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長崎居留地の境石  「くにざかいの碑—藩境石物語」から  

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長崎居留地の境石  「くにざかいの碑—藩境石物語」から

長崎居留地境石は、藩境石塚に引用した「くにざかいの碑—藩境石物語」(昭和58年峠の会発行 福岡)に詳しくあったから、そのまま紹介してみる。この本の標石の記録は20年以上経った今、貴重となった。記録の大切さを知る。「みさき道」は十人町の道塚から活水大学裏へ上ると、そこの塀に埋め込まれたこの境石を見る。

長崎居留地境石—長崎市   (87〜89頁)
明治維新の前後、二十五年の長期間にわたって日本に滞在した英国の外交官アーネスト・サトウが残した『日本における一外交官』のうち、一八六二年(文久二年)の記録に
「(神奈川の)外国人居留地の安全をいっそう確保するために、陸続きの方面に広い堀割をめぐらして、それに橋をかけ、この橋を関所として危険人物の侵入を防ぐとともに、また外部から持ち込まれる品物にも課税しようという一石二鳥の考えから−-」(岩波文庫)
とある。神戸の居留地はどうだったのか。当時の絵図を調べると、ここも居留地の境界は堀割になっていた。
しかし、長崎は丘の上に居留地があったから堀割で囲むのは無理だ、境界標識を設置していたのではなかろうか、というのが長い間、私が抱いていた疑問だった。
そんな私の目にふれた、朝日新聞の記事の一節——。
「十人町の石段を上りつめると東山手町だ。活水女子短大の裏べいには外国人居留地の境界石、いかにも合理的な外人の発想らしい三角溝も残っている」
活水女子短大前は石畳の坂道で、長崎らしい異国情緒を残している一画。居留地時代につくられたと思われる『十三番NO13』などと彫られた道路わきの石は、屋敷番号か、地番号か、読めないほど風化したものもある。
居留地境
と刻んだ境石は、短大の裏塀に半分塗り込められたかたちで保存されている。材質は砂岩でもろく『居』の字は消失している。地上に出るはずの加工された部分の高さは七八㌢。
安政五年(1858)六月に結ばれた日米修交通商条約によって、翌年二月、長崎が開港。各国領事館が設置され、外国人居留地が指定されたとき、この境石はたてられたのであろう。
通りかかった児童を引率した小学校の先生にたずねると、破損したものなら四つ五つあるらしいとのこと。しかし、道を急ぐ先生の説明では、地理不案内の私には所在がよくわからなかった。(略)

このあと、遠来の客を案内して長崎に遊び、十数年ぶりにグラバー邸に足を運んだことがある。幕末、明治初期の木造家屋を多く移転して「長崎の明治村」へと変貌していた。
一番高台に移した三菱ドッグハウスの横の芝生に『居留地境』の境石が保存され、説明板がたっている。『居』の字もきれいに残っている。しかし、観光客のだれひとりとして立ち止まらない。長崎に来ながら居留地という言葉自体に関心がないのであろうか。わずかに同行した家内だけが興味を示した。私はわびしい気持で坂を下った。

以上が「くにざかいの碑—藩境石物語」の記である。私の妻は標石はおろか、私の行動や存在自体に何の関心を示さない。
さて、活水大学裏べいの「居留地境石」はよく知られているが、ここで私が紹介したいのは、文中の「朝日新聞の記事の一節——。…」のくだりである。

それは「みさき道」の参考資料として、古賀町陸門氏から提供いただいた新聞スクラップの中にあった。朝日新聞に掲載された昭和51年4月初めの記事「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(3)にこの文がそっくり表われる(シリーズの全回は、研究レポート第2集に収録している)。

シリーズ(3)の記事は上のとおり。この日の新聞記事を本の著者古賀敏朗氏は目にして、疑問解決のため長崎の居留地跡へ出かけたのだ。調査をしているといろいろな偶然が重なりあうことがある。これもその一例。内容が深まった。
あと1人、このことに気づいている人がいる。後日談でわかったのだが、長崎街道研究の織田武人先生。先生も「くにざかいの碑—藩境石物語」は愛読書であった。

長崎学さるく「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」  江越弘人氏作成資料

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長崎学さるく「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」  江越弘人氏作成資料

これは、平成19年4月28日及び10月14日実施した長崎学さるく「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」の際に、参加者へ配布した講師江越弘人氏(「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者・長崎街道ネットワークの会会長)作成資料である。

