松原の煉瓦アーチ庭園 長崎市松原町
国道34号松原交差点から左折、長崎市立古賀小学校の後ろ側の市道を山手へ進む。JR長崎本線の高架下をくぐった少し先の市道右脇に、この庭園がある。この道は古賀町に通じる。
小さな煉瓦アーチが組まれて、平石が積まれていた。小ぶりな石橋モニュメントの庭園。
松原の煉瓦アーチ庭園 長崎市松原町
国道34号松原交差点から左折、長崎市立古賀小学校の後ろ側の市道を山手へ進む。JR長崎本線の高架下をくぐった少し先の市道右脇に、この庭園がある。この道は古賀町に通じる。
小さな煉瓦アーチが組まれて、平石が積まれていた。小ぶりな石橋モニュメントの庭園。
松ノ森神社の御神橋 長崎市上西山町
サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。サイト用画像撮影に出かけた。神社境内風景も添える。この橋は、本ブログ2008年4月記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/814
松ノ森神社の御神橋 まつのもり
長崎市 松ノ森神社・参道 石桁橋 長5.8m(2G) 文化15(1818) WEB(石橋) 保存状態良好 石工:原田嘉兵衛(北有馬)/構造は単純だが橋面石を使用/高欄の束柱に四神(青龍、玄武、朱雀、白虎)の浮彫 1 C
志んみちはし(新道橋) 長崎市銅座町
長崎市磯道町の「みさき道」近くにあるゆうこうの木を教えてくれた地元山仲間のM氏が、先日、ケーブルテレビの町歩き歴史番組で、銅座町の入江ペット店付近の古い石橋を映していたという。アーチ式石橋のようだったとも言うので、確認に行った。
ここの橋は、以前に私は橋下を覗いており、そうではない記憶がある。
銅座通りのコンビニ角から三菱UFJ信託銀行の方へ入ると、入江ペット店がある。この手前の小川に架かるのが、親柱によると左「志んみちはし」で、右には「大正五(以下、欠損)」と架設年の刻字がある。入江ペット店側の親柱には「新道橋」とあった。
欄干は昔の石橋のを残したような立派な石橋だが、橋下に降りて確認した。
やはり桁橋だった。現在は鉄筋を入れたコンクリート橋桁?と思われる。上流・下流側を覗いても、アーチ形の橋は、ほかに見えなかった。ただし、ここの小川は、シシトキ川や地獄川のような板石を敷き詰めた見事な下水溝で、長崎の近代化への歴史を感じる。
布袋厚氏著「長崎石物語」の石張りの川に、この川は紹介していない。
ケーブルテレビ町歩き歴史番組とは、”丸山歴史散歩”山口広助さんの歴史探訪する番組「長崎ぶらぶら好き」。ブログに地図があった。「町境の橋」として表示している場所の橋である。
参考のため、九州大学デジタルアーカイブから、明治27年「長崎港新図」拡大図を載せる。この時代の橋は、はっきり確認できない。
深堀町のそのほかの桁石橋 長崎市深堀町2〜5丁目
石橋の項の前記事で、深堀菩提寺参道橋と周辺の桁石橋10を載せた。
https://misakimichi.com/archives/3861
かつての城下町・深堀を歩くと、ほかに小さな桁石橋4つを見た。所在場所は地図のとおり。
戸泊公民館脇「岩の川橋」は、親柱だけ残る。最後の水場は深堀で有名らしいが、名は不明。
深堀菩提寺参道橋と周辺の桁石橋 長崎市深堀町5丁目
「菩提寺」(ぼだいじ)は、長崎市深堀町にある曹洞宗の仏教寺院。山号は金谷山(きんこくざん)。鎌倉時代以来、当地の地頭であった深堀氏(三浦氏)、深堀氏の名跡を継いだ佐賀藩家老深堀鍋島家(石井氏)の菩提寺である。
境内には深堀氏、深堀鍋島家歴代の墓所の他、長崎喧嘩騒動(町年寄高木氏の家人と深堀鍋島家の家臣の紛争、赤穂浪士討ち入りの際の参考にしたと伝わる)で切腹した深堀鍋島家の家臣(深堀義士)らの墓所がある。(ウィキペディア)
