月別アーカイブ: 2010年10月

十郎岳から岩屋山南西尾根を縦走し舞岳へ  平成22年10月

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十郎岳から岩屋山南西尾根を縦走し舞岳へ  平成22年10月

平成22年10月31日(日)晴。十郎岳(標高248m)から岩屋山南西尾根を縦走し舞岳(標高
252m)へ。参加6人。みさき道歩会の例会。
かきどまり総合運動公園9時30分発ー十郎岳ー岩屋山分岐ー九州自然歩道(昼食)ー舞岳ー式見14時20分着(徒歩距離約12km)

十郎岳は、かきどまり総合運動公園前バス停のすぐ上にある岩峰。最初の写真が手熊側から見た十郎岳。20分ほどで登り、展望を楽しむ。岩屋山の方へ向けて尾根道を1時間30分たどり、林道が九州自然歩道へ出合った所で昼食。

午後は、岩屋山南西尾根の九州自然歩道を下る。舞岳鞍部に30分で着き、いよいよ舞岳へ。急登で20分要する。山頂の説明板にあるとおり、舞岳は大村郷村記が記す中世期の山城跡である。下りはテープを伝って行ったら、約1時間で式見向町の新道へ出た。

せっかく良い天気だったのに、なぜかデジカメはモードが違い、さえない色調の写真となった。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/26398598.html

長崎外の古写真考 目録番号:5426 日光浦見の滝(1)ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5426 日光浦見の滝(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5426 日光浦見の滝(1)   関連作品 目録番号:6683 日光浦見の滝(2)

■ 確認結果

目録番号:5426「日光浦見の滝(1)」と目録番号:6683「同(2)」の、正しい滝名は「裏見滝」であろう。データベース上には「日光裏見滝」で、同じような写真の目録番号:285(1)など8作品があり、タイトルの集合が必要。
修学旅行のための日光ガイドHPによる「裏見滝」の説明は次のとおり。現在の写真も同HPから。
裏 見 滝

奥日光三大名瀑(華厳滝・裏見滝・霧降滝)のひとつ。高さ45メートル 幅2メートル 落差19 メートルの滝。滝を裏側から見ることができたことからこう呼ばれています。滝の裏には不動明王が祀られ、お参りもできるがかなりせまい。資料が確認できなかったのですが、崩落があったと記憶しています。江戸時代にはもっと広かったのでしょう。

この不動尊は寛永元年(1624年)奥州の出羽三山から荒沢不動尊が迎えられ、天海大僧正の命により、裏見滝に安置されたといいます。そして男体山、太郎山、大真名子山への信仰登山のための修行場となっていたそうです。
駐車場から徒歩10分で滝までいけますが、木の橋を渡ったり岩場を歩いたりとハードな行程ですので、運動靴は必須です。滝裏には不動明王の像がありますが、飛沫がかかりますのでそれなりの格好をしていくと良いでしょう。また滝裏は非常にせまく足下も悪いので気をつけてください。

奥の細道で、芭蕉は次のように書いています。
廿餘丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめて入て滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申傳え侍る也。
暫時は瀧に篭るや夏の初(げのはじめ)

長崎の西空の夕日  10−14

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長崎の西空の夕日  10−14

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成22年10月 9日の17時58分頃
写真  4〜 6  平成22年10月10日の17時50分頃
写真  7〜 9  平成22年10月17日の17時36分頃
写真 10〜12  平成22年10月24日の17時26分頃

稲佐山南尾根を縦走し塩浜町へ  平成22年10月

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稲佐山南尾根を縦走し塩浜町へ  平成22年10月

平成22年10月17日(日)快晴。稲佐山南尾根を縦走し、あと岩瀬道方面への新ルート山道の確認。岩瀬道ではなく、塩浜町宮地獄神社へ出た。参加11人。みさき道歩会の例会。最初の写真が、本日のコース。朝、対岸の出島ワーフから写している。
水の浦公園9時30分発ー天狗岩ー稲佐山(標高340.3m)ー南尾根ー展望岩(昼食)ー飽の浦峠ー九電作業道ー塩浜町宮地獄神社15時着(徒歩距離約10km)

水の浦公園からすぐ先右手の斜行ゴンドラが設置された石段を上がり、墓地内を通ってホテル清風先の稲佐山中腹道市道へ出る。水の浦トンネル入口まで行くと右手に石段があり、昔の登山道が残る。「天狗岩」は水の浦トンネルの真上なので、畑小屋から往復する。

