月別アーカイブ: 2009年8月

双胴船? 長崎に入港していた「SILVER CLOUD」(シルバークラウド)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

双胴船? 長崎に入港していた「SILVER CLOUD」(シルバークラウド)

09年8月28日長崎港出島岸壁に入港した双胴船「SILVER CLOUD」(シルバークラウド)が、2日後の8月30日10時出港した。
詳しい写真は、ほしなべ氏ブログにある。
http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/29362247.html ほか

スーパーヨット(メガヨット)とは、全長100フィート(全長約33m)を超える大型のヨットのこと。タラップに「PRIVATE YACHT」と書いていたという。
「SILVER CLOUD」でブログ検索すると、他の人のブログ記事「メガヨット2隻」で、8月10日頃まで新西宮ヨットハーバーに停泊していた写真がある。

船籍はカリブ海のジョージタウン。内装の豪華さ、ドアが帝国ホテル?並みだったそうだ。
オーナーはアメリカ人のリッチマンで、瀬戸内海のクルージングが終わり、今は本国に帰っている。次の航海は地中海の予定なのでそれまでクルーたちはフネの整備をしながら回航の時期を待っているらしい。
これが「メガヨット2隻」のうちの1隻「SILVER CLOUD」のことかわからないが、長崎には珍しい船だったので紹介しておく。

三日月形? 長崎港松が枝国際観光船ふ頭の新ターミナルビル

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

三日月形? 長崎港松が枝国際観光船ふ頭の新ターミナルビル

2010年春 長崎港松が枝国際観光船ふ頭が生まれ変わります。ターミナルビルと緑地を整備します。詳しくは、長崎県土木部港湾課HPを参照。

■施設概要
・ターミナルビル 約2,000㎡
・緑地 約15,000㎡(ターミナル屋上緑化を含む)
・駐車場 約1,600㎡

■整備概要「ターミナルビル、緑地、その他 総事業費約17億円 工期H20〜H22」
水辺の森公園との緑の連続性を保ち、ターミナルビルと緑地を融合させ、客船の寄港時だけでなく、日常においても賑わう空間とする。
・大型国際観光船の一時寄港やフライアンドクルーズに対応したターミナルビル「約2,000m2」
・水辺の森公園と同様の設えとした上質な緑地「約12,000m2」
・ターミナルビルを緑のマウンドとし、船や港の景色を楽しめる新たな視点場の創出
・長崎の歴史文化や観光施設を紹介するインフォメーション機能の充実
・コンサート・イベントなど多機能な利用に対応した、緑地内の野外劇場やバザール広場、ターミナルビルの柔軟なホール造り

釣れた? 釣具店の釣人 (4)  長崎市平山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

釣れた? 釣具店の釣人 (4)  長崎市平山町

平山の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

きのうまた国道を通りかかった。バージョンが変わっていた。
カップルの相手が、さびき釣りをしている。男性は竿袋を肩にかけ、これを観ている。朝早かったので、逆光で写しにくい。黒い顔にピンクの偏光グラスだけ映えた顔つき。

深堀の散策 (1)  長崎市深堀町1〜6丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

深堀の散策 (1)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  2 (1)江藤新平未亡人居住の屋敷跡(前バス終点1丁目462,464)
江藤新平は明治7年、佐賀の乱に失敗後薩摩の西郷隆盛を頼り薩摩に赴き、後土佐の板垣退助のもとに走ったが、捕えられ斬罪梟首の刑を受けた。未亡人千代子は此の屋敷に居住していた。其の家は約40坪位で8部屋あり、中2階の1室もあった。玄関前左手に殿様竹、右に藤棚、周囲には梅柿蜜柑の古木があり、海岸には老松があった。

