橘湾沿岸の戦争遺跡」カテゴリーアーカイブ

3 網場砲台 2014年3月の現況  [所在地:長崎市春日町]

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3 網場砲台 2014年3月の現況  [所在地:長崎市春日町]

本ブログ「橘湾沿岸の戦争遺跡」2007/6/20(水) 午後 5:00 の次記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/7

・四五口径三年式十二糎砲を1門設置(吉岡さん証言)
・老人ホーム「橘の家」付近の県道下の海岸部に、コンクリート砲台1基の格納壕を確認
・左奥砲側庫には鉄板施工、通用坑、換気孔2基、鉄環1基
(高谷氏資料から)

それから7年近く経過したおととい2014年3月3日(月)午後2時過ぎ。東長崎の織田武人先生からSOS電話があった。地元岩崎さんと2人で、網場砲台を先日2時間かけ、きょうも昼から探しているが、どうしても見つけきれない。現地へ直行を頼むという電話だった。
場所は、県営バス春日車庫下の谷間。県道がカーブする手前からその谷間の小さな畑道を下れる所まで下る。川の脇に杉の植林がある。右手の雑木斜面の方へ回り込むと、まずやや大きな土穴(壕横からの出入り口?)があり、その先にコンクリート造の砲台壕が現存する。

海岸部から約50m位の高地にある砲台。照準は牧島の弁天島付近と考えられる。7年前、上記資料「玉名荒尾の戦争遺跡をつたえるネットワーク」玉名市の高谷先生、及び織田先生も案内したことがあった。私も場所がもううろ覚えになっていた。いっときは探しきれなかった。
織田先生は、長崎市東公民館で歴史講座を持っている。この下調べで急に思い出し、私の研究レポート第3集204頁の記録をもとに、現地調査を再び2人でしていたということである。
受講生を近々、講座で現地に案内するらしい。

網場砲台7年ぶりの現況写真は、上のとおり。場所がうろ覚えになっていたため、もう少し高部で、別の空気穴(換気孔)1か所も見つけた(最後の2枚の写真)。
研究レポート「江戸期のみさき道」第3集204頁の、当時の記録は次のとおり。参考に掲げる。

B 別図第二 砲台配置及水中障害物設置海面概区〔挿図第三十六〕関係

4 網 場      12×1 海軍海面砲台十二糎砲一門

長崎市の東部日見が網場である。湾の南方には海上に立つ「立岩」(ルイ14世岩)がある。砲台跡は立岩の上手山中。網場町の先、春日町の老人ホーム「橘の家」の手前、県営バス「春日車庫前」の下手から降りると立岩との中間くらい。尾根筋のすぐ下に見事なコンクリート造り壕が口を開けていた。
壕の存在は昨年末下調べしたとき、近くに畑を持つ網場溝口さんと吉岡さんから聞いていた。溝口さんは20年位前一度行ったきりである。場所をよく覚えず、今どうなっているかわからないとのことであった。
1月28日、矢上普賢岳帰りの午後4時頃、現地に立ち寄って半時間ほど探したがどうしてもわからず、ミカン畑に出ると運よく溝口さん夫婦がおり、案内してくれると言った。溝口さんの記憶をたどりつつ鎌で藪を払ってやっと土穴を見つけた。しかしこれでない。返って奥さんが昔ツワ取りに行って偶然見かけた壕の姿を覚えており、土穴の下手に回り込むとコンクリート造りの壕があった。標高は50m位の地点。正面に牧島が見える。
高さ2m、全幅3.5m、奥行きは陥没して4.2m位の横穴壕。上部に砲身をつるして出し入れする金具が取り付けられていた。今回の調査でコンクリート造を始めて見た。ここは土面だが、どうしても壕を築かねばならず、前面をコンクリート、奥は炭鉱の坑道と同じように材木を組んだのではないか。上で見かけた土穴は、出入り口のようである。空気穴もあった。
あと1人、畑で話しを聞いた網場吉岡増治さんは、老人ホーム「橘の丘」土地の旧所有者。戦時中、この高台の畑が取られ、沖縄戦に赴く兵隊が高射砲訓練をする広場となっていた。砲座は5門くらいあり、夜間は、海上と網場、春日から探照灯を照らし、撃ち落していた。網場養国寺が幹部の宿舎となり、軍刀を持った教官のような兵士が30人ほどいた。
網場バス停裏側、アバ美容室横の駐車場奥に5穴の壕があるが、これは部落の防空壕である。