登山道はあと尾根をほぼ直登。天狗岩から約50分ほどで、稲佐山展望台真下の車道カーブ地点へ出る。この道は歩く人はほとんどいない。今は荒れ気味で、車道へ出る直前がかわりにくい。
稲佐山山頂は省略。車道を少し下って南尾根の縦走にかかる。30分ほどで展望の良い岩場へ出たので昼食とした。ちょうど12時前。

南尾根はここから痩せ尾根が続く。写真を撮りながら行くと、遅れて先頭から4人がはぐれてしまった。岩をくぐって右手急斜面を下って行くと、飽の浦峠の先へ出た。岩をくぐる直前が分岐。岩をくぐらず左尾根へ下らないと峠の手前に出ないそうだ。分岐には道標が必要だ。
峠の手前「入船ヶ丘」バス停で合流。立神山・天門峰への本来の縦走路へ入る。

飽の浦峠から登って行くと、すぐ九州電力「三菱重工向島分岐線4号鉄塔」がある。本日の目的は、鉄塔すぐ下から九電作業道を歩き、岩瀬道へ出る新ルートの確認。歩きやすい山腹の道を九電標識により伝うと6号鉄塔手前で、入船町・塩浜町町境谷間の人家へ出たので、そのまま飽の浦公園前バス停へ下り解散した。

私のみルート確認があり山道へ戻って、6号鉄塔へ上がり7号鉄塔まで伝うと、7号は塩浜町山手の「宮地獄神社」境内脇だった。入船側から6号鉄塔へはまったく難解な道。誰でも歩けないだろう。
宮さんの参加ブログは、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/26275050.html

新長崎漁港の水準点  長崎市三重町翡翠ヶ丘公園下

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新長崎漁港の水準点  長崎市三重町翡翠ヶ丘公園下

長崎市神の島町、四郎ヶ島西側の小島に見かけた建設省第四建設局「四建水準点」の2009年3月の記事を、次により紹介している。
https://misakimichi.com/archives/1665

今回は、長崎市三重町、翡翠ヶ丘公園下の海岸岩場で見かけた長崎県「基本水準標石」である。刻面は2面。正面「昭和六十年九月 基本水準標石」、右面「長崎県」。根元の岩にはプレートがあり、「基本水準面上6.857m」。
三重海岸変成鉱物の産地は、 https://misakimichi.com/archives/2406
「新長崎漁港」の、ウィキペディア フリー百科事典による説明は次のとおり。

長崎漁港(ながさきぎょこう)は、長崎県長崎市にある特定第3種漁港である。かつては長崎港内に位置していたが、1989年(平成元年)に主な漁港機能を長崎市北西部の畝刈・三重地区に移転した。長崎港と区別するために新長崎漁港(しんながさきぎょこう)と呼ばれることもある。
沿 革
・1951年9月7日 – 特定第3種漁港に指定。
・1972年 – 畝刈・三重地区の新漁港建設が竣工。三重浦の遠浅の海岸に埋立・浚渫を施し、湾口に防波堤を建設した。周囲は加工場・住宅地の造成も進められ、都市化が進んだ。
・1987年8月末 – 台風12号により、完成間近の新漁港が大きな被害を受けた。
・1989年 – 漁港機能を畝刈・三重地区へ移転した。

標石刻面の「昭和六十年九月」は、1985年当時のこと。「新長崎漁港」は建設途中である。長崎県がこの工事に関係して設置した水準点と思われる。

「ガーデニング ワールドカップ 2010ナガサキ」 石原氏のアーチ式石橋?作品

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「ガーデニング ワールドカップ 2010ナガサキ」 石原氏のアーチ式石橋?作品

ハウステンボスで「ガーデニング ワールドカップ 2010ナガサキ」が、10月9日から17日まで開催中(展示は31日まで)である。“花と緑で世界平和を!”の呼びかけに、世界のトップガーデナーたちが、国内で初めて長崎・ハウステンボスに集まった。
世界中で最も権威ある英国チェルシーフワラーショーを始め、世界各国のフラワーショーイベントのメダリスト達が、母国の名誉と威信を賭け、最高峰のガーデニング技術を競い合う緑の祭典。

