月別アーカイブ: 2007年10月

川原の「まだら」や「ハイヤ節」は、みさき道となにか関係ないか

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川原の「まだら」や「ハイヤ節」は、みさき道となにか関係ないか

川原の民俗芸能に「まだら」というのがある。一種の祝い歌にもなり、新築祝や結婚式では「祝いめでたの若松さまよ、枝も栄えて、葉も茂る」となる。昭和40年頃までは良く歌われた。ただし川原でも上川部落だけである。「まだら」は曼荼羅の訛ったものである。曼荼羅のように祝事によって歌詞が異なるところから名付けられたものという。佐賀県玄海町沖馬渡島にルーツがあるという説もある。川原では長い間途絶えていたが、1本の古いテープによって、平成15年復活した。
川原の「ハイヤ節」は、ハイヤ節の源流といわれる平戸の「田助ハイヤ節」の歌い出しによく似ている。「まだら」「ハイヤ節」とも歌詞の中で、「みさき道」に関係するものは見あたらない。

「三和町郷土誌」によると「帆船の時代には浦々に風待ちの港があり、船が入ると船乗りたちは、そこで何日かを過し、いろいろな情報の伝達者ともなる。そのような人達によって伝えられたものかもしれない」とある。ある時、「みさき道」との関連を問われていたので参考のため調べた。

長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (2)

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長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (2)

関寛斎日記の末尾に出てくる帰塾先「高禅寺」の所在は、前項のとおり芦屋市平幸治氏とも史料などで調べている。長崎大学医学部附属図書館のポンペ資料館にも聞いたが、ここも何も史料はないらしい。

最近わかったのは、昭和13年刊「長崎市史 地誌編佛寺部 下巻」の記述である。崇福寺にあった「廣善庵」は読み方が同じとなり、聖福寺に合併された「普明院」が「幕吏の旅館となり、定宿所に指定せられ」ていたことがわかった。
平氏の書簡によると「松本良順も最初は本蓮寺に寄宿し、西役所および大村町の伝習所に移り、後には唐寺興福寺に移住した…」と記されている。玉園町の聖福寺は筑後町の本蓮寺、鍛冶屋町の崇福寺は寺町の興福寺の近くである。
建物が同じ時期あったか、建物の規模がどの程度かわからないが、「高禅寺」解明の少しは手掛かりになると思われ、市史の記述の関係部分を抜粋してみる。

「長崎市史 地誌編佛寺部 下巻」 崇福寺の項    467頁
廣 善 庵    本尊 釈迦如来  寛文八年創建
当寺山門の附近に在つた。寛文八年、和僧独振 林大卿の長子林大堂即ち林仁兵衛、元禄七甲戌年閏五月六日黄檗山に於て示寂、世壽八拾五歳 の創建したものであるが、明和三年二月廿七日夜、西古川町より失火せる大火に際し、当庵は全焼した。その後当庵は再建せられなかつた。

「長崎市史 地誌編佛寺部 下巻」 聖福寺の項    604〜605頁
普 明 庵    廃庵
本尊 観世音菩薩 明治に入りて釈迦如来を本尊とした。天和二年創建
普明庵は当寺境内地蔵堂の後方地続の地 現今上筑後町弐拾五番地もと上筑後町掛四ヶ所 に在つた。天和二年に鉄心の開創したものである。正徳二年、二代暁岩は之を再建し、後此処に退隠 八ヶ年 した。
元文四年五月唐船主等は、当院兼帯小瀬戸南海山大悲堂に於て毎年唐船海上往返安穏の祈祷を行はん為め、唐船一艘より祈祷料として、当院に銀五百目宛の寄附を為すことになつた。同年六月、当院背後の石垣崩壊して、大損害を受けたので、費銀を長崎会所より借りて、之に修理を加へた。安政初年頃より幕吏の当地に出張する者多く当時市内に適当の宿舎無かりし為め、当院は其の旅宿に充てられ、萬延元年八月以降は其の定宿所に指定せられた。
明治十年堂宇の破壊甚だしかりし為め、大修理を加へた。同四十一年六月十五日、当院の維持困難なるにより聖福寺に合併を出願し、同年八月十三日附長崎縣指令第二九三六号を以て之を聴許せられた。而して右の地所家屋は聖福寺の所有に帰した。当時の当院々主は青木無明で、其の財産は左の如きもので在つた。… 

「復習已二終ルノ后ナリ」と「高禅寺」の所在  平氏の調査

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「復習已二終ルノ后ナリ」と「高禅寺」の所在  平氏の調査

次は平成17年10月、兵庫県芦屋市に住む平幸治氏からいただいた書簡の一部である。平氏は「肥前国 深堀の歴史」(長崎新聞社 平成14年刊)の著者で、長崎深堀生まれ。郷土深堀の歴史に興味を持たれ、「みさき道」を記述した関寛斎の日記も研究レポートが縁で同氏の目にとまり、さまざまな専門的な研究と貴重な指摘、助言をいただいている。
帰塾先「高禅寺」に関する部分について、氏からの書簡の内容を紹介しておきたい。
なお、「復習已二終ルノ后ナリ」は、長崎談叢19輯の引用文は省略しているが、日記の末尾「高禅寺二帰塾ス」の後に、原文では出ている。

