長崎の外国人居留地跡標石」カテゴリーアーカイブ

長崎居留地の地番標石1〜4  長崎市南山手町ほか ( 長崎県 )

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長崎居留地の地番標石1〜4  長崎市南山手町ほか

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。境石1〜5は、前記事に。
長崎の外国人居留地の境石や地番標石は、東山手町や南山手町を中心に全体で約90本近く残っている。
遺産リストでは、高さ50cm以上を取り上げているため、この分の標石のみ改めて紹介する。
現地写真は各2枚ずつ。標石の所在場所など詳細は、本ブログ書庫「長崎の外国人居留地跡標石」リストから、以前の各記事をそれぞれ参照。

長崎居留地の地番標石1 ながさき
長崎市 南山手町15-39 居留地の地番標石 高50㎝,幅15㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No1/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「35、南山手 三十五番」 1 C

長崎居留地の地番標石2 ながさき
長崎市 南山手町13-30 居留地の地番標石(尖頭角柱) 高59㎝,幅18㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No14/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「B乙 十六番/B乙 十五番」 1 C

長崎居留地の地番標石3 ながさき
長崎市 南山手町10-25 居留地の地番標石 高56㎝,幅17㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No26/WEB(みさき道人) 塀に埋め込み/同上 同上/(正面)「乙 十四番」 3 C

長崎居留地の地番標石4 ながさき
長崎市 出島復元整備室<出島> 居留地の地番標石 高70㎝,幅17㎝ 文久元(1861)以降 WEB(みさき道人) 保管 同上/(正面)「十一番、No.11」 2 C

長崎居留地の境石1〜5   長崎市南山手町ほか ( 長崎県 )

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長崎居留地の境石1〜5   長崎市南山手町ほか

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。地番標石1〜4は、次記事に。
長崎の外国人居留地の境石や地番標石は、東山手町や南山手町を中心に全体で約90本近く残っている。
遺産リストでは、高さ50cm以上を取り上げているため、この分の標石のみ改めて紹介する。
現地写真は各2枚ずつ。標石の所在場所など詳細は、本ブログ書庫「長崎の外国人居留地跡標石」リストから、以前の各記事をそれぞれ参照。

長崎居留地の境石1 ながさき
長崎市 南山手町16-30 居留地の境界石 高111㎝,幅30㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No6/WEB(みさき道人) 原位置?/本リストでは高さ50㎝以上のもののみを取り上げるが、それ以下のものを含めれば80基以上が現存し、大半が原位置もしくはその近くに残る 安政の五カ国条約により外国人に開放され、安政7以降、大浦の海岸が埋め立てられて居留地が造成された。グラバー邸の完成が文久3(1863)、長崎大学附属図書館が作成した慶応3(1868)の長崎居留地の敷地割の地図では丘陵部の敷地割は完成しているので、現存する当該地区の居留地境石、地番標石は幕末〜明治初期のものと推測される/(正面)「居留地境」 1 B

長崎居留地の境石2 ながさき
長崎市 南山手町16-30 居留地の境界石 高78㎝,幅27㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No7/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「居留地境」 1 C

長崎居留地の境石3 ながさき
長崎市 小曽根町1-13 居留地の境界石 高92㎝,幅28㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No27/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「居留地境」 1 B

長崎居留地の境石4 ながさき
長崎市 グラバー園 居留地の境界石 高111㎝,幅28㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No31/WEB(みさき道人) 移設・集約/同上 同上/(正面)「居留地境」 2 B

長崎居留地の境石5 ながさき
長崎市 東山手町1-41 居留地の境界石 高145㎝,幅27㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No69/WEB(みさき道人) 煉瓦塀に埋め込み/同上 同上/(正面)「□留地境」 3 B

唐人屋敷の境石  長崎市館内町 ( 長崎県 )

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唐人屋敷の境石  長崎市館内町

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。館内町唐人屋敷跡の上部、天后堂後ろ側角に「福建地堺」の境石はある。
稲佐国際墓地の最上部(稲佐山登山道路側)には、「福建墳?地堺」と刻む境石(高52cm,29cm角)もある。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/422
天后堂資料は、布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の30頁から。

