月別アーカイブ: 2010年7月

西海町の主な史跡 (2)  西海市西海町

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西海町の主な史跡 (2)  西海市西海町

西海市西海町の主な史跡。(1)に載せた七ツ釜鍾乳洞とその近辺、横瀬浦について詳しく見てみる。西海市観光協会「さいかいシティ.ねっと」などによる説明は次のとおり。

写真  1〜  3    七ツ釜鍾乳洞

延長1,500m、内公開250m。七ツ釜鍾乳洞は昭和3年8月に発見されました。昭和4年7月に長崎県史跡名勝に指定、さらに昭和11年12月には文部省によって天然記念物に指定。
新生代(約3000万年前)の古第三紀層という比較的新しい時代にできた鍾乳洞で、石灰分を含んだ砂岩でできているという特色があります。また、砂岩の中には石藻という石灰分を含んだ海藻の死骸が見られます。入り口より250mを観光洞として解放し、自然遊歩道と併せて550m、約25分の行程で公開しています。
(西海市観光協会「さいかいシティ.ねっと」から)

写真  4〜 10    長崎西海楽園跡にある石灰藻化石群

長崎県で唯一の観光鍾乳洞のある長崎西海楽園。ここには鍾乳洞のほかに日本一の石灰藻化石群や四季の花園、大きな観音像、釈迦三尊堂、モノレール、レジャーランド、ウォータースライダー、メリーゴーラウンドなどがあります。
なんと言っても一番の見物は「日本一の石灰藻化石群」だと思います。この石灰藻化石群は3億年〜2億5千万年前のサンゴ礁の化石だそうです。その化石が侵食されて奇岩が多い独特の景観ができたようです。
(よかとこBY 九州の観光と温泉から。 「長崎西海楽園」は現在、廃園となった)

写真 11〜 15    横瀬浦

横瀬浦は、1562年(永禄5)大村家の領主、大村純忠が、平戸を追われたポルトガル人の貿易船を回航するように勧誘して開かれた港です。布教長トルレスはこの港を「御助けの聖母の港」と命名。貿易と信仰の村をまたたく間に作り上げた大村純忠は、何回となく横瀬浦を訪れ、みずからも重臣25人とともに洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となりました。
しかしこの港は、翌1563年暴徒たちによって焼き払われ、わずか2年足らずでその歴史を終わり、1571年長崎の開港へとつながります。横瀬浦は長崎におけるキリシタン文化発祥の地となりました。今でも、往時をしのばせる天主堂跡、大村館跡、南蛮船来航の記念碑などの史跡が点在し、西海町では、南蛮船来航の地としての歴史を活かし、横瀬浦地区を史跡公園ゾーン、港ゾーン、町並みゾーンの3つのゾーンで構成する新たな公園整備を進めています。

ルイス・フロイスと横瀬浦港
1562年、貿易港として開港された横瀬浦には、日本各地から多くのキリシタンや商人たちが集まり、布教の中心となりました。ルイス・フロイス(ポルトガル人イエズス会士)は翌年の1563年に来航。横瀬浦で布教活動を行ったといわれています。
(西海市観光協会「さいかいシティ.ねっと」から)

島原市の眉山(七面山)  平成22年7月

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島原市の眉山(七面山)  平成22年7月

平成22年7月27日(火)曇り。島原市背後の山、眉山(七面山 標高818.7m)へ。千々石から田代原・国見百花台公園・千本木を通って行った。登山口は島原まゆやまロードの垂木台森林公園平成新山ネイチャーセンター入口手前にある。
眉山は江戸時代の寛政4年(1792)、雲仙普賢岳の噴火が引き金となって大崩壊した。地震と津波が熊本まで襲い「島原大変肥後迷惑」と言われた。平成新山の噴火では島原市街地を火砕流と土石流から守った。

眉山は天狗山と七面山の総称。遊歩道が整備された七面山は片道約1.5km。中間の約400mくらいは急な登りが続き、往き1時間、帰り30分を要する。
最初の写真は、焼山園地から見た眉山と平成新山。最後は大野木場小学校被災校舎下の駐車場に設置されている「平成新山フィールドミュージアム総合案内図」の一部。

