月別アーカイブ: 2008年12月

長崎の古写真考 目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)
目録番号: 698 長崎稲佐海岸(1)
目録番号: 993 稲佐のイサバ船と弁財船(2)
目録番号:1206 稲佐海岸(1)
目録番号:1276 和 船(3)
目録番号:3233 和 船(9)
目録番号:5310 稲佐海岸
目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋

■ 確認結果

長崎港内の入江の風景。現在の旭町にあった「稲佐崎」と、丸尾町にあった「丸尾山」や「大鳥崎」との間に囲まれ、平戸小屋町や江の浦町近くまで湾入し、イサバ船や弁財船の格好の碇泊地となっていた。
古写真を一覧してわかるとおり、いずれも「稲佐崎」やこの入江を撮影したものである。

明治期になって、入江は徐々に埋め立てられ、海岸線が変わった。埋め立てに「丸尾山」や「大鳥崎」が削り取られた。ビルや三菱電機の工場などが建ち、当時の入江の面影を見つけにくい。
そのため以前は、「平戸小屋」や「水の浦」「飽の浦」海岸と説明し、地名をタイトルとしていたものがあった。海事関係者の意見らしい。現地調査をしていない。監修が疑われよう。
一部の古写真は、すでに掲載し説明しているが、関係写真をまとめ、もう一度見てみよう。

目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
まず最後の古写真から見てもらう。「稲佐崎」とは、現在の「旭町」バス停の右上の高台。稲佐お栄の「ホテル・ヴェスナー」があった。今はマンションが建っている。
この古写真の左奥に写っているのが、「丸尾山」と「稲佐崎」の入江である。
当時の入江の地形は、波止場があったとされる丸尾公園西角に、「旧渕村の歴史を顕彰する会」が設置している説明板の図を参照。 

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)
現在の丸尾公園西角から、対岸だった旭町商店街奥の旭町入江の船と集落を撮影している。背景に写る山は、「日昇館」などがある浜平上の山並みである。

目録番号: 698 長崎稲佐海岸(1)
以前は、タイトルは同じだが、「飽の浦海岸」と説明していた。前の古写真と同じく、現在の丸尾公園西角から、左側に「稲佐崎」を撮影している。
長崎港の奥は、現在の五島町・大黒町などの方面と蛍茶屋上の武功山の尾根であろう。

目録番号: 993 稲佐のイサバ船と弁財船(2)
目録番号: 696「稲佐のイサバ船と弁財船(1)」とほぼ同じ。現在の丸尾公園西角から、丸尾山の少し先端の方へ行き、対岸だった旭町商店街奥の旭町入江の船と集落を撮影している。
背景の「日昇館」などがある浜平上の山並みが、同じ姿ではっきりわかる。

目録番号:1206 稲佐海岸(1)
目録番号: 698「長崎稲佐海岸(1)」と同じ古写真。タイトルを「稲佐海岸(1)」としているため、別分類されている。
以前は撮影場所を「稲佐海岸の飽の浦」と説明していた。「稲佐」と「飽の浦」は遠く離れている。

目録番号:1276 和 船(3)
「和船」に分類しているため、撮影地域は関連作品が多くあるのに、「未詳」とされた。近年「長崎」となったが、撮影場所の説明がない。
現在の丸尾公園西角から、対岸だった旭町商店街奥の旭町入江の船と集落を撮影している。背景に写る山は、「日昇館」などがある浜平上の山並み。
この古写真には、中央部に入江の浜から高台の集落に上がる「坂道」(黄線)が、はっきり写っている。同じ坂道が、旭町商店街奥の路地に現存しているのを確認している。

目録番号:3233 和 船(9)
目録番号: 698「長崎稲佐海岸(1)」及び目録番号:1206「稲佐海岸(1)」と同じ古写真なのに、「和船」のタイトルで別分類している。以前は撮影場所を「平戸小屋の入り江」と説明していた。

