長崎の巨樹・名木 (東長崎)」カテゴリーアーカイブ

(チ)牧島のツバキ  長崎市牧島町

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(チ)牧島のツバキ  長崎市牧島町

国道251号線により矢上大橋を渡り、戸石入口交差点から右へ入り、牧島に向かう。
大久保病院手前から右折。「牧戸橋」を渡ると、牧島である。修学旅行のペーロン体験施設前を通り、曲崎古墳群の方へ案内標識により進む。
外の海へ出て、曲崎が見える丘の自販機のある三叉路は右方へ。池の神神社へと下りかける。大きな石垣の家がすぐある。
牧島修宅(牧島町237番地)で、前庭に「牧島のツバキ」がある。

ツバキの大木は、前三和町藤田尾のツバキが、幹囲1.48mなど。長崎市指定天然記念物となっている。 https://misakimichi.com/archives/220 を参照。
牧島のツバキが、幹囲2.3mとあり訪ねたが、根元が2つの幹に分かれていた。
大戦中、牧島は特攻艇「震洋」の基地。本部や宿舎が置かれた山本造船所上の高台に、シイやクスノキなどの大木が見られた。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(チ)でツバキを記している。同写真説明は次のとおり。
牧島 ツバキ(幹囲2.3m)。

(ト)あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

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(ト)あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

国道251号線により矢上大橋を渡り、戸石入口交差点から右折して戸石へ向かう。大久保病院前を過ぎた戸石漁港の方から幼稚園へ入る道があり、案内標識により進むと「あやめ東幼稚園」に着く。
アコウは、幼稚園の正門広場と、中へ入った園庭に大木2本がある。園庭のは牧島へ渡る牧戸橋の方から、川岸に眺められる。
次の樹木の再掲。  https://misakimichi.com/archives/809

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ト)でアコウを記している。同写真説明は次のとおり。
戸石あこうの木。幼稚園の玄関前。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木93頁の説明は次のとおり。
◇あこうの大木  戸石のあこうの木

戸石バス停留所から牧戸橋方向へ300m行って左に折れると、あやめ東幼稚園が見える。この幼稚園の玄関前の広場に、この「あこうの大木」がある。昭和30年ころまでは、ここは海であったが埋め立てられ、今はこの辺り住宅地となった。100m手前までが海岸であったそこに自然木として生え、かなりの年月を経て大木に成長したものである。
それを幼稚園の開園と併せ、今の位置に移植に成功し現在は青葉を茂らせている。数百年の年月を思わせる大きな根回りが生きる厳しさ、また、力強さを感じさせる。
なお、これよりひと回り大きかった「あこう」が、400m東の方向にあったが、台風で根元から倒され、今は枯死している。

(ヘ)西陵高校東長崎分校跡のクルギ・バショウ  長崎市古賀町

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(ヘ)西陵高校東長崎分校跡のクルギ・バショウ  長崎市古賀町

国道34号線の古賀町交差点の手前となる左手に、長崎県立西陵高校の東長崎分校跡がある。同校は平成19年3月に閉校した。
校舎は現在、長崎市役所古賀地区事務所と長崎市古賀地区市民センターとなっている。
マップは「分校」としか記していない。場所から見るとここだが、写真のクルギ(クヌギ?)・バショウは、よくわからなかった。

平成6年4月、長崎県立諫早農業高校東長崎分校を改編、西陵高校東長崎分校となった。敷地の北側に枯れた池や木立が残るが、大木は見当たらない。
大木がかえってあったのは、正門あたりと中へ入って左側の植栽地である。樹木札をつけていて、「スイリュウヒバ(イトヒバ)」と「コイヤ」(メタセコイア?)の大木が目立った。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ヘ)でクルギ・バショウを記している。同写真説明は次のとおり。
分校のクルギ(幹周り2.61m)、バショウ(12本)。

(ホ)清藤のセンダン  長崎市東町

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(ホ)清藤のセンダン  長崎市東町

国道34号線が矢上を過ぎて、長崎木材市場前の交差点から右折する。八郎橋を渡って業務ストア前から左の長崎街道の道へ入る。彩が丘団地の先の方の入口まで行き、まっすぐ進むのは明治道である。
「清藤のセンダン」は、この明治道の途中にある。街道の右道脇にセンダンの古木が2本あったが、1本は枯れて伐られていた。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ホ)でセンダンを記している。同写真説明は次のとおり。
清藤のセンダンの木。昔長崎街道を行き来する人たちの休憩場所となったところである。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木94頁の説明は次のとおり。
◇センダンの古木  清藤のセンダンの木