写真  3〜  5 (2)御 船 手(1丁目460)
佐賀藩海軍の施設があった処である。元来、長崎は日本の唯一の開港場であつた関係上、外国船の入港も多く従って之が警備のため、佐賀藩、黒田藩が1年交替で長崎御番の任につき、佐賀藩の当番年には本藩家老(深堀の領主)が之に当り、記録によれば寛永年中(1631年)以降である。又沖波に対して、埋立前は殿様石垣が約100m位防波堤としてあった。その左側の石垣(永江)は当時のまゝである。日本博愛社は日本赤十字社の前身で、西南の役に多数の官賊の負傷者を見て、其の必要を痛感し博愛社を創った佐野常民が、此処で日本最初の蒸気船を作った処でもあるが、その結果は芳しくなかった。

写真  なし    (3)薬園、茶園跡(1丁目321,320附近)  略
写真  なし    (4)煉瓦がま跡(1丁目543附近一帯)  略
写真  なし    (5)江口宗喜屋敷跡  略

写真  6〜 11 (6)円 成 寺(3丁目66)
浄土真宗の寺で、創建は記録にないので判然としないが、吊鐘の記録に依れば6世代に鋳造し、寛保3年(1746年)とある処より、今より350年位前の創建と推定される。塀の石垣に珍しいものがある。鐘の鋳工は長崎住大隈少禄安山彌五左衛門藤原国久で、現在の鍛冶屋町で鋳造されている。

写真 12〜 13 (7)万 霊 塔(同上円成寺の東側)
円成寺東側に建立されある自然石の塔であるが、裏面に下の様に記されている。
自寛永十九年(1642年)壬午歳二百年間長崎御番手舸子(かこ 水夫)為死亡者被建之吊者也
天保十二(1841年)辛丑冬十月
これをもってしても、200年以上に亘って、長崎御番を仰付けられていた事が判然とするが、何人位の死亡者があったかは判明しないが、同寺の過古帳を調査したら或は判明するやも計られない。

写真 14〜 15 (8)波止恵比須
元来恵比須は全国的に漁業商業の神として祀られているが、浜恵比須は佐賀領内丈けに祀られていると言われている。このように漁業と関係あることは言をまたないが、如何にもユーモラスに彩色せられていて、深堀丈けでも4ヶ所祀られている。

写真  なし    (9)亀 王 塚(2丁目169)  略
写真  なし   (10)御制札跡(3丁目162)  略

御船町の石橋(4)  毛刈田橋・中原神社参道橋・川内田堀切橋・向坂自然石橋ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

御船町の石橋(4)  毛刈田橋・中原神社参道橋・川内田堀切橋・向坂自然石橋ほか

熊本県上益城郡御船町に残るアーチ式石橋や主な桁石橋。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは次のとおり。

写真  1〜  3  №1,543   毛刈田橋     御船町毛刈田(けかっだ)
橋長:3.0m  橋幅:2.7m  径間:1.8m  拱矢:0.95m  環厚:33cm
架設:不詳
国道443号線御船町滝川で県道221号線へ。北東へ6.4Km先、古閑原神社の100m手前から右折、(広域農道のガード下をくぐり)600m下ったところに架かっています。
5段167cmの基礎石積みの上に起拱石が乗ります

写真  4〜  7  №1,548   中原神社参道橋  御船町田代
嘉永井手   橋長:2.8m  橋幅:2.6m  単径間円弧刎橋 桁6列
古閑原で広域農道との交差点から県道221号線を3.4Km北上。県道57号線へとの合流点から100m東にあります。傍らには道標。

写真  8〜 10  №1,662   川内田堀切橋   御船町大字滝尾字川内田(かわうっだ)
橋長:4.7m  橋幅:2.0m  径間:2.45m  拱矢:1.4m  環厚:25cm
輪石:要石から右岸側4列、左岸側6列、計11列
国道445号線、滝尾から左折「上益城平坦地区広域農道」を県道221号「古閑原」方面へ進み、途中「川内田大橋」を渡ってすぐ川内田地区方面へ右折、200mほど下り、さらに右折、大橋を潜って左カーブ手前でクルマを停め、徒歩にて右手に進み50mほど坂を登るとこの川内田堀切橋です。(コンクリート堰の所から50m坂道は薮となり到達できなかったので、同橋の画像は上記HPからお借りしておきたい)

