投稿者「misakimichi」のアーカイブ

季刊誌 樂(らく)ra-ku 59号 長崎の道ーみさき道 茂木街道 浦上街道ー

賑やかな往来があった長崎の道。それは人、物、食、文化が行き交う道、そして信仰の道でもありました。今回の特集では、長崎へとつながる3つの道に注目し、先人たちが行き交った時代の痕跡を探して古道を巡りました。江戸期から現代へ。かつての風情を感じる美しいグラビア写真と共にお楽しみください。

樂59号長崎を知る・遊ぶマガジン 樂(ra-ku)

特集のトップ「みさき道」に魅せられた人、として父の記事が掲載されています。
取材ありがとうございました。

以下のページから購入が可能です。

季刊誌 樂(らく)ra-ku 59号 長崎の道ーみさき道 茂木街道 浦上街道ー(2023) | 季刊誌「樂」オンラインショップ

移転のお知らせ

「みさき道人 “長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”」をご閲覧いただきましてありがとうございます。
みさき道人の長男でございます。

2019年12月にYahoo!ブログのサービスが終了するのに伴い、本ブログを新しいURL(https://misakimichi.com)とシステムに移転しました。

ブログの記事や写真については全データを新しいURLに反映させております。記事のURLが変更になっておりますので、記事を閲覧したり、リンクを張り替える際には、検索ボックスにタイトルなどの文字列を入力して記事を探していただけますようお願いします。(検索ボックスはPC表示では右上に、スマホ表示では記事の下の方にあります。)

コメントやゲストブック、トラックバックに関しても全データを取得済で、新しいブログに反映させることを検討しています。本記事以外の、個別の記事へのコメントはできなくなっておりますので、ご了承ください。

お知らせ ( 長崎県 )

本ブログ「みさき道人 “長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”」
をご閲覧いただきましてありがとうございます。
みさき道人の長男でございます。

平成28年12月30日未明、父が脳内出血により永眠いたしました。

父は生前、本ブログの記事執筆と史跡などの調査を楽しみに生きておりました。
昨年11月の八重山諸島へ調査旅行の後も、年末年始に高知への調査旅行を予定しており、
直前まで準備を進めておりましたが、突如倒れ、帰らぬ人となりました。
家族として、父のブログと調査活動を見守っていただけに、残念でなりません。

葬儀は昨年12月31日にとり行われました。
このブログや調査レポート、「みさき道歩会」などの活動を通して、
父はとても幸せな人生を送ることができました。
本ブログを通してお世話になりました方々には、感謝申し上げます。

過去の記事に関しましては、Yahoo!ブログが続く限りは、
そのまま閲覧できるようにしておく予定です。
今後のブログの管理などは、私共家族が行いますので、
転載等を行う場合は、記事へのコメント、ゲストブックなどでご連絡ください。

また、お知らせがある場合は、こちらの記事にてご報告いたします。

本当にありがとうございました。

妙相寺・富川渓谷の紅葉 2 ( 長崎県 )

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妙相寺・富川渓谷の紅葉 2

2016年12月10日(金)快晴。妻が近所の知人と、長崎市本河内町妙相寺と諌早市富川渓谷へ紅葉見物に。2は富川渓谷の続き。

この項は、本ブログ次も参照。富川渓谷には、次の名木もあるが、場所を忘れたか訪ねていないようだ。
富川渓谷大雄寺のヤブツバキ  https://misakimichi.com/archives/1401
富川渓谷のイロハカエデ・スタジイ  https://misakimichi.com/archives/601
富川渓谷のカツラ  https://misakimichi.com/archives/382

妙相寺・富川渓谷の紅葉 1 ( 長崎県 )

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妙相寺・富川渓谷の紅葉 1

2016年12月10日(金)快晴。妻が近所の知人と、長崎市本河内町妙相寺と諌早市富川渓谷へ紅葉見物に。写真1〜5枚目が妙相寺。6枚目以降が富川渓谷。2へ続く。

この項は、本ブログ次も参照。富川渓谷には、次の名木もあるが、場所を忘れたか訪ねていないようだ。
富川渓谷大雄寺のヤブツバキ  https://misakimichi.com/archives/1401
富川渓谷のイロハカエデ・スタジイ  https://misakimichi.com/archives/601
富川渓谷のカツラ  https://misakimichi.com/archives/382