国道34号線、滝の観音入口から分かれ、細い道を東へ200m程行くと、旧長崎街道である。そこからさらに200m北上すると、右手に2本のセンダンの木が並んで立っている。ここはセンダン茶屋と言われ、昔長崎街道を行き来する人たちの休憩場所となったところである。
初夏には青葉が茂り、その枝先にはかれんな花をつけ、そして、樹木の下には格好の日陰を与え、旅人の疲れを癒す憩いの場として最適なところであった。
今ではこの通りは、車の往来が激しいところから、交通事故に遭わないように、黄色いボードでしっかり守られてたたずんでいる。

(ニ)現川分校のサクラ  長崎市現川町

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(ニ)現川分校のサクラ  長崎市現川町

国道34号線が矢上を過ぎて、現川川の橋のところから左折して現川へ入る。現川のバス停から左へJR現川駅の方へ行くと、右手のモダンな建物が現川分校である。
矢上小学校の分校であったが、平成20年4月、長崎市立高城台小学校の開校に伴い、同校の分校に変った。
校庭にあった樹齢100年以上というサクラの老木は、枯れて伐られていたが、切株から次の若木が育っていた。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ニ)でサクラを記している。同写真説明は次のとおり。
現川分校の桜 もう100年以上この地で根を張り、今なお現川分校の子供たちを見守る。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木92頁の説明は次のとおりであった。
◇桜の名木  現川分校の桜

現川分校に、今にも倒れそうな桜の木がある。国道34号線馬場バス停より北西方向へ3kmほど入り、JR市布線の現川駅より100mほど手前に、現川分校はある。明治11年現在の所が校地となった頃、植えられたものと推定される。
今では老樹のため、補強用の支柱と柵に支えられ、根元は大きく口を開けたように穴が開いている。もう100年以上この地で根を張り、今なお現川分校の子供たちを見守っている。

(ハ)現川の山の神神社のカシノキ  長崎市現川町

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(ハ)現川の山の神神社のカシノキ  長崎市現川町

国道34号線が矢上を過ぎて、現川川の橋のところから左折して現川へ入る。現川のバス停からJR現川駅の方でなく、右へまっすぐに川の上流へ行くと、左方に「山の神神社」がある。老木のアラカシが鳥居横に立つほか、他の大木もある。
次の樹木の再掲。  https://misakimichi.com/archives/464

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ハ)でカシノキを記している。同写真説明は次のとおり。
現川 山の神神社のカシノキ。400年は経っていると聞く。毎年10月に願成就の神事。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木92頁の説明は次のとおり。
◇樫の大木  現川 山の神神社の樫の木

現川分校よりさらに500mほど北へ上ると、現川地区の守り神社である”山の神”神社にたどり着く。その入り口にひと際大きく、高い樫の木が居座っている。根元から裂けたように大きく穴の開いたこの老樹は、400年は経っていると聞く。
この神社では、毎年10月に願成就の神事が行われている。

(ロ)現川の連理樹だったスギ  長崎市現川町

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(ロ)現川の連理樹だったスギ  長崎市現川町

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ロ)でムクノキを記している。同写真説明は次のとおり。
現川のムクノキ 幹周り4.21m。
マップでは、JR現川駅から現川峠へ上がる車道の左側(西方)。幹囲4.21mというムクノキの大木なのに、地元で話は聞けないし、所在がどうしてもわからずにいる。

考えられるのは、もう現川峠近くカーブした道路脇に「大権現社」の石鳥居がある。この鳥居下の谷間に、昔の現川峠越しの旧道が残り、大権現社とは別の祠「弁天様」が祀られている。
ここにあったスギとクロガネモチの「連理樹」である。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木89〜95頁には、すでに掲載されていない。
郷土誌の古いのは、東長崎町編「東長崎町誌」昭和38年3月発行。名木・珍木・巨木105頁に、次のとおり「連理」の記録がある。当時の写真も同107頁から。

連 理

現川と加勢首に杉とクロガネモチ(俗称シロキ)の珍しい連理がある。現川より長崎の西山に通ずる山道の中腹で、2本の木がぴったりくっつき、周囲4.85mある。
木の下に素朴な自然石でつくった弁天様がある。毎年9月7日にお祭りがあり、しめなわをはりかえする行事が伝えられている。

以上が昭和38年の記録。「弁天様」は旧道の中ほど。曲がりくねった現在の車道の下から登っても、上から下っても旧道は荒れて歩きにくい。行きやすいのは、大権現社鳥居の手前となる車道を斜めに横切った水路。植林地内のコンクリート溝の中を下ると、「弁天様」の近くに出る。
植林地内には、参詣のかすかな踏み跡が見られる。

連理だったスギの方は、薄暗い谷間に奇怪な枝を広げて、今も生きている。根元に巻き込まれたクロガネモチは、朽ち果て黒々として、大木であった丸い跡だけ残していた。
車道の右と左、クロガネモチとムクノキの違いがあるが、マップの地点と幹周りの大きさからすると、連理樹だったこの木と思われる。
町誌のクロガネモチは、マップどおり、正しくは「ムクノキ」だったのではないか。
このため、樹木の項目も「現川の連理樹だったスギ」に変えた。

