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陸軍省要塞地帯標 「F.Z.」の標石を探せ!

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陸軍省要塞地帯標 「F.Z.」の標石を探せ!

これも佐世保市住い、陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。高橋氏は佐世保のみならず全国へも出かけ、これら標石の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。
資料・写真は多くもらっているが、ここに掲げるのはその一部であるので、了承をお願いしたい。
写真は私の撮影。長崎市に残る3本の「F.Z.」標石(小江の埋立地野島ピーク・福田崎の先端・飽の浦峠手前の坂道 詳しくは、本ブログの項リストにより前の関係記事を参照)。
そして高橋氏の北九州調査を伝える2007年9月2日付け読売新聞記事。

高橋輝吉氏稿  陸軍省要塞地帯標 「F.Z.」の標石を探せ!

事の起こりは、長崎市小江の「野島」に有った陸軍省標石が、昭和14年で「F.Z.2ndZ」、長崎要塞第二地帯標で、「第1号」だった。何々、何んでやね。「S.M.」かと思って居た福岡県芦屋の「F.Z.2ndZ」を思い出し、筑前大島を調べた所「F.Z.」が有った。奄美大島にも「F.Z.」が大島中央の所に有った。

北九州市小倉「蓋井島」「蓋之島」を要塞地図にて調べると、両島に通じ旧陸軍省の標石有りと。「蓋井島」の方が確実性有り。新聞より、6カ月前の事です。「蓋之島」は此れより後の事です。4回目にて終了しました。新聞の通りです。奄美にも「F.Z.」。前に「S.M.」の標石発見。

長崎にも橋本さん「F.Z.」発見。3本有り。飽の浦峠近くのは「第十六九号」?。何んと言うのかな?。「第十?六九号」「F.Z.1stZ 長崎要塞第一地帯標」「明治32年6月10日」
対馬にも有った。変化の元ともなった。「第  号」(無号)「F.Z.1sdZ 対馬要塞第一地帯標」「明治36年7月3日」。対馬は第一地帯とすれば、別図では昭和15年→「F.Z.」。それまでは「S.M.」にて明治でも「F.Z.」地帯…?有りきかなー…?

(資料 下関要塞の標石の例) 要塞地帯標と要塞地区域標

標柱石の表示に使用する標名は、第1〜第3区地帯を示す「地帯標」と、第3区外の区域を示す「区域標」がある。地帯標には「S.M.」(Strategic Mark Monumentの略)及び「1st.Z」(第1地区)〜「3rd.Z」(第3地区)と上部に記載される(Strategic=戦略上重要な)。下部には「下関要塞第※区地帯標」(※=一〜三)と刻まれる。大正15年5月1日以降は「S.M.」は「F.Z.」(Fortified Zoneの略)に改正される(Fortified=要塞化された)。側面には通し番号、設置年月日、背面には「陸軍省」の文字が刻まれる。

区域標は正面に「要塞地区域標」と刻まれるのみであり、側面・背面は地帯標に準じている。これらは約500m間隔で設置されたという。また、要塞地帯の範囲が変更される都度に、地帯標・区域標も改めて設置されたという。
今回、情報を基に現在も標柱石が残っているか踏査したが、まだ踏査が十分ではないことがあるが、内ヶ磯窯跡周辺を除き6点しか確認できなかった。芦屋町洞山の標柱石は、第三区を第二区に刻みなおした形跡があるが、これは法改正による区の再編によるものであろうとの教示を得た。

(此のコピーでは100%信用=?。昭和10年で「F.Z.」有り?。明治36年でも「F.Z.」有り??。昭和20年は全部が「F.Z.」だー。)

佐世保周辺 陸軍省「長崎要塞地帯標」と海軍省「佐世保軍港境域標」

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佐世保周辺 陸軍省「長崎要塞地帯標」と海軍省「佐世保軍港境域標」

以下は佐世保市住い、これら標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。佐世保周辺でも本文は、このブログでこれまで取り上げた佐世保市小佐々町と針尾島及び西海市方面の標石探しの苦労話を特にまとめられている。
高橋氏はもちろん佐世保全域の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。資料・写真は多くもらっているが、ここに掲げるのはその一部であるので、了承をお願いしたい。
詳しくは、本ブログの項リストにより前の関係記事を参照。