祖納岳の猪垣  竹富町西表 ( 沖縄県 )

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祖納岳の猪垣  竹富町西表

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。西表島南東部、大原「ヤッサ地区の猪垣」に続き、これは西表島北西部、祖納「祖納岳の猪垣」調査である。
ここの猪垣は、蛯原一平氏(国立民族学博物館・外来研究員)の研究紀要「沖縄八重山地方における 猪垣築造の社会的背景」があるので、参照していただきたい。
http://hist-geo.jp/pdf/050/051/245_044.pdf#search=’%E8%A5%BF%E8%A1%A8%E5%B3%B6%E3%81%AE%E7%8C%AA%E5%9E%A3′ 地元で聞くと、昔の猪垣は学校田の奥にあり、水路を渡るという。与那田橋の脇から護岸上を最奥まで行き、新猪垣フェンスの柵入口をやっと探した。このあたりでも猪垣らしく感じるところは、フェンスに沿ってあった。

施錠のない柵入口から、なるべく明瞭な踏み跡の山道を山手へ上がる。切り土と思われる地点があり、ここがCの場所と思われるが、大雨が降り出し雨中の踏査となり、カメラが濡れるのが一番心配で、この先の調査を打ち切った。ヤブを払いながら行くので、ツワブキのバカ付着もひどい。ズボン・上着は散々だった。
翌朝も雨。切り土Cの中をもう少したどると、やがて石垣のB地点猪垣に到達したと思われるが、私には何の確証もなく、再び出かける気は起こらなかった。
北西風も強くなり、鳩間島は欠航続きで断念。それよりもまず石垣島へ戻られるかが問題で、調査も終りに近づき、沖縄にも帰路寄らねばならず、急に里こころがついた。西表島の船は、また大原港からしか出なかった。

従って、今回調査「祖納岳の猪垣」の私の正しい撮影画像はない。遺産サイトからの連絡によると、都合の良いことに、12月10日(土)、「第9回シシ垣サミットin西表」が、西表島祖納で開催される。巡検ツアーも翌11日(日)あるらしいから、画像提供はこの関係者に依頼してみるとのことだった。

祖納岳の猪垣 そない、シィー
(八重山)竹富町(西表島) 猪垣(石塁) 延長約1㎞ 1728年 WEB 2016年12月にシシ垣サミットが開催された 西表島の特徴 2 B

大平井戸  竹富町西表 ( 沖縄県 )

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大平井戸  竹富町西表

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。西表島の北東部、西表の祖納集落にある。県道215号祖納バス停先、祖納郵便局の先となる路地から右集落内へ入る。右下に大平井戸があり、そのまま進むと、「ピサダ道」の正面登リ口に出る。

大平井戸 ウヒラ・カー
(八重山)竹富町(西表島) 祖納 石積井 15世紀? 町有形民俗 現地解説板 保存状態良好 「ピサダ」と呼ばれる水田地帯に所在 1 C

現地説明板は、HP「西表島の石碑・説明看板 (西部)」によると、次のとおり。

竹富町指定有形民俗文化財  太平井戸(ウーヒラカー)
この井戸は、伝承によると今から約500年前、まだ祖納の集落が祖納半島の高台「上村」にあった当時、高台で水に不自由していたところ、慶来慶田城用緒がこれを解消するために掘ったものといわれています。その後、飲料水用の井戸として祖納の人々の生活を支え続けてきたことから水恩に感謝する儀式が行われるようになり、今日では、節祭の3日目に水恩感謝の儀式と奉納芸能がこの大平井戸で行われます。
指定年月日 平成10年3月31日    竹富町教育委員会

ピサダ道  竹富町西表 ( 沖縄県 )