アーチ式石門をくぐった参道を横切る小川に、大きな1枚石の両脇を固めた「参道橋」(写真1〜3)がある。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。
№6,859 菩提寺参道橋 長崎市深堀町5丁目
橋長:2.1m 橋幅:1.7m 桁3列 単径間桁橋
菩提寺の東側谷の車道を進むと、水路橋と桁石橋の2つ(同HPに掲載。写真4〜5)がある。
№6,860 深堀町5丁目の水路橋 長崎市深堀町5丁目
橋長:m 橋幅:m 単径間桁橋
菩提寺の東側。水路です。
№6,861 深堀町5丁目の石橋 長崎市深堀町5丁目
橋長:m 橋幅:m 単径間桁橋
菩提寺の東側。自然石が見えています。
菩提寺手前、川内公民館周辺のビオトープに、桁石橋3つ(同HPに掲載。写真6〜7)がある。
№6,862 川内の石橋 長崎市深堀町5丁目
橋長:m 橋幅:m 単径間桁橋
川内公民館の南側。
№6,863 川内の石橋2 長崎市深堀町5丁目
橋長:m 橋幅:m 単径間桁橋
川内公民館の西側、下へ降りるところ。
№6,864 川内の石橋3 長崎市深堀町5丁目
橋長:1.4m 橋幅:1.2m 単径間桁橋
川内公民館の西、下に降りたところ。
同HPでは調査がなかったが、菩提寺の西側谷(参道橋の上流)の同寺墓地道などにも、大小の桁石橋が5つ(写真8〜14)ある。所在場所は地図を参照。
明治19年架設の長崎市立深堀小学校旧校門橋は、平成13年コンクリート橋(写真15)となった。撤去された太鼓桁石は、現在の校庭西側に保存展示(写真16〜18)されている。
橋長:1.8m、橋幅:3.0mほど。桁4列、単径間桁橋。校庭フェンス外に長崎市教育委員会説明板がある。
ねじりまんぼ形式「戸町4丁目の石橋」を、にえもん氏が調査
2013年10月20日、長崎市戸町4丁目で見つかったアーチ式石橋は、前の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3791
11月4日に「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」HPの、宮崎市贄田氏(にえもんさん)が、諫早に里帰りした「諫早眼鏡橋模型」とともに、現地確認調査に来られた。
同HPによるデータは、次のとおり。「石造アーチ橋では初めて見る珍しい形式です。おそらく現時点で日本で唯一の形式。…設計者のこだわりでしょうか」との解説である。
http://5.travel-way.net/~niemon/nagasaki/nagasakihasi.html 地図上で「長崎市」をクリック
三重県「六把野井水拱橋」のコンクリートブロックによる「ねじりまんぽ」は、
http://5.travel-way.net/~niemon/siga/mieken/inabesi/hasi/roppa.html
№6,856 4.戸町の石橋
2013.11.04
長崎市戸町4丁目13
橋幅:6.7m 径間:2.1m 拱矢:0.8m 環厚:38㎝(輪石49㎝) 輪石:8.5列
みさき道人さんから10月21日に情報を頂いていました。
斜橋です。ねじりまんぽ、見事な加工です。
三重県の「六把野井水拱橋」はコンクリートブロックによる「ねじりまんぽ」ですので、石造アーチ橋では初めて見る珍しい形式です。おそらく現時点で日本で唯一の形式。
内部。石の加工がさぞかし難しかっただろうと思います。
鉄道煉瓦アーチの「ねじりまんぽ」の技術が使われたものと思われます。
耐荷重的にねじる必要のないのにねじるのは、設計者のこだわりでしょうか。
みさき道人さんのブログより引用
「 (2013年10月31日 追記) 石橋上部の「長崎税関戸町火薬庫の歴史と標石」
2013/10/31(木) [ JOKAMOTO ] 氏コメントがあった、大蔵省関税局編「税関百年史 上巻 」日本関税協会昭和47年発行197頁は、次のとおり。