唐人屋敷の境石 とうじんやしき
長崎市 天后堂・裏 唐人屋敷の境界石 高100㎝,24㎝角 元文元(1736)以降 WEB(みさき道人)/長崎石物語 煉瓦塀に埋め込み/他に高さ50㎝以下のものが1基現存 唐人屋敷は、清の「遷界令」の撤廃(1684)を受けて、元禄2(1689)、長崎奉行所が設けた中国人居留地であるが、境界石の設置年代は不明(左記の年代は天后堂の建立年)→安政の開国により廃屋化したので、下記の外国人居留地境石よりは古いと推測される(刻字が浅く、居留地境石と同時期の建立とは考え難い)/(正面)「福建地堺」 3 B

外国人居留地跡標石の所在マップと写真  東山手地区町並み保存センターに展示

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外国人居留地跡標石の所在マップと写真  東山手地区町並み保存センターに展示

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。
参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。
これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認したのが、前項までの報告である。

しかし、これには「東山手地区町並み保存会」が、平成18年9月5日現在で調査した標石の所在マップと写真があった。
「長崎市東山手地区町並み保存センター」(東山手町6番25号 入館無料)2階に展示されている。表題は『重要伝統的建築物保存地区 旧居留地内の居留地境・地番境』。
東山手の調査にかかり同センターを訪れた際、展示物をはじめて目にした。一部に未調査や相違する部分があるが、この資料(所在マップはクリック拡大)を写真により紹介する。
今後は同保存会と協力し、居留地内の標石調査を進めたい。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (77)〜(84)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (77)〜(84)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(77)〜(84)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石 (77)  国指定史跡「出島和蘭商館跡」 見当たらず要調査。
標石 (78)  同史跡 中央広場に屋外展示中。
標石 (79)  同史跡 旧長崎内外クラブ無料休憩所棟の軒下に埋め込みを確認。
標石 (80)  同史跡 見当たらず要調査。
標石 (81)  同史跡 見当たらず要調査。
標石 (82)  同史跡 ミニ出島側通り外塀下に屋外展示中。
標石 (83)  同史跡 見当たらず要調査。
標石? Q   同史跡 「第十一番 No11」の地番標。 無料休憩所棟と内外クラブ間の階段下に保管中
標石? R   同史跡 刻面不明。無料休憩所等と内外クラブ間の階段下に保管中。
標石? S   同史跡 刻面不明。無料休憩所等と内外クラブ間の階段下に保管中。
標石? T   同史跡 表門手前の右溝の角にある。標石らしい形状。

標石 (84)  東山手洋館群B棟は「東山手地区町並み保存センター」である。見当たらず要調査。
標石   U   参考 横断歩道下に現存するアーチ式石橋「大浦橋」の親柱。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (72)〜(76)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (72)〜(76)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(72)〜(76)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

長崎市籠町の広馬場商店街通りの左右。前の「長崎信用金庫広馬場支店」やお茶「山口園」などの建物は解体され、駐車場となっている。このため、新たに6本の地番標が見つかった反面、2本が消失している。
一帯で確認できた新しい地番標は、次のとおり。位置図を参照。

標石? K  刻面「五番 六番」 寸法は、15×17×17cm。標石(73)の奥。同じ造り。
標石? L  刻面「六番 七番」 寸法は、15×17×30cm。標石(74)の奥。同じ造り。
標石? M  刻面不明、「拾三番」か? 寸法は、16×?×16cm。
標石? N  刻面「拾三番 十四番」 寸法は、15×17×33cm。
標石? O  刻面「拾(三番) 拾(貮番)」 寸法は、15×18×15cm。
標石? P  刻面「拾壹(番) 拾貮(番)」 寸法は、?×18×20cm。