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ピサダ道  竹富町西表

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。石垣港から高速客船により西表島大原港に渡ったので、島内バスにより西表島の北東部、西表の祖納集落に移動した。
県道215号祖納バス停先、祖納郵便局の先となる路地から右集落内へ入る。右下に大平井戸があり、そのまま進むと、「ピサダ道」の正面登リ口に出る。

ピサダ道
(八重山)竹富町(西表島) <慶来慶田城翁屋敷〜大平井戸> 石段道 長約100m 16世紀初頭 町史跡 現地解説板 保存状態良好/日本軍による改変の可能性 「ピサダ」は大平井戸の周辺にあった水田の地名に由来/16世紀初頭の石畳 2 B

現地説明板は、HP「西表島の石碑・説明看板 (西部)」によると、次のとおり。

竹富町指定史跡 ビサダ道 平成19年9月28日指定
ピサダ道は、16世紀初頭に活躍した西表島の英雄、慶来慶田城用緒が屋敷を構えたと伝えられる町指定史跡「慶来慶田城翁屋敷跡」(昭和48年9月12日指定)と、町指定有形民俗文化財「大平井戸」(平成10年3月31日指定)を結ぶ道で、祖納集落がまだ祖納半島の高台の上、通称「上村」にあった当時に、集落から井戸や水田へ往来するのに利用されていた古道です。
ピサダ道のピサダとは、大平井戸周辺にあった水田の地名に由来するもので、大平井戸も節行事の時以外の平時はピサダカーと呼称されています。節祭が上村を中心に行われていた大正13年頃までは、アンガマ行列が上村から前泊浜まで降りてくるのに、このピサダ道を通っていました。その際にピサダ道の急坂を、旗頭を立てて降りてきたという武勇伝も語り継がれています。
去った大戦時、昭和16年に完成した船浮要塞建設に際して祖納半島にも砲台が配置されましたが、大砲を引き上げるために旧日本軍により石段状の道が平らに敷きならされる、という改変も行われました。
このピサダ道は、祖納集落の長い歴史を物語る歴史の道であり、祖納集落の人々の生活と深いかかわりのある貴重な史跡です。                  竹富町教育委員会

ヤッサ地区の猪垣  竹富町南風見 ( 沖縄県 )

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ヤッサ地区の猪垣  竹富町南風見

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。石垣港から高速客船により西表島大原港に着く。仲間川の河口域北岸の中州に位置するヤッサ地区は、航空写真のとおり。県道215号大原バス停先GSのところから直進。しばらく進み「大原一般農道」標識の道へ右折する。
農道をヤッセ橋など3つの小橋を渡り奥まで行くと、広大なサトウキビ畑が全面に広がる。ここが「ヤッサ地区」である。

猪垣はサトウキビ畑周辺の雑木林の中にあるようだが、どこかウロウロした。農道行き止まりとなる柵のところで、それらしき土盛りを見たが、これが猪垣かわからない。帰りにやっと農作業中の人と会った。猪垣は中洲のほぼ外周の川沿いにあり、手前に新猪垣フェンスが設置されフェンスから遠く、立ち入りできず草刈りしないことには撮影不能と聞いた。
地元で猪垣修復をしたのは、もう10年前の話である。当時の代表が現武富町長となられているらしく、画像提供は武富町に遺産サイトから依頼してもらうこととし、現地を切り上げた。

ヤッサ地区の猪垣 いがき
(八重山)竹富町(西表島) 猪垣(石塁) 高約1.2m 1768年頃 WEB 2006年に初めて修復 西表島の特徴 2 B

琉球新報2006年6月18日付地域版の「ヤッサ地区の猪垣修復」記事は、次のとおり

よみがえれ、猪垣 240年前築造、初めて修復 西表・ヤッサ地区
【西表島=竹富】竹富町・西表島の仲間川の河口域北岸の中州に位置するヤッサ地区で9日、約240年前に猪(いのしし)による農作物被害防止対策のため積まれた石垣「猪垣(いのがき)」の修復作業が行われた。大雨や台風などで猪垣の一部が崩壊しており、農家約10人が参加して、手作業で崩壊した部分を修復した。