火砕流で「鉄板が巻き付いたタブノキ」が、千本木展望所の下あたりにあると覚えていたので、確認に出かけたのだが、展望所外は治山ダムができて、現在は立ち入り禁止になっている。
垂木台のネイチャーセンターで、昨年7月観測会の写真を見せてもらった。樹高5mほどのタブノキ。2枚の鉄板が巻き付きそのままの状態で、まだ木は生えているそうだ。

眉山(天狗山)は、次の記事を。 https://misakimichi.com/archives/2415

大瀬戸町・西海町・西彼町などに残る「佐世保軍港境域標」

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大瀬戸町・西海町・西彼町などに残る「佐世保軍港境域標」

西海市西海町・西彼町に残る陸軍省「長崎要塞地帯(区域)標」の所在について、前の記事とした。高橋輝吉氏に案内してもらったのは、ついでに別の海軍省「佐世保軍港境域標」である。
高橋氏は、佐世保を中心とした長崎県北・佐賀県を主に、全国の同標石類を15年以上にわたって調査されている。ここでは佐世保軍港に関する西彼杵半島及び近くの境域標のみ載せる。地元でもその所在はほとんど知られておらず、郷土誌に記載はない。
高橋氏が「佐世保軍港境域ノ件」資料地図をもとに、丹念に踏査して見つけたものである。小佐々町の海岸には、まだ多数残っているそうである。

① 大瀬戸町外多以良郷 高帆山西下の海岸 (佐世保軍港境域標 第202号)

境域地図に「オノ鼻」で表示されている。境域線が大島・蠣浦島(崎戸)間の海峡に伸びるため、この地点を探し出したそうだ。柳ノ浜海水浴場手前の大ムクノキ説明板のある坂道を登る。「←金比羅山」(高帆山)標識の分岐で上の道へ入ると、高帆山裏側の山腹を行く。舗装の切れた終点から5分ほど山道を下ると海岸へ出る。左方70m位に大きな岩の鼻がある。これが「オノ鼻」だろう。標石はすぐ手前の雑木林内にある。
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第二〇二号」「海軍省」「明治四十五年三月十五日」

② 西海町七釜郷 七釜公民館上の畑端 (佐世保軍港境域標 番号不明)

境域地図にない地点である。七釜バス停近くの七釜公民館後ろ側石段を登って行く。上の畑角に標石らしい角石が見える。ここは前公民館があった土地で、建物の礎石とされていたらしい。立ててみると、番号は削られてわからない。境域が改正されたか、どこか近辺海岸にあった標石を運んできていると思われる。
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第(番号不明)号」「海軍省」「明治四十五年三月十五日」

③ 西彼町小迎郷 西海橋下の伊ノ浦台場跡先の海岸 (佐世保軍港境域標 第138号)

境域地図に「針尾瀬戸」で表示されている。西海橋を渡る手前にある「伊ノ浦台場跡」史跡案内板から下の針尾瀬戸海岸に遊歩道を降りる。台場跡の右側に釣り用か踏み跡があり、100mほどたどって行くと、道下に標石がある。海岸に倒れてあったものを、高橋氏が数年前見つけ、立て直したそうである。
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第一三八号」「海軍省」「明治三十五年十一月四日」

④ 佐世保市針尾中町 小鯛海岸右手の崎 (佐世保軍港境域標 第128号)

境域地図に「小鯛」で表示されている。西海橋を渡って針尾島へ入り、古里交差点から左折、針尾無線塔の後ろまで広い道路ができている。「小鯛」集落入口の標識があり、小鯛漁港まで出て、右方へ海岸沿いの里道を100mほど行く。里道は上に上がるが、真直ぐな小道へそのまま進むと、奥にフェンスがある。地元の名医福田病院跡の駐車場と庭跡で、先は海岸。中へ入ると奥の石垣下に標石がある。
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第一二八号」「海軍省」「明治三十五年十一月四日」