火薬庫場所は、地元松林氏の記憶によると、現在ここにある郵政職員アパートや民間駐車場一帯で、2棟の煉瓦造り平屋建物が建っていたが、大戦中はもう使用されていなかったということである。
コメントどおり、近辺には欠損した標石2本(1本は「長崎…」と刻む)が現存しているのを確認したが、火薬庫境界石とは断定できない。
税関と火薬庫との関係は、輸入品だったなら火薬類一時保管庫をここに設置したのだろうと言う長崎税関の話である。
税関の火薬庫で、私が「軍道?の橋」と説明したのは、間違いがあるようなので訂正したい。
『…火薬類の保管については、旧幕時代のものが引きつづき使用されたが、明治五年正月、西泊郷に新しく一棟が新築され、これが利用されることになった。その後、二八年五月には、西彼杵郡戸町村の岩井浦に、新しく火薬庫が新築されたので、これに移転している。…』」
戸町4丁目で、アーチ式石橋が見つかる 長崎市戸町4丁目24街区
2013年10月20日(日)、みさき道歩会例会で長崎市南部の山、大久保山(標高233.7m)に登り、女神大橋魚見岳トンネル上部尾根から戸町切通バス停へ下った。その下りの途中、M氏とK氏が気付いた。私はこの道を2,3回通っているが、今まで全然、覚えがない。
場所は長崎市戸町4丁目24街区角。国の税務職員などのアパートが建っていたところ。現在は民間駐車場となり、郵政職員アパートA棟のみ残っているその登り口手前である。
地元の人に聞くと、潜伏キリシタン「金鍔次兵衛」にちなみ、このあたりも金鍔谷というようで、この川も金鍔川(正しくは「岩井浦川」か)としておこう。
山に囲まれたかなり広い谷間。昔は田が一帯に広がっていたが、戦時中まで「火薬庫」の建物が建っていたと言う。石橋の造りは立派で、やや新しい時代に軍道?の橋として架橋されたと思われる。架橋年代・橋名とも不明。
橋下からも調査したが、その状況は写真のとおり。念のため、周辺一帯も調査した。駐車場を越した南側の小川にも、桁石橋が見つかった。
メジャーを持参しておらず、2つの橋の正確な調査と計測は、石橋HPの宮崎市贄田氏にお願いする。「ねじりまんぼ」形式といい、たいへん珍しい興味深い石橋らしい。
(2013年10月31日 追記) 石橋上部の「長崎税関戸町火薬庫の歴史と標石」
2013/10/31(木) [ JOKAMOTO ] 氏コメントがあった、大蔵省関税局編「税関百年史 上巻 」日本関稅協会昭和47年発行197頁は、次のとおり。
火薬庫場所は、地元松林氏の記憶によると、現在ここにある郵政職員アパートや民間駐車場一帯で、2棟の煉瓦造り平屋建物が建っていたが、大戦中はもう使用されていなかったということである。
コメントどおり、近辺には欠損した標石2本(1本は「長崎…」と刻む)が現存しているのを確認したが、火薬庫境界石とは断定できない。
税関と火薬庫との関係は、輸入品だったなら火薬類一時保管庫をここに設置したのだろうと言う長崎税関の話である。
税関の火薬庫で、私が「軍道?の橋」と説明したのは、間違いがあるようなので訂正したい。
「…火薬類の保管については、旧幕時代のものが引きつづき使用されたが、明治五年正月、西泊郷に新しく一棟が新築され、これが利用されることになった。その後、二八年五月には、西彼杵郡戸町村の岩井浦に、新しく火薬庫が新築されたので、これに移転している。
また、(註 以下は梅香崎税関建物の記述のよう)上屋の施設についても、六年四月、梅ケ崎沿岸の海岸を埋立て、はじめて税関上屋一棟が建設されたが、翌七年八月、暴風雨によって倒壊したため、九年三月、これを再建している。しかし、日清戦争の時期には、これらの施設では狭隘となったので、三〇年二月には、あらためて吹抜上屋一棟の増設が実現した。…」
(2014年1月13日 追 記)
追加の写真は、同じく[ JOKAMOTO ] 氏からの火薬庫跡の追加情報。近くの民家庭に「長崎爆發物貯庫」と刻む標石が保存されていたので、標石を確認した。
不在だったので、もともとこの標石がどこにあったかは不明。
