明治33年建などの矢上村にあった街道標石 (2)  長崎市東町

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明治33年建などの矢上村にあった街道標石 (2)  長崎市東町

明治33年9月などに建てられた矢上村にあった街道(国道・県道)標石が2つ現存している。矢上村の明治34年測図国土地理院旧版地図を末尾に掲げたので、所在場所は地図により確認。

標石1は、矢上神社を出た旧長崎街道が国道34号線を斜めに横切り、50mほど八郎川に向って入った右道脇。井出松次様宅の玄関とガレージとの間、マキの木の根元にある。
刻面は次のとおり。寸法は18cm角、高さ65cm。

正 面  ←喜々津 諌 早  長 崎→
左側面  ←有 喜 愛 野
右側面  仐矢上村字宿
裏 面  明治三十三年九月建

標石1は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/470
もともとここにあったのではなく、国道34号線が戸石へ分岐する現在の矢上交差点近く、旧長崎街道の道から移設されている。

標石2は、八郎川を渡って旧長崎街道が現在の長崎自動車道下を行く東町。彩が丘団地入口を少し登り藤尾の集落を通ると、この下り坂の途中の右道脇にある。清藤橋へ出て明治の街道の道と合うので、清藤橋から上った方が近い。
刻面は次のとおり。寸法は同じく18cm角、高さ65cm。

正 面  ←平 野  間ノ瀬  現 川 長  
左側面  
右側面  仐 (下部に小さく)矢上村町
裏 面  明治三十四年八月

標石2は、10月26日実施した長崎学さるく「長崎街道歩き」で、講師の諫早郷土館織田先生から教えてもらった。
実際の刻面は写真のとおり。よく判別できないが、平野に建ち、場所のない右面は間ノ瀬へ、左は現川へ行き、現川峠を越して長(崎)へも出られるという意味ではないだろうか。
平野と間ノ瀬を合わせて平間町になっている。もともと前の陸運事務所があった「年の神」バス停近く平間町平野の街道の分岐となるところにあった標石を、これもここに移設しているようである。
右側面の「仐(下部に小さく)矢上村町」が今ひとつ、はっきりしない。矢上村の「町名」にあったのか。