⑤は、参考のため。佐世保市の隠居岳から宇土越へ下る登山道途中で見られる佐世保軍港境域標(第298号)。2008年6月山歩きした時に写していた。
ここの標石は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/987
刻面は、「佐世保軍港境域標」「第二九八号」「海軍省」「昭和五年十月八日」

西海町・西彼町に残る「長崎要塞地帯(区域)標」

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西海町・西彼町に残る「長崎要塞地帯(区域)標」

西海町「西海町郷土誌」平成17年発行の郷土の軍事施設301〜302頁に、次のとおり西海町で現在発見されている佐世保関係の要塞地帯(区域)標の標石3本を写真つきで掲載している。

(4)要塞地帯
明治30年(1897)、佐世保に佐世保要塞砲兵連隊が設置された。同32年7月15日、軍機保護法、要塞地帯法が公布され、翌年6月には佐世保要塞地が告示、陸軍要塞砲兵連隊内に要塞司令部が設置された。
要塞地帯は、基準点から一定の距離が決められ、第一地帯、第二地帯、第三地帯とされた。各地帯を通じて、同地帯内の水陸の状況測量、写真撮影、模写、録取、その他多くの制限事項が設けられ、要塞司令官または陸軍大臣の許可が必要とされた。
西海町も大半が要塞地帯に指定された。所々に要塞地帯標の石柱が立てられ、地元では「海軍棒」とか「陸軍棒」とも呼んだ。現在発見されている標石は次の3つである。

さて、この標石は写真に地名はあるが、具体的な場所を書いていない。地元や市教育委員会などで聞いても、標石の所在をもう知る人がいなくなっている。7月8日と26日、佐世保の高橋輝吉氏に案内を願って、標石探しをした。同氏が10年ほど前、見つけたのがほとんどである。

① 長崎要塞第二地帯標(第75号) 左側 明治32年7月14日 後面 陸軍省  (木場)

木場郷のみかんドーム交差点から、旧道に入ると木場公民館がある。裏手の辻山浅一氏宅の玄関前庭に据えられている。家角下の小川を渡る石にされていたのを、戦後復員した辻山氏が見つけ移したものらしい。
要塞第二地帯標で、要塞から約4kmの外線に設置された標石である。

② 長崎要塞地帯区域標(第147号) 明治32年7月14日  (七釜)

郷土誌写真は、畑端に横倒しになっている。草が生えてわかりにくい標石である。高橋氏記憶があいまいとなって、畑を探しきれなかったが、7月26日やっと見つけ出した。
七釜郷首ノ田バス停から県道122号七釜大串線へ入る。七釜本郷の池田病院前から上がってきた道と高台で合い、県道は直角に曲がる。上部に写真のとおり七釜浄水場があり、左奥に九州電力面高瀬戸線27号高圧線鉄塔が見える。
標石はこの鉄塔の2段上の畑端に石垣とされているので、農道を上がり三叉路から鉄塔を目指し畑角へ行く。移設されたと思われず、当時はここに里道があったか、原野だったためだろう。

③ 長崎要塞地帯区域標(第152号) 明治32年7月14日  (七釜白岳)

白岳郷の開拓集落へ行く。七ツ釜への県道122号線から奥へ入った伊東牧場の登りの左に谷間の草原が見える。最奥の植林地内に標石があるので、左の小川沿いに行く。長崎要塞区域標(第152号)である。

開拓集落へ戻り、県道を七ツ釜の方へ少し下ると、左手に松島火力線34号の高圧線鉄塔へ行く九電作業道がある。郷土誌に記していない高橋氏が見つけた長崎要塞区域標(第151号)は、この鉄塔のすぐ近くにある。
②、③(第151号もある)は、要塞第三地帯の区域標で、要塞から約10kmの外線に設置された標石である。

西彼町白崎郷の四本堂公園母衣崎に残っているのは、長崎要塞区域標(第158号)で、前記事にしているから参照。 https://misakimichi.com/archives/2375
最後の写真は、七釜白岳の長崎要塞区域標(第152号)の少し先山中で見つけた石鍋?の破片。
長崎市周辺の要塞地帯標は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/54