H 「復習已二終ルノ后ナリ」について
「講義を復習する時間がすでに終ってしまった後だった」という意味ではないかと解釈しました。「已」は「すでに」と読んでよいと思います。「已」は十二支の「巳」とは別字ですので(「イ・スデは中に」の「已」)、陸別町翻刻の「巳」は誤りだと思います。原文の写しは「己」(おのれ)に見えますが、文章の意味からすれば、「已二」(すでに)が通じやすいと思います。
この日(4月4日)は月曜日ですから、昼間はポンペの講義があったと思われます。夜になると松本良順が「復講」をしていたと思います。この「復講」または「復習」(自習か?)が日課になっていたのではないでしょうか。寛斎は遅く帰ったので、この日の復習に間に合わなかったのでしょう。
前日、寛斎らが出発した3日にも「朝課ヲ終リ」とありますから、日曜日でも朝の課業があり、月曜日ならなおさらか課業としての復習があったのでしょう。ただ日記に「復習」とあるのはここだけで、他所はみな「復講」とあるので(文久元年3月9日条ほか。なお同年2月22日条には「夜講」とある)、わたくしの解釈も正しいかどうかわかりませんが、一連の流れからすれば、この解釈も許されるのではないでしょうか。
長崎大学薬学部編「出島のくすり」64頁に、ポンペの講義を聴いてもオランダ語のよくわからない塾生に対して松本良順や司馬凌海・佐藤尚中がもう一度夜「復講」したという記述があります。「ポンペ日本滞見聞記」には、伝習生に対し「毎日四時間の講義をすることにした。午前二時間、午後二時間、それで彼らの講義を扱ったことを後でさらに深く研究するだけの時間的余裕があった」(新異国叢書本278頁)とあります。それにしても当時すでに日曜日を認識していたとは、はじめて知りました。

Ⅰ 帰塾先「高禅寺」の所在について
最後に、「高禅寺」について調べてみましたが、残念ながらわかりませんでした。「長崎市史 地誌編 仏寺部(上下)」にも見当たらず、同書の廃寺の記載にもありませんでした。引き続き調べてみたいと思います。
松本良順も最初は本蓮寺に寄宿し、西役所および大村町の伝習所内に移り、後には唐寺興福寺に移住したので、「高禅寺」というのも寛斎が下宿していたところだと思いますが、日記の他所の部分にも見当たりませんでした。万延元年12月23日、入塾の日には「入塾」とだけあり寄宿先などの記載はありません。後に、文久元年9月15日条に「稲岳新宅ヘ移居」、同年10月21日条に「新居ヘ移ル」とありますが、場所は書いてありません。
「復習」の場所が高禅寺なのか(「高禅寺に帰塾した。しかしながら復習はもう終った後だった」と読む)、あるいは復習は伝習所で行うけれども、復習終了後の時間だったので直接高禅寺に帰ったのか(「高禅寺に帰った。なぜなら既に復習が終っている時間であるから」と読む)。
前者なら、かつ「帰塾」とあるので寛斎以外にも寄宿している学生がいた可能性があり、且つ復講を主宰する松本良順の都合等も考えれば、大村町の伝習所に近い比較的大きな寺かも知れません。後者なら、寺町から伊良林あたり、あるいは寺の多い筑後町や本蓮寺近くの可能性もあるのではないでしょうか。いろいろ考えましたが、まだよくわかりません。

(次項へ続く)

長崎の西の空の夕日  その1

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長崎の西の空の夕日  その1

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日と虹。手前の海に高島、端島(軍艦島)などが浮かぶ。奥は五島灘で水平線が一望できる。本土の最西の方となり、日没が遅い。夕日が美しい日に、なるべくデジカメを向けている。太陽の沈む位置がこんなに変わっている。

写真上から
平成19年 8月16日  19:20 夕日
平成19年 8月20日   8:24 虹
平成19年 9月 6日  18:44 夕日
平成19年 9月 7日  19:10 夕日
平成19年10月 3日  18:17 夕日
平成19年10月18日  17:37 夕日
平成19年10月18日  17:39 夕日

長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (1)

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長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (1)

「高禅寺」が大村町の長崎医学伝習所近くとすると、今のところ考えられるのは、ほとんど当てずっぽすぎるが次の箇所である。

(1)前項の資料、中西 啓著「長崎医跡散歩」長崎文献社 昭和53年は32〜33頁において—日本動脈硬化学会のために—として第二章で「自然科学史跡」の紹介がある。このうち
(19) 佐藤泰然、林洞海宿泊地跡、小倉藩蔵屋敷跡、長崎師範学校跡(興善町五—三、長崎食糧事務所)
小倉藩蔵屋敷のあった新町六、七、八番地の地である。一八三五年春(天保六年三月十日)下総佐倉医和田泰然(のち佐藤家に入る)は長崎に留学、この地に宿泊し、オランダ商館長ニーマンについてオランダ医学を学んだ。一八三八(天保九)年、泰然は江戸に出て開業したが、一八四三(天保十四)年、故郷佐倉に順天堂を開いた。泰然はその長崎留学中、小倉藩屋敷から磨屋町のオランダ通詞末永祥守の家に移っているが、末永家は地番不詳で、旧居を確認できない。
とある。順天堂佐藤泰然は、関寛斎・佐々木東洋の師となる。

