への車道を上がって行く。農道分岐にそれぞれ案内標識がある。あと10分ほど歩いて登る。
谷口集落石切丁場・跡は私有地にある。地権者の厚意により現地を見せてもらうので、現地や周辺を荒らすような行為をしないこと。狭い農道は離合困難。駐車場・トイレはない。

谷口石切丁場・跡 たにぐち
唐津市 (黒田山山頂) <大坂城石垣石切丁場?> 石丁場 (青色系花崗岩) (露頭)幅10m,高5m以上,
(方形石材)重量22.6t 他計4個 江戸初期(1620-29)? 市教委 保存状態良好(民有地内) 花崗岩の露頭から石材を割り出し、加工するまでの一連の過程がよく分かる形で保存/直方体に整形加工された巨石が4個放置された稀な石切丁場/残された露頭も最大規模/谷口丁馬の石で、大坂城の石垣石として直接確認されたものは見つかっていない(目的など未確定の謎の多い石切丁場(発見は平成20)/藩内にこのような巨石の利用はないため、大坂城での何らかの利用が最有力と推定(江戸城、名古屋城の可能性も否定されてはいない) 1 A