旧道「界橋」は長崎半島一?の桁石橋 長崎市宮崎町に残る
「みさき道」は、江戸時代盛んになった長崎市中より脇岬観音寺まで、みさき観音参りの道である。長崎半島を東回りするコースも考えられ、平成17年9月発行の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集38頁に、推定ルート図を概略で載せていた。
長崎半島の東回りコースで解明したいのは、川原小池上にあった明治32年建立の道塚である。「東 脇岬」「西 高浜」と刻む。道塚は現在、三和公民館中庭へ移設展示されている。
集落を結ぶ道は、当然、昔からあった。「東 脇岬」の道が江戸期にも観音参りに利用されたと思われる。三和町郷土誌には、近隣の集落で年中行事により観音参りが行われていたと記している。東回りコースがその主な道であろう。熊ノ岳を越す場合もある。
最近、伊能忠敬研究会の入江氏の協力により、詳細なルートを研究、踏査して確認している。
長崎市宮崎町の石橋について、すでに以前に次の記事としているので参照。
https://misakimichi.com/archives/3125
https://misakimichi.com/archives/2572
以上の2橋の外、街道に関わる橋を新たに2橋確認しているので、ここにまとめて明治道塚とともに、写真により紹介する。架橋年代はいずれも不明。流された橋もある。
写真 1〜 2 明治32年建立「東 脇岬」「西 高浜」の道塚
もともとあった場所は、川原小池上の字池田(池平)。「みさき道」の今魚町系道塚ではない。明治となって「西彼杵郡村誌」が記す河原村における「脇岬村路」と「高浜村路」の分岐を示す道標。現在は三和公民館中庭に移設展示されている。
写真 3〜 5 モータレ川(宮崎川)の渡り石跡
現在の「宮崎橋」近く。石橋と記している資料があるが、飛び石のようである。川岸の地蔵石祠横に置いている石が、当時の渡り石と地元の証言があった。「せんたく石」を削り取った跡も確認した。現在の1万分の1地形図には、宮崎橋の1つ上流の橋に「モタリ橋」の橋名が表示されている。潮が満ちている場合の上流迂回路と思われる。
写真 6〜 7 宮崎ダム奥を上がった谷間に残る桁石橋
徳道集落から川原へは、主にこの谷間の道を下った。ゴルフ場地蔵道塚に刻む「左 川原道」は、この道と思われる。川原小学校への通学路でもあった。宮崎ダムができて通れなくなったが、石柱を渡した貴重な桁石橋が1つは流され、1つは現存していた。
写真 8〜 9 川原木場途中の桁石橋跡
長崎バス川原終点から川原木場へ向かう。ちょうどその中間くらい。県道下の旧道に入る。そこから途中、川を1回渡る。石柱を渡した桁石橋があったが、水害で橋は流されている。川に石柱が散乱していた。
写真 10〜 18 旧道に現存する立派な桁石橋「界橋」
川原木場を過ぎた現在の県道34号線「界橋」上流の旧道に残る。橋名のとおりこの熊川が、河原村と脇津村の村境だった。旧三和町川原木場と旧野母崎町岬木場の町界。
旧道を今回、踏査して桁石橋を確認した。長崎半島に現在残る石橋では、最も立派な桁石橋で大きく高い。現県道「界橋」下付近には、見事な滝が流れていた。川原木場公民館グランド南西には、「熊川清四郎力士の碑」があり、一帯はおもしろい。