(2)長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年は、
113 大音寺(浄土宗・正覚山)(所在地:鍛冶町5番)を68頁で紹介している。このうち
大音寺は、慶長19年(1614)伝誉が開創。伝誉は筑後国の人で、野母の蔵徳寺を拠点に長崎での布教に従事した。最初、古町に中道院を開いたが、元和2年(1616)本博多町のミゼリコルディアの跡地を賜わり、同3年(1617)知恩院の末寺となった。寛永18年(1641)現在地に移され、同年、朱印地となった。
とある。「本博多町のミゼリコルディアの跡地」は、現在の万才町長崎地方法務局か。横の坂が深堀騒動の舞台となった大音寺坂(天満坂)で寺名のみ残る。ここらあたりも「興善」の地名がなかったか。興善にある寺から「高禅寺」と読み方は似てくる。

(3)同資料は、また
179 高林寺(曹洞宗・徳光山)(所在地:鳴滝1丁目6番)を72頁で紹介している。このうち
高林寺は、正保3年(1646)皓台寺住職一庭が開創。同寺は、最初、炉粕町にあったが、安政4年(1857)の諏訪神社からの火災で焼失した。明治45年寺地を三菱長崎造船所に売却、現在地に移転した。現在地にはかつて知足庵があったが(栖雲庵を天保5年(1834)に知足庵と改称)、同寺に合併された。
とある。高林寺は最初炉粕町にあった。三菱に売却とあり現在の三菱長崎造船所所長宅一帯のようである。この記述は鶴見台森田氏が見つけ出した。禅宗の寺で「高禅寺」とならないか。(次項へ続く)

(注) 「江戸時代(享和・1800年代)の長崎のまち」図は、嘉村国男著郷土シリーズ第二巻「長崎町づくし」長崎文献社から

関寛斎の寄宿ないし帰塾先「高禅寺」はどこにあったか

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関寛斎の寄宿ないし帰塾先「高禅寺」はどこにあったか

関寛斎は4月3日朝課を終りこの寺から出発し、浜の町を通って戸町峠へ向かった。4日は大浦で佐々木東洋・案内人長嶺圭朔と別れ、どこで入浴したかその後「高禅寺に帰塾」したら、復習はすでに終ったあとだった。

「高禅寺」の字は、日記原文を見ても間違いない。「帰塾」ないし「寄宿」先だったこの名の寺の所在について、史料を探しているが今のところわからない。私や「肥前国 深堀の歴史」著者芦屋市平幸治氏も、「長崎市史 地誌編 仏寺部(上下)」を確認したが、同書の廃寺にも記載はなかった。
私が願うのは、中西 啓著「長崎医跡散歩」長崎文献社 昭和53年は32〜33頁において—日本動脈硬化学会のために—として第二章で「自然科学史跡」を紹介している。日本近代医学の先駆けとなった長崎医学伝習所と学生の生活ぶりをもう少し明らかにしたいからである。

『長崎談叢19輯』(昭和12年発行)所収の林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」(21〜22頁)には、「文久元年4月は、長崎医学伝習所は西役所近く大村町の高島秋帆宅(今のグランドホテル)にあった。(今の佐古小学校地に)小島養生所が新築されたのは、同年8月である。4月頃はまだ生徒が少なく全員を寄宿舎に住まわせていた」と記されている。
すると「高禅寺」は大村町でなければならない。佐々木東洋は「旅宿」に住んでいた。寛斎は戸町峠で「家宿」土産の茶を買った。同頁でこのような「関寛斎日記」を続けて紹介しているので、読み手はすぐ矛盾を覚える。林氏説を一応白紙にして、「高禅寺」探しにかかった。(次項へ続く)