三重の主な史跡 (2)  長崎市三重地区

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三重の主な史跡 (2)  長崎市三重地区

長崎市三重地区の主な史跡。三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」(発行年不明、長崎市編入前か)による説明は次のとおり。
三重商工会の次資料も参照。 https://misakimichi.com/archives/2299

写真  1〜  9   野々岳と烽火の跡

三重村の平地、角上の北方に標高333mの通称「野々釜」と呼ばれている高山がそびえております。三重小学校の側の山道を登り始めて約1時間20分位いで頂上に到達することができます。地図を開いて調べてみると「野々嶽」と記されてあります。往昔は恐らく「烽火岳」(のろしだけ)?…と呼んでいたものが時代と共に転訛され「のろしだけ」「のろだけ」「ののだけ」「ののがま」といわれるようになったのではあるまいかとも考えられます。

頂上に到達しますと西は五島灘、北は西彼杵山脈の連山、南は天草灘から東支那海をのぞみ、東ははるか大村の琴湖をへだてて発電所の煙たなびく彼方にくっきりと秀峰多良岳を展望することができます。
山頂は奇岩怪石の一群をなしておりますがこの石群の南斜面をやや下ったところに「かま」ゆわいる烽火台が現存しているのです。私達の調査では直径2.55m、深さ1.10mの円形がまでありますが、しかしこの深さは土砂の流入でかなり埋没しており、工築当初とはだいぶん変化をきたしているものと考えられます。築法は普通の自然石を原始的積みかたといわれます「乱れ積み」方式で燃えやすい石囲いをつくっています。…

…野々嶽の頂上に直径6尺深さ8尺位いの穴があります。徳川幕府時代島原乱の折り、長崎異変の際狼煙をあげて変事を近郷に伝え式見の狼煙を受けて神の浦烽火場に伝達する規定があったそうです。このことについてもう少し詳しくのべますと、三重岳狼煙場は庄屋からその行程10町ほどの山の頂にあり長崎異変のときに式見の鶚岳の火を受けて狼煙をあげ、村中に知らせたとあります。
その始めは寛永15年島原一揆を鎮圧したのちに松平伊豆守が長崎にしばらくとう留して諸事の裁判をしたわけですがそのとき彼の指図によって三重岳に狼火場をつくり、いつも足軽3人が在番してここを守ったわけです。

もし長崎表に異変があるときは長崎の烽火山に狼煙をあげて近隣に急を告げ知らせたわけですが、彼の山の火をもここで受けたといわれます。「烽火山」から「三重岳(野々岳)」そして平戸領の「耶須満岳」ついで筑前国の「宝満岳」さらに中国地方へ移動させたといわれます。この方法はしばらくの間途絶していたのですが文化7年上総介純昌が現在地に再興させて天保13年修理を加えたと記録にあります。…

(注 「野々岳」は三重町背後の山。小学校の遠足の場となっていた。現在の地形図では標高
325m。三重診療所からか、三重小学校前から日田尾集落を通り、長崎リハビリテーションまで上がる。奥の駐車場から永田への道を少し下り、左折してサンコー産廃施設の中を登って行くと
JWFC模型飛行場がある。飛行場脇の道を三叉路まで進み、左上に山道を20分ほど歩くと展望が良い頂上岩に着く。烽火台跡はこの岩に登る所にある丸い石囲みと思われる)

写真 10〜 16   御 岳

三重田郷の県道沿いの山にあって神体は毘沙門天を祭っています。例祭は3月18日、8月16日で石祠、石鳥井があります。建立は文化元年8月25日、三重、黒崎、京泊浦中より之れを建つ」とあります。石鳥井は天保6年に建てられています。