目録番号:5310 稲佐海岸
目録番号:1206「稲佐海岸(1)」と同じ方向を撮影した古写真。タイトルは以前「長崎湾水の浦」となっていた。「稲佐」と「水の浦」も離れている。
この古写真には、中央左寄りの松の大木の根元に「石祠」(黄線)が、はっきり写っている。
同場所の石祠が、旭町商店街奥に「恵比須神社」としてまだ祀られているのを確認している。
いずれもタイトルを整理し、撮影場所の説明を統一すべきではないか。

長崎の古写真考 目録番号:1960 海上の伝馬船

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1960 海上の伝馬船

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1960 海上の伝馬船

■ 確認結果

古写真は、長崎の人なら誰でもすぐ思い浮かぶ光景。稲佐山が写っている。以前から長年、なぜか撮影地域は「神戸」となっていた。長崎港内の同じような作品は多くある。監修はどうしたものだろうか。
2007年4月からの指摘により、現在は撮影地域が「長崎」と変わり、説明は「女神から見た稲佐山方面」となった。ただ「女神」からの景色と似ていると知らせたのだが、正しくは「古河町あたりの海岸から見た稲佐山方面」と説明すべきと思われる。訂正するにしても現地確認をお願いしたい。

「女神大橋」が架かる「女神」バス停近くからでは遠過ぎる。国分町の「戸町番所跡」や「小菅修船場跡」(ソロバンドック)の先端も遠い。
国道499号線戸町バイパス分岐手前「浪の平」バス停の海岸側に広い駐車場がある。稲佐山山頂の左尾根くぼみと、三菱重工本社ビルのある岩瀬道の高台が茂みが、古写真のアングルとほぼ合ってくる。

稲佐山尾根の全景を船が邪魔して写らないため、次の写真はもう少し先の古河町「ニッサンプリンス(株)社員駐車場」から写した。「ベルサイユ迎賓館」の先で海岸に面している。
古写真は海岸の高さから伝馬船を撮影している。ここなら浪の平の金刀比羅(琴平)神社の海岸側先端の方となり、アングルが合ってくる。
後ろの写真は、「女神」バス停からの風景。

長崎の古写真考 目録番号:5379 愛宕山と愛宕町

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5379 愛宕山と愛宕町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5379 愛宕山と愛宕町

■ 確認結果

「出雲町と愛宕山」が、以前のタイトル。出雲一帯にこのような格好の山は見当たらない。「山」と「町」の解せない取り合わせ。場所が離れてまったく違う。なぜ、こんなタイトルとなっていたのだろう。

「愛宕山」の方は正しい。思案橋電停から旧「茂木街道」の道が、「正覚寺」前を上がる。この古写真は、東小島町の「正覚寺」境内の片隅か、近くの旧街道途中から、「愛宕山」を撮影したものであろう。
山腹の家並みは、現在の高平町から愛宕1丁目にかけてである。今、ここに「長崎玉成高校」などが建っている。
出雲一帯では、「鍋冠山」がやや似ているが、当時はこのような家並みはない。

指摘によりタイトルを「愛宕町」と変えている。撮影場所を特定して説明してよいのではないか。
近くの鍛冶屋町に「清水寺」がある。目録番号:5186の石灯籠が、「長崎開港初年貿易船船繋石石灯(水前寺)」のタイトルで、熊本水前寺とされていたのも、驚くばかりであった。

長崎の古写真考 目録番号:5140 日見トンネル(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5140 日見トンネル(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5140 日見トンネル(2)

■ 確認結果

前項で「本河内水源地」を見たので、次に大正時代の国道「日見トンネル」の絵葉書写真も見てみる。国道34号にある「日見トンネル」。日見バイパスと「新日見トンネル」ができて、通る車は少なくなった。
土木遺産「日見隧道」を参照。 https://misakimichi.com/archives/1195 

この古写真は、「日見トンネルは大正8(1919)年に着工し、同5(1920)年4月3日に開通した」と説明している。しかし、大正8年は道路法の施行年であろう。
次の建設記念碑や文化庁登録有形文化財説明板(東口にある)から、正しくは「大正13(1924)年に着工し、同15(1926)年4月3日に開通した」となるのではないか。
とすると、「大正中期の…絵葉書写真」とも言えない。