深堀城山中腹に残る横堀の陣地  長崎市大籠町・平山町

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深堀城山中腹に残る横堀の陣地  長崎市大籠町・平山町

中世の山城跡「深堀城山」(標高350.4m)のミステリー。前記事により平山町から登った尾根道ピークに、石英の石積み「角石」があることを記した。ここからまだ少し登って行く。
長崎県林業公社植林地となり明確な道は途切れるので、右側の尾根に入るとその途中に、岩面を掘った小規模な横堀(所在図のB)と出会う。これは一体何なんだろうか。

「景観まちづくりトーク&ウォーク 俵石城の縄張り構造と深堀氏」が、2月24日開催された。講師木島先生(九州大学)の配布資料「俵石城縄張り図」によると、深堀城山には山頂近くに8本の畝状堅堀群しか表示されていなかった。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3601

そのため質問したが、善長カトリック墓地下の山中に長さ100mくらいの横堀(所在図のA)を、私は以前から見ている。木島先生へ画像を送ると「写真で見る限りでは、周辺の木の大きさ,断面形状から掘り抜いた道か、水路と考えられる。実際の場所が分からないので、地図等で指示してもらえると助かる」とのことであった。
先生には航空写真地図を送り、話のタネとして再訪の際、確認してもらうようお願いした。

善長墓地下の横堀A(写真1〜2)は、戦時中に掘られたらしいことは、以前から何となく聞いていた。今回、平山側に同じような横堀B(写真3)があることがわかり、はっきりしてきた。
地元平山町の人に聞くと、この横堀は、終戦近く敵アメリカ軍の九州本土侵攻に備えた射撃陣地の壕という。出っ張りが各所にある。昔から攻撃の方向は変らない。
横堀Aと横堀Bが続いているかは、確認していない。いずれにしても、標高が同じくらいの中腹。深堀城山の主な登山道の途中にある。橘湾沿岸の戦争遺跡であろう。書庫はこれに入れる。

野母崎遠見山電探基地

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野母崎遠見山電探基地

橘湾沿岸の戦争遺跡の「野母崎遠見山電探基地」は別項7で簡略に紹介しているが、本年8月15日の下記新刊本により、高谷氏が詳しい説明を次のとおりされている。

熊本の戦争遺跡研究会「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ 熊本県南編」2007年
髙谷和生氏稿 「橘湾地区の防衛」 129頁
野母崎遠見山電探基地
雲仙の電探が撤去された後は、長崎市野母崎遠見山に特設見張所が設けられ、さらに高性能で前方を探索できる警戒機乙型(衝撃電波を利用し前方で飛行機を探知)が配置されました。
ここは幕末に異国船を見張るための遠見番所も置かれて見晴らしの良い場所で、いまもレーダー設置台のコンクリート製基壇やボルトが残されています。
また、レーダー部周辺の尾根上には、半地下式の通信壕と想定される地下施設(L型)が4か所点在しています。さらにコンクリート製の全長2mの楕円型溜升、方形区画に掘り下げた半地下式の兵舎跡も良好に残されています。

(画像も髙谷氏撮影から)

雲仙普賢岳陸軍電探基地

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雲仙普賢岳陸軍電探基地

本土防衛作戦要綱にあった対空警戒所のうち、電探基地の跡「雲仙普賢岳」と、「野母崎遠見山」については詳細を紹介する。
「雲仙普賢岳」の掲載資料の説明は次のとおり。遺跡がわかるのは、山頂へすぐ出る登山道の左側小ピークとの鞍部。今新しい普賢神社の石祠がある背後の方に大きな石組みの跡などが壊れて散乱していた。登山者の避難小屋かと思っていたが、これは当時、仁田峠窪地の兵舎と別に、ここに送信分隊兵舎があった跡のようである。普賢池に残っていたのも同じような施設でないか。
「野母崎遠見山」は、次項とする。

小浜町・小浜町教育委員会「おばま−史跡めぐりガイド−」平成11年
東部(雲仙)      雲隊と電波塔             88頁
第二次世界大戦中、雲仙はその山岳地形により重要な役割を担うために軍により接収されていた。なかでも、一個中隊程度(200名〜300名)の情報通信部隊(監視隊か?)が普賢岳周辺に配置されていた。普賢岳頂上に偵察用電波塔が建設され、その近くに情報を受信する見張り台があり、兵舎は仁田峠にあった。もちろん、当時これらはすべて国家機密であったらしい。隊長は現在東京に在住されている緒方成男氏(77才)で、氏はたびたび来仙され、本隊の歴史的価値よりその遺産化のために尽力されているという。