(注) 「江戸時代(享和・1800年代)の長崎のまち」図は、嘉村国男著郷土シリーズ第二巻「長崎町づくし」長崎文献社から

スローフード世界大会と「ゆうこう」  寄稿 川上 正徳

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スローフード世界大会と「ゆうこう」  川 上 正 徳

土井首地区で出会った小さな蜜柑「ゆうこう」(ゆうこうの実は、優しい香りと筋の山があるのが特徴。発見のきっかけとなった木は土井首にある。別項参照)の縁で、図らずも初のヨーロッパ旅行に行く事になりました。外国旅行は中国へ10回、韓国へも5回ほど旅行をしましたが、欧米旅行は初めてでした。
1昨年、土井首地区で「ゆうこう」の植樹祭、昨年は外海地区でも植樹祭がありました。今年の植樹祭に姉妹都市フランスのボスロール村長一行やスローフード協会の方が参加されました。その後、世界スローフード協会の「味の箱舟」に「ゆうこう」も申請することになりました。そのスローフード協会の世界大会「テッラマードレ2006」が本年10月25日から30日までイタリア トリノ市で開催されるので「ゆうこうコミュニティ」として外海の「フェルムド・外海」の日宇さん一行と参加することになったのです。
長崎県雲仙市の「こぶ高菜」、「えたりの塩辛」2種類がすでに「味の箱舟」に登録され、雲仙市長さん一行が参加されるので、初の渡欧の私も仲間に加えていただきました。
旅行で驚いたのは、成田からフランクフルトまで11時間の飛行機の長旅でした。途中、飛行機の窓から広漠とした自然の厳しい景色を写真に撮ったり、楽しんで見ていたらスチュワーデスから「窓を閉めてください。皆さん休んでしますから」と注意され、私も仮眠しました。飛行中に食事が3度も出されました。
フランクフルトで乗り換えると丁度ヨーロッパアルプスの日没がきれいでした。トリノへ着陸すると拍手が起きました。何だろうと後で尋ねると無事着陸できたから拍手する習慣があるとのことで納得?しました。
宿舎はトリノのオリンピック村でどんな良い部屋かと期待していましたが、テレビ、ラジオ、新聞もなくトイレもシャワーも共同でした。宿舎は4階建てで、エレベーターの表示は1階が“ゼロ”、2階は“2”で“1”はないので始めは戸惑いました。
水道水は飲めないのでミネラルウオーターを買うのですが、だまって買うと炭酸入りで少し酸っぱく、飲んでも喉が渇く始末、「ナチュレ」とか「ノーガス」といわないと自然の水が飲めません。1本0.6ユーロ90円位でした。その代わりというかワインの安いのは一抱えもある瓶なのに4ユーロ600円位でした。勿論高いのもあります。空港にはあった自動販売機が街には一切ありませんでした。夜、ミネラルウォーターが無いと朝まで我慢です。
少し時間を見つけてローマ修道院に在学中のシスターの案内で市内に出ました。電車とバスが同じ会社で同じ切符で乗れました。電気軌道をバスも走ります。乗車券は0.9ユーロで70分乗り放題、バスの中では、お金を一切扱わず、売店で買った切符に消印を自分で印字するだけです。無賃乗車は可能です。 紳士の国なのでしょう。
食事にコーヒー屋に入りました。BARと表示があるのですが、日本のバーでなくバールという喫茶店が沢山あります。バールでは、お金を先払いして領収書で現物を受け取ります。座って食事をすると代金が2倍になりました。地元の人は立ち食いです。
大失敗がありました。10月29日、日曜日から夏時間が終わるのでした。それを知らないで会議に入っても30分も遅れるのはイタリアでは常識と言われていたので、やはりイタリア時間で皆ゆっくりしてるなと思っていたら、1時間早く来ていたのでした。30分後、めずらしく次の会議がきっちり始まりました。帰りは30日14時出発して成田へ翌日の31日16時着きました。
本年1月、スローフード日本の学術委員が現地視察に来られ、外海地区、土井首地区のゆうこうの生育状況、地区の皆さんのゆうこうの利用状況を調べていかれた。来年の世界大会には長崎市から唐人菜とゆうこうが味の箱舟入りを果たし、世界の皆さんへ郷土の果実、野菜の良さを発表できればと願っています。

(注)この稿は研究レポート第3集に収録している。ゆうこう振興策の記事は、長崎新聞2207年3月31日付けの長崎近郊ローカル版に掲載分。

長崎への道(長崎への抜け道を歩く)  江越弘人氏稿

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長崎への道(長崎への抜け道を歩く)  江越弘人氏稿

長崎は、山に取り囲まれており、長崎に入るには必ず峠を越えなければならなかった。
『長崎名勝図絵』には、長崎要路として6つの通路を挙げている。最初に東泊口を挙げ、「長崎の南、更に下れば深堀、野母浦。次に茂木口、長崎の南。田上峠から東南に茂木浦口、天草に至る。頴林口(いらばやしくち)長崎の東、旧長崎城の古道、東南して台原、大窪山の道を過ぎ、眉嶽の南に至り、東口を下りて飯香浦に至る。火見嶺(ひみとうげ)口長崎の東。一瀬橋を渡り、峠口を経て矢上駅。東して諫早荘。馬篭口長崎の北。ここを北に行けば長与路、浦上圯(どばし=現在の本大橋)、更に北すれば時津の港で大村に至る。西山口長崎の東北、路が三つに分岐して、右は矢上駅、左は浦上、中は伊木力から海路大村に達する。」と記している。
東泊口については、対岸の西泊と相対する現在の戸町辺りではないかという説もあり、ここから上流を東泊渓と言っていたが、今日唐八景となったと言っている。恐らく二本松の峠か唐八景から上戸町に下る路を考えているのであろうが、ここは素直に長崎港からの海路のことと考えてもよいのではないだろうか。
このように考えると、陸路としての長崎出入りの重要な道は、田上峠の茂木口、日見峠の日見口、西山口、西坂を越える馬込口の4口で、それに付け加えて矢の平の谷を上って田手原、重籠を通り飯香浦へ出る伊良林口ということになる。
幕末になって、先に上げた4口には、それぞれ番所が設けられ、長崎への出入りを厳しく取り締まった。これらの日見(長崎街道)・茂木(茂木街道)・西山(西山街道=大村殿様道)・西坂(時津街道)などは、それぞれ遠くの地方と繋がっていたが、長崎周辺の村々と結ぶ道も矢張り峠越えで整備されていた。その中で最も知られているのが『みさき道』で、十人町の坂を登り、大浦に下ると再び二本松峠を越えて、深堀や野母・脇岬に陸路で繋がっていた。又、伊良林道は、日見峠が整備される慶長年間以前には、古長崎街道としての役割も果たしていたという言い伝えもあり、4口に次ぐ大切な道であったと思われる。
今回、紹介する2つの峠道は、長崎と矢上地方とを繋ぎ、さらに長崎街道と結ばれる、いわゆる長崎街道の間道として、つい最近まで地域の生活道として使われていた。この峠道は、長崎の山歩きを愛する人々にはよく知られている日見峠から三ツ山への縦走路にあり、いわゆる四つ峠のことである。日見峠は、長崎街道が通り、木場峠は、西山口から矢上薩摩城・田ノ浦へ通じており、長崎名勝図絵にも触れている。
今回、紹介するのは中尾峠道で、本河内から中尾・田ノ浦へと通じている。あと一つの現川峠道は、西山口から仁田木場の集落を通り現川加勢首へ下り、長崎街道へと繋がっている。この二つの峠道は、峠の両側の集落の人々に日常的に使われていたほかに、長崎への近道・間道ともなり、長崎奉行所や山の向うの佐賀藩では、不審者の長崎出入りについては神経を尖らせていた。
この二つの間道が、今も昔のままに残っていることは嬉しいことである。