古賀敏朗著「くにざかいの碑−藩境石物語」のおもしろい記述

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古賀敏朗著「くにざかいの碑−藩境石物語」のおもしろい記述

古賀敏朗著「くにざかいの碑−藩境石物語」峠の会(福岡)1983年刊の関係文は次のとおり。本は長崎市図書センターに蔵書あり。
著者は佐賀県嬉野の方で教師をされていた。すでに平成15年他界された。全国の藩境石を訪ね歩いた苦労話があり、北は樺太の国境石までの話がある。西日本新聞に掲載された藩境石シリーズをまとめた本である。
この本には長崎の藩境石も数多く登場する。気を惹いたのは次の文の記述である。著者に代わって、本の発行から20年以上経た平成17年の春と秋、友人の川上君らと探索してみた。

A 小ヶ倉の佐嘉藩境石           215〜216頁
長崎市内には日見峠、古賀の佐嘉境石とわずかに形態のちがう、もう一種の佐嘉境石がある。簡単に書きとどめる。
長崎市の山間部、戸町、小ヶ倉を抜けて香焼へ通じるバイパスの工事中、ショベルカーが藩境石を掘り出したという、うわさを聞いた。長崎県立図書館で古記録を調べると、佐嘉領小ヶ倉村と大村領戸町村の藩境紛争が天明七年(1787)に解決し、大久保山と戸町岳の間に六十九の塚を築き、道路が藩境を通過する地点の塚の上に境石をたてている。御境絵図の境石の位置と、今度発見された場所は同じ地点らしい。
長崎駅前から新戸町までバスに乗った。旧道を峠の方へ歩いて行くと、家並みのつづく道路わきに境石がたっていた。
従是南佐嘉領
高さ一五〇㌢、幅ニ四㌢の形のよい藩境石だ。軒下にたっているから、ぼんやり歩いていると、目にとまらない。
刻銘も書体も古賀の境石とまったく同じである。だが、古賀の境石が頭部が平面であるのに対して、こちらは凸形である。私が日ごろさがしている表裏に刻銘した舫境石ではないかと期待して出かけたのだが、普通の境石だった。考えてみれば、大村藩戸町村は安政六年(1859)天領古賀村と交換されたのだから、大村藩の境石など残っているわけはないのである。

B 余談 その3 三重町の境塚       118〜120頁
藩境石をたずねる旅は、簡単にさがしだせることもあれば、何度通ってもみつけることができず、相手の姿を心に描きながら、まだ、会えずじまいに終っているものもある。
この稿は、実見の機会に恵まれない藩境石の一例。

長崎県西彼杵半島の南部、三重町の一部に、三方を大村領に囲まれて東シナ海に臨む佐嘉藩の飛地がある。長崎の豪族、深堀家は鍋島家に従属していたが、一族には大村家に臣事するものもあり、佐嘉、大村両藩の間で藩境紛争が起きた。宝暦二年(1752)に和談が成立、藩境に塚を築いた。そのときの『絵図裏書証文之覚』には「境塚都而(すべて)弐拾弐」とあり、以下、二行に分けて「内舫(もやい)塚三、大村御領塚五、佐嘉領塚四、堅石捨テ」と内訳がつづき、記述は他の件に移っている。
「堅石」とは切り出したままの石のことであろう。そのような石をどこに並べたのか。舫塚三に大村、佐嘉各領の塚合わせて十二。すべて二十二とあるからには、残りの石はどこに設置されたのか。そのへんが、はなはだ茫漠としているが、調査に出かけた。景勝の地で、海岸の高台にたつと、すばらしいながめだった。
古地図のコピーと二万五千分の一の地図でおおよその見当をつけてから、集落で新築工事を監督中の六十を超える年配の棟梁に声をかけてみた。しかし、この人も、何人かの大工さんたちも、境石のことを聞くのは初めてで、そんな塚や石があるだろうか、という。
集落の長老で、一番の“もの知り”といわれる方に会ってみた。私が持参した『絵図裏書証文之覚』の写しを、すらすらと読まれたあと、腕を組まれた。
「向こうの集落は大村領、こちらは肥前領だったと聞いているが、塚のことはまったく知りません。話を聞くのも、いまが初めてです。小さな集落だから、現存するなら私の耳に入るはずです。もし、あるとすれば、あのあたりでしょう」
指された方角は大部分が畑地となっていた。石垣の石として使用されているかもしれないが、さがすにしても、石そのものが見当がつかない。むなしく引き返した。
現実の境石の写真が得られないため、やむをえず宝暦二年の『御境絵図』から「堅石」の絵を借用する。大きさも石質もわからないが、なんとなく「堅石捨テ」の意味がわかるような気のする石の図である。左右の白抜きの四角のマークは両藩の舫塚の図である。

