月別アーカイブ: 2014年5月

長崎歴史文化博物館で、『ここがスゴイ!明治日本の産業革命遺産と長崎』展

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長崎歴史文化博物館で、『ここがスゴイ!明治日本の産業革命遺産と長崎』展

幕末から明治、日本の近代化を支えた長崎の姿がよみがえる。
日本の近代産業は、長崎をはじめとする九州・山口から始まりました。その輝きは現在も残され、その一部が平成25年に「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」として世界遺産の政府推薦案件に決定しました。
本展覧会では、幕末から明治にかけて重工業分野の産業化を行いながら近代国家へ向かう日本の姿を、三菱重工業長﨑造船所やグラバー園、端島(軍艦島)など、長崎に残る産業革命の足跡とともに、資料をひもときながら、「明治日本の産業革命遺産」とは一体何か?どんなところがスゴイのか?その魅力を皆さんにご紹介します。

会  場  長崎歴史文化博物館 (〒850-0007 長崎市立山1−1−1) 3階企画展示室
会  期  2014年5月24日(土)〜6月29日(日)
開館時間  8:30〜19:00 (最終入館18:30)
休 館 日  6月17日(火)
観 覧 料  一般800円(前売り640円) ※高校生以下無料
主  催  『ここがスゴイ!明治日本の産業革命遺産と長崎』展実行委員会(長崎歴史文化博物館・三菱重工業株式会社・長崎県・長崎市・グラバー園)

会期3日目の2014年5月26日(月)昼前、観覧に行った。世界遺産推薦特別企画展である。県民の多くに見てもらいたいのに、なぜ一般展覧会並みに観覧料を高くするのか。せめて500円くらいだろう。主旨が活かされていない。6月からでも料金改定ができないか。
長崎歴史文化博物館などが所蔵する貴重な史料や古写真が多いが、研究が足りず内容や解説がやや粗末。博物館へ疑問と苦情を言った。長崎では水道などの土木遺産も簡単に紹介してよいのではないのだろうか。

深堀陣屋跡の現況 (7)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (7)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922
現況(6)は、https://misakimichi.com/archives/3943

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年7月末完成(秋と聞いていたが、教会広報では変更されている)を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。市民や地元にまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。

破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

以上、現況(6)のとおり要望していたが、長崎市政提案の5月2日付文化財課回答は、次のとおり。

深堀陣屋跡の調査結果は、平成26年度に発掘調査報告書にまとめ、県内外の公立図書館や大学等の研究機関に配布して公開する予定です。また、地元深堀の皆さまをはじめ、多くの市民の皆さまにも調査結果を知っていただくために、深堀貝塚遺跡資料館の展示コーナーで調査結果と出土品を紹介する予定です。
調査の公表にあたっては、写真・図面・出土品の整理作業が必要であり、整理作業は事業者に調査費用を支出していただき、本年度に実施する予定です。遺跡の発掘調査の整理は、時間と費用を要しますので、ご理解いただきますようお願いします。
今回の発掘調査で発見された遺構等は教会の新築工事に伴い失われましたが、発掘調査を行うことで、遺構等の記録は保存されています。また、工事内容の変更により、教会の敷地には、深堀陣屋跡の遺構が現在も多く地中に保存されています。これは開発行為に伴う埋蔵文化財(遺跡)の取り扱いとして問題ないと判断しております。
残った遺構の取り扱いについては、未来に継承するため、地中に保存することを管理者であるカトリック深堀教会と協議済みです。屋外展示は遺構の保存管理に費用が掛かり、屋外にさらすことで遺構の劣化が懸念されるため、現在のところ、地中に保存することが、後世に継承するうえで最も適切な方法であると考えております。所有者・事業者であるカトリック長崎大司教区に工事内容を変更していただいたことで遺跡への影響は当初の計画よりも小さくなっています。発掘調査費用の支出や、工事前の発掘調査期間についても配慮をいただいており、今後は整理作業の費用も支出していただく予定となっています。文化財の保護について、これ以上の負担を求めることは、行政の指導として適切ではないと考えております。
深堀陣屋跡の保護につきましては、今後とも所有者のご理解ご協力を得ながら取り組んでまいりたいと考えておりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。