高橋輝吉氏稿 佐世保周辺 陸軍省「長崎要塞地帯標」と海軍省「佐世保軍港境域標」

陸軍の標石調査が終りに近づいた頃、旧海軍の方はと見直してみた。旧海軍の地図が有った。此れかなーと思って、小佐々最西端方面へ。老人漁師の方と話し、「海軍省」と書いた石が有りますか、と尋ねると、有るような話しばかり。
その1つとして、楠泊に有った。「海軍水準」の石。「水路部」と有った。昔は出先の岬みたいな所に、海の神様が有った。其の先にみかげ石12cm角、高さ60cm位。老人の方が指さす方向を見た。左先の岩場にも何かがあるよと。「佐世保軍港境域標」の「第221号」。干潮時に行く。

後日、老人の方に船を頼み、近くの入江等々を探す。陸からも行かれますか?。船の人と海よりの話し。後で地図を見ると、陸からも行かれる。1日1本のつもりで、今まで10回位行ったかなー。一番行ったのは、神崎鼻。公園になり、一番変化していた。
山の老人と海の老人とは、話しの変化を見た。海の方は、要塞の話しは通用せず?。海の方は干潮時でも船が繋げる所を言う。地図では干潟の図なし。何回となく干潮時、満潮時と行ってみる。2通り有る事が解かった。この一帯「亀瀬」。今までは陸の石ばかり探していたので、高い所ばかり見ていたが、海のは違った。

入江。干潮時になっても船が繋がれる所。船は遠浅が一番きらい。幸いかな、小佐々。入江は天然の港が多い。海軍は此の入江、港に目を付けた。此れは日露の戦いの時、待ち伏せ用場所、入江かと思った。小型船ならば良い場所、入江で、天然の港ばかり。此の入江に海軍省の標石が多いのも、解かった次第です。
此の時点で読売新聞佐世保支局の「千田」さんに話す。「千田」さんも標石の所へ同行しました。針尾の方より近くに海軍省の石有りと、支局に電話有り。浅子よりも電話有りと。針尾は「第128号」「明治35年」。浅子は「第261号」「明治45年」。此れからが大変でしたね。海軍省標石探しに変った時かな?。

“年 月”2通りの話しを。特に西海市方面、用心!。西海橋下に有ると言っても、本気にはしなかった。千綿まで海軍は水を取りに行って居た。「ボイラー」に必要な水です。必ず有ると思って居た。1回目は解からず、2回目の時、四角の型石が見えたので、若しやと思い枯れ枝を取って見ると、なんと海軍省の石が青色になり、横倒しになって居たので、洗いよく見ると「第138号」でした。「明治35年11月4日」。

少し元気づいたので、前に1回連れられて行った西海町七釜白岳方面。陸軍の標石はと思い、前に1回行った家に行きましたが、老人の方は亡くなられて、どこか解かりませんと。実は「長崎要塞地帯標」の「第152号」と、「第151号」と、「第147号」です。
2人とも亡くなられて、場所が良く解かりません。ただ電線が見えたの思い出だけです。杉山ばかりで、方向が解からず、3年位かかったかなー。「第152号」発見。此の石を起点として、3ヶ月後「第151号」再発見。「第147号」は、畠の中に段差が有ったのを思い出し、3回目にて再発見。標石は埋めて有りました。石の角が見えましたので、みかげ石です。此の地方にはみかげ石なし。上よりは解からず、草一面です。段差が有ったので発見に至りました。此の度は方向西北、写真に撮り安心です。

さて、海軍省の石は、海軍省の図によると、大瀬戸町高帆山海岸近くに有るような気がしたので、大岩の近く、海抜3m位、海近くに海軍省「第202号」でした。長崎の橋本さんに石発見と知らせました。さて、「第158号」はと。地元の方と西海町の方、良く標石の事が解からず、再発見と別に新しく標石を、元の石の横に、なんと申しましょうか、2,3度電話しました。しまったと思った事でしょうか?。
海軍省の石3本発見。1本号なし、後は「第202号」「第138号」。陸軍省の石「第158号」「第152号」「第151号」「第147号」と、3本発見にて終ります。

小佐々方面 海軍省の石は、「第207号」「第208号」「第211号」「第215号」「第216号」「第217号」「第218号」「第221号」「第236号」「第261号」と10本になります。
後で陸軍省の石が有りますかと尋ねると、有りますと。野島へ渡り、島の左の方に林の中、「第140号」が有りました。冷水岳近くに「第138号」。「第139号」はなし、3回位山に行く。発見出来ず。陸軍要塞地図を見て下さい。臼の浦に海軍火薬庫有り。