(注 「御岳」は三重田にある小高い山。標高167m。バス停手前から右の坂道に入るとすぐ「御嶽道建設記念碑」がある。集落墓地の中を通り、頂上の毘沙門天石祠まで整備された石段と山道を約570段、20分登る。樹木で展望がきかない山頂となっているが、南の海側は少し見える。
「御岳」には山頂手前に「烽火台」と言われる跡がはっきり残っている。三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」神社の項から「御岳」は引用した。「烽火台」の説明がないのでわからないが、現地には朽ちた地元説明板があり、大村藩の火上げ場で、三重周辺海域の変事の際、大村藩に知らせたとあった)

三重の主な史跡 (1)  長崎市三重地区

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三重の主な史跡 (1)  長崎市三重地区

長崎市三重地区の主な史跡。長崎県HP「長崎県の文化財」、三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」(発行年不明、長崎市編入前か)などによる説明は次のとおり。
三重商工会の次資料も参照。 https://misakimichi.com/archives/2299

写真  1〜  8   三重海岸変成鉱物の産地  長崎県指定天然記念物

指定年月日 昭和53年3月31日  所在地 長崎市三重町  管理者 長崎市
西彼杵半島は、主として堆積岩起原の変成岩で構成され、大部分は石墨に富む黒色片岩であるが、一部に石墨を含まない石英片岩もあり、一括して西彼杵変成岩類とよばれている。これには所により、連続性のよい薄い緑色片岩や蛇紋岩などの緑色岩を伴う。
長崎市三重海岸に露出する緑色岩には、陽起石、緑廉石、緑泥石、曹長石などの変成鉱物と共に、ヒスイ輝石が含まれている。ヒスイの存在は、九州大学理学部地質学教室西山忠男氏によって初めて確認され、正式には昭和53年3月に地質学雑誌で発表された。
ヒスイは世界的に産出が稀な鉱物であり、多くの宝石ヒスイのに原産地はビルマである。日本の産出では新潟県小滝が有名である。三重町三京海岸では、1〜1.5m大のヒスイ輝石群が転石として3個あり、最大のものは長崎県立美術博物館に保管されている。
(長崎県HP「長崎県の文化財」から)

(注 三重海岸変成鉱物の産地は、国道202号線三京マリンヒルズ翡翠ヶ丘公園左側下の三京海岸や樫山海岸で見られる。一帯は鉱物採取が一切禁止。見学のみにとどめる。掲載写真は、現地で適当に撮ったもの。本文のヒスイ輝石群ではない)

写真  9〜 12   翡翠ヶ丘公園

ヒスイが採れたところから命名された三京町の翡翠ヶ丘公園からは、新長崎漁港を中心に発展を続ける街並みが一望できるほか、眼前に広がる海原に浮かぶ神功皇后伝承の島、神楽島も望むことができます。平成10年には、長崎魚市場の誘致をはじめ、長崎県水産業の発展、地元三重にも大きな功績を残している柏木哲翁の銅像も建立されています。
(三重・外海の情報発信ネット「ミエるぞ!ネット」観光マップから)

写真 13        神楽島

三重港外の約4km近い南の海に浮んでいる島で沖平半島に近接して長崎市式見町と対しており、さざえ崎との間は干潮時には約800m位いになります。この島は隣りの式見と三重とでそれぞれ半有されており正確には南の方を式見が2/3、北の方を三重が1/3領有しているわけですが、このことについて「三重郷村記」に次のように記録してあります。「瀬戸郡の奉行加藤左司馬の在任中、文化十年正月三十日、三重、式見両村の支配地とし、双方より松植さる」とあります。またこの島は古くから両村の争いの的になっていたらしく式見唄に次のようなものがあります。…唄略。 

写真 14        西大瀬

三重港入口のところ「畝」よりに位置しており大潮のときには徒歩で渡られます。立岩で頂上に数本の松木がありますが、この瀬は文政12年3月に長州豊浦郡和久村の網師である新屋満茂という人が網代見立てをして鮪網を設置したところでもあります。

写真 15        能 瀬

樫山の青瀬の鼻から1町40間程西南西にあり、この瀬では延宝5年12月13日に帰国しようとしていた唐船が激浪のため破船したところです。また明治史に有名な江藤新平、榎本武揚らが乗りこんだ船がやはりこの瀬で難破し、久松正之氏の親類になられる樫山の楠本家に立ち寄ったことが発覚し、その後楠本家の人達は深堀藩の方へ呼び出されて厳重に取り調べがなされた、という話が伝えられております。
(以上、三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」から)