この回答の問題点は、次のとおり。
(1)これまでまったく回答や住民説明をしなく、私が情報公開条例により開示請求すると言うと、やっと今回、市は回答に応じた。市政の提案制度が適切に運用されていない。
(2)私たちが知りたいのは、発掘調査の結果、どこにどのような遺構や出土品があり、どのような歴史的価値があるかである。それにはまったく答えていない。
(3)御屋敷跡と思われる礎石石組みが主に見られたのは、南西側箇所である。遺構を壊してまでなぜここに納骨堂を建てたのか。教会、市とも史跡保存に対する見識がない。
(4)かろうじて残ったと思われる納骨堂前の遺構を保存するため屋外展示を要望しているが、まったく両者その気はないようである。
(5)遺構を壊したのをやっと認めた。石造物史跡の屋外展示は多い。屋外にさらすことで遺構がそんなに劣化するのか。地中に保存することは、単なるくさいものに蓋であろう。
(6)柵囲いは石積みで良い。排水工事もそんな費用はかからない。大進建設の奉仕でできるのではないか。教会がしないなら、長崎市の工事でできないか。
(7)長崎市長は、この実情をほんとうに知っているのだろうか。市長の市政報告会が5月27日、市民会館文化ホールで開催される。残された遺構保存にぜひ市長自ら尽力するよう、要望事項に書き出した。
(8)ある方から「将来キリスト教関係の遺跡が破壊された時、同じ気持ちになるであろうことを考えてみてください」とキリスト教関係者、長崎市にお伝えくださいと聞いている。

長崎市稲佐山公園の行楽風景

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長崎市稲佐山公園の行楽風景

2014年5月16日(金)、病院回りの昼休み時間をつぶすため、稲佐山公園へ登ってみた。つつじは終わっていたが、初夏を感じさせる絶好の行楽日和。さくらんぼ園と高田保育所や老人施設の団体客で、水辺が賑わっていた。

東彼杵町の風景・史跡 (4)

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東彼杵町の風景・史跡 (4)  

2014年5月9日(金)、長崎県東彼杵群東彼杵町へ。ダンボールSL巡回展のあと、長崎への帰路訪ねた。
瀬戸郷にある「キリシタン墓碑」と、江の串川の「河川公園やすらぎの里」。東彼杵町などHPによる紹介は、次のとおり。いずれも国道34号バス停近くに入口案内板がある。

瀬戸郷にある「キリシタン墓碑」

大村湾パーキングエリアの近く瀬戸郷にひっそりとふたつの墓碑がたたずんでいます。 高い方は佛式の墓碑、低い方は高さ65cm、幅51cmの自然石の墓石で、上に花十字、下に「元和(げんな)7年卯(う)月の日付、そして「一ノ瀬志ゆ阿ん(じゅあん)」と彫られています。
厳しいキリシタン弾圧の中をくぐり抜け、現在まで残った貴重な墓石です。

河川公園やすらぎの里…豊かな自然とやすらぎの水辺、江の串川

・より美しく、安全な江の串川
大村市の郡岳を源に、東彼杵町を渡り、大村湾へと注ぐ江の串川。長崎県の「ふるさとの川モデル事業」に合わせて、河川公園「やすらぎの里」として生まれ変わりました。江の串川はもともと清らかで豊かな自然が息づく川として知られていましたが、川幅が狭く、川沿いに暮らす人々はこれまで何度も洪水に悩まされてきました。こうしたことから、もっと安全で快適な川になるようにと、「豊かな自然とやすらぎの水辺、江の串川」をテーマに、美しい河川公園となりました。

・花のやすらぎに彩られた公園
また、四季折々の美しい花々に包まれた花の公園でもあります。花菖蒲や水仙などの可憐な花々が季節ごとの艶やかさを競う水生植物園をはじめ、新しい花見の名所を目指した桜広場、梅園などが整備され、江の串川の川辺を美しく彩ります。とくに、小高い丘の上にある梅園から見渡す公園の景観は美しく、陽光にきらめく水面や水生植物園の花々が、訪れる人々に心からのやすらぎをプレゼントしてくれます。