熊本の戦争遺跡研究会編「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ 熊本県南編」2007年
髙谷和生氏稿「橘湾地区の防衛」   128頁
雲仙普賢岳陸軍電探基地
雲仙普賢岳には西部軍第36航空情報隊・通称「雲隊」の緒方隊100名が配置され、電波探知機甲(飛行機が送受信所を連なる線に近づいたり、横切ったりした時に探知)を設置、対空監視を行っていました。
その期間は1943年秋から44年11月までの期間で、現地には兵舎基礎部、水槽が確認されています。
詳しくは植木和憲さん(60歳)の研究「島原半島の戦争遺跡 雲仙普賢岳陸軍電波探知機基地」(『2004年度教文しまばら第22号』長崎県高等学校教職員組合島原支部発行)をご覧ください。

(注) 上記の植木和憲氏教育研究論文は、当会の研究レポート第3集に全文を転載収録させてもらっている。当時の写真も同論文のもの。

戦争末期の南串山  南串山町郷土誌から

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戦争末期の南串山  南串山町郷土誌から

橘湾沿岸の戦争遺跡の「南串山京泊震洋基地」は別項8で紹介しているが、南串山町郷土誌には戦争末期の町の暮らしの様子とこの基地のことなどを、次のとおり詳しく記している。
他市町の郷土誌にはほとんど見られないことで、貴重な記録となっている。

南串山町 「みなみくしやま 南串山町郷土誌」 昭和60年
今・昔・そのまた昔 −通史— 昭和時代    328〜330頁

戦争末期の南串山
太平洋戦争の緒戦は戦果をあげていたが、昭和十七年四月、東京空襲を受けてから米軍の総反撃となり、昭和二十年にはB29の爆撃がものすごく、日本全土の主要都市は廃墟となった。
南串山でも敵機の爆音がはげしく敗戦の様相も日一日と濃くなり、本土決戦も辞せず最後の勝利を信じて一億総反撃の意気にもえていた。

日本一若い兵隊さん −吉田一則−
毎年、少年航空兵の募集があっていた。昭和十九年度は南串山第二小学校から二名合格した。その一人吉田一則(小竹木吉田重太郎二男)には、在学中に入隊令達書が届けられた。義務教育の在学中の入隊は初めての事である。同級生一同、入隊の前日学校を休んで村内八社参り(当時応召入営のとき必ず行なった)をし、一則をかこんで武運長久を祈願した。戦時教育を受けていた子供達の顔は、意外に明かるかった。一則は頭脳明晰、運動力もすぐれていたが、体躯は小柄で可愛い子供といった少年であった。勇躍村をはなれて入隊した。

少年航空兵が京泊に駐留
昭和十九年少年航空兵が京泊に駐留、第二小学校(当時国民学校)に宿泊し、京泊・田の平両側の海岸断崖に横穴壕を掘り始めた。隣接町村からも応援工事に協力した。
昭和二十年四月には「マルヨンテイ」人間魚雷用舟艇の操縦士(航空飛行士)岩切部隊が第二小学校を兵舎とし、活動態勢にはいった。敵の本土上陸に対する人間魚雷の作戦であったという。

地域社会のようす
村内各部落には防空態勢が編成され、警察署の指導でよく訓練されていた。各家庭や地域には防空壕が掘られ、服装は、防空ズキン・モンペ・ハダシタビ・戦闘帽・巻脚絆といったいでたちである。布類の配給点数も少なくなり、タオルなどは古い蒲団の布などを代用している者もいた。
農業・漁業も働き手が応召されて手不足、肥料不足、漁火も禁止されるなどで不漁、不振となり、農家も供出割当に難渋していた。戦争遂行のため、あらゆる物資が欠乏していた。村当局の通達により各部落ではヒマ栽培、松根油の採集に努力した(村内の老松はすべて根本に傷がつけられた)。

学校のようす
戦は益々はげしくなり、空襲警報による避難が多くなる。高学年は出征軍人や戦死者遺家族の畑仕事の手伝奉仕、運動場のすみには雑草を刈り集めて堆肥つくりに精出した。
教師は、日宿直は勿論、空襲警報の場合は夜間でも唯ちに登校して学校を守り、御真影(天皇・皇后の写真)の奉安につとめた。第一校には堅牢な奉安殿があったが、第二校では災害の場合、職員室奉安所から移転するよう奉安箱が用意されていた。子供たちの歌もほとんど軍歌となっていた。
大人も子供も死を考える時代であったが、子供達は長期にわたる戦時教育の徹底した中に成長しているので、「勝つまでは ほしがりません」といいながら割合に明るくのびのびとしていた。
昭和十九、二十年には国民学校高等科卒業後、女子生徒は身体検査を受け、挺身隊として大村、諫早の工場で航空戦闘機関係の仕事に精励した。