釣れた? 釣具店の釣人 (13)  長崎市平山町

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釣れた? 釣具店の釣人 (13)  長崎市平山町

長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

夏本番へ入った。潜りバージョンへ衣替え。なぜか大きなてんとう虫。

日本丸?  2010長崎帆船まつり

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日本丸?  2010長崎帆船まつり

国内外の帆船が集まる「2010長崎帆船まつり」が22日、長崎市で始まった。「海の貴婦人」と呼ばれる日本丸や海王丸、ロシアや韓国の帆船など計7隻が長崎港に入った。
きのう昼前、女神大橋を通ったらカメラマンの列。入港待ちをする帆船を沖合い遠く、女神大橋と小江海岸から写した。

23日、松ヶ枝国際埠頭・出島岸壁に接岸中の帆船と一般公開の様子は、宮さんのブログを。
http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/25456592.html

神浦の主な史跡  長崎市神浦大中尾町ほか

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  神浦の主な史跡  長崎市神浦大中尾町ほか

長崎市外海地区神浦の主な史跡。長崎市指定史跡「鷹ノ巣石鍋製作所跡」ほか。現地説明板は次のとおり。 

写真  1〜 13  長崎市指定史跡 鷹ノ巣石鍋製作所跡

指定年月日 平成17年1月4日  所在地 長崎市神浦下大中尾町タカノス1371番地
所有者 西川康信
滑石製石鍋は平安時代末から中世の西日本に広く用いられた煮炊き用の厨房具である。石鍋製作所跡は、西彼杵半島の山中の滑石層の露頭に形成されており、外海地区においても神浦川、牛牧川などの河川に面した崖や山中にある露頭などに約30ヶ所の製作所跡が把握されている。
鷹ノ巣石鍋製作所跡は、神浦ダムの下流、標高106mの鷹ノ巣岩周辺に6か所が確認されており、露頭する岩壁面に、方眼状に割り付け粗型を剥ぎ取った痕跡や、ソロバン玉状に整形され取り残された粗型などが認められる。本製作所跡は、外海地方の石鍋製作所跡の中でも規模が大きく、保存状態も良いことから、古代から中世にかけての石鍋製作の実態を知るうえで貴重である。   長崎市教育委員会(平成18年3月設置)

(注 「鷹ノ巣岩」は、大中尾棚田から見ると神浦川の対岸にそびえる岩である。国道202号線新神浦橋から神浦ダムへ向かい、途中の鱸岩橋から対岸の「そとめ神浦河川公園」へ右折、公園先の狭いコンクリート林道を登って行く。
2kmほどで舗装は切れ、あとバラス林道を1km位走ると、小さなトタン小屋があり、先のガードレールに写真の入口案内板が設置されている。ここから植林内を歩いて600m下ると石鍋跡に着く。右側へ登ると、神浦ダム方面の展望が良い岩場がある)

写真 14〜 16  池田家の造り酒屋跡

江戸時代、大村藩は、外海地区の面高村、松島村、瀬戸村、雪浦村、神浦村、式見村に酒屋(造り酒屋)を置き、酒を造らせていました。そのうち、神浦村にあったのが「池田家の造り酒屋」です。天明6年(1786)に大村の酒屋から酒屋株を取得した池田盛左エ門の創業と伝えられ、明治末まで続いていたようです。酒造りの酒蔵等は残っていませんが、当時の石積みの「トンネル型水路」や酒米を洗うための「井戸」、米蔵の基礎石などは現存しています。また、池田屋の前の川岸には、材料となる米を運び入れる船着場がありました。 (神浦丸尾町 長崎さるく説明板)

