長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (70)〜(71)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (70)〜(71)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(70)〜(71)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? D  唐人屋敷の天后堂。正門左角に(70)の標石「壱号」があるが、敷地の外を左から天后堂後ろへ回って行くと、赤煉瓦塀角にあと1本、「壱号」がある。
寸法は、11×17×35cm。
標石? E  Dの「壱号」と同場所。赤煉瓦塀の大きな角石に、「福建地堺」と刻まれている。
寸法は、24×24×100cm。稲佐の悟真寺唐人墓地にも「福建地堺」標石がある。
標石? F  天后堂への途中、手前右にアーチ石橋「森橋」へ行く路地がある。この角の石。路面と変らぬ高さになっているが、形状は標石?
標石? G  同路地を「森橋」に進むと、すぐ館内市場上の四つ角に「森」の新しい標石がある。一帯に「森橋」「森伊橋」を架けたのが、地元森伊三次氏。古い標石の修復か?
標石? H  「森」標石の対面角。「森田」「境」の標柱。下部を見ると古い石の上に、つぎ足して新しくなっている。
標石  (71) 館内市場近く、唐人屋敷の土神堂。現地に見当たらず。標石?E天后堂裏の「福建地堺」とは字も大きさも違う。調査要。
標石? Ⅰ  脇岬観音寺までの古道「みさき道」の道塚No.1。唐人屋敷から活水大学に上る石段道の登り口にある。地元の話や昭和38年6月発行「長崎手帖 第三十ニ号」の記録から、以前は変体仮名で「みさき道」と刻まれていたというが、損耗が激しくにわかに信じがたい。
参照 https://misakimichi.com/archives/93
標石? J  「みさき道」を上がって活水大学裏へ出る手前、「遠見番跡」近くにある。刻みは「明持ニ坪」。「明?」がわからない。