長崎の古写真考 目録番号:5385 大浦川と居留地(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5385 大浦川と居留地(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5385 大浦川と居留地(2)
〔画像解説〕
ベアト大型アルバムの1枚でShelter Creek Nagasaki Harbour(長崎港の避難運河)とペン書き。上野彦馬が明治6年(1873)頃撮影した目録番号5318(整理番号102-24)と同じアングルで、大浦川下から上流を望むが、時期は10年ほど遡る。1864−6年(元治元-慶応2)頃 F・ベアトがこれを撮影した。比較で建物の変遷が判る。右左岸手前の2階建は当時空家であった蘭人J.ブロイニール所有の洋館。順に38番はスミス船具商で、37番の洋館にはExpressの看板が出ている。36番はLondon HotelおよびBoard of Trade Hotel、突き当たり正面の看板はNew Amsterdam Hotelと読めるが、これは奥34番の看板である。35番はニュー・クラブ・ハウス(ボーリング・玉突き場)。左側手前から大浦14(オルトの貸地)、15番(グラバーの借地)、白壁は29番で、ともに清号の華僑が入居。その奥は30番(グラバーの貸地)と続く。山の中腹の川上町外国人墓地にはまだ墓石が少ない。

■ 確認結果

大浦川を弁天橋の橋上から上流を撮影した古写真。撮影年代や撮影者の違いがある写真は数枚ある。目録番号:5385「大浦川と居留地(2)」と同じ写真が、2009年8月6日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った。

同じ写真なのに、上記の画像解説と新聞記事の説明内容が、特に右側左岸の建物について違う。それぞれ解説者の見解や、新しく判明したことで、内容が異なってくる事情はわかるが、読む人は困惑する。せめて、旗ざおが立つ38番の建物が、「スミス船具商」か「プロイセンの領事館」か。正しい方の説明をしてほしい。

後ろの写真は、大浦天主堂下電停そばの現在の「弁天橋」と、松が枝橋脇にある大浦川の説明板。