(注) 江越弘人氏は、長崎街道ネットワークの会会長、「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者。中尾峠道・現川峠道の公民館講座資料を研究レポート第2集の222〜232頁に収録している。

小説「胡蝶の夢」などに見る医学生「関寛斎」の晩年

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小説「胡蝶の夢」などに見る医学生「関寛斎」の晩年

次は、司馬遼太郎著の朝日新聞に連載があった小説「胡蝶の夢」の終章部分である。関寛斎の晩年を知るため、単行本から長くなるが抜粋してみた。
なお、関寛斎の子「又一」について、北海道陸別町のホームページでは「長男」とあったが、この小説では「四男」となっている。同陸別町の関寛斎資料館頒布冊子「関寛斎」によると、やはり「四男」とされている。「明治二十五年には四男又一が札幌農学校に入学し(略)長男生三を医者として独立させ、次男周助は経済界に入り」とある。
しかし、「寛斎の足跡」の年表では、生三・スミ・大助・周助・文助・コト・末八・トメ・餘作・又一・五郎・テルの順で子を成している。「又一」は実際は「七男」なのである。幼年で死んだ子が多くそのためであろう。関家が医者でありながら、当時の時代の苦難がおしはかられる。
関寛斎資料館同冊子において、そのほか参考となる「晩年の寛斎」「人頭骨標本写真」「関寛斎に関わった人々」などがあったので、あわせて掲げてみる。

司馬遼太郎著 「胡蝶の夢」(五) 新潮社 昭和54年 257〜262頁

ふたたび私事になる。
この小説は私の印象の世界を流れている潮のようなものを描こうとした。自然、主人公は登場した人間の群れのなかのたれであってもよかったのだが、しかしこの流れにとってもっとも象徴的な良順と伊之助、それに関寛斎の足音と息づかいに気をとられることが多かった。とくに寛斎が登場したころ、
「私は北海道陸別町の出身で」
という初老の僧侶の来訪をうけたことが、その土地を拓いて死んだ寛斎についての想いを、血の泡だつような感じのなかで深められてしまうはめになった。
「寛斎さんについては、よく存じません。ただ私どもが生れた陸別という人口五千の小さな土地を拓いてくださった人として感謝しています。故郷への想いと寛斎さんへの敬愛の気持が一つのものになっています」
一九一四年うまれというこの真宗僧侶は戦中戦後アメリカにいたひとで、いまも宗門の地方での職についておられ、故郷から遠い。故郷の寺は弟さんが住職をされているという。
「陸別の冬は零下三十五度までさがって、北海道では旭川とならんで最極寒の地です。私どもの少年のころ、家の中の酒も醤油も凍りまして、朝、目がさめると掛けぶとんの襟に、息で真白に霜がつもっていました」
と、寛斎のころ斗満(トマム)といったその地の自然の話をきくにつれ、そこで最晩年の十年をすごした寛斎の影がいよいよ濃くなってくるような気がする。
「寒冷がひどくて米は穫れません。こんにち五千人の人口は酪農と木材で食べています」
「寛斎さんが入植した当時(1902年)の北海道は、開拓するならどんな土地でも二足三文でころがっていたはずですが、わざわざあの寒い斗満を選ばれたのはどういうおつもりだったのでしょう」
と、品のいい微笑とともに言われたが、この件については簡単に説明がつく。
北海道開拓に関心のあった寛斎は、四男の又一を札幌農学校に入れた。又一が卒業後、父とともに開拓すべくさがしたのがこの地であった。明治三十四年(1901)に同校を卒業するにあたって学校に提出したかれの卒業論文は『十勝国牧場設計』というもので、斗満を牧場にするための具体的な立案書そのものが論文になっている。
「寛斎さんが七十三という歳であの土地を開拓するというのは、自分の力が堪えうる極限まで試してみようとされたのではないでしょうか」
寛斎のころむろん鉄道は陸別にきていない。
この奥地に入るには、川から川をさかのぼってやってきたのであろう。陸路を歩行するには原生林がまだ多く、たとえ跋渉(ばっしょう)できるにしても、大荷物の運搬が困難であり、それに途中、野獣に襲われる危険性が十分あった。