写真 11〜 14  №1,892   向坂(むこうさか)自然石橋  御船町大字上野
八勢目鑑橋から西へ、坂道を上り右カーブ(献穀田記念碑手前)のところから右手へ上って行きます。

写真 15〜 17  №2,445   大宮神社参道橋    御船町大字上野 古閑迫
嘉永井手   橋長:2.35m  橋幅:2.2m  桁4列   単径間桁橋
架設:昭和11年6月   石工:池上彦八

写真 18〜 23  (追加)   若宮神社参道橋ほか
国道445号線辺田見バス停そば「若宮神社」の境内水路に桁石橋を3橋、県道221号線上野の「茶屋元の石橋」上流、嘉永井手に桁石橋を2橋見かけたので追加。

御船町の石橋(3)  茶屋元の石橋・吹野目鑑橋・下津留橋・下梅木橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

御船町の石橋(3)  茶屋元の石橋・吹野目鑑橋・下津留橋・下梅木橋

熊本県上益城郡御船町に残るアーチ式石橋や主な桁石橋。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは次のとおり。

写真  1〜  3  №343   茶屋元の石橋       御船町上野字茶屋元
嘉永井手  橋長:2.1m  橋幅:1.7m  径間:1.65m  拱矢:0.7m  環厚:20cm
広域農道か県道221号により上野まで行き、県道を直進する。JA前やガソリンスタンドを過ぎると、道路沿いの水路に架かる小さな石橋でした。八勢眼鏡橋近くの高台。

写真  4〜  8  №344   吹野目鑑橋(滝のまわり橋)  御船町吹野
御船川  橋長:9.0m  橋幅:2.2m  径間:3.9m  拱矢:1.8m  環厚:40〜46cm 輪石11列
国道445号線、矢部町から御船町に入って約500m左手(右カーブのところ)吹野バス停近く。

写真  9〜 12  №1,540  下津留(したづる)橋   御船町辺田見
橋長:4.0m  橋幅:2.8m  径間:3.2m  拱矢:1.2m  環厚:32cm
御船消防署の裏、のむら眼科医院の先に架かっています。

写真 13〜 20  №1,542  下梅木(しもうめき)橋   御船町下梅木
上梅木川  橋長:18.0m  橋幅:5.4m  径間:11.9m  拱矢:7.0m  環厚:53cm
架設:昭和5年
国道445号線、御船町滝尾で県道219号線へ。途中県農業研究センターを右手に見て1Km先、現橋梅木橋の下流側に架かっています。

御船町の石橋(2)  下鶴眼鏡橋・門前川眼鏡橋・中道橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

御船町の石橋(2)  下鶴眼鏡橋・門前川眼鏡橋・中道橋

熊本県上益城郡御船町に残るアーチ式石橋や主な桁石橋。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは次のとおり。

写真  1〜  8  №114   下鶴眼鏡橋      御船町滝尾 下鶴(しもづる)
御船町指定文化財  橋長:71m  橋幅:5.3m  径間:27.3m
完成:明治19年(1886)  石工:橋本勘五郎、弥熊親子
八勢眼目鑑橋から国道445号線に戻り、御船町内に向かい約4.3Km右手です。

「この下鶴橋は東京の二重橋や日本橋を始め矢部の通潤橋や、わが御船橋など数多くの眼鏡橋を架設して天下にその名をうたわれた名石工橋本勘五郎、弥熊父子によって明治15年(1882)10月から明治19年(1886)10月まで満4年間を費やして架設されたものです。橋の長さ十三間(約23.6m)幅は三間半(約6.36m)総工費2,538円31銭厘を要しました。
以来、春風秋雨九十有余年の間、熊本から矢部宮崎県に通する主要道路の交通橋として大いに郷土産業の振興に役立って来ましたが時代の変転は交通量の激増と交通機関激変により、これまで堅固を誇ったこの石橋もついに耐えきれなくなりましたので、ここに近代橋が架設されました。
今後は、先人の事情を敬仰し、文化財として保存されることになりました。美しい石組みの見事さに注意して下さい。」  平成14年3月  御船町 御船町観光協会