なお、冒頭にふれた深堀家は、鎌倉時代の末、関東から戸八ヶ浦に下向したと伝えられる。戸八ヶ浦は現在の長崎市深堀町。深堀家は佐嘉藩の家老で六千石であった。

以上が関係文。つまり、Aの小ヶ倉については、佐賀・大村領の藩境紛争が天明7年(1787)に解決し「大久保山と戸町岳の間に築いた六十九の塚」の方。著者は塚は実地で確認していない。Bの三重樫山については、著者が樫山へ行って調べても、どうしても「実見の機会に恵まれなかった藩境石・塚・竪石」である。
著者は嬉野から日帰りのため、満足な調査ができなかったと思われる。

私たちの探索の結果は、すでに前の項「大久保山から戸町岳に残る藩境石塚の調査」と、「大村郷村記の三重樫山藩境石塚の存在を確認」に載せ、詳しくは研究レポート第1集・第2集の中に報告している。
他界された著者へのたむけとしたく、私らが長崎の古い標石などに関心を抱くきっかけとなった貴重な記録の本である。

野母崎遠見山電探基地

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野母崎遠見山電探基地

橘湾沿岸の戦争遺跡の「野母崎遠見山電探基地」は別項7で簡略に紹介しているが、本年8月15日の下記新刊本により、高谷氏が詳しい説明を次のとおりされている。

熊本の戦争遺跡研究会「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ 熊本県南編」2007年
髙谷和生氏稿 「橘湾地区の防衛」 129頁
野母崎遠見山電探基地
雲仙の電探が撤去された後は、長崎市野母崎遠見山に特設見張所が設けられ、さらに高性能で前方を探索できる警戒機乙型(衝撃電波を利用し前方で飛行機を探知)が配置されました。
ここは幕末に異国船を見張るための遠見番所も置かれて見晴らしの良い場所で、いまもレーダー設置台のコンクリート製基壇やボルトが残されています。
また、レーダー部周辺の尾根上には、半地下式の通信壕と想定される地下施設(L型)が4か所点在しています。さらにコンクリート製の全長2mの楕円型溜升、方形区画に掘り下げた半地下式の兵舎跡も良好に残されています。

(画像も髙谷氏撮影から)

雲仙普賢岳陸軍電探基地

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雲仙普賢岳陸軍電探基地

本土防衛作戦要綱にあった対空警戒所のうち、電探基地の跡「雲仙普賢岳」と、「野母崎遠見山」については詳細を紹介する。
「雲仙普賢岳」の掲載資料の説明は次のとおり。遺跡がわかるのは、山頂へすぐ出る登山道の左側小ピークとの鞍部。今新しい普賢神社の石祠がある背後の方に大きな石組みの跡などが壊れて散乱していた。登山者の避難小屋かと思っていたが、これは当時、仁田峠窪地の兵舎と別に、ここに送信分隊兵舎があった跡のようである。普賢池に残っていたのも同じような施設でないか。
「野母崎遠見山」は、次項とする。

小浜町・小浜町教育委員会「おばま−史跡めぐりガイド−」平成11年
東部(雲仙)      雲隊と電波塔             88頁
第二次世界大戦中、雲仙はその山岳地形により重要な役割を担うために軍により接収されていた。なかでも、一個中隊程度(200名〜300名)の情報通信部隊(監視隊か?)が普賢岳周辺に配置されていた。普賢岳頂上に偵察用電波塔が建設され、その近くに情報を受信する見張り台があり、兵舎は仁田峠にあった。もちろん、当時これらはすべて国家機密であったらしい。隊長は現在東京に在住されている緒方成男氏(77才)で、氏はたびたび来仙され、本隊の歴史的価値よりその遺産化のために尽力されているという。

