3 網場砲台 2014年3月の現況  [所在地:長崎市春日町]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

3 網場砲台 2014年3月の現況  [所在地:長崎市春日町]

本ブログ「橘湾沿岸の戦争遺跡」2007/6/20(水) 午後 5:00 の次記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/7

・四五口径三年式十二糎砲を1門設置(吉岡さん証言)
・老人ホーム「橘の家」付近の県道下の海岸部に、コンクリート砲台1基の格納壕を確認
・左奥砲側庫には鉄板施工、通用坑、換気孔2基、鉄環1基
(高谷氏資料から)

それから7年近く経過したおととい2014年3月3日(月)午後2時過ぎ。東長崎の織田武人先生からSOS電話があった。地元岩崎さんと2人で、網場砲台を先日2時間かけ、きょうも昼から探しているが、どうしても見つけきれない。現地へ直行を頼むという電話だった。
場所は、県営バス春日車庫下の谷間。県道がカーブする手前からその谷間の小さな畑道を下れる所まで下る。川の脇に杉の植林がある。右手の雑木斜面の方へ回り込むと、まずやや大きな土穴(壕横からの出入り口?)があり、その先にコンクリート造の砲台壕が現存する。

海岸部から約50m位の高地にある砲台。照準は牧島の弁天島付近と考えられる。7年前、上記資料「玉名荒尾の戦争遺跡をつたえるネットワーク」玉名市の高谷先生、及び織田先生も案内したことがあった。私も場所がもううろ覚えになっていた。いっときは探しきれなかった。
織田先生は、長崎市東公民館で歴史講座を持っている。この下調べで急に思い出し、私の研究レポート第3集204頁の記録をもとに、現地調査を再び2人でしていたということである。
受講生を近々、講座で現地に案内するらしい。

網場砲台7年ぶりの現況写真は、上のとおり。場所がうろ覚えになっていたため、もう少し高部で、別の空気穴(換気孔)1か所も見つけた(最後の2枚の写真)。
研究レポート「江戸期のみさき道」第3集204頁の、当時の記録は次のとおり。参考に掲げる。

B 別図第二 砲台配置及水中障害物設置海面概区〔挿図第三十六〕関係

4 網 場      12×1 海軍海面砲台十二糎砲一門

長崎市の東部日見が網場である。湾の南方には海上に立つ「立岩」(ルイ14世岩)がある。砲台跡は立岩の上手山中。網場町の先、春日町の老人ホーム「橘の家」の手前、県営バス「春日車庫前」の下手から降りると立岩との中間くらい。尾根筋のすぐ下に見事なコンクリート造り壕が口を開けていた。
壕の存在は昨年末下調べしたとき、近くに畑を持つ網場溝口さんと吉岡さんから聞いていた。溝口さんは20年位前一度行ったきりである。場所をよく覚えず、今どうなっているかわからないとのことであった。
1月28日、矢上普賢岳帰りの午後4時頃、現地に立ち寄って半時間ほど探したがどうしてもわからず、ミカン畑に出ると運よく溝口さん夫婦がおり、案内してくれると言った。溝口さんの記憶をたどりつつ鎌で藪を払ってやっと土穴を見つけた。しかしこれでない。返って奥さんが昔ツワ取りに行って偶然見かけた壕の姿を覚えており、土穴の下手に回り込むとコンクリート造りの壕があった。標高は50m位の地点。正面に牧島が見える。
高さ2m、全幅3.5m、奥行きは陥没して4.2m位の横穴壕。上部に砲身をつるして出し入れする金具が取り付けられていた。今回の調査でコンクリート造を始めて見た。ここは土面だが、どうしても壕を築かねばならず、前面をコンクリート、奥は炭鉱の坑道と同じように材木を組んだのではないか。上で見かけた土穴は、出入り口のようである。空気穴もあった。
あと1人、畑で話しを聞いた網場吉岡増治さんは、老人ホーム「橘の丘」土地の旧所有者。戦時中、この高台の畑が取られ、沖縄戦に赴く兵隊が高射砲訓練をする広場となっていた。砲座は5門くらいあり、夜間は、海上と網場、春日から探照灯を照らし、撃ち落していた。網場養国寺が幹部の宿舎となり、軍刀を持った教官のような兵士が30人ほどいた。
網場バス停裏側、アバ美容室横の駐車場奥に5穴の壕があるが、これは部落の防空壕である。