長崎の長寿者顕彰碑  長崎市東小島町    

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長崎の長寿者顕彰碑  長崎市東小島町

長崎に江戸時代の長寿者を顕彰した古い石碑が残っている。長崎市丸山町の料亭「青柳」に陰陽石を見に行った時に聞いたのだが、「上の墓地にも珍しい石がある」とわざわざ女将さんが案内してくれた。
青柳の玄関前から30mくらい坂道を登った正覚寺の上の墓地内、浦川家の墓所。
背丈はある細長い石柱。刻字は「寶?暦三年葵五月」(1753年)、「白米拾俵」、「志摩?」が読み取れる。女将さんの話では、100歳を迎えた長寿者がいて、長崎奉行から米10俵を賜った、という石碑だそうである。

女将さんが石碑を教えてくれたから、料亭青柳HPの「広助氏の丸山歴史散歩」を見ると、次のとおり紹介があっていた。
最後の2枚は、長崎グラバー園の最奥、旧スチイル記念学校の土手で見た石碑。「昭和五年四月十二日 ミキ リンジャ」と刻んでいる。何かわからない。知っている方がいれば教えてほしい。

「長寿の塔」 2005年6月25日記事

C−39:明治屋(浦川家)墓所【正覚寺墓域】
江戸末期の嘉永5年(1852)小島郷に住む明治屋九右衛門の妻(セキ)は100才という長寿となり、当時の第105代長崎奉行牧志摩守義制から米10俵の褒賞をもらいます。セキの出生は宝暦3年(1753)で、褒賞をもらった嘉永5年(1852)で亡くなりますが当時としては大変珍しいことで、墓碑には没年のほか出生年まで刻まれ、さらに墓碑の前には褒賞を頂いたことなどが刻まれた長寿の塔が立っています。
なお、夫である明治屋九右衛門は73才で亡くなっています。
墓碑「宝暦三年出生 嘉永五年 満壽正百歳卒」
長寿の塔「右者長寿ニ付御手当米十俵被・・大和守殿被仰渡・・牧志摩守殿被」

(追 記 平成21年1月23日)
正覚寺の上の墓地内の碑は、長崎に関するあれこれ、よもやま話HP「長崎雑記帳」にも「長寿の碑」として掲載されていることがわかった。同説明は次のとおり。

長寿の碑     08・4・25

新長崎年表(長崎文献社)1852年の項に、わずか一行「小島郷、セキ、長寿のため米10俵を給与される」との記述がある。
正覚寺の墓地内に、法名、浄誉壽光大姉のお墓と、その前に、この史実を記した石碑が建っている。石碑はかなり朽ちていて判読できない部分もあるが、江戸時代、宝暦3年(1753年)生まれのセキ女が嘉永5年(1852年)100歳となり、久大和守が仰せつけ候段牧志摩守(時の長崎奉行)が、お手当米拾俵を与えたことがわかる。碑文の久大和守は幕府老中、久世大和守広周と思われる。(1851年〜1855年老中在職)
かの時代に100歳を迎えたこと自体は驚異的なことであったに違いなく幕府の耳にも届いたのであろう。長寿にご褒美が出ていることが嬉しい。今の政府や多くの自治体首名は見習うがよい。
今から10年余も前のことではあるが、アメリカの先住民地区を訪ねたことがある。食事時のこと、最初に食卓についたのは老齢者である。ついで子どもと女性、訪問者である我々を含めて働き盛りの青壮年は最後であった。高齢者は尊敬を受け、大切にされる。これが本来の人間社会の姿である。