熊本の戦争遺跡研究会編「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ 熊本県南編」2007年
髙谷和生氏稿「橘湾地区の防衛」   128頁
雲仙普賢岳陸軍電探基地
雲仙普賢岳には西部軍第36航空情報隊・通称「雲隊」の緒方隊100名が配置され、電波探知機甲(飛行機が送受信所を連なる線に近づいたり、横切ったりした時に探知)を設置、対空監視を行っていました。
その期間は1943年秋から44年11月までの期間で、現地には兵舎基礎部、水槽が確認されています。
詳しくは植木和憲さん(60歳)の研究「島原半島の戦争遺跡 雲仙普賢岳陸軍電波探知機基地」(『2004年度教文しまばら第22号』長崎県高等学校教職員組合島原支部発行)をご覧ください。

(注) 上記の植木和憲氏教育研究論文は、当会の研究レポート第3集に全文を転載収録させてもらっている。当時の写真も同論文のもの。

戦争末期の南串山  南串山町郷土誌から

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戦争末期の南串山  南串山町郷土誌から

橘湾沿岸の戦争遺跡の「南串山京泊震洋基地」は別項8で紹介しているが、南串山町郷土誌には戦争末期の町の暮らしの様子とこの基地のことなどを、次のとおり詳しく記している。
他市町の郷土誌にはほとんど見られないことで、貴重な記録となっている。

南串山町 「みなみくしやま 南串山町郷土誌」 昭和60年
今・昔・そのまた昔 −通史— 昭和時代    328〜330頁

戦争末期の南串山
太平洋戦争の緒戦は戦果をあげていたが、昭和十七年四月、東京空襲を受けてから米軍の総反撃となり、昭和二十年にはB29の爆撃がものすごく、日本全土の主要都市は廃墟となった。
南串山でも敵機の爆音がはげしく敗戦の様相も日一日と濃くなり、本土決戦も辞せず最後の勝利を信じて一億総反撃の意気にもえていた。

日本一若い兵隊さん −吉田一則−
毎年、少年航空兵の募集があっていた。昭和十九年度は南串山第二小学校から二名合格した。その一人吉田一則(小竹木吉田重太郎二男)には、在学中に入隊令達書が届けられた。義務教育の在学中の入隊は初めての事である。同級生一同、入隊の前日学校を休んで村内八社参り(当時応召入営のとき必ず行なった)をし、一則をかこんで武運長久を祈願した。戦時教育を受けていた子供達の顔は、意外に明かるかった。一則は頭脳明晰、運動力もすぐれていたが、体躯は小柄で可愛い子供といった少年であった。勇躍村をはなれて入隊した。

少年航空兵が京泊に駐留
昭和十九年少年航空兵が京泊に駐留、第二小学校(当時国民学校)に宿泊し、京泊・田の平両側の海岸断崖に横穴壕を掘り始めた。隣接町村からも応援工事に協力した。
昭和二十年四月には「マルヨンテイ」人間魚雷用舟艇の操縦士(航空飛行士)岩切部隊が第二小学校を兵舎とし、活動態勢にはいった。敵の本土上陸に対する人間魚雷の作戦であったという。

地域社会のようす
村内各部落には防空態勢が編成され、警察署の指導でよく訓練されていた。各家庭や地域には防空壕が掘られ、服装は、防空ズキン・モンペ・ハダシタビ・戦闘帽・巻脚絆といったいでたちである。布類の配給点数も少なくなり、タオルなどは古い蒲団の布などを代用している者もいた。
農業・漁業も働き手が応召されて手不足、肥料不足、漁火も禁止されるなどで不漁、不振となり、農家も供出割当に難渋していた。戦争遂行のため、あらゆる物資が欠乏していた。村当局の通達により各部落ではヒマ栽培、松根油の採集に努力した(村内の老松はすべて根本に傷がつけられた)。

学校のようす
戦は益々はげしくなり、空襲警報による避難が多くなる。高学年は出征軍人や戦死者遺家族の畑仕事の手伝奉仕、運動場のすみには雑草を刈り集めて堆肥つくりに精出した。
教師は、日宿直は勿論、空襲警報の場合は夜間でも唯ちに登校して学校を守り、御真影(天皇・皇后の写真)の奉安につとめた。第一校には堅牢な奉安殿があったが、第二校では災害の場合、職員室奉安所から移転するよう奉安箱が用意されていた。子供たちの歌もほとんど軍歌となっていた。
大人も子供も死を考える時代であったが、子供達は長期にわたる戦時教育の徹底した中に成長しているので、「勝つまでは ほしがりません」といいながら割合に明るくのびのびとしていた。
昭和十九、二十年には国民学校高等科卒業後、女子生徒は身体検査を受け、挺身隊として大村、諫早の工場で航空戦闘機関係の仕事に精励した。

