月別アーカイブ: 2011年2月

長崎外の古写真考 目録番号:3133 横浜山手

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3133 横浜山手

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3133 横浜山手
〔画像解説〕
右手の煙突をもつ建物(184番)はオランダ人ストルネブリンク(L. Stornebrink)の経営する機械製氷工場、横浜アイス・ワークス。明治12年(1879)創業のジャパン・アイス・カンパニーに起源をもつ。谷戸坂を挟んで左手はフランス領事館の敷地。

目録番号: 105 キャンプ・ヒル
〔画像解説〕
英語で「横浜のキャンプの丘」とキャプションが印字されている。これは、山手の外国人居留地の一部であり、幕末・明治初期に英仏軍が駐屯していたことから、「キャンプヒル」と呼ばれた。

■ 確認結果

目録番号:3133「横浜山手」は、次の目録番号: 105「キャンプ・ヒル」と同じ写真である。タイトルの合わせると、関連作品となるだろう。撮影者は「日下部金兵衛」か。

長崎外の古写真考 目録番号:1145 神戸港(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1145 神戸港(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1145 神戸港(1)
〔画像解説〕
海からみた神戸外国人居留地の写真である。

〔画像解説〕 超高精細画像    和文タイトル: 神戸港(1)
海(船上)から眺めた神戸港。撮影は明治中期だろうか。居留地から雑居地にかけての海岸通の街並みと、その背後に六甲山系の山並みが連なる。中央の高い山は標高約320mの高取山(たかとりさん)だろう。諏訪山など高台から眺める神戸港は美しいが、海上からの眺めもまた格別である。写真が不鮮明なので建物から撮影年代を推定することは難しいが、左手の帆柱の数多く立っているところは雑居地海岸通4〜5丁目の和船の船溜りで、左に行くと神戸駅用地(現在のハーバーランド)、川崎造船所へと続く。
海上には外国人の楽しむヨットも見え、明治27年(1894)頃には外国人のヨットクラブ『Kobe Yacht Club』も組織された。六甲山系の山々は、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の開港以後来神した外国人たちには、狩猟や登山、ゴルフなど格好のスポーツと娯楽の場となり、新種のカタツムリ(ギュリキマイマイ)の発表など自然科学の研究対象ともなった。

目録番号:1549 神戸海岸
〔画像解説〕
神戸外国人居留地のバンド。護岸、道路、洋館が撮影されている。

〔画像解説〕 超高精細画像    和文タイトル: 神戸海岸
雑居地の海岸通2丁目付近。明治10年頃から20年代はじめの撮影であろう。このあたりには早くから外国人に永代貸しされた地所も多く、洋風の商館やレンガ造の倉庫、日本式家屋や土蔵が入り混じって建ち並び、雑居地らしい趣を伝えている。
なかほどの突堤の付け根の向こうに側に見える建物は、西税関の建物のひとつであろう。初代神戸港長(Harbour Master)のイギリス人マーシャル(John Marshall)は、明治20年(1887)8月に亡くなるまで、西税関の港長のオフィスで港内の潮汐干満の調査や気象観測を行い、港則の立案や築港計画の作成に携わった。そこの小さな小屋に据えつけられた大砲からは正午に1発ドンと午報が放たれ、神戸中に響きわたって昼休みの訪れを告げたという。中央の竿に刺さったような丸い物体は、正午になるとスッと下へ降りて港内の船に時刻を知らせるタイム・ボールである。中央の高い山は高取山(たかとりさん)だろう。

■ 確認結果

目録番号:1145「神戸港(1)」は、「海からみた神戸外国人居留地の写真である」、「海(船上)から眺めた神戸港」と画像解説している。「背後に六甲山系の山並みが連なる。中央の高い山は標高約320mの高取山(たかとりさん)だろう」は、間違いないだろう。

高取山の同じような光景は、海(船上)からでなく、次の目録番号:1549「神戸海岸」のとおり、「神戸外国人居留地のバンド」突堤の先端あたりから、北西に港を入れて撮影できると思われる。
当時の写真機では、揺れる船上からの撮影は困難ではないか。長崎の作品にも例が多い。