10月10日(日)妻らが見学に行き、写してきたのは、大会を招致した長崎在住ガーデナー石原和幸氏の作品「緑の詩 Song of Peace」。入賞は逸したが、アーチ式石橋?を造られていたので、写真を紹介する。
ベストインショーに輝いたイギリスのアンディ・スタージョン氏の作品「手を差し伸べて Reaching Out」は、最後の写真である。

千々峠登山道整備と八郎岳へ  平成22年10月

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千々峠登山道整備と八郎岳へ  平成22年10月

平成22年10月10日(日)快晴。3日(日)が大雨のため延期した千々峠(乙女峠)登山道整備と八郎岳(標高590.0m)へ。参加7人。
平山バス停9時30分発ー千々峠(乙女峠)昼食ー小八郎岳は巻道ー八郎岳ー平山14時30分着(徒歩距離約10km)

長崎市民農園前林道奥の登山道入口から千々峠へ登る。八郎岳は九州百名山の1つ。市外から初めての登山者も多い。普通は逆コース。千々峠から下って来た人の話では、ガレ場などで道を間違った人が多い。百名山なので何とかしてほしいと聞いていた。
国土地理院が1月ほど前、赤マーカーをしていたので、その確認に行った。明日の「長崎市民体育・レクレーション祭」軽登山が寺岳へ行くため、市山岳連盟関係者もきのう、このコースの下見整備をしていたので、私たちはきょう何もすることなく、千々峠へ着いた。

千々峠から下る場合、間違いやすいのは、峠下5分位の大木のある所ではないだろうか。ガレ場の上部から正しい道は右尾根へ巻くが、そのままガレ場の踏跡へ下りやすい。ロープを張るなり、石止め、道標などの必要を感じた。そのうち、また出直したい。
千々峠で早々と昼食。小八郎岳はパスし巻道を通って八郎岳へ。山頂は連休で登山者が多かった。大村から来た大型犬”モールス”君もいた。架橋工事中の伊王島大橋(橋桁は連結済み)が見えた。最初の八郎岳全景は平山台団地から。自宅の帰りに写した。

長崎の西空の夕日  10−13

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長崎の西空の夕日  10−13

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 2  平成22年 9月24日の18時17分頃
写真  3〜 4  平成22年 9月25日の 6時26分頃 朝空の月
写真  5〜 7  平成22年 9月25日の18時13分頃
写真  8〜10  平成22年10月 6日の17時44分頃

陸軍省要塞地帯標 豊豫要塞に「F.Z.3rdZ」があった

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陸軍省要塞地帯標 豊豫要塞に「F.Z.3rdZ」があった

これも佐世保市住まい、陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。高橋氏は佐世保のみならず、全国へも出かけ、これら標石の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。
本文は、大分県「豊豫要塞地帯標」調査の記録である。資料・写真は多くもらっているが、ここに掲げるのはその一部であるので、了承をお願いしたい。
「F.Z.3rdZ」の意味は、https://misakimichi.com/archives/2433 を。

高橋輝吉氏稿  陸軍省要塞地帯標 豊豫要塞に「F.Z.3rdZ」があった

先の日清戦の後、明治32年「要塞法」が出来た。下関・長崎・豊豫も、その流れの中に組み込まれた。日露の時代を通り越し、軍拡の時代が来た。証しとして建てた、要塞地帯を示す標石が、下関には多くの標石が「S.M.」より「F.Z.」まで。長崎「F.Z.」3本。佐世保なし。奄美大島3本。

当地「豊豫」はと、3年位前より調査。古写真「S.M.1stZ 豊豫要塞第一地帯標」佐賀関標石は今は現物なし。要塞司令部は佐賀関に、豊豫海峡を睨む。特に大きい人が通る。誰だ。「大和」さんだ。「要塞法」により、昭和15年になると、拓く四国・宇和鼻一帯。臼杵・佐伯の海岸一帯が海峡。水道を中心に、要塞線が出来た。
臼杵の高い山「姫岳」(標高619.9m)に其の証しがあった。「F.Z.3rdZ」です。「大和」は昭和16年、此処を通る。○秘の時代と戦後の間、「姫岳」に立って居た。(注 昭和9年1号、昭和15年11号陸・海軍省告示参照)