「富津砲台」は小浦にある「額栗岩」か

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「富津砲台」は小浦にある「額栗岩」か

先項千々石トンネルのある温泉鉄道跡の県道201号線をさらに小浜の方へ進む。木津を過ぎ富津が眼下に見える所に「小浦」バス停があり、海産物店の前から左の車道に入る。300mほど上がると手作りの案内標識があり「額栗岩」まであと500mだが、最近この山道は手入れがされず荒れて行きにくい。
岩がガックリするから「額栗岩」。史跡めぐりガイドなどの説明は次のとおり。現地に平成8年富津小PTAが設置した説明板に、ここが戦跡であったことを唯一記している。釜の城戸昌義さんがここに砲台があったと話されている。

小浜町・小浜町教育委員会「おばま−史跡めぐりガイド−」平成11年
北部(富津・北野地区) 額 栗 岩              11頁
重さ20トン(推定)の岩をあなたにも動かすことができます! 
大きな岩がまるで雪だるまのように2個重なっている。下の岩は崖の一部で、上の岩はどのようにして乗ったのか全く不思議。座りが悪いため、人間一人の力でも動かすことができ、動くたびにガックリガックリと音がすることから「額栗石」と呼ぶようになったの
だろう。

「額栗石」の現地説明板
(表面)        額  栗  石 (ガックリイシ)
がっくり石は、大きな石がふたつ重なってできていて、上の石は一人でも動かせる事ができ、なんだかガックリ、ガックリと音がするようなので、いつの頃からかガックリ石と言われるようになったそうだ。子供達が家の手伝いで牛のエサを取りに行ったり、畑に行ったりして石の上にあがって、石が動いたとか動かないとか言い言い合って、毎日のように時間を忘れ遊んだり、石と石の間にくぼみがありそこに雨水がたまったのを麦からすぼを使ってすいあげ、よく飲んだりしたようだ。
昭和18年頃陸軍の監視所と兵舎ができ、福岡県の甘木太刀洗の航空隊から、1ケ分隊12人位の兵隊さんが来て、其の任に当たっていたそうです。時にはガックリ石の上に乗って監視していたと言うことです。
(裏面支柱)      とみつ小PTA 平成八年八月吉日

宇木会調査  「有喜砲台」の記録

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宇木会調査  「有喜砲台」の記録

橘湾沿岸の戦争遺跡の「有喜砲台」は別項12で簡単に紹介しているが、この調査が契機となり地元歴史研究会「宇木会」(藤原九三人会長)は、当時の砲台従事者で現在存命されている早田さん(諌早市長田町在住)を招き話を聞くなどして調査を進め、平成19年5月、下記のとおり会員木下重則氏がまとめられた稿「沈黙の砲台」を送っていただいている。
砲台と機関砲陣地跡3箇所の現地写真が添えられ、上から説明は次のとおり。有喜砲台の詳細を調査された貴重な資料となり、ここに紹介しておく。
① 日下(くさげ)の砲台跡は、私たちが行った場所のすぐ上の広いスペースが目指す場所で、結局崩落しているので、見た目にはさっぱりわからない状態です。
② 七曲の機関砲陣地跡は、荒れはてて雑木が倒れたりして、一見したところここに機関砲を据えたのかと疑われる程でしたが、石を積んで平らにしようとした痕跡は見られました。
③ 小豆畑の同跡は、それらしき穴があって、雰囲気は感じられました。