筆者が、旭川から大雪山の山塊の外縁を通って陸別に入ったのは秋のはじめであった。
奥地のせいか、陸別の秋の気の澄み方はおそろしいほどで、樹木の緑が真夏の量感をうしない、切り紙のように青い空に貼りついていた。陸別の町は国鉄池北線の駅の西方に集落ができており、集落の中心に町民の各種共有施設がそろっていて、小規模ながら瀟洒(しょうしゃ)な都市を感じさせた。
しかし町のまわりは森林——というより逆に樹海のある一点がまるく切りとられて——懸命に人間たちが生活圏をつくっているようでもあり、その規模の可愛さは、寛斎が明治期にきりひらいた平坦地空間からさほどひろがっていないのではないかと思われたりした。
この夏のはじめに私が訪ねてくださった真宗僧侶の生家が本証寺である。丘の上のコンクリート造りのその寺を訪れると、住職である令弟が待っていてくださった。そのうち、町のひとびとが集まってきて、自然、寛斎の話になった。
寛斎が徳島での土地家屋などをすべて売りはらってこの地に鍬をおろしたとしは、惨澹たるものであった。連れてきた馬匹が熊に襲われたり、まむし、虻(あぶ)などの害に遭ったし、きりひらいた畑にソバ、馬鈴薯、大根、黍(きび)などのたねをまいたものの、収穫がほとんどなかった。
「寛斎さんが作物をつくるのを、森の中のウサギ、ネズミなどの小動物が狂喜して待っていたような感じでした」
と、どなたかがいわれた。芽が出ると大挙してやってきたし、豆類がみのると、一夜にして食べてしまったりした。動物たちは太古以来、人間がつくる柔らかい野菜や栄養のある雑穀を知らなかったために、大変なよろこびであったようで、その上、霜害、風害があって、第一年目の一町歩余は徒労におわった。
第二年目は上乗で、牧草地二十町、畑地四町をひらき、ほぼ収穫があった。放牧地には牛十頭、馬九十五頭を飼い、熊の害はすくなかった。が、第三年目は馬四十頭が大雪のために斃死した。
寛斎は労働に堪えうるための肉体をつくることも怠らなかった。かれは徳島時代から冷水浴の実行者であったが、この地にきてからも続け、冬など、零下四十度の朝も斗満川の氷を割って水垢離をとった、と本証寺にあつまったひとびとが語ってくれた。
寛斎は、自分が買った土地を、開墾協力者にわけあたえてゆくという方針をとった。ただし、この方式に寛斎が固執し、息子の又一が、札幌農学校仕込みの経営主義を主張して反対しつづけたために真向から対立した。協力者たちに対する公案が果たせそうになくなったために、百まで生きるといっていた寛斎が、それが理由で自らの命を断ったともいわれている。
「翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮(註・尊徳)流に与へんと欲し、子は米国流に富まんことを欲した」
と、徳富蘆花は『みみずのたはごと』のなかで触れている。
この森林をめぐらした小さな町は、幾筋かの細流が流れている。そのうちの一筋の流れをわたって町の南郊に出ると、姿のいい丘がある。
その上に、寛斎とその妻お愛の墓がある。
寛斎は生涯お愛以外に女性を知らなかった。彼女は、夫が繁盛している医業をすてて開拓者になったときも、よろこんで寛斎についてきた。
「婆はえらい」
と、寛斎はひとにも語っていたが、晩年は小柄ながら顔までが寛斎に似てきて、兄妹かと思うひともいた。
このお愛が、入植三年目の明治三十七年五月、療養中の札幌で死んだことが寛斎には痛手であった。
子供たちへの遺言は、
「葬儀はおこなうな。夫が死ぬときは斗満の農場において営み、二人の死体は同穴に埋めよ。草木を養い、牛馬の腹を肥やす資にせよ」
というものであった。
お愛の死で、一時寛斎は衰弱し、ほとんど病人同然になったが、この翌年、馬の疫病が流行してたちまち五十数頭が病死したとき、協同者たちは斗満を去ろうとした。寛斎はひとびとに、
「去りたい者は去れ、わしはたとえ一人になっても踏みとどまる。牛馬が全斃(ぜんぺい)したとき、この地でかれら(牛馬)の霊を弔いつづけて生きるつもりだ」
といい、この艱難(かんなん)のなかで気力をよみがえらせたようで、一方においてアイヌと放免囚人の救済、あるいは自作農の設定という努力目標をかかげてみずからを励ました。
それらの努力は馬牛がぶじ殖えることで酬われたが、徳島に残ったかれの長男やその子が寛斎の財産を剥奪するために訴訟をふくむさまざまな手段に訴えつづけたために、気根がくじけはじめたようであった。死の年の五月に東京の徳富蘆花あてに形見の品と辞世の短冊二枚を送っている。
明治四十五年(1912)十月十五日、服毒して死亡、年八十三歳、翌日、遺志によって粗末な棺におさめられ、近在のひとびとにかつがれて妻お愛のそばに眠った。墓はただ土を盛った土饅頭があるのみである。
寛斎の医学書その他の遺品は、さまざまないきさつを経て、近年、陸別町に寄贈された。
たまたま私が訪れた日の数日前、町の郷土資料室のひとびとが整理していると、髑髏(どくろ)が一個出てきた。
「この髑髏です」
と、棚の上のバター色のその標本を係の人が指したとき、手におえないような感情のかたまりが背筋を走った。良順がポンペに譲られ、かれが江戸を脱走するとき、下谷和泉橋の医学所に置いて行ったという頭骨標本はこれではないか。
頭骨は上辺を標本として丁寧な細工で切り割られている。長崎時代、塾生たちが頭骨を卓子にのせて記念撮影している写真(防府市・荒瀬進氏蔵)があるが、その標本とどう見ても同一のものであった。そうと確信したとき、最後の蘭方医だった寛斎の生涯と思いあわせ、なにか夢の中に浮かびあがってくる白い魎(すだま)のようなものを見た思いがした。
——胡蝶の夢・完——