「富津砲台」は小浦にある「額栗岩」か

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「富津砲台」は小浦にある「額栗岩」か

先項千々石トンネルのある温泉鉄道跡の県道201号線をさらに小浜の方へ進む。木津を過ぎ富津が眼下に見える所に「小浦」バス停があり、海産物店の前から左の車道に入る。300mほど上がると手作りの案内標識があり「額栗岩」まであと500mだが、最近この山道は手入れがされず荒れて行きにくい。
岩がガックリするから「額栗岩」。史跡めぐりガイドなどの説明は次のとおり。現地に平成8年富津小PTAが設置した説明板に、ここが戦跡であったことを唯一記している。釜の城戸昌義さんがここに砲台があったと話されている。

小浜町・小浜町教育委員会「おばま−史跡めぐりガイド−」平成11年
北部(富津・北野地区) 額 栗 岩              11頁
重さ20トン(推定)の岩をあなたにも動かすことができます! 
大きな岩がまるで雪だるまのように2個重なっている。下の岩は崖の一部で、上の岩はどのようにして乗ったのか全く不思議。座りが悪いため、人間一人の力でも動かすことができ、動くたびにガックリガックリと音がすることから「額栗石」と呼ぶようになったの
だろう。

「額栗石」の現地説明板
(表面)        額  栗  石 (ガックリイシ)
がっくり石は、大きな石がふたつ重なってできていて、上の石は一人でも動かせる事ができ、なんだかガックリ、ガックリと音がするようなので、いつの頃からかガックリ石と言われるようになったそうだ。子供達が家の手伝いで牛のエサを取りに行ったり、畑に行ったりして石の上にあがって、石が動いたとか動かないとか言い言い合って、毎日のように時間を忘れ遊んだり、石と石の間にくぼみがありそこに雨水がたまったのを麦からすぼを使ってすいあげ、よく飲んだりしたようだ。
昭和18年頃陸軍の監視所と兵舎ができ、福岡県の甘木太刀洗の航空隊から、1ケ分隊12人位の兵隊さんが来て、其の任に当たっていたそうです。時にはガックリ石の上に乗って監視していたと言うことです。
(裏面支柱)      とみつ小PTA 平成八年八月吉日

宇木会調査  「有喜砲台」の記録

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宇木会調査  「有喜砲台」の記録

橘湾沿岸の戦争遺跡の「有喜砲台」は別項12で簡単に紹介しているが、この調査が契機となり地元歴史研究会「宇木会」(藤原九三人会長)は、当時の砲台従事者で現在存命されている早田さん(諌早市長田町在住)を招き話を聞くなどして調査を進め、平成19年5月、下記のとおり会員木下重則氏がまとめられた稿「沈黙の砲台」を送っていただいている。
砲台と機関砲陣地跡3箇所の現地写真が添えられ、上から説明は次のとおり。有喜砲台の詳細を調査された貴重な資料となり、ここに紹介しておく。
① 日下(くさげ)の砲台跡は、私たちが行った場所のすぐ上の広いスペースが目指す場所で、結局崩落しているので、見た目にはさっぱりわからない状態です。
② 七曲の機関砲陣地跡は、荒れはてて雑木が倒れたりして、一見したところここに機関砲を据えたのかと疑われる程でしたが、石を積んで平らにしようとした痕跡は見られました。
③ 小豆畑の同跡は、それらしき穴があって、雰囲気は感じられました。