木下重則氏(宇木会)稿  「沈 黙 の 砲 台」

先の太平洋戦争末期、南洋の島伝いに攻め上がってきた米軍は、日本本土絶対防衛圏のサイパン・テニアンを陥入れ、続いてわが国最南端の領土硫黄島をも占領した。
この頃、わが海軍は本土決戦の避け得べからざる状況を認め、橘湾も敵の上陸予想地点の一つとして遅ればせながらその防備に着手した。湾奥部の千々石海岸は白砂青松の波静かな海岸で、敵上陸の可能性は極めて高いところである。野母半島の樺島と天草の富岡との線を結ぶ湾の入り口を突破して上陸地点に迫る敵艦艇に対し、湾を抱くように鶴翼に延びる海岸線からこれを砲撃して上陸部隊を漸滅し、地上戦を有利に導こうという作戦思想である。
九州の海域を護るわが海軍佐世保鎮守府では、渡辺中佐を指揮官として第102分隊を編成、指揮本部を茂木に置いてこれを橘湾の守備に当らせた。
砲台は千々石断層添いに茂木、江の浦、有喜、愛野、千々石などに配置し特に有明海の西の出入り口に当たる口の津の早崎の瀬戸では、岩戸山に大口径の長距離砲(15cm砲)を構えて万全を期すこととした。
昭和20年4月、米軍はいよいよ沖縄に殺到し、同6月日本軍は多大な犠牲を強いられながらついに沖縄本島南端の摩文仁の丘に追い詰められ、軍司令官、牛島中将は自決、わが軍の組織的抵抗はこれを以って終わりを告げた。沖縄も敵の手に落ちたのである。
いよいよ本土空襲は熾烈となりB29は毎日定期便のようにやって来て、日本各地の爆撃を繰り返した。
この頃、わが海軍は昼夜突貫工事で橘湾岸各砲台の構築にあたり、ようやくそれは完成に近づきつつあった。わが郷土有喜の砲台では、日下(くさげ)の断崖に横穴を掘って掩体となし、口径12cm、仰角15度の平射砲を以って完成の日を迎えた。
有喜ではこのほかに、敵の上陸用舟艇を標的とした小口径の機関砲陣地が、七曲と小豆畑(いずれも字名)に構築されつつあったがこれらは完成を見ずして終戦を迎えたようである。
有喜の砲台については昭和19年秋、海軍によって計画され、その建設は当時小野島の海軍練習航空隊の中にあった施設部隊が担当し、運用は第102分隊の古賀清平(せいべえ)特務中尉以下12名の将兵がこれに当たった。
この12名のうち、現在存命が確認されたのは諌早市長田町在住の早田さんただ一人であり、「宇木会」の面々は先日、この早田さんにお会いして話を聞く機会を得た。以下は今なお早田さんの記憶に残る60数年前の想い出の一端である。
昭和19年5月、早田少年は18歳で海軍を志願、佐世保の相浦海兵団に入団して新兵訓練を受けた。訓練が終了したその年の秋、渡辺中佐指揮下の第102分隊に配属され、更に古賀特務中尉が指揮を取る有喜(日下)砲台担当12名のうちの一員となった。
当初、この班は松里町の横尾徳太郎氏宅を拠点とし、毎日日下の砲台に通って任務に就いていたがその後しばらくして拠点を森山村上井牟田名の篤農家の家に移した。
指揮官、古賀清平中尉は水兵から叩き上げたいわゆる海軍の裏も表も知り尽くした豪の者で、佐世保鎮守府内でも「鬼の清平」とおそれられた存在であり、雷が落ちるのは朝飯前、ビンタが飛ぶのは毎日のことであった。
砲台弾庫には実弾300発の備蓄があったものの実弾射撃の訓練をするでもなし、毎日砲を磨いたり手入れをしたりするほかはあまり多忙ということはなかった。
食料は不自由な時代で副食こそ贅沢することはなかったが主食の米だけは陸軍に比ぶれば不自由はなかった。
古賀中尉は名うての酒豪で、酒のあるうちは機嫌がよかったが、酒が切れると皆はビリビリしていた。
又同中尉は佐賀県の人で、はじめ古賀家に生まれ後に福岡家の養子となり福岡姓となったがしばらくして又古賀家にもどって古賀姓となった、といういきさつがある。
終戦当日のことはあまりはっきり覚えていないがみんな虚脱してような精神状態であったと思う。部隊はすぐ復員とはいかずそのまま特命の状態であった。その年の9月になると占領軍が来て砲の尾栓を外して持ち去り、砲は機能を失った。その後占領軍の命令とかで枢要な部品や弾薬は、当時島原鉄道の小野駅と森山駅の中間に日本軍が臨時にこしらえていた「天神」という駅の引込み線に貨車を配置してその中に収納し、担当の兵は皆これが警備にあたっていた。
同じ年の秋も深まった11月頃その貨車は命により長崎の出島にあった長崎港駅に回送し、砲の部品や弾薬は近くの岸壁から大型船に積み込んだがその後いずれかへ運び去ったということである。
このようなことがあって間もなく復員の命令が来てお互いはそれぞれの郷里に向かったが帰りには各人宛白米5升の配分があり、これを唯一の土産として砲台を後にした。この時早田さんは19歳、階級は1等水兵であった。
その頃古賀清平中尉は井牟田の女性と結婚していたが戦後どうなったかは分からない。諌早の永昌の一郭で居酒屋を経営していたとか、風の便りに聞いたことはあったが早田さんに会うことはなかったという。
終戦間際に12名の強者が死守せんとした12cm平射砲の砲台跡は、今たずねても一見してそれと分からない程の雑木林の中にひっそり眠っている。         (木下重則)