現在の神戸市街から見た「高取山」は、HP「ごべるん〜変化していく神戸〜」長田区高取山から。「4.明治二年兵庫津細見全圖 1868」は、HP「文化歴史資料館 風土誌科研究所」(大阪府守口市)所蔵資料から。

長崎外の古写真考 目録番号:1107 杉並木

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1107 杉並木

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1107 杉並木
〔画像解説〕
整理番号8-24「日光街道の杉並木(3)[今市]」と非常に類似しているので、本写真も日光街道の杉並木を撮影したものと考えられる。撮影者も同じ小川一真である。

目録番号:4724 日光街道の杉並木(22)
〔画像解説〕
日光街道の杉並木は徳川家康の三十三回忌にあたり松平正綱が寄進したものである。画面の奥に見える建物は今市の追分地蔵付近ではないかと思われる。梢の上には道なりに空が見える。当時は、月明かりや星明りを頼りにして、空を見ながら夜道を往来できたという。

目録番号:5043 日光街道の杉並木(25)
〔画像解説〕
日光街道の杉並木は徳川家康の三十三回忌にあたり松平正綱が寄進したものである。画面の奥に見える建物は今市の追分地蔵付近ではないかと思われる。梢の上には道なりに空が見える。当時は、月明かりや星明りを頼りにして、空を見ながら夜道を往来できたという。

目録番号:5476 日光街道の杉並木(28)

■ 確認結果

目録番号:1107「杉並木」は、写真右の杉の根元(青線囲い)に特徴がある。
次の目録番号:4724「日光街道の杉並木(22)」、目録番号:5043「日光街道の杉並木(25)」、目録番号:5476「日光街道の杉並木(28)」とも、同じ場所の杉であることがわかる。

場所は、4枚目の目録番号:5476「日光街道の杉並木(28)」キャプションにあるとおり、「745 
IMAICHI RORD NIKKO」。日光街道「今市」の杉並木であろう。
掲載は略したが、小川一真撮影の整理番号8-24「日光街道の杉並木(3)[今市]」は、目録番号: 350 の作品。杉並木の作品は、撮影地域を「日光」あるいは「今市」と分かれて整理しているので、調整が必要。「日光」で良いと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:1006 大浦川口

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1006 大浦川口

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1006 大浦川口
〔画像解説〕
大浦川中流から川口を見た風景である。大浦川に架かっている橋は松ヶ枝橋。川沿いの広い道路には街灯が見える。下がり松居留地の洋風建築が鮮明に写っている。下がり松の由来を示す松の木を見ることができる。

〔画像解説〕 超高精細画像   和文タイトル: 大浦川口
1871年(明治4)9月16日付、横浜の写真貼り付け英字新聞”The Far East”に掲載された写真で、キャプションにはAT NAGASAKIとある。河口は板橋の弁天橋、その奥は下り松橋。右の路上奥には明治初年を象徴するガス灯が写っている。大浦川の川幅は広く、荷物運搬用のサンパンが係留されている。左岸の手前は下り松37番で看板はOCEAN TAVERNと読める(前のエクスプレス)。以下入母屋造り平屋建の下り松38番、39番は空き地で、40番から橋の袂の42番にかけて、2棟ずつ建物が建てられている。慶応三年(1867)で下り松37番には、H.S.ピールが居酒屋(Express Tavern)を、38番にはJ.W.スミスとJ.ブリーンが船具商を、39番は空き家で、40番甲にはC.ニックルとG.ウイルケンスが、40番乙および41番甲には同レーキ商会が、41番乙にはイギリス人のJ.アンダーソンが、42番甲乙にはJ.P.ハイバーとG.クルチスが店を構えていた。この後、ここら一帯は外人バー、ホテル、外国商店街として発達する。