下関方面が少し済み、「佐賀関」はと、3,4人の方と当り、探し求めたが今1つ。臼杵の史談会の方に当り、三角点と他に石有りと、此れかなと思い「姫岳」へ。豊豫水道を睨む標石「F.Z.3rdZ 豊豫要塞第三区地帯標」「第13号」「陸軍省」「昭和15年10月」(書は2日)。
地元の方は「F.Z.3rdZ」は、良く解しなかったと思う。「大和」が通った。「姫岳」標石は役目を果たしたのかなー。次に「武蔵」も通る。(「大和」昭和12年起工、昭和16年4月完、昭和20年4月7日沈没)

(写真説明の別書き) 姫岳頂上に有った「陸軍省」
豊豫要塞司令部は佐賀関だった。昭和15年になると、元の要塞地帯を広く、広く、東の方四国は西海岸一帯から、大分の「坂の市」下る「佐伯」に至る山の中、上は「戸塚山」より「石神越」に至る地域。
何んでこのようなー。若しや大きな人が2人通る。豊後水道を。「大和」「武蔵」さんだ。「大和」完成当時、2艦は極秘だった。頂上にあった標石も、2つ上の「F.Z.」で有ったが、少し標石には違和感を…。他の連山にも有るかなー。

陸軍省要塞地帯標 軍縮の標石を見た壱岐

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陸軍省要塞地帯標 軍縮の標石を見た壱岐

これも佐世保市住まい、陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。高橋氏は佐世保のみならず、全国へも出かけ、これら標石の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。
本文は、「壱岐要塞地帯標」調査の記録である。資料・写真は多くもらっているが、ここに掲げるのはその一部であるので、了承をお願いしたい。
壱岐要塞「黒崎砲台」跡の現況写真は、私が2008年9月、壱岐を訪れた際に写していた。猿岩展望所のすぐ近く。

高橋輝吉氏稿  陸軍省要塞地帯標 軍縮の標石を見た壱岐

下関と対馬間の島「壱岐」。軍縮の大砲を据え付けた島「壱岐要塞」。大正13年以降に実施。戦艦「土佐」より外した大砲。当時の軍部は困った事だと思った人が何人居た事か。今日思うと無駄な事だと思うが、当時としては「軍縮」が先です。
当時はすべてが大陸へ、大陸へと向かって居た。総てが大陸へ行けば何んとかなるさと。不況となって居た。大砲もその当りが来た。「ドイツ」より古い大砲。軍費の節約か。

佐世保・下関・長崎と、要塞地帯を示す標石が平戸市北部の薄香にあった。「壱岐要塞区域標」で「第8号」「大正13年8月10日」(上段写真)。要塞標石は節約の時代に造ったのかなー。標石は「コンクリート」製で、他の要塞地石は御影石で一部硬い石です。
他にも有るかなーと思い、「渡島」に問い合せた所、外人が持ち帰ったとの事。平戸の分は、釣り人の方が通り道に有りと、自分と同じ生年月日と言ってましたから、確実と思った。各地の標石を見た限りでは、石にも軍縮の波が。他には改刻が多く見られます。

対馬、壱岐はどうなっているのかなーと思い、対馬へ行ってみた。対馬には知人が居ます。多くの石、発見です。さて対馬、今年3月「豆酸(つつ)」に標石有りと。此処で変な標石発見。此の石は友人の方も存じていない「F.Z.」で、「無号」。「明治36年6月」で、今日まで見た石の内で、一番変化。ビックリしました。
海軍省説明の書の中に、鎮海湾(元朝鮮) 要塞地の標石に無号、廃止と。大正2年11月21日「告示」上の事。大正13年7月3日「告示」。廃止「4本」。何々、壱岐要塞地より、要塞地帯を示す石が、壱岐より4本廃止と。「黒崎砲台」を残してかー。対馬を重きに置き、壱岐は少し落ちたのかー。

さて壱岐には、要塞地帯を示す石はないと言って居たが、有りましたぞ。早速行って見ましたが、何んだ此れ、平戸に有った石と同じ造りで「コンクリート」製。「年月日」同じ。だが、「S.M.3rdZ 壱岐要塞第三地帯標」「第29号」「陸軍省」」(下段写真。黒崎砲台近辺の山中に有ったのを持ち帰り、個人宅へ据える)。
壱岐の方は、平戸の石を知りません。私は2つの石を見て、嗚呼と思った。「軍縮」標石だと。当時、軍部は○秘でしょう。別に梅津湾などに「陸」と印した石有り3本。用地用です。小呂の島には、墓石となる4本有り。