千々石砲台と小浜温泉鉄道

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千々石砲台と小浜温泉鉄道

橘湾沿岸の戦争遺跡の「千々石砲台」は別項5で紹介しているが、この砲台の造りにはおもしろいことがある。場所は千々石から富津を通る温泉鉄道跡の県道201号線を5分ほど行った釜という所の先。千々石第1トンネルがある。トンネルに入ってすぐ右手の壁面を見てみよう。
この右裏の海岸高台が砲台であった。この砲台への出入りに、昭和13年すでに廃線となり、鉄道として使われていないトンネルに横穴を空けて利用していた。
現在、砲台の壕はコンクリートで塞いだり、フェンス囲いして外側から入れない。トンネル内の壁面は、終戦後同じ石材で築きなおしている。補修跡がはっきりわかる。見てて何となく愉快に感じる戦跡である。こんなことは観光案内や郷土誌もふれていない。トンネルは戦時中、海軍工廠に利用された証言がある。

ところで、この愛野ー小浜間の「温泉鉄道」。線路などの跡は残っているが、いつ頃走ったのかあまり知られていない。他の本によると沿岸を長崎まで引く計画もあったらしいから末恐ろしい。時代に翻弄されたこの鉄道の歴史を次の2資料から簡単に紹介したい。 

千々石町 「千々石町郷土誌」 平成10年11月
第二編 第五節 文明開化      249〜250頁
2 島原鉄道と温泉鉄道
(略)この年小浜鉄道も起工式を行い、難工事の末、一九二七(昭和二)年千々石、小浜北野間一一キロが開通した。こうして愛野村駅から愛野・水晶観音・上千々石・下千々石・木津が浜・富津・小浜へと鉄道が延びた。(「千々石町史」「小浜町史談」「島原新聞記事」)
この両鉄道の営業で、小浜・雲仙への交通は便利になったが、すでに一〇年も前に愛野村・小浜村間に乗合自動車が運行していて、自動車の時代を迎えていた。それで観光客の利用も多くなく、地元の人も思う程活用しなかった。また千々石・小浜間は釜岳斜面にレールを敷設したので、難工事の連続であり、工費がかさんで開通が大幅に遅れた。おまけに短区間の鉄道であるのに、温泉・小浜と二社に分かれていてと、開通はしたものの難問題が多かった。両社が合併して雲仙鉄道になったのは一九三三(昭和八)年のことである。
その一年後に、長崎県営自動車が長崎・雲仙間に自動車を運行したので、それが打撃となってますます営業不振となった。島原鉄道が経営に乗り出したが、多額の赤字はどうにもならなかった。
一九三八(昭和一三)年に株主総会を開いて会社の解散を決定した。わずか一五年で汽車の時代が去った。出資していた地元経済界は多額の負債を抱えた。残念なことに、この雲仙鉄道関係の記録があまり残されていない。ただ線路跡が汽車道として残っているだけである。駅跡には石造りの駅名表示板が、路線図と汽車の勇姿を陶板に焼き付けて掲げている。
この軽便鉄道は七〇歳以上の人たちにとっては思い出深い汽車ポッポである。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁
愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

(追 記)
本ブログの「お薦め図書」(別項)としている熊本の戦争遺跡研究会編「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ熊本県南編」は2007年8月15日刊行された。
この中に髙谷和生氏稿「橘湾地区の防衛」が122〜129頁にあり、「千々石砲台」は次のとおり記されている。

千々石砲台
この砲台は愛野砲台の対岸に位置し、現千々石第1トンネルの北側坑口付近にあります。すでに廃線となった旧小浜温泉鉄道トンネル跡を利用し、トンネル側から掘り、岩盤をつきぬけ砲台射線を千々石海岸に向けました。射線は海岸の深部と限定されますが、特に秘匿性をねらった砲台だったようです。
愛野・千々石砲台は第103分隊の稗田秋儀兵曹長の部隊で防衛がなされていました。また、附近には釜山、富津の砲台も設置されました。

野母崎樺島の戦中記録  昭和38年長崎新聞記事から

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野母崎樺島の戦中記録  昭和38年長崎新聞記事から

樺島は長崎半島の最南端の島。昭和61年「樺島大橋」が開通、脇岬と結ばれた。樺島の戦争遺跡については、地元樺島の荒木寿氏調査により、樺島港内に入る左岸「京崎」を天草側へ向いて回りこんだ白浜という海岸を10分ほど歩いたところに、岩面を掘った射堡の横穴壕があったことが判明した。今は1つしか確認できなかった。別図第二は天草へ向けて「水中障害物設置海面概区」が前面海域の場所に表示されている。