古写真の撮影場所を、以前は日見トンネルの「東口」(日見側)と説明していた。指摘により変わったが、トンネル入口の右道脇に写っている白い工作物を考えなかったものと思われる。
これは長崎県の「日見隧道建設記念碑」。「東口」にはなく、右道脇にあるのは、日見トンネルの「西口」(本河内側)の方である。「東口」は、道路もカーブしている。
もっとも記念碑は、昭和33年佐藤県知事名の銘板に取り替えられている。だが、碑そのものは、トンネルの完成当時からあったものと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:5137 長崎西山水源地(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5137 長崎西山水源地(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5137 長崎西山水源地(3)
目録番号:5138 長崎西山水源地(4)
目録番号:5135 長崎西山水源地(1)

■ 確認結果

日本近代水道の先駆けとなった長崎水道。「本河内高部水源地」は明治24年(1891)、「本河内低部水源地」は明治36年(1903)、「西山水源地」は明治37年(1904)に次々完成した。
関係古写真について、次のとおり「水源地名」のタイトルと説明間違いが見られる。

目録番号:5137 長崎西山水源地(3)
タイトルは、「長崎西山水源地」だが、説明は「明治末年の本河内水源地」の絵葉書とある。この古写真は、本河内高部水源地の浄水場から撮影し、下に低部水源地が満水で見える。左側の尾根は伊良林の高台、遠くの山は対岸の立神山が高く写っているようである。
したがって、この古写真は絵葉書の説明どおり、「長崎本河内水源地」が正しいのではないか。

目録番号:5138 長崎西山水源地(4)
以前は、この古写真のタイトルが「長崎本河内水源地」となっていた。指摘により「長崎西山水源地」と訂正された。今、考えると上の目録番号:5137と、古写真を入れ間違って整理されているのが、その原因と思われる。

市街を向いた場合の「本河内水源地」と「西山水源地」の景色の違いは、高度差と右尾根張り出しや傾斜具合、遠く見える山が立神山か、風頭山かが主なものとなる。
決定的なのは、この古写真に「円錐屋根の塔」が写っている。同じ塔があったのは「西山水源地」の浄水場と思われる。

目録番号:5135 長崎西山水源地(1)
浄水場の「円錐屋根の塔」が、同じものか見てもらうため、建物の古写真を掲げる。同じであれば、絵葉書の説明どおり、前の目録番号:5138の古写真は「西山水源地」となる。

同水源地の浄水場は、昭和55年(1980)本河内浄水場へ統合され、跡地は河川公園となっている。そのため背景の山の確認写真は、堰堤の上から写した。

長崎の古写真考 目録番号:3812 高鉾島(19) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3812 高鉾島(19) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3812 高鉾島(19)
目録番号:5241 高鉾島(43)
目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島
目録番号:3939 高鉾島(35)

■ 確認結果

長崎港の港口、小榊・神ノ島地区の島々を写した古写真の4枚。いずれも指摘によりタイトルや説明などは訂正されているが、再度まとめて見てみよう。

目録番号:3812 高鉾島(19)
神ノ島右端と重なって手前に「鼠島」が黒く写っている。撮影場所から「鼠島」は横に見えるのに、同島を正面に見る現在の長崎市小榊支所裏手の方の高台にある「小榊村大悲寺から」と説明していた。
「鼠島」を見落としている。訂正された説明どおり、この古写真は、港口にある「神崎鼻」から撮影されている。次の目録番号:5341と比較。松の木は同じでないか。根元近くに上がって写したようだ。