・人にやさしい、ふれあいの川 
新しい江の串川の河川公園は、子どもからお年寄りまで、みんなが清らかな水と親しめる“ふれあいの川”。自然の岩や石を敷いた川床や緩やかな傾斜の堤防など、人へのやさしい心配りに満ちています。また上流には、大樽、小樽の二つの滝があり、その雄大で美しい景観にうっとりしながら自然の中で水遊びを楽しめます。清らかな水と緑、心地よい光と音にふれ、親しみながら、自然を愛する心とやすらぎの時を育む公園、それが江の串川の「やすらぎの里」です。

東彼杵町の風景・史跡 (3)

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東彼杵町の風景・史跡 (3)  

2014年5月9日(金)、長崎県東彼杵群東彼杵町へ。ダンボールSL巡回展のあと、町内の近くを訪ねる。
歴史公園彼杵の荘内のひさご塚古墳、東彼杵町歴史民俗資料館1階の展示内容。2階フロアーの歴史館・文化館は有料(大人200円)。同資料館HPによる「ひさご塚の歴史」は、次のとおり。

ひさご塚は長崎県の代表的な「前方後円墳」で、長い年月の間に周辺が削られひょうたんの形をしているところから「ひさご塚」と呼ばれてきました。今から約1,500年前にこの地域を治めていた有力な豪族の墓で、地元では、神功皇后の三韓征伐の折り、武内宿禰(たけのうちのすくね)の配下として従軍した武将の墓であると言い伝えられています。
昭和25年4月、長崎県の史跡として指定され、過去2回の調査が行われ、その結果ひさご塚が造られた時期は5世紀始めごろで、当時の規模は全長58.8m、後円部の直径37.7m、前方部の幅18.5mあったことがわかりました。また、副葬品として鏡や鉄剣などが出土しました。

土井首から鹿の岳(仮称)、大山へ  2014年5月

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土井首から鹿の岳(仮称)、大山へ  2014年5月

2014年5月11日(日)快晴。土井首から鹿の岳(仮称 標高約452m)、大山へ。参加4人。みさき道歩会の例会。
土井首バス停9:35—大崎林道入口10:45—鹿尾河原分岐11:41—鹿尾河原12:00(昼食)12:30—鹿の岳展望岩13:29—熊ヶ峰登り林道14:12—竹林広地14:49—大山カトリック教会15:40—大山入口バス停16:20(徒歩距離 約9km)

土井首から熊ヶ峰と悪所岳へ登り宮摺まで、長崎半島を横断する予定だったが、あまりの長丁場に今ではもう体が動かない。熊ヶ峰手前の新設林道まで出てから、時間も足らず大山へとそのまま下った。
土井首大山祇神社先から、八郎岳への大崎林道へ入り、旧登山道をたどる。大崎林道は法面崩落し、平成29年4月まで通行止めの標識があった。植林地の旧道には、「長崎要塞第三?地帯標 第十六号」が残るが、登山者もほとんど気付いていない。

大崎林道をいったん横切る。ここに当会のプレートと朝霧の「熊ヶ峰まで2時間」の道標がある。竹林や植林地内を行き、鹿尾河原へ下る鞍部へ出る。大崎林道の急カーブ真下となる尾根である。そこから約20分下ると、鹿尾川上流の渡渉点に着く。「鹿尾河原」と呼んで、やや広地となっており、昼食とした。
この先が植林を間伐しており、登山道がわかりにくく、急斜面の迂回路となっていた。やっと旧道へ出て、「鹿の岳」(仮称)のピークを目指す。だんだん登りがきつくなってくる。このピークは登山道から少し西へ入る。

展望がよい岩場のピークで、特に鹿尾ダム大橋の上に目立つ山である。名前がないので、とりあえず「鹿の岳」と呼ぶこととした。標高は約452mあった。周りの木立が伸びており、伐採に時間を取った。時間を見るともう2時近くとなっており、先を断念した。熊ヶ峰の登り口に知らない間に林道ができていた。これを下り終点まで行き、強引に熊ヶ峰の中腹を巻くと、竹林の広場があり、タケノコを採る作業場となっていた。車がここまで入るので、その林道を下ると大山教会へ出た。あとは大山入口のバス停へ下る。

途中、大山の集落で駐車場車止めに使用している石柱2本。よく見ると「西道仙」書である。長崎史談会原田先生の話では、長崎市中の有名なところから、移している石柱で、歴史的価値が高いらしい。