荒木氏が地元で具体的な貴重な資料を見つけてくれた。以下の長崎新聞「今だから言おう 本県の戦中戦後断面史」昭和38年8月31日付の記事である。記事には震洋艇は海岸の壕でなく、「漁協前の網干し棚下にかくまって」いたと記されている。当時の樺島港内の様子を推測できる古写真を、荒木氏が所持されている。樺島には海軍海面砲台2門も設置されており、その跡も現地確認している(別項参照)。なお、射堡などの説明は、次のとおり。

射 堡 陸上から、進入する艦艇を魚雷攻撃する基地。沖縄中城湾で実戦利用。横穴壕から敷設レールで発射管を搬出し、射線を確保し、圧搾空気による魚雷発射。「九〇三式連装魚雷発射管二型では、全長8.9m、全幅4.5m、重量12㌧(髙谷氏資料から)
震 洋 艇首に爆薬を装着したいわゆる「特攻用モーターボート」で、他の特攻兵器に比し構造が簡単で大量に生産された。震洋一型の性能は、全長6m、幅1.65m、吃水0.6m、排水量1.35㌧、速力23ノット、航続力20ノットで250海里、爆薬約300kg、12cm噴進砲1基を装備し、乗員は1名である。(戦史叢書から)

長崎新聞「今だから言おう 本県の戦中戦後断面史」昭和38年8月31日付

終戦半年前に決定
みぞれ混じりの北風がピューピューと電線にうなり、低くたれこめた時雲が部落も島影も蔽っていた。これと同じように戦局も暗く、日本全土には、B29が飛来し、南方戦線もまた、次第に後退して灰色が濃いころ−。
横須賀海軍水雷学校の分校である川棚特攻訓練所から特攻服に身を包んだ若い一人の将校が西彼杵郡野母半島の突端にある樺島の浄土宗無量寺を訪れたのは終戦の幕が降りる六か月前、昭和20年2月のはじめのことだった。そのころ、樺島は本土決戦−米軍上陸にそなえて京崎の白浜に二つの魚雷発射場が、また周囲の山には砲台が次々に造られるなど要塞化が進められていた。
村民は、"本土防衛""必勝"を信じて婦人会や小学生までモッコかつぎや防空壕掘りに懸命。島全体が"火の玉"と燃えていた。
無量寺の本堂で柳崎輝月師(現在67才)と対座した特攻服のT大尉がおもむろに口を切った。
「これは、軍の極秘事項だがこの樺島をマル四艇の中間基地にすることになった補給と発進をやる重要任務だ。それで、このお寺に無線指揮本部と砲台部を置きたい。ぜひ協力してほしい。」
柳崎師にとっては全くヤブから棒の話し。命令口調であるが、その言葉の中には、何かにすがりつこうとする必死の色がみられる。腕を組み、じっと考え込んで、柳崎師は無言。「……」「老師、どうか協力を」T中尉は身を乗り出してたたみ込むように返事を待つ。やがて「お国のためです。それに私の二人の息子も予科練に入っている、ようござんす、自由にお使い下さい。」口を開いた柳崎師は、きつぱり言い切った。

一週間で基地完成
帝国海軍で二番目に優秀だという無線機をたずさえた本部要員一個小隊(30人)が高速艇で樺島に入ったのは、それから三日後の2月10日、すぐ無線が同寺母堂2階の四畳半の部屋に据え付けられ、大小のアンテナがはりめぐらされた。補給物資も次々と運び込まれ、米・缶詰・衣類などは、本堂の裏に山のようにつまれた。
また、樺島と脇岬の瀬戸にある中之島はガソリンを詰めたドラムかんが数百本も持ち込まれ、むしろと枯れ草でおおいかくされた。
こうして"マル四艇樺島基地"は一週間たらずで実現。弾薬を腹にいだいたマル四艇数十隻が入れかわり、たちかわり樺島漁協前海岸に姿を見せ、それがいつとはなしにどこかに消えていくようになった。
純白のマフラをなびかせた若い隊員は出発直前のひとときをこの無量寺や民家で過ごすが、その顔ぶれは毎日毎日変わってゆく。死を直前にしているとゆうのに彼らの表情は案外あかるかった。
柳崎師や島の人達は二度と帰ってこないマル四艇とその若い乗組員をだまって静かに見送っていた。