■ 確認結果

目録番号:1006「大浦川口」は、「大浦川中流から川口を見た風景である。大浦川に架かっている橋は松ヶ枝橋」と記している。
この作品には、超高精細画像があり、その画像解説では「河口は板橋の弁天橋、その奥は下り松橋」と説明している。

写真では、大浦川河口に2つの橋が写っていることがわかりにくいが、「弁天橋」のまた下流となる河口に、「下り松橋」(後で橋名は「松ヶ枝橋」となる)が架橋されているので、超高精細画像の画像解説の方が正しい。この項は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1939
https://misakimichi.com/archives/1932
https://misakimichi.com/archives/1868

長崎外の古写真考 目録番号: 828 屋形舟(5)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 828 屋形舟(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 828 屋形舟(5)
〔画像解説〕
英語で「覆われた舟(屋根舟)」と解説されている。船頭と中央の男性は半纏を着ているが、この半纏は小川一真のモデルの特徴である。女性の5人ともモデルと思われる。遠景は横浜であろう。

目録番号:4583 隅田川の舟遊び(3)
〔画像解説〕
山谷堀が隅田川に流れ込む河口にあった有明楼(ゆうめいろう)前の今戸河岸で内田九一が撮影。浅瀬なので舟が浮いていない。それでブレずにシャープに撮れている。背景は向島で牛島神社や長命寺のある辺りである。この度長崎市立博物館所蔵の内田九一撮影のアルバムの中にこの写真を見つけ、九一撮影だと確認した。撮影は明治5年と思われるが、本写真は後に複写され販売されたもの。

■ 確認結果

目録番号: 828「屋形舟(5)」は、この作品のみ「遠景は横浜であろう」と画像解説している。
次の目録番号:4583「隅田川の舟遊び(3)」のとおり、東京の隅田川、今戸河岸の風景である。背景は「向島」。内田九一が撮影した写真と同じである。この項は次の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/2230
https://misakimichi.com/archives/2357

HP「囂庵の幕末明治の古写真」には、次のとおり解説している。
http://www.gouann.org/new_box/imado_91/imado_91.html
埋蔵された景観・・・内田九一の船遊びの写真
一般に内田九一の「船遊び」と題された写真は、明治の初め、今戸の有明楼の前の浅瀬で撮られた。古地図で見ても、この辺りの河岸は浅く、干潮時には中州状になっていたようだ。
「ゆうめいろう」は当時一流の料亭で、政府の高官や公家たちが足繁く通ったことでも有名である。現在は、都道314号の大部分と、台東リバーサイドスポーツセンター体育館脇の通路及び幼児用プールの辺りにあたるなんの変哲もない場所である。(推測資料の地図が明治四十年のため多少の誤差はご勘弁を・・)
さて、被写体の屋形船は、その幼児用プールの先の小プールの辺りになる川底に船腹を乗せて係留されていた。撮影者の地点も屋形船のあった場所も、今は、地下数メートルの下に埋もれてしまった。この写真は、いわば埋蔵されてしまった風景であるといえる。
川の光景も、川面近くから見上げるのと、高台から俯瞰するのでは大きく異なり、それぞれまた別の世界観を示すことになる。それぞれの視点の持つユニークさは、写真ばかりでなく、たとえば歴史を楽しむ時などにも、また同じように作用するような気がする。

長崎外の古写真考 目録番号: 544 蓮池(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 544 蓮池(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 544 蓮池(1)
〔画像解説〕
本コレクション中に江戸城外堀の蓮池を撮った写真がある(整理番号59-14)。本写真は遠景に東屋や石灯籠などが見え、明らかに庭園としての蓮池である。場所は不明。点在する蓮の花の赤の着彩が印象的である。

目録番号: 120 芝増上寺の弁天池(1)
〔画像解説〕
上野と芝、 寛永寺と増上寺は、 いずれも徳川家の菩提寺で、 弁天池は不忍池に、 中の島は弁天島とパラレルな関係にある。 蓮の花の咲く池の上にかかる石橋を渡り、 中の島の弁天様にお参りすることになっていた。