これが、実物大ダンボール蒸気機関車D51  東彼杵町で11日まで公開

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これが、実物大ダンボール蒸気機関車D51  東彼杵町で11日まで公開

ダンボール約4千個を使った蒸気機関車(SL)D51の実物大模型を、東京の設計事務所を退職した長崎県南島原市の島英雄さん(64)が10カ月かけて製作し、3日から東彼杵町の町総合会館文化ホールで一般公開している。11日まで。入場無料。
機関車はステージ上に設置している。ステージに上がって目の前で見ることもできる。本体+炭水車で、全長約20m、高さ約4m、幅約3mと迫力満点。東彼杵町が特に要請して開催された。模型は町民が組み立てた。
3日からきょうまでの累計観覧者数は、全国から訪れ約11,000人という。次回は南島原市で6月中に予定。近くの通りで東彼杵町の新茶まつりもあっていた。
東彼杵町による開催お知らせ及び西日本新聞の記事は、次のとおり。

第1回巡回展 – D51 蒸気機関車 原寸ダンボール模型を作る
第1回巡回展示のお知らせ

長崎県東彼杵町総合会館文化ホール グリーンハートホールにて第一回巡回展を開催しております。劇場型ホールのステージの上に、まちづくり会議のみなさんや住民の方々といっしょに機関車を組み立てました。壁面を利用して、蒸気機関車の映像を映したり、素晴らしい音響設備を使って臨場感あふれる走行音や鉄道にまつわる音楽を聴くことができます。また、ぬりえのワークショップも開かれておりますので、鉄道に興味のないお子さんもごいっしょに楽しめるイベントです。

開催内容
主   催   長崎県東彼杵町役場
展示場所   東彼杵町総合会館文化ホール グリーンハートホール
開催期間   平成26年5月2日(土)〜5月11日(日)
5月2日(金)  9:30〜組立   
5月3日(土)〜6日(火)  10:00〜17:00 一般開放
5月7日(水)〜8日(木)  予約団体見学のため閉館
5月9日(金)〜11日(日) 10:00〜20:00 一般開放
5月3日(土)10:00からオープニングセレモニーを行います。
入 場  料  無料
同時開催   おもちゃ作りのワークショップ  指導:山田祐(少年山荘P)   
東彼杵町及び長崎県特産物の販売
問い合わせ先 東彼杵町役場まちづくり課  電話 0957-46-1111                

実物大SL、段ボール4千個で製作 長崎の建築士が一般公開 [長崎県]
=2014/05/04付 西日本新聞朝刊=

段ボールを使った蒸気機関車(SL)の実物大模型を、東京の設計事務所を退職した長崎県南島原市の島英雄さん(64)が10カ月かけて製作し、3日から同県東彼杵町の町総合会館文化ホールで一般公開している。11日まで(7、8日は休館)。入場無料。
模型は「デゴイチ」の愛称で親しまれる「D51」。全長約20メートル、幅約3メートル、高さ約4メートル。南島原市の市場関係者から譲り受けた段ボール箱約4千個を使い、約1700個の部品を製作。旧国鉄の設計図を参考に、駆動装置などは実物を採寸して、ボルトなどの細部も忠実に再現した。町のボランティアとともに、2日がかりで重量1・5トンの車体へと組み上げた。
島さんは1級建築士で、大の鉄道ファン。幼い頃から実物大のSL模型を作るのが夢だったという。各地から早速、展示の引き合いがあり、福岡市や南島原市などで巡回展を計画している。島さんは「子どもたちにものづくりの楽しさを伝えたい」と話している。

大正十一年頃のガラス写真 219  (一覧橋か古町橋?)

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大正十一年頃のガラス写真 219  (一覧橋か古町橋?)

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
整理番号 219  (一覧橋か古町橋?)