三菱造船で二百隻
このマル四艇は戦況がしだいにかたむきかけた昭和19年4月に軍司令部が航空本部に命じて製作させた水上特攻艇、全長15.1メートル、重量1.4トンで総ベニア板製、自動車エンジンをつけ速力23ノットの一人のり高速モーターボートで艇首に爆薬を積んで敵艦船に突っ込み、体当りの攻撃をかけるため計画された。航空、水中の各種特攻兵器の生産が行き詰まった時だったが、マル四艇は大量にストックされていた自動車エンジンを使って大量生産がはじまり、三菱長崎造船所でも200隻が造られた。
そして、卒業して乗る飛行機がない甲種予科練習生がこのベニア板製の特攻艇に若い命をたくすべく川棚訓練所で養成されていたのである。物量に圧倒的な強味を持つ米軍はレイニ島から沖縄へと、じりじりせまってくる。これに対抗するには 〜日本魂〜 一発必中の特攻しかなかったのだ。
大本営が本土決戦態勢に入ってからのその必要性はますます強くなり、マル四艇の樺島出入りはぐっとひんぱんになってきた。

かぎつけたグラマン
マル四艇は、きょうも樺島港に爆音をのこして飛び出していく。一隻、ニ隻、三隻と…しかし、これから船艇は何処に出撃するのか?行き先は全くの謎である。
耳をつんざくようなエンジンの響きと白波の航跡が交錯する樺島港に真夏の太陽が輝く7月の始め、敵艦上機グラマンが姿を見せマル四艇を捜し出した。
それから、不気味な偵察が数日間続いたのち、やがて機銃掃射の雨がマル四艇を襲いはじめたのである。
長崎市に原爆が投下された三日前の8月6日朝、川棚訓練所からS大佐指揮のマル四艇二十隻が白波をけって入港してきた。大佐の艇だけは、両脇に魚雷をかかえている。漁協前の網干し棚下にかくまわれると、全隊員が上陸、無量寺にやって来た。「お世話になります。」とひと声かけて…。S隊長を除くみんなが予科練の若者ばかり。
5時過ぎ、指揮本部に全艇出動の無線指令が入った。待ちかまえたように隊員はかけ足で海岸へ。全艇が高音をたて島をあとにした。

襲いかかる敵機群
そのマル四艇隊が樺島港をでて京崎鼻を回り、白浜の沖にさしかかったときだった。西方上空にボツボツとグラマンの影、敵機は13機だ。
その機影はみるみるうちに大きくなり、マル四艇の群れにおおいかぶさってきた。バリ、バリ、バリ、と耳をつんざくような機銃掃射の音。
「マル四艇がやられている。」柳崎師は、はっとなって本堂の裏山にかけあがった。みると鷹が小スズメを狙った時の格好でグラマンが襲いかかっているではないか。
対空砲火をもたぬ丸裸同様のマル四艇は、右に左に逃げまどうばかり。
ジグザグの航跡と豆粒ほどの獲物を求めて、乱舞するグラマンの姿、海面に泡立つ機銃弾のしぶきは、白浜の沖を文字通り白く模様がえするかの如きすごさである。やがて、力つき果てたマル四艇があちこちで火を吹きはじめた。
そして爆薬を抱いた同艇は一隻、二隻と火災をあげて撃沈。海底のモクズとなっていった。
樺島の沖を真っ赤に染めその全艇が爆沈したのは、ほんの瞬間の出来事だった。

生存者わずか3名
陸上にあった指揮本部も右往左往だ。留守役の甘糟一等兵曹(山形県出身)や志賀二等兵曹(大分県出身)らが金切り声をあげ「遭難マル四艇を救え。」と狂奔状態である。樺島診療所の久々原政一医師が呼び出され、居合わせた海軍高速艇で現場に走る。日はとっぷりと暮れ、波が高かった。
遭難現場に近づくと波の間に「たすけて−!」の声がかすかに聞こえる。
「生きているぞ!」甘糟一等兵がわめく、「あっ、あそこにも」壊れた船体にしっかりと掴まり九死に一生を得た若い隊員3人が艇上に収容された。ひどい傷だ。久々原医師が手早く応急措置をしたが出血は止まらない。うめき声が耳にいたい。「水を…水をくれ」苦痛のなかで叫ぶ哀願が空しく暗夜の海上を流れる。
「早く陸地で手当せねばあぶない」久々原医師の声。暗い海上に泡立つのは波頭だけだ。救助艇は後ろ髪を引かれる思いで捜索を断念し樺島に引きかえした。虫の息の負傷者は無量寺で一夜を過ごし、翌日佐世保病院に移された。S隊長をはじめ、隊員17人は水のもくずとなった。
これは樺島を基地とするマル四艇最後の出発であり、それが悲劇に終わったのだった。