目録番号:4629 芝増上寺の弁天池(3)
〔画像解説〕
大きく育った蓮の葉が湖面を覆っている。奥には築山がありその頂には四阿屋らしき建物が見える。池の周囲には石灯籠や五重石塔が置かれている。しかし、この景観に合う場所は増上寺弁天池にはない。別の蓮池ではなかろうか。

■ 確認結果

目録番号: 544「蓮池(1)」、目録番号: 120「芝増上寺の弁天池(1)」、目録番号:4629「芝増上寺の弁天池(3)」は、同じ写真であるのに、画像解説が異なってきてる。関連作品としてまとめてほしい。
最後の目録番号:1740「芝増上寺の弁天池(2)」は、関連作品のため参考。

撮影場所は、芝増上寺を含んだ芝公園の弁天池(港区芝公園)が、やはり考えられる。
HP「東京の池めぐり Part2 (千代田区・中央区・港区編)」による説明は、次のとおり。現在の弁天池の写真は、HP「Walkerひで物見遊山記 芝公園散歩」から。

芝公園の弁天池 (港区芝公園)

芝公園の増上寺の裏手、まさに東京タワーを見上げる位置に宝珠院という浄土宗の小さなお寺があります。閻魔大王像が安置された閻魔堂があるほか、朱塗りの弁天堂もあり、ここの弁財天は港区七福神の一つに定められています。そして、そしてお寺に隣接して弁天池があります。さほど大きな池ではなく、東京タワーと増上寺の間にひっそりと水面を広げています。

長崎外の古写真考 目録番号: 512 神戸海岸通り(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 512 神戸海岸通り(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 512 神戸海岸通り(1)
〔画像解説〕
詳細位置不明。幅広い道路に沿って立ち並ぶ多数の洋風建築と、路上の人力車が写し出されている。

〔画像解説〕 超高精細画像 和文タイトル:神戸海岸通り:神戸外国人居留地海岸通
明治中期の居留地海岸通を、西端から東へ向かって撮影。右手へ行くとメリケン波止場。左から、2番イギリス系の香港上海銀行(Hongkong and Shanghai Banking Corporation)、3番アメリカ系のスミス・ベーカー商会(Smith,Baker&Co.)、5番ドイツ・イタリア・ロシアの各領事館、6番仏国郵船会社(Compagnie des Messageries Maritimes)と続く。早くから商館・銀行・領事館などが建ち並んだ居留地海岸通の賑わいぶりがしのばれる。右手海岸のプロムナードでは、夕方になると外国人たちが気ままに散歩を楽しんだ。「ポルトガルの素人楽団が美しい旋律を奏でるなかを、華やかで魅惑的な衣裳の淑女たちがそぞろ歩く夕暮れの海岸通は、まるで西洋の名画のようだった」という。中央のガス灯は赤い色で着色されているが、本当は緑色。人力車夫の出で立ちも興味深い。この構図の写真をよく目にするのは、居留地が最も美しく映える風景だからであろう。

目録番号:4091 神戸居留地海岸通り(1)
〔画像解説〕
明治中頃の居留地海岸通(現中央区)を、西端から東へ向かって撮影。左から、2番の香港上海銀行 (The Hong Kong and Shanghai Banking Corporation)をはじめ、商館・銀行・領事館などが建ち並び、当時のにぎわいぶりがしのばれる。右手海岸には、外国人が散歩を楽しんだプロムナードが見える。

■ 確認結果

目録番号: 512「神戸海岸通り(1)」は、「詳細位置不明」としながら、超高精細画像があり「和文タイトル: 神戸海岸通り:神戸外国人居留地海岸通」とし、撮影場所を画像解説している。
次の目録番号:4091「神戸居留地海岸通り(1)」は、同じ写真。画像解説に「明治中頃の居留地海岸通(現中央区)を、西端から東へ向かって撮影。…」とある。

ゴルフ場道塚に刻む「川原道」の実地踏査 (宮崎ダムー徳道間)