木下重則氏(宇木会)稿  「沈 黙 の 砲 台」

先の太平洋戦争末期、南洋の島伝いに攻め上がってきた米軍は、日本本土絶対防衛圏のサイパン・テニアンを陥入れ、続いてわが国最南端の領土硫黄島をも占領した。
この頃、わが海軍は本土決戦の避け得べからざる状況を認め、橘湾も敵の上陸予想地点の一つとして遅ればせながらその防備に着手した。湾奥部の千々石海岸は白砂青松の波静かな海岸で、敵上陸の可能性は極めて高いところである。野母半島の樺島と天草の富岡との線を結ぶ湾の入り口を突破して上陸地点に迫る敵艦艇に対し、湾を抱くように鶴翼に延びる海岸線からこれを砲撃して上陸部隊を漸滅し、地上戦を有利に導こうという作戦思想である。
九州の海域を護るわが海軍佐世保鎮守府では、渡辺中佐を指揮官として第102分隊を編成、指揮本部を茂木に置いてこれを橘湾の守備に当らせた。
砲台は千々石断層添いに茂木、江の浦、有喜、愛野、千々石などに配置し特に有明海の西の出入り口に当たる口の津の早崎の瀬戸では、岩戸山に大口径の長距離砲(15cm砲)を構えて万全を期すこととした。
昭和20年4月、米軍はいよいよ沖縄に殺到し、同6月日本軍は多大な犠牲を強いられながらついに沖縄本島南端の摩文仁の丘に追い詰められ、軍司令官、牛島中将は自決、わが軍の組織的抵抗はこれを以って終わりを告げた。沖縄も敵の手に落ちたのである。
いよいよ本土空襲は熾烈となりB29は毎日定期便のようにやって来て、日本各地の爆撃を繰り返した。
この頃、わが海軍は昼夜突貫工事で橘湾岸各砲台の構築にあたり、ようやくそれは完成に近づきつつあった。わが郷土有喜の砲台では、日下(くさげ)の断崖に横穴を掘って掩体となし、口径12cm、仰角15度の平射砲を以って完成の日を迎えた。
有喜ではこのほかに、敵の上陸用舟艇を標的とした小口径の機関砲陣地が、七曲と小豆畑(いずれも字名)に構築されつつあったがこれらは完成を見ずして終戦を迎えたようである。
有喜の砲台については昭和19年秋、海軍によって計画され、その建設は当時小野島の海軍練習航空隊の中にあった施設部隊が担当し、運用は第102分隊の古賀清平(せいべえ)特務中尉以下12名の将兵がこれに当たった。
この12名のうち、現在存命が確認されたのは諌早市長田町在住の早田さんただ一人であり、「宇木会」の面々は先日、この早田さんにお会いして話を聞く機会を得た。以下は今なお早田さんの記憶に残る60数年前の想い出の一端である。
昭和19年5月、早田少年は18歳で海軍を志願、佐世保の相浦海兵団に入団して新兵訓練を受けた。訓練が終了したその年の秋、渡辺中佐指揮下の第102分隊に配属され、更に古賀特務中尉が指揮を取る有喜(日下)砲台担当12名のうちの一員となった。
当初、この班は松里町の横尾徳太郎氏宅を拠点とし、毎日日下の砲台に通って任務に就いていたがその後しばらくして拠点を森山村上井牟田名の篤農家の家に移した。
指揮官、古賀清平中尉は水兵から叩き上げたいわゆる海軍の裏も表も知り尽くした豪の者で、佐世保鎮守府内でも「鬼の清平」とおそれられた存在であり、雷が落ちるのは朝飯前、ビンタが飛ぶのは毎日のことであった。
砲台弾庫には実弾300発の備蓄があったものの実弾射撃の訓練をするでもなし、毎日砲を磨いたり手入れをしたりするほかはあまり多忙ということはなかった。
食料は不自由な時代で副食こそ贅沢することはなかったが主食の米だけは陸軍に比ぶれば不自由はなかった。
古賀中尉は名うての酒豪で、酒のあるうちは機嫌がよかったが、酒が切れると皆はビリビリしていた。
又同中尉は佐賀県の人で、はじめ古賀家に生まれ後に福岡家の養子となり福岡姓となったがしばらくして又古賀家にもどって古賀姓となった、といういきさつがある。
終戦当日のことはあまりはっきり覚えていないがみんな虚脱してような精神状態であったと思う。部隊はすぐ復員とはいかずそのまま特命の状態であった。その年の9月になると占領軍が来て砲の尾栓を外して持ち去り、砲は機能を失った。その後占領軍の命令とかで枢要な部品や弾薬は、当時島原鉄道の小野駅と森山駅の中間に日本軍が臨時にこしらえていた「天神」という駅の引込み線に貨車を配置してその中に収納し、担当の兵は皆これが警備にあたっていた。
同じ年の秋も深まった11月頃その貨車は命により長崎の出島にあった長崎港駅に回送し、砲の部品や弾薬は近くの岸壁から大型船に積み込んだがその後いずれかへ運び去ったということである。
このようなことがあって間もなく復員の命令が来てお互いはそれぞれの郷里に向かったが帰りには各人宛白米5升の配分があり、これを唯一の土産として砲台を後にした。この時早田さんは19歳、階級は1等水兵であった。
その頃古賀清平中尉は井牟田の女性と結婚していたが戦後どうなったかは分からない。諌早の永昌の一郭で居酒屋を経営していたとか、風の便りに聞いたことはあったが早田さんに会うことはなかったという。
終戦間際に12名の強者が死守せんとした12cm平射砲の砲台跡は、今たずねても一見してそれと分からない程の雑木林の中にひっそり眠っている。         (木下重則)

