古賀敏朗著「くにざかいの碑−藩境石物語」のおもしろい記述

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古賀敏朗著「くにざかいの碑−藩境石物語」のおもしろい記述

古賀敏朗著「くにざかいの碑−藩境石物語」峠の会(福岡)1983年刊の関係文は次のとおり。本は長崎市図書センターに蔵書あり。
著者は佐賀県嬉野の方で教師をされていた。すでに平成15年他界された。全国の藩境石を訪ね歩いた苦労話があり、北は樺太の国境石までの話がある。西日本新聞に掲載された藩境石シリーズをまとめた本である。
この本には長崎の藩境石も数多く登場する。気を惹いたのは次の文の記述である。著者に代わって、本の発行から20年以上経た平成17年の春と秋、友人の川上君らと探索してみた。

A 小ヶ倉の佐嘉藩境石           215〜216頁
長崎市内には日見峠、古賀の佐嘉境石とわずかに形態のちがう、もう一種の佐嘉境石がある。簡単に書きとどめる。
長崎市の山間部、戸町、小ヶ倉を抜けて香焼へ通じるバイパスの工事中、ショベルカーが藩境石を掘り出したという、うわさを聞いた。長崎県立図書館で古記録を調べると、佐嘉領小ヶ倉村と大村領戸町村の藩境紛争が天明七年(1787)に解決し、大久保山と戸町岳の間に六十九の塚を築き、道路が藩境を通過する地点の塚の上に境石をたてている。御境絵図の境石の位置と、今度発見された場所は同じ地点らしい。
長崎駅前から新戸町までバスに乗った。旧道を峠の方へ歩いて行くと、家並みのつづく道路わきに境石がたっていた。
従是南佐嘉領
高さ一五〇㌢、幅ニ四㌢の形のよい藩境石だ。軒下にたっているから、ぼんやり歩いていると、目にとまらない。
刻銘も書体も古賀の境石とまったく同じである。だが、古賀の境石が頭部が平面であるのに対して、こちらは凸形である。私が日ごろさがしている表裏に刻銘した舫境石ではないかと期待して出かけたのだが、普通の境石だった。考えてみれば、大村藩戸町村は安政六年(1859)天領古賀村と交換されたのだから、大村藩の境石など残っているわけはないのである。

B 余談 その3 三重町の境塚       118〜120頁
藩境石をたずねる旅は、簡単にさがしだせることもあれば、何度通ってもみつけることができず、相手の姿を心に描きながら、まだ、会えずじまいに終っているものもある。
この稿は、実見の機会に恵まれない藩境石の一例。

長崎県西彼杵半島の南部、三重町の一部に、三方を大村領に囲まれて東シナ海に臨む佐嘉藩の飛地がある。長崎の豪族、深堀家は鍋島家に従属していたが、一族には大村家に臣事するものもあり、佐嘉、大村両藩の間で藩境紛争が起きた。宝暦二年(1752)に和談が成立、藩境に塚を築いた。そのときの『絵図裏書証文之覚』には「境塚都而(すべて)弐拾弐」とあり、以下、二行に分けて「内舫(もやい)塚三、大村御領塚五、佐嘉領塚四、堅石捨テ」と内訳がつづき、記述は他の件に移っている。
「堅石」とは切り出したままの石のことであろう。そのような石をどこに並べたのか。舫塚三に大村、佐嘉各領の塚合わせて十二。すべて二十二とあるからには、残りの石はどこに設置されたのか。そのへんが、はなはだ茫漠としているが、調査に出かけた。景勝の地で、海岸の高台にたつと、すばらしいながめだった。
古地図のコピーと二万五千分の一の地図でおおよその見当をつけてから、集落で新築工事を監督中の六十を超える年配の棟梁に声をかけてみた。しかし、この人も、何人かの大工さんたちも、境石のことを聞くのは初めてで、そんな塚や石があるだろうか、という。
集落の長老で、一番の“もの知り”といわれる方に会ってみた。私が持参した『絵図裏書証文之覚』の写しを、すらすらと読まれたあと、腕を組まれた。
「向こうの集落は大村領、こちらは肥前領だったと聞いているが、塚のことはまったく知りません。話を聞くのも、いまが初めてです。小さな集落だから、現存するなら私の耳に入るはずです。もし、あるとすれば、あのあたりでしょう」
指された方角は大部分が畑地となっていた。石垣の石として使用されているかもしれないが、さがすにしても、石そのものが見当がつかない。むなしく引き返した。
現実の境石の写真が得られないため、やむをえず宝暦二年の『御境絵図』から「堅石」の絵を借用する。大きさも石質もわからないが、なんとなく「堅石捨テ」の意味がわかるような気のする石の図である。左右の白抜きの四角のマークは両藩の舫塚の図である。

なお、冒頭にふれた深堀家は、鎌倉時代の末、関東から戸八ヶ浦に下向したと伝えられる。戸八ヶ浦は現在の長崎市深堀町。深堀家は佐嘉藩の家老で六千石であった。

以上が関係文。つまり、Aの小ヶ倉については、佐賀・大村領の藩境紛争が天明7年(1787)に解決し「大久保山と戸町岳の間に築いた六十九の塚」の方。著者は塚は実地で確認していない。Bの三重樫山については、著者が樫山へ行って調べても、どうしても「実見の機会に恵まれなかった藩境石・塚・竪石」である。
著者は嬉野から日帰りのため、満足な調査ができなかったと思われる。

私たちの探索の結果は、すでに前の項「大久保山から戸町岳に残る藩境石塚の調査」と、「大村郷村記の三重樫山藩境石塚の存在を確認」に載せ、詳しくは研究レポート第1集・第2集の中に報告している。
他界された著者へのたむけとしたく、私らが長崎の古い標石などに関心を抱くきっかけとなった貴重な記録の本である。