標石 (72) 十善会病院前の森米穀店店先にある。くくりつけた後ろのが本物。自治会婦人部が昭和46年3月修復しているが、みっともない格好となっている。何とかならないか。
次を参照。ここのは郷土史家・故永島正一先生の、思い入れがある大切な標石である。先生は「松ヶ枝町の豆腐屋の角に一本、…それに諫早の小曽根さんの庭に一本、これは浪ノ平小学校門脇にあった…」ことも記されている。
https://misakimichi.com/archives/93
標石 (75) 前のお茶「山口園」左横。駐車場となり、道路側に見当たらない。中に「拾(三番) 拾(貮番)」と刻面が違うOの標石が残っていた。
標石 (76) 太陽堂菓子店左横。駐車場となっていたが、2年前に靴店が建った。両店とも覚えがない。駐車場にした際、これも消失したのではないか。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (70)〜(71)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (70)〜(71)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(70)〜(71)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? D  唐人屋敷の天后堂。正門左角に(70)の標石「壱号」があるが、敷地の外を左から天后堂後ろへ回って行くと、赤煉瓦塀角にあと1本、「壱号」がある。
寸法は、11×17×35cm。
標石? E  Dの「壱号」と同場所。赤煉瓦塀の大きな角石に、「福建地堺」と刻まれている。
寸法は、24×24×100cm。稲佐の悟真寺唐人墓地にも「福建地堺」標石がある。
標石? F  天后堂への途中、手前右にアーチ石橋「森橋」へ行く路地がある。この角の石。路面と変らぬ高さになっているが、形状は標石?
標石? G  同路地を「森橋」に進むと、すぐ館内市場上の四つ角に「森」の新しい標石がある。一帯に「森橋」「森伊橋」を架けたのが、地元森伊三次氏。古い標石の修復か?
標石? H  「森」標石の対面角。「森田」「境」の標柱。下部を見ると古い石の上に、つぎ足して新しくなっている。
標石  (71) 館内市場近く、唐人屋敷の土神堂。現地に見当たらず。標石?E天后堂裏の「福建地堺」とは字も大きさも違う。調査要。
標石? Ⅰ  脇岬観音寺までの古道「みさき道」の道塚No.1。唐人屋敷から活水大学に上る石段道の登り口にある。地元の話や昭和38年6月発行「長崎手帖 第三十ニ号」の記録から、以前は変体仮名で「みさき道」と刻まれていたというが、損耗が激しくにわかに信じがたい。
参照 https://misakimichi.com/archives/93
標石? J  「みさき道」を上がって活水大学裏へ出る手前、「遠見番跡」近くにある。刻みは「明持ニ坪」。「明?」がわからない。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (65)〜(69)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (65)〜(69)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(65)〜(69)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石  (65)  オランダ坂登り口にある「東山手十三番館」。現在、リフォーム工事中で中へは入れない。入口門の左塀石垣下に標石は埋め込まれている。
標石  (66)  オランダ坂を活水短大正門近くまで登る。右方「東山手十三番館」の上手となる塀石垣下に標石は埋め込まれている。
(65)とも陶板プレートが付いていない。こここそプレートの設置が必ず必要なのではないか。
標石? C  大浦町2街区。聖三一教会のオランダ通り側にある。正面「USA」、上面「1928」(昭和3)と刻む。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (60)〜(64)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (60)〜(64)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(60)〜(64)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? A  大浦町10街区のNTT長崎病院裏。標石(63)の歩道対面側の溝の中に立つ。手前に渡した2本の石とともに何か不明。
石柱の大きさと風化具合が、南山手町の標石?Pと似る。
標石? B  大浦町8街区。大浦石橋電車通りのセブンイレブンから左の車道へ入る。ヘアーサロンひらやまと大井呑酒店の境界にある。
この一帯で見る唯一の標石らしい形状だが、何も刻みがないようなので不明。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (56)〜(59)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (56)〜(59)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(56)〜(59)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? Q  長崎全日空ホテルグラバーヒル左側入口の民間駐車場に、歩道から入るとすぐ右方にある。明治か大正時代の珍しい旧型石柱、丸い突起がある「水準点」。
現在の地形図にも、この地点に標石がある水準点「(標高)3.0m」と表示されている。駐車場奥のは、小さな水神。
参照   https://misakimichi.com/archives/31  
標石? R  明治31年(1898)に建てられた「旧長崎税関下り松派出所」の建物は、現在「長崎市べっ甲工芸館」として使用されている。裏側角にある標石。
「へ蔵…」と読める。「大蔵省」の古い境界柱か。敷地には一帯の石祠・燈籠を寄せた一角がある。
標石 (59)  松が枝町木戸豆腐店の直角の角。店の人によると、高さは昔は30cmほどあった標石。車がぶつかったりしてたびたび破損し、路面と変らぬ高さとなった。