目録番号: 410 中島川の橋
[画像解説]  超高精細画像
中島川に架かる一覧橋(手前)と古町橋(奥)で、古町橋左側の手前には、東本願寺の末寺である向陽山光永寺がある。一覧橋の上には人力車と車夫,山高帽の男性,着物姿の男性、また橋の袂には街灯があり、明治を代表する風俗が見られる。一覧橋は、桶屋町と本紙屋町間に明暦3年(1681)唐通事高一覧(日本名:渤海久兵衛)が架けた長さ18.0m、幅4.2mの唐風石橋である。光永寺は、幕末、中津藩の福沢諭吉が長崎留学時代に寄宿した寺であり、また、明治時代には初めての長崎県議会の議場にもなった寺である。堂門川と銭屋川の合流地点より下流にある一覧橋は、これまでたびたび水害に見舞われ崩落と再建を繰り返している。享保6年(1721)流失、元文頃再建、寛政7年(1795)崩落、享和元年(1801)再建、昭和57年(1982)の長崎大水害で崩落した。現在は水害に強い石橋として、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わった。

目録番号: 3860 中島川の古町橋と光永寺
[画像解説]  超高精細画像
東本願寺の末寺である向陽山光永寺の伽藍、古町橋上に明治を象徴する人力車と車夫が見える懐かしい写真である。古町橋は、古町と本紙屋町間に元禄10年(1697)河村嘉兵衛母妙了が架けた長さ16.9m、幅4.2mの唐風石橋である。写真右側奥に見えるのは、文化12年(1815)に再建された本堂の屋根であるが、惜しくも焼失した。山門は重要文化財に指定されていたが、近年改築された。幕末、中津藩の福沢諭吉が長崎留学時代に寄宿した寺であり、また、明治時代には初めての長崎県議会の議場にもなった。堂門川と銭屋川の合流地点より下流にある古町橋は、これまでたびたび水害に見舞われ、崩落と再建を繰り返しているが、昭和57年(1982)の長崎大水害でも崩落した。現在は水害に強い石橋として、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わっている。

目録番号:3235 中島川と編笠橋(3)
[画像解説]  超高精細画像
写真左側に松の大木、川面に編笠橋の影を映し、橋の袂の山門後ろに工場の煙突、森の中に諏訪神社、背景には左側に金比羅山の稜線が見える。橋の袂にある山門は、明和3年(1766)建立の太平寺の山門である。太平寺は、寛延3年(1750)この地に建立され、宝暦7年(1757)に新橋町(旧日本赤十字社跡地)、明治10年(1877)現在地の浪の平に移転した。編笠橋は、元禄12年(1699)岸村夫妻が今博多町と本紙屋町間に架けたアーチ石橋である。この石橋は中島川に架けられた最後の石橋となった。寛永の頃、この辺りに遊女屋があり、世間体をはばかり深編笠で顔を隠して廓通いをしたので、この名が付いたと言われる。本紙屋町は、昔紙漉町(かみすきまち)といって、紙を漉く職人で出来た職人町である。写真左側の松の木の下に漉いた紙を乾燥している風景が見える。昭和57年(1982)の長崎大水害で崩落し、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わった。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

中島川の石橋で、調査保留としていた最後の整理番号219。入江氏から次のような教示があった。
「ガラス写真を一見すると光栄寺付近では?と思いました。背景に山が無いので、川下方向を撮影しています。それに川の右川沿いには道がありません。ここから類推すると、古町橋から見た一覧橋ではないでしょうか」。
長崎大学データベースには、明治期に撮影された上記目録番号の近くにある石橋の作品があるが、撮影向きは反対が多い。

ガラス写真は拡大すると、石橋の背景に高い山並みがない。中島川上流の手前の橋上からすぐ下流の石橋を撮影しているのは間違いないだろう。手前の橋下にはやや高い堰があり、右側の川岸石垣に和傘が6本干している。橋の右岸には白塀とか思える建物の造りがあり、木立が高い。
これから推測すると、たしかに位置関係から「古町橋から見た一覧橋」、または1つ上流の漉紙乾燥と和傘干しの似たような風景から「編笠橋から見た古町橋」が、中島川の石橋群では最も考えられる。

石橋の姿は、長崎大水害後、道に対して平たかったのが、ほとんど階段のある石橋に変えて再建された。堰も掘り下げられた。昔の姿を留めない。ガラス写真に光永寺でもはっきり写っていたら、まだ確認できるのだが、肝心の背景の山並みもはっきりしない。
両者どちらの石橋かは、現在の写真を添えて、まだ研究課題としたい。どなたか正しい検証をお願いしたい。