裏雲仙吾妻山麓の「きため・あづま道」標石は今どこに

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裏雲仙吾妻山麓の「きため・あづま道」標石は今どこに

話は長崎市周辺を離れて裏雲仙へと飛ぶ。これは昔の街道—裏雲仙吾妻山麓にあった道しるべの「標石」である。私が若い頃、山行の途中で見かけ、この石の姿は私の記憶の中にずっとあり、それが偶然にも35年以上過ぎた一昨年の暮れ、今どうなっているか、妙に気にかかる出来事となった。

平成17年11月20日、長崎朝霧山の会の「山の清掃大作戦 クリーンハイキングin野母半島」が7コースに分けて実施された。会員でない私も新聞で知り道の枝払いがあり、集合場所が自宅近くであった「みさき道コース」に参加させてもらった。蚊焼入口バス停に13人が集合。秋葉山近く郷路八幡神社へ登りにかかった頃、会の長老と思われるいかにも人の良さそうな方の話を耳にした。
『吾妻の登りの道しるべの石はのうなった。「あづま」って書いとったごとあるが、あとひとつは何て書いてとったかなぁ?』という会員間の話である。
ここで私の脳裏が蘇った。『あれは確か「右きため道、左あづま道」と思います。石は道に転がっていたようですが、今もうなかとですか』

「きため」とは神代・国見・島原方面を指す。「あづま」とはもちろん吾妻を指す道と思われる。かれこれもう30年位、私は山にほとんどご無沙汰であった。最近のこの道は全然知らない。九州自然歩道になっている。私が標石の場所と刻銘を覚えていたのは、若い頃この道を良く通り、記録していたからである。山頂の馬頭観音の祠で泊りがけの月見をしたり、田代原への行き帰りに利用したのは再三であった。

家に帰って昔の記録を調べると、昭和42年4月裏雲仙へ初めて行った山行記録があった。ここの標石は、文中で次のとおり記していた。

『樹間には夏草がおい茂り、かなり心細い道である。田代原への車道が眼下に広がった伐採地で、橘神社の尾からあがってきた道と合したときはホッとした。だが、それもつかの間、500mも進むと道はまた二手に分れる。
ここに腐りかけた木の指導標があり、「←愛津展望所 田代原→」と指している。それに従うと、田代原は右の道とわかるが、この上手を分れる道も踏跡がかなりある。なにかしら稜線へ抜けそうな道である。なるべく稜線へあがりたいと考えていたので、この三叉路でどっちをとってよいものか迷った。地図を調べるが、この上手の道はない。気をこらすと、道脇に倒れた石柱があった。風化した字を手さぐりで「右きため道 左あづま道」(?)と読んだが、転がった石のため左右がどっちを指しているのか解らない。地名がどこを指すのかも解らない。時間が時間だし、結局、地図にあらわれた下手右の田代原へ道をとることにした。
あとは吾妻岳の中腹をはって坦々とした雑木林の中の一本道。時折、左直上にその山頂附近の奇怪な岩峯を初夏の空に仰いで、40分して水場をすぎると、田代原はもう間近であった』

よほど裏雲仙が気にいったのか、その後も千々石川を田代原まで遡行し、詳しい沢登りの概念図を作成して昭和45年に掲載している。思い出多い山である。このルートは国体コースでなかったが、昭和44年あった長崎国体は、やがて一巡する年となろうとしている。

そこで「裏雲仙吾妻山麓の標石とルート探し」を、会の行事として実施することとした。たまには市外へ遠出するのも悪くない。朝霧の例の方の同行も考えたが、連絡が取れなかった。裏雲仙のコース図は、山と渓谷社刊『長崎県の山』にも「4 吾妻岳・鳥甲山」があるが、このルートの道は本に紹介されていない。廃道となり今は使われてないのだろうか。

12月11日(日曜日)はまずまずの天気であった。車2台で10人が参加した。愛野展望台から「あづまの里」の大駐車場に車を置き、10時頃から歩き出した。ここは千々石小学校前から上った九州自然歩道が直角に曲がり、愛野の断層壁に沿って田代原へ行く所である。
私が以前の記録に記した「弘法原」とは、このあたりだろうか。時間がなかったので、社(やしろ)と「専照寺所有地」の碑は探せなかった。大きな窪地も興味があった。大昔の火口跡か、隕石落下跡かと考えたりしていて、「探偵!ナイトスクープ」はこんな科学的なことを取り上げたら、楽しめると思う。火口跡が港とか、隕石のクレータと言われる所は全国各地にあるのではないか。
「千々石町郷土誌」を読んで下調べをしたが、その記録はなかった。現地は状況が変っており、今回はどこがどこかわからなかった。しかし、郷土誌によるとここは昔の街道に間違いなく、「弘法原」を「歌垣」(古代おおらかな時代の男女交合の場)と考察する説はおもしろかった。