ししとき川「裏眼鏡橋」の上流に架かる煉瓦造石橋
朝日新聞長崎地域版2013年8月24日の記事。長崎市鍛冶屋町のししとき川に架かる「裏眼鏡橋」を次のとおり取り上げている。
「裏眼鏡橋」近く撤去 ひそかな人気スポット 長崎
長崎市の中島川にかかる眼鏡橋。観光名所となっているアーチ形の石橋から南東に250メートルほど歩くと、もう一つの「眼鏡橋」が現れる。「裏眼鏡橋」とも呼ばれ、ひそかに人気を集めていたこの橋が、9月初めにも撤去されることになった。
長崎市鍛冶屋町のししとき川に架かる長さ2・4メートル、幅1・6メートルの小さな橋。欄干が眼鏡の形をしている。
昭和40年代の初め、近くの中通り商店街にあった「メガネのコクラヤ」が鍛冶屋町に新しい店を構えた際、裏口にあった橋に眼鏡の形の欄干をつけた。…
橋につながる建物は、現在倉庫として使われていたが老朽化。取り壊し工事が進められており、橋も撤去されることになった。まち歩き観光「長崎さるく」のコースにも組み込まれ、観光客にも親しまれてきた。…
「裏眼鏡橋を何とか残してほしかった」と関係者は残念そうらしいが、これまで知られていないのは、実はこのすぐ50mも行かない上流の「稲荷橋」。銀屋町公民館のところにあるが、見事な煉瓦造アーチ式石橋。現在の橋の下を覗かないとわからない。
この項は、本ブログ次を参照。明治28年4月起工。こちらが歴史的価値がある。。
https://misakimichi.com/archives/810
https://misakimichi.com/archives/1020
https://misakimichi.com/archives/3625
長崎市まちづくり事業推進室作成「中島川・寺町お散歩マップ」も、「稲荷橋」の存在を知らないのだろう。案内がない。 http://www.city.nagasaki.lg.jp/sumai/660000/666000//p023224_d/fil/41file_20130219140537.pdf
私が調査している長崎市内の煉瓦造石橋は、ほかに桜町に「真中橋」、栄町に「引地橋」、平野町にも被爆遺構と思われる階段橋や、坂本3丁目に大学病院の下水路のような橋がある(本ブログ「長崎市の石橋」の書庫リストで検索)。
いずれも由緒ある橋で、もう少し歴史的価値を見直し、まちづくり事業推進や観光スポット・被爆遺構として生かしてほしい。
岳路「みさき道」に残る桁石橋 長崎市以下宿町
岳路になぜか1本だけ「みさき道」の道塚がある。秋葉山近くの山の稜線を行く「みさき道」本道ではない。蚊焼から別れ、岳路・黒浜・尻喰坂・以下宿経由の「みさき道」があったようだ。私たちはこの道を岳路「みさき道」と呼んでいる。
岳路「みさき道」は、以下宿の南谷を上がり、野母崎ゴルフ場のため付け替えとなっている旧町道三叉路あたりで、「みさき道」本道と合流し、延命水の方へ向かう。
先日、この合流点付近を詳しく草刈りや竹林の切開き調査していて、その手前の沢で桁石橋が見つけた。写真のとおり造りは小さいが、見事な桁石橋である。この道が岳路「みさき道」の街道に間違いないことを証拠だてる石橋である。
もう1本の「みさき道」、長崎半島東回り脇岬村路でも、川原木場公民館先の旧道で、長崎半島では珍しい山中の大きな桁石橋「界橋」(旧川原村・脇岬村の境の意味の橋名)を見つけている。
「界橋」は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3168
岩原川に架かる桁石橋 長崎市玉園町・上町
立山の谷を下り長崎歴史文化博物館の前を通って、桜町へ流れるのが「岩原川」である。近代的な市街地となって、どこを流れているかわからずあまり気付かないが、所在地図のとおり、このあたり一帯に古い桁石橋が残る。
岩原川に架かる①〜③(写真は2枚ずつ)は、古賀文庫「長崎橋梁台帳」に、橋名・架橋年代があると思うが調べていない。