写真  9〜 14  №115   門前川眼鏡橋     御船町木倉
御船町指定文化財  橋長:7.0m  橋幅:2.6m  径間:6.4m
架橋:文化5年(1808)  石工:理左衛門
国道445号線を御船町内より県道221号線へ入り、約500m進むと右手に木倉小学校があります。その手前右手にあります。

「江戸時代、日向往還の要路として架橋されたものである。長い間架橋年代、石工とも不明であったが近年(平成10年)、文化5年(1808)、理平の弟子理左衛門が石工と判明した。御船川眼鑑橋橋(昭和63年流失)が弘化4年(1847)の架橋であることから、それより40年近く古い。植木町の豊岡橋、享和2年(1802)等、数例しかない楔石工法で築かれている。特徴は切石の一つ一つを丁寧に川石でつなぎ、石には番号が記されている。橋の長さは7m、幅2.6m、水面からの高さ4.6mである。現存する県内の楔石工法の中では、豊岡橋についで二番目に古い。
昭和初期、県道改良工事にあたり本来の位置から移される事になったが、当時の松村熊喜村長らが計画の変更を申し入れている。当初の計画では眼鏡橋を取り壊し、西往還から来た道路を直線で現、木倉小学校入口まで伸ばすことになっていた。
現在は、松村村長らの要望にそって新しい橋がかけられ、二本の道路が川をはさんで平行に走っており、眼鏡橋は歩道として残され、今も利用されている。」

写真 15〜 20  №116   中道(なかみち)橋  御船町御船
御船町指定文化財  橋長:3.8m  橋幅:2.5m  径間:2.8m
架設:1855年
木倉小正門前から南下し、御船高校の西側の道を役場方面へ進み、御船高校の西側を流れる小川を過ぎたあたりで車を降り、小川に沿って小道を約150m南下、左折して約200mの地点です。

御船町の石橋(1)  八勢目鑑橋・八勢小橋・八勢水路橋・八勢桁橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

御船町の石橋(1)  八勢目鑑橋・八勢小橋・八勢水路橋・八勢桁橋

熊本県上益城郡御船町に残るアーチ式石橋や主な桁石橋。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは次のとおり。

写真  1〜 12  №111   八勢目鑑橋      御船町上野字八勢(やせ)
橋長:62.0m  橋幅:4.0m  橋高:9.2m  径間:18.2m
架橋:安政2年(1855)
矢部町、御船町境から国道445号線を約3.7Km西進、八勢目鑑橋の看板から右折、曲がりくねった細い道を約3.4Km進み、左折。下り坂を約700m進んだところにありました。矢部町側から来ると、このコースになるんでしょうね。
後から検討してみると、国道から入り、約300m地点で左折し、七滝中のところから右折して行ったほうが近いかも知れません。

「江戸時代、熊本と延岡を結ぶ日向街道はここを経て矢部に通じていた。増水すると通行ができなくなるなど不便で、危険であったため、安政2年(1855)御船の材木商林田能寛が私財を投じ架橋した。
橋は八勢川本流に架かる部分、左岸を流れる用水路に架かる部分が一体となっており、長さは62メートルに及び、県下の石橋で最も長い。別にもうひとつ水路橋が架けられている。
種山(現八代郡東陽村)の石工卯助・甚平兄弟らにより架橋された。」

写真 13〜 14  №112   八勢小橋
径間:1.4m  
架設:安政2年(1855)
八勢目鑑橋の奥の部分(左岸側)で、八勢目鑑橋と一体化している。

写真 15〜 18  №113   八勢水路橋
八勢目鑑橋よりも40年ほど前(1814年)、田畑の灌漑用水路として完成。

写真 19〜 20  №4,120  八勢桁橋
橋長:2.3m  橋幅:1.0m  桁2列  単径間桁橋

凱旋門・鼎春園・矢形川虹の大橋  熊本県御船町上野・田代

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

凱旋門・鼎春園・矢形川虹の大橋  熊本県御船町上野・田代

御船町上野へは県道221号田代御船線で行く。「凱旋門」は同名バス停あり。「鼎春園」はまっすぐ行って先の上野バス停近く。「矢形川虹の大橋」へは、その中間、古閑原から広域農道へ入って田代の玉来方面へ行く。御船町HPの観光マップによる説明は次のとおり。