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ゴルフ場道塚に刻む「川原道」の実地踏査 (宮崎ダムー徳道間)

平成2年11月「三和町 今昔2」53頁は、「徳道」の風景。「昭和30年ごろまでは、この山道を、毎日子供達は学校に通っていました。小学校まで約1里あります。今はだれも通らなくなったこの旧道に地蔵菩薩だけが残されている。…」
地蔵菩薩は、「夜泣き地蔵(川原の森園地蔵)」という。平成15年、この谷に「宮崎ダム」が造られ、ダム展望広場先の車道脇へ移設された。
森園地蔵は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/207

みさき道の途中、野母崎ゴルフ場管理事務所内にある道塚2本。No.⑧は、墓石を転用。正面は地蔵彫刻。右側面「右 御崎道」左側面「左 川原道」。No.⑨は、その奥5mに立つ。正面「みさき道 今魚町」左側面「上 川原道」。
通学路は想い出をコメントなどで聞いていたが、私にとっては、すなわちゴルフ場道塚の「川原道」。以前から一度は実地踏査を考えていた。

道塚に刻む「川原道」は、みさき道から分岐し、今、管理事務所となった裏手を上がる。旧町境鞍部を越して、徳道の集落へ行く。現在の便利な車道は、昭和35年頃、できたようだ。
徳道公民館までしばらく車道を行く。公民館裏手に集落の古い水場があり、水場先の竹林を抜けると、宮崎ダムの左右から上がってきた車道合流点に出る。
ここまではわかっていたが、この先まっすぐ尾根から谷間を下る道。車道が開通するまでは、川原小学校へ通った山道の通学路であり、地区住民の重要な生活道(木場回りに車道?)だった。

2月23日、鶴山の帰りに宮崎ダムへ下る。川下からが調べやすいだろうと、思いたってこの道を上部へ踏査した。明治34年測図国土地理院旧版地図は、上図のとおり。
ダムで寸断されたため、入口は不明。長年、人はまったく歩いていない。途中で川の左右岸沿いに旧道発見。水路跡や渡りの桁石橋が2橋残っていた。「吠え岩」とか「立石」という岩はわからなかった。瓦に埋もれた廃家跡1軒があった。
徳道集落に近い上部は、車道や農道が入れくり、先はまたどの道か不明。宮崎ダムの左右から上がってきた車道合流点に、すんなり出なかったので、次としたい。

鶴 山  長崎市宮崎町

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鶴 山  長崎市宮崎町

出水のツルの「北帰行」が始まった。きのう11時頃、川原上空を大群が飛んでいたと聞いた。ツルを写すなら「鶴山」だろうと、きょう同じ時刻頃、出かけてみた。
「鶴山」は、宮崎ダムの上にあり、みさき道の途中から東へ尾根を行った岩場のピーク。標高
251mの基準点がある。このあたりのれっきとした字名となっている。為石の楠山先生の話によると、「北帰行」の前にも偵察ツルがこのあたりまで来るという。

黒浜ダムから上がり、サイクリング道路を横切って、農道終点にバイクを置く。みさき道にすぐ出て、道標プレートに従い鶴山へ行く。歩いて20分で鶴山へ着いた。
山頂から10時40分から11時45分まで天草方面の空を見つめていたが、きょうは気配がない。残念だったので、鶴山からの景色だけ載せる。出水にまだツルが残っているのか、問い合わせないといけない。最後が、宮崎ダムから見た「鶴山」。

長崎外の古写真考 目録番号:6525 根岸お行松

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6525 根岸お行松

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6525 根岸お行松

■ 確認結果

「根岸」という地名は、横浜市中区根岸町と東京都台東区根岸が有名と、前の作品でふれた。
目録番号:6525「根岸お行松」は、「撮影地域:東京」。これが江戸名松の一つ、根岸「お行の松」。東京の方の「根岸」となる。現在の東京都台東区根岸4丁目に3代目の松がある。
現在の写真と資料は、HP「歴史の足跡」309. 根岸の里 落語:茶の湯より 台東区根岸から。