八重山では、猪が生息するのは石垣島と西表島だけで、両島では猪が農作物を食い荒らさないように猪垣が造られた。このうち、1900年ごろ風土病のまん延などの影響で一度、廃村となったヤッサ地区では、畑の周囲を囲むようにして雑木林の中に猪垣が積まれている。
琉球王府の検使として八重山に派遣された与世山親方らの八重山視察後に作成された「与世山親方八重山嶋規模帳」などによると、1768年ごろ、「仲間村の耕作地は仲間村の負担で猪垣を築くこと」とあり、猪垣が築造された記録が残されている。

ヤッサ地区のサトウキビ農家の西大舛高旬さん(58)は「猪による被害は後を絶たず、鉄線や網を張るなどして対策を講じてきたが、間に合わなかった。やはり昔の人の知恵で造った猪垣をそのまま引き継ぐことが一番の対策になると思い、初めて修復作業をすることになった」と話した。
猪垣はサトウキビ畑周辺の雑木林の中で、約1・2メートルほどの高さで積まれており、参加者らが崩落した石を猪垣に積み直した。作業には、県八重山支庁や竹富町の農林水産担当者や、文化財担当者が同行し、写真やメモを取るなどして作業の様子を記録していた。

小 城 盛  武富町武富 ( 沖縄県 )

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小 城 盛  武富町武富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。武富東港から島の中心、仲筋集落へ向かう。武富郵便局から西側の路地へ右折しまっすぐ進み、赤山公園「なごみの塔」手前の駐車広場から右折。この通りを北へ上がると、園地の中に「小城盛」のピークがある。
頂上部の石段にロープが張られ、立入禁止だった。丸石が摩耗のためコンクリートで復元された方位板のよう。場所は所在図参照。

小城盛 クスク・ムイ
(八重山)竹富町(竹富島) 遠見台、火番盛 (珊瑚石積、円盤状2層) 1644年以降 国史跡 WEB/町教委 よく整備されている(階段が、整然としすぎ、頂部が平坦) 先島諸島の火番盛群/代表的なものの一つ/きれいな円筒形の石積 2 B

HP「竹富島の石碑・説明看板 (西集落・西)」による説明は、次のとおり。

2.「小城盛(クスクムリ)」の碑
小城盛の碑
小城盛(クスクムリ)
正保元年(一六四四)尚賢王時代 火番所として建てられた。海上の監視や出入りする船の通報のため烽火を揚げた。
指定 昭和四十七年八月三十日
この碑は、小城盛に上がる階段横に建てられています。

3.小城盛 記念物指定碑
小城盛 記念物
指定碑(左)
(正面) 記念物小城盛(クスクムリ・火番盛)
(左側) 指定昭和四十七年八月三十日
(右側) 竹富町教育委員会
(裏面) 建設昭和四八年二月二八日
小城盛は世持御嶽の裏手(東側)にあります。

4.「小城盛の由来」の碑
小城盛の由来の碑
(正面)
小城盛の由来
正保元年 一六四四年 尚賢王の世代琉球本土の冠船の航海路にある諸離島に命じて烽火台として設けられた火番盛である  碑文並びに揮毫 上勢頭廣
(裏面)
復元記念
父松久の遺志を継ぎ親族知友の協力をえて復古をなす 採石は存命中に自分の手で採工せるものなり  昭和三十六年六月十日建立
老朽化して崩落の著しかった小城盛は、有志によって昭和36(1961)年に復元されました。

5.方位板
方位板
この方位板は、小城盛の頂上部(ハルミ台)に設けられています。
(上面)
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥
明治4年に竹富島に来島した鹿児島出身の八重山探検隊調査員によって、ハルミ台の円石の上部に十二支を刻み入れて方位を定めたと伝えられています。
その後、摩滅で判別できなくなっていた方位板は、小城盛の復元とともに昭和36(1961)年にコンクリートで復元されました。