凱旋門(がいせんもん)

御船から郡見坂を越えて行く県道221号(田代御船線)の古閑迫道路両側に建っている。1辺が42センチ、高さ3.5メートルの大きな石柱である。右の柱に「日露戦役記念」、左の柱に「明治三十九年一月十日設立上益城郡七瀧村」と大きく刻み込んでだ戦勝記念碑である。
日露戦役を物語る記念碑は各地に建っているが、ここのように石柱の凱旋門はどこにも例をみない記念碑で興味深い。
[所在地] 御船町大字上野

鼎春園(ていしゅんえん)

肥後勤王党の総師、宮部鼎蔵(七滝村田代生まれ、現御船町)と弟の春蔵を慕う、地元の人々によって公園化され、二人の名を一字ずつとって名付けられました。中央には、大きな顕彰碑が立っています。また、平成17年度に、地元の宮部兄弟顕彰会により、宮部鼎蔵先生の銅像が建立されました。
[所在地] 御船町大字上野
[駐車場] 有
[交通アクセス] 国道445号線を通り車で約30分

矢形川 虹の大橋(やかたがわ にじのおおはし)

農林水産省所管の通称「広域農道」と呼ばれる補助事業として益城町を起点として、御船町山間部を縦断して、甲佐町を終点約24kmで昭和56年度から事業実施され、「虹の大橋」は平成9年9月から着工し平成15年10月に完成しました。
橋脚部がアーチ型にしたことで虹のように見えることから、この地域の将来の夢と希望をはぐくむものとして「虹の大橋」と命名されました。
愛  称 「マミコゥロード」
橋梁形式 鋼逆ローゼ式アーチ橋
橋  長 274m
幅  員 10m(車道7m 歩道2m 地覆1m)
高  さ 約90m
※右岸側の歩道より下流を見れば、杉の木が恐竜に見える所があります。
[所在地] 御船町大字上野・田代

九十九(つづら)のトンネル  熊本県御船町田代

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

九十九(つづら)のトンネル  熊本県御船町田代

県道221号線と57号線により矢部方面へ向い、御船町と矢部町の町境、下鶴近くまで行く。カーブが続く山道の杉林に隠れるように、九十九のトンネルの水路入口がある。脇に「史跡 九十九のトンネル」碑と説明文。
九十九のトンネルは、車や人の通るトンネルではない。下流域農家の過酷なまでの水との長い戦いが秘められた農業用水路のトンネルなのだ。
御船町HPの観光マップによる説明は次のとおり。

元禄・嘉永井手 九十九のトンネル(げんろく・かえいいで つづらのとねんる)

この用水路は元禄井手の水不足を補強するため開削された嘉永井手という。水源は吉無田水源より取水した清水井手(改修して元禄井手という)の下流と、山都町境を流れる尾多良川、さらに大矢野原より流れる亀谷川の三渓流を合わせて873メートルのこのトンネルを貫流して矢形川の源流と合流させ、上田代の杉園堰より取水して南田代の屋敷部落で元禄井手と合流させて豊かな水勢となし、南田代から西上野を経て滝尾、木倉の一部に至る。
総延長28キロメートル、受益面積は300ヘクタールに及んだ。この難工事を直接担当した当時の上益城郡代上妻半右衛門、木倉郷総庄屋光永平蔵、測量設計と工事管理者楠田順喜以下の役職者と難工事に完遂した石工久五郎をはじめ労役に苦しんだ村人たちの功績が痛切にしのばれる。
[所在地]  御船町大字田代