目録番号:5241 高鉾島(43)
石垣がある台場か神社のような所の中央に、ひとり人を配した写真である。撮影場所が不明だったのか、以前はまったく説明がなかった。今は「神崎鼻から撮影」と説明が追加された。
高鉾島と神ノ島が写るとおり、前の目録番号:3812と同じく、「神崎鼻」から撮影されている。
「神崎鼻」は、女神が対岸となる長崎港の重要な湾口。古くから台場や見張所が築かれた。
現在は、「JF全漁連長崎給油所」の大きなタンクが立ち並ぶ。通常は入場禁止だが、以前に中へ特別に入れてもらい、遺構と島々の位置関係を写してきた。

目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島
最初の目録番号:3812と比較。カメラの向きが右へなったアングル。神ノ島と重なりこれも手前に「鼠島」が写っている。
なのに、以前のタイトルは「神の島からの鼠島」であった。沖に「神の島」が写っているのに、誤認がひどい。
神ノ島が埋め立て陸続きでなく、小瀬戸の間に海峡があったことが良くわかる古写真。
目録番号:3812及び目録番号:5341と同じく、これも「神崎鼻」から撮影された写真である。今のタイトルは「神崎鼻からの鼠島と神の島」とすべきでないか。

目録番号:3939 高鉾島(35)
神ノ島教会へ行くと、高鉾島を近くに望むまったく見慣れた状景なのに、撮影場所を以前は「小瀬戸町あたりから」と説明していた。同じようなアングル作品は多くある。
指摘により「現在の神ノ島教会あたりから見た、高鉾島の遠景」と説明を訂正されたのはよい。しかし、「長崎市の西岸の岬の先の現在の神ノ島教会…」と、続く「右に見える島が、神ノ島」の説明は、やや意味不明。
神ノ島は小瀬戸から離れた島であったし、高鉾島を手前の神ノ島から写している。

明治33年建などの矢上村にあった街道標石 (3)  長崎市田中町

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明治33年建などの矢上村にあった街道標石 (3)  長崎市田中町

明治33年9月などに建てられた矢上村にあった街道(国道・県道)標石が2つ現存していることは、次により紹介している。
矢上町  https://misakimichi.com/archives/470
東 町  https://misakimichi.com/archives/1444
ところが、矢上村の標石があと1本あった。最近、諌早市郷土館の織田先生の話から、田中町中尾にも残っていると教えてもらった。
明治期の標石だが、今のうちに記録しておく必要がある。先生もその意向である。

標石は現在、中尾公民館すぐ上の浦山正勝氏が保管されておられる。12月26日同宅を訪れ、見せてもらった。上部が折れ、いささか無残な姿である。
刻面は次のとおり。寸法は15cm角、高さ73cm。
正 面  →西 山
裏 面  ←本河内
左側面  矢上村中尾
右側面  明治三十四年八月建

矢上村の明治34年測図国土地理院旧版地図を末尾に掲げたので、所在場所は地図により確認。刻面から見ると、現在の中尾ダム堰堤近くの川沿いの分岐に、最初はあったと考えられる。
あるいは大正6年、上流の「鮎帰橋」がアーチ式石橋となったので、その分岐に移された可能性はある。「鮎帰橋」は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/295
「→西 山」とは、田の川内を通る現在の九州自然歩道の道で、木場峠を越えて西山ダムへ出る旧道である。
「←本河内」とは、中尾から平床を通り木場峠へ出る現在の市道は当時はなく、中尾から中尾峠を越えて、本河内の日見トンネル西口へ出る旧道と思われる。

中尾ダムは、長崎水害緊急ダム事業として平成12年度完成。ダム底となる標石は、一時、中尾ダムに新しく架かった吊り橋「中尾大橋」脇の石祠のある道脇に移された。
ところが数年前、車がぶつけたか無残に折れて、放置されていた。標石がこれ以上破損しないよう、浦山氏が見かねて同宅の庭に運び、標石を保管されている。織田先生に報告しておいたそうである。