千々石砲台と小浜温泉鉄道

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千々石砲台と小浜温泉鉄道

橘湾沿岸の戦争遺跡の「千々石砲台」は別項5で紹介しているが、この砲台の造りにはおもしろいことがある。場所は千々石から富津を通る温泉鉄道跡の県道201号線を5分ほど行った釜という所の先。千々石第1トンネルがある。トンネルに入ってすぐ右手の壁面を見てみよう。
この右裏の海岸高台が砲台であった。この砲台への出入りに、昭和13年すでに廃線となり、鉄道として使われていないトンネルに横穴を空けて利用していた。
現在、砲台の壕はコンクリートで塞いだり、フェンス囲いして外側から入れない。トンネル内の壁面は、終戦後同じ石材で築きなおしている。補修跡がはっきりわかる。見てて何となく愉快に感じる戦跡である。こんなことは観光案内や郷土誌もふれていない。トンネルは戦時中、海軍工廠に利用された証言がある。

ところで、この愛野ー小浜間の「温泉鉄道」。線路などの跡は残っているが、いつ頃走ったのかあまり知られていない。他の本によると沿岸を長崎まで引く計画もあったらしいから末恐ろしい。時代に翻弄されたこの鉄道の歴史を次の2資料から簡単に紹介したい。 

千々石町 「千々石町郷土誌」 平成10年11月
第二編 第五節 文明開化      249〜250頁
2 島原鉄道と温泉鉄道
(略)この年小浜鉄道も起工式を行い、難工事の末、一九二七(昭和二)年千々石、小浜北野間一一キロが開通した。こうして愛野村駅から愛野・水晶観音・上千々石・下千々石・木津が浜・富津・小浜へと鉄道が延びた。(「千々石町史」「小浜町史談」「島原新聞記事」)
この両鉄道の営業で、小浜・雲仙への交通は便利になったが、すでに一〇年も前に愛野村・小浜村間に乗合自動車が運行していて、自動車の時代を迎えていた。それで観光客の利用も多くなく、地元の人も思う程活用しなかった。また千々石・小浜間は釜岳斜面にレールを敷設したので、難工事の連続であり、工費がかさんで開通が大幅に遅れた。おまけに短区間の鉄道であるのに、温泉・小浜と二社に分かれていてと、開通はしたものの難問題が多かった。両社が合併して雲仙鉄道になったのは一九三三(昭和八)年のことである。
その一年後に、長崎県営自動車が長崎・雲仙間に自動車を運行したので、それが打撃となってますます営業不振となった。島原鉄道が経営に乗り出したが、多額の赤字はどうにもならなかった。
一九三八(昭和一三)年に株主総会を開いて会社の解散を決定した。わずか一五年で汽車の時代が去った。出資していた地元経済界は多額の負債を抱えた。残念なことに、この雲仙鉄道関係の記録があまり残されていない。ただ線路跡が汽車道として残っているだけである。駅跡には石造りの駅名表示板が、路線図と汽車の勇姿を陶板に焼き付けて掲げている。
この軽便鉄道は七〇歳以上の人たちにとっては思い出深い汽車ポッポである。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁
愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

(追 記)
本ブログの「お薦め図書」(別項)としている熊本の戦争遺跡研究会編「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ熊本県南編」は2007年8月15日刊行された。
この中に髙谷和生氏稿「橘湾地区の防衛」が122〜129頁にあり、「千々石砲台」は次のとおり記されている。

千々石砲台
この砲台は愛野砲台の対岸に位置し、現千々石第1トンネルの北側坑口付近にあります。すでに廃線となった旧小浜温泉鉄道トンネル跡を利用し、トンネル側から掘り、岩盤をつきぬけ砲台射線を千々石海岸に向けました。射線は海岸の深部と限定されますが、特に秘匿性をねらった砲台だったようです。
愛野・千々石砲台は第103分隊の稗田秋儀兵曹長の部隊で防衛がなされていました。また、附近には釜山、富津の砲台も設置されました。