最後の写真は、現川峠近くの「大権現社」鳥居と、加勢首で見るクスノキの大木。奥の家は、長崎大学第一外科教授だった調来助医師の養実家となるらしい。昭和20年8月9日大学病院で被爆し、その後、医局員たちとともに被爆者の治療・救護のため、日夜奔走されたことは、今なお語り継がれている。

(イ)矢上切り通しのモチノキ  長崎市田中町

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(イ)矢上切り通しのモチノキ  長崎市田中町

矢上入口となる切通交差点から、マルキョウ東長崎店前を通る国道34号線を行き、しばらく進んで国道右手を見ると、奥の民家裏手の高台に大木が見える。この木が「矢上切り通しのモチノキ」である。
次の樹木の再掲。  https://misakimichi.com/archives/623  

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(イ)でモチノキを記している。同写真説明は次のとおり。
矢上切り通しのもちの木 幹周り3m およそ150年。白山大権現様。被爆したもちの木 爆風で一瞬のうちに葉っぱが全部散る。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木93〜94頁による説明は次のとおり。

◇もちの木の大木  切り通しのもちの木

国道34号線、下切通しのバス停より東南方向へ200mほど行くと、小高い所に見上げるほど大きなもちの木がある。幹回り3mあり、ねじれたように左右に大きく枝を伸ばしている。
安政年間に植えられ、およそ150年は経っていると伝えられている。木の根元に祭られた白山大権現様は、地主の田中家の先祖である田中権蔵氏が1913年(大正2年)、石川県の白山神社を詣でた時のお礼を祭り、当時16軒あった地元の人たちの”守り神”となった。以前は毎月10日に地元の家々で供え物をして、お祭りをされていたが、今では長島實氏が上げ物をして祭っておられる。
この大木、もちの木にも最大の危機があった。それは、長崎に原爆が落とされたとき、その爆風で一瞬のうちに葉っぱが全部散ってしまい、丸裸になってしまった。これぞ正真正銘の被爆したもちの木なのである。今は元気を取り戻し、春になると花を咲かせ、そして、秋には赤い実をつけ、小鳥たちの楽しい憩いの場になっている。

(J)元八大龍王神社のムクノキ  長崎市かき道1丁目

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(J)元八大龍王神社のムクノキ  長崎市かき道1丁目

ジャスコ東長崎店から東望橋を渡り、すぐ右折して八郎川の河口へ向けて川岸の車道を行く。
船だまり近くに「蛎道公民館」があり小川が流れているので、小川沿いの道を住宅地の方へ上がると、すぐ左方に「元八大龍王神社」がある。
この山の裏手側にも「八大龍王神社」があるが、ムクノキがあるのは、ここの「元八大龍王神社」の方である。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(J)でムクノキを記している。同写真説明は次のとおり。
元八大龍王神社 ムクノキ 幹周り3.14m。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊330頁、神社の説明は次のとおり。
八大龍王神社 (かき道1丁目)

八大龍王は西暦1719年、元八大龍王は西暦1743年に建立される。当時コレラ等の伝染病がはやり、死者が出た結果、防止と健康祈願のため創建されたと伝えられている。
現在は小学生による相撲と祈願祭が行われる。境内には300年以上と思われるモクの木(ムクノキ?)がそびえ立っている。

(Ⅰ)池下のアコウ  諌早市飯盛町池下

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(Ⅰ)池下のアコウ  諌早市飯盛町池下

国道251号線により矢上大橋を渡り戸石へ向い、戸石から田結へ回る前の国道の道を行く。
池下バス停から右へ池下橋を渡り、漁港の岸壁道路を70mほど進む。左の一段高い石垣に囲まれた邸宅から張り出した巨木がある。「池下のアコウ」である。
次の樹木の再掲。 https://misakimichi.com/archives/467
根元部分の写真。 https://misakimichi.com/archives/476

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(Ⅰ)でアコウを記している。
現地説明板は次のとおり。

諌早市指定文化財(天然記念物) 池下のアコウ  平成三年五月二十一日指定

クワ科の常緑大高木。葉は楕円形または長楕円形で長さ七〜十三㌢。質は厚く無毛。イチジクに似た小さい果実は熟すと淡紅色を帯びます。海岸近くに生え、紀伊半島の南部、四国、九州、沖縄、台湾、中国南部に分布し、元来、防風、防潮林として植えられます。
池下のアコウは、根本付近から三つの支幹に分かれて海岸側に傾いた樹形をしており幹廻り七・八㍍、樹高十一・五㍍に達します。
県内のアコウの主なものとしては、住吉神社のアコウ(県指定・鷹島町)、五島玉ノ浦のアコウ(県指定・玉の浦町)、奈良尾のアコウ(国指定・奈良尾町)などがあります。
平成十九年三月  諌早市教育委員会