長崎の古写真考 目録番号:5317 樺島湊

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5317 樺島湊

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5317 樺島湊

■ 確認結果

長崎半島の南端、野母崎の「樺島湊」。昔から海上交通の要所で、鎖国時代は唐船の風待ち港となった。また漁業が盛んである。
古写真は、今の「樺島港」に間違いない。当時の樺島湊海岸線の最奥部から、湊の出口を写し、背景は脇岬の方の山である。
昭和61年(1986)「樺島大橋」が架かり、脇岬と陸続きとなった。長崎バスの「樺島」終点がその最奥部にあり、樺島小学校の方へ向かうと、すぐ「金比羅神社」の鳥居がある。
古写真は、鳥居をくぐってすぐ上の参道あたりから撮影されている。

1年ほど前、東山手町の「長崎市古写真資料館」へ見学に行った。この古写真が「居留地の海岸」のようなタイトルで展示されていた。
「居留地」となると「大浦海岸」あたりである。どうも違う。漁港のようであり「樺島」でないかと感じた。撮影場所の明らかな間違いと思われる展示写真がほかに2点あった。
「長崎市古写真資料館」は、東山手・南山手一帯の居留地古写真を展示している。帰宅して古写真HPを調べると、同じ写真でやはり「樺島湊」とあった。現地へ出かけ、山の稜線を確認した。

長崎大学は、撮影場所が新たに判明するなどして、古写真のタイトルや説明を変えても、それを展示している館に、通知はしないようである。
「長崎市古写真資料館」も、全国の観光客へ有料で見せているので、展示写真はきちんとチェクし、正確な展示をしてもらいたい。

その時に間違いを「古写真資料館」へ知らせていたが、先日再び行くと、タイトルを「樺島湊」と変えただけで、まだそのまま展示されていた。
野母崎の「樺島」なら、タイトルだけでなく場所の説明が必要である。居留地関係の展示コーナーから外した方がよいのではないか。

長崎の西の空の夕日  その17

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長崎の西の空の夕日  その17

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下続く。

写真 1〜 3  平成20年12月20日の16時47分頃
写真 4〜 6  平成20年12月25日の16時59分頃
写真 7〜10  平成20年12月26日の 9時45分頃 快晴の日の海原

長崎の古写真考 目録番号: 253 和船(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 253 和船(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 253 和 船(1)
目録番号:1276 和 船(3)
目録番号:3233 和 船(9)
目録番号:2880 高鉾島(13)
目録番号:5713 和 船(12)

■ 確認結果

条件に「和船」と指定して探すと、全国の「和船」関連作品が31点出てくる。このうちの長崎関係の5点。「稲佐崎」は後日、別項にまとめる。

目録番号: 253 和 船(1)は、現在のJR長崎駅裏付近から写す。稲佐山と長崎ロープウェイ付近の山がよくわかる。旭町「志賀の波止」の対岸となった大黒町あたりからか。
撮影地域は指摘により長崎となっているが、具体的な撮影場所の説明がない。

目録番号:1276 和 船(3)は、現在の丸尾町丸尾公園から旭町商店街あたりを写す。ここは「稲佐崎」と「丸尾山」に囲まれた入江となっていた。旭町に松の木根元の石祠が恵比須神社となり、また、この古写真の坂道が残る。背景は浜平方面の上の山の尾根。

目録番号:3233 和 船(9)は、現在の丸尾町公園から長崎駅方面を望む。目録番号:1276 和 船(3)と同じところ。ここは「稲佐崎」と「丸尾山」に囲まれた入江となっていた。カメラの向きが変わっただけである。

目録番号:2880 高鉾島(13)は、現在の戸町1丁目。トンネルを出て国分町の方へ行き少し高台に登って写す。「戸町番所跡」の最も南側となる。女神と神崎との間の港口の先に高鉾島を望む。

目録番号:5713 和 船(12)は、現在の戸町1丁目の高台から写す。撮影地域は「未詳」となっているが、目録番号:2880 高鉾島(13)とまったく同じところである。中央に和船が入ったので、高鉾島が見えなくなっただけである。

戸町などから同じように「高鉾島」を写したのは、43点あるが、左から張り出した尾根をほとんど「女神の尾根」と一括説明している。
「女神」でなく、実際は1つ手前、戸町入江側の現在、造船所がある一帯の尾根である。