自然歩道は、「あづまの里」の周りから植林の中を平坦に30分ほど行き、鉢巻山の下でコンクリート舗装した亀石林道カーブ地点と合い、林道を終点までつめる。この林道が自然歩道となっている。右手に九千部岳の鋭峰を高く眺め、車道の舗装が切れてから10分ほどして、長崎朝霧山の会の「吾妻岳↑」のプレート分岐が左にあり、黄色いリボンが着けられていた。やはり吾妻岳へ直登するルートの道は残っていて、少しは登山者に利用されているのだろうと安心した。
しかし、分岐地点に「右きため道、左あづま道」の標石は見当らなかった。林道は延長され植林地帯が大きくなり過ぎて、以前の記憶を呼び戻すことができない。今日はともかく自然歩道をそのまま田代原まで進み、吾妻岳へ登ってから、その下りにまた探すこととする。

自然歩道の道標によると、「あづまの里—田代原間」の距離は5.8Kmである。平坦な道といえ最後は徐々に高度をかせぎ2時間以上かかる。田代原へ着いたのはすでに12時を過ぎ、遅い昼食となった。雲仙岳主峰は雪面の斜面に風が舞い、田代原も寒かった。先日の残雪が少しあった。
これより標高870mの吾妻岳へ向かう。岩・木の根をつかみ、鉄はしごがある急峻な登りは、高度差が200m位だろうか。普通は30分のところ、休み休み50分かかって皆へ迷惑をかけた。寒いから息苦しくゼイゼイ言う。年がいったうえこんな高い山は、最近車以外で登ったことがない。酸素が薄く感じられた。一度心臓の悪い妻を連れて行き、「私を殺す気か」と今でも恨まれている。やっとその心境がわかった。
どんよりした空だったが、山頂からの橘湾や有明海の展望は素晴しかった。西へ300mほど行くと馬頭観音の祠がある。まだ参る人が多いのか以前より広場は広くなり、ブロックの堂は改装されて多人数泊れるようだ。

祠からいよいよ吾妻の断層崖をさらに西側へ、「大だまり」という鉢巻山との鞍部へ向けて、昔のルートを下ることする。入口に簡単な標識とリボンがあったが、潅木の中の心細い道である。今日の参加メンバーでこのルートを私以外、知る者はいない。2年ほど前歩いた人に様子を聞いていたが、あまり人が利用せず潅木が伸びて、歩ける道でなかったと言っていた。全くそのとおりであった。
鋸で2〜3人が枝払いし、かすかな踏み跡とテープを頼りに、尾根を間違わないように進む。「大だまり」近くとなりそこへ降りるため尾根から外れる箇所で、斜面のため一部道が崩れており、判然としなかったため時間を要した。このルートは山頂近くの潅木帯を抜けると、だんだんと樹木の背が高くなってきて、後は歩きやすい木立の中の下り道だった。

「大だまり」に来て、見覚えがある猪垣か石垣を越して安心した。下りの入口さえ間違えなかったら、何とか下る自信はあったが、ここまでは疑心暗鬼であった。すでに1時間以上を要している。ここにも朝霧が付けたプレートがあった。だが、そこからもなかなか自然歩道の分岐地点へ出なかった。すぐ下に歩道が見えるはずなのに、鉢巻山の麓の斜面を25分ほど横へ横へと心細い道をはった。昔のそんな記憶はない。自然歩道が出来てから、分岐地点が変わっているのかも知れない。

やっと、行きがけ目にしていた自然歩道の朝霧プレート「吾妻岳↑」の分岐地点へ下ったのは、午後4時であった。距離はさすがに長かった。「右きため道、左あづま道」の標石は、途中もここもどうしても見当らなかった。後は「あづまの里」の駐車場まで、日が欠けた寒い道を急ぎ足により30分で戻り、車2台はここで別れて解散し、長崎へと帰った。
私の個人的な思いによって、寒い時期に急に組んだ企画であったが、参加メンバーは初めてのコースだったので喜んでくれた。暖かくなってツツジや山法師の咲く頃、またのんびり是非来たいと言ってくれた。裏雲仙を楽しむ日帰りコースとして最適であろう。私の目的はそのルート探しでもあった。

「右きため道、左あづま道」標石の所在は、合併した雲仙市千々石行政センターに電話した。自然歩道は雲仙にある「長崎県雲仙公園管理事務所」が管理している。そちらへ聞いてほしいとのことであった。現在、担当の方へ問い合わせ中。なにぶん昔のことで標石を知らないし、自然歩道の工事の時でなく、歩道に取り込んだ亀石林道が延長工事をした際、どうかなったのではないかとの話であった。林道に車が入るようになり、持ち運ばれた可能性も考えられる。

地元の人でも、もしこの標石の所在を知っていたら教えてほしい。できれば以前の分岐近くの自然歩道へ戻し、自然歩道が昔から由緒ある街道だったとの説明板をつけ、歩道の一景観となることを念じている。
今回探したコースは、1971年「長崎県の地学」石井氏稿により「地形図には描かれていないが、吾妻岳から鉢巻山の山腹を経て、千々石の野田へ出る道がある。日陰が多いし緑を楽しめながら歩くことができる」とあった。
もう一度近いうちに千々石橘神社から亀石林道を登り、詳しく調査したいと思っている。