写真 17〜 19  丸尾石積群

外海地区や琴海地区等には、温石石(おんじゃくいし)と呼ばれる石積みによる塀や敷地の形成が多く見られ、特に丸尾地区の石積みは昔ながらの風情ある景観を今も色濃く残しています。温石石は、変成岩の一種である結晶片岩で、西彼杵半島一円に広く分布しています。この温石石は、開墾等によって採取されたもので、畑の補強や家屋の資材等に利用してきました。外海の旧出津救助院(国指定重要文化財)の外周りにも「ド・ロ壁」と呼ばれる、目地に赤土等を混ぜた漆喰を使用した石積壁や石積塀があります。 (神浦丸尾町 長崎さるく説明板)

「ド・ロ神父 大平作業所跡」も参照。 https://misakimichi.com/archives/1633

井手正兵衛の碑  西海市西海町七釜郷字半助山より下る

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井手正兵衛の碑  西海市西海町七釜郷字半助山より下る

”字半助山の南側斜面にある水田の先端より100mの所に水路があり、沢と水路が交差した場所に、「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と自然石(蛇紋岩)に刻まれた碑がある。約4kmに及ぶ七釜の大井手て呼ばれる水路を作った井手正兵衛の記念碑である。
当時、七釜の住居地には水源がなかった。井手正兵衛は、柚木川より水路を作り、水田への取水、また郷民の飲料水確保を目的として、水路を作った。現在もこの水路のことを、井手氏の名前を称え、「井手」と呼ぶ。最近まで、水路の補修のため、一軒から一人作業に出ることを「井手轟」と言った。”

以上は、西海町「西海町郷土誌」平成17年発行の記念碑、宝塔一覧751頁にある碑の写真付き記録である。同郷土誌の農林業457頁にコラムで、次のとおり詳しい記事があった。

七ツ釜の大井手

県道遠見岳線を登り、字半助山に至る。半助山の南側斜面に、広い水田(913−2)がある。その水田の先端より沢伝いに約100m下ると水路があり、沢と水路が交差した所に「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と刻まれた自然石(蛇紋岩)がある。
水路を上流へ約500mさかのぼり、柚木川上流と交わるところが、水路基点である。この基点より水路を等高線ぞいに辿れば、字半助山・ワルカリ・横尾・大迫・平山・石原・立石・山田と経て落保へと至る。大迫の水計(みずはかり)から分岐して伊立浦川の水源となり、岩谷川・山田の奥・伊立浦の水田を潤している。山田から分岐し、大川の川(うーこうの川)の水源となり、山田・大川新田を潤している。

さらに余水は住民の飲料水として最近まで使用されていた。七ツ釜の住居街には現在もほとんど水源が見当たらない。井手正兵衛は、主に飲料水確保のため水路を計画したように思われる。
水路の長さは約4km。幅は上流が約1m。下流に行くにつれて狭くなる。高さはまちまちである。現在、この水路を、井手氏を讃え、「井手」と呼ぶ。最近まで、一軒につき一人が水路の補修に参加することを「井手轟」と呼んだ。

さて、「大井手」を築いた地元の偉大な先賢者、井手正兵衛のこの碑はどこにあるのだろう。地元や市教育委員会に聞いても、現在は場所をほとんど知る人がいない。郷土誌編纂委員の方を、今さら煩わす訳にはいかず、山奥を1人で探してみることとした。
「半助山」自体がわからず、市管財課で「七釜郷913−1」の地籍図を取った。航空写真で交付されびっくりした。これから見当付けると、半助山の水田(黄線枠)は、県道122号線と広域基幹林道西彼杵半島線が交差する右方谷間にある。地形図に水田記号がある所である。

広域林道の七釜トンネル上の先に県道122号線から分岐して、右へ入る林道(九州自然歩道と白岳集落へ出る)がある。高圧線鉄塔37、33号へ行く標識がある。この上の山が「半助山」だろう。山腹を1kmほど進むと右谷間へ下るコンクリート舗装の分岐道があった。水田専用車道で、目指す水田へとすぐ降りた。
後は郷土誌の記すとおり、水田の先端より沢伝いに約100m下ると、廃用となった水路跡があり、沢と水路が交差した所を探したのだが、「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と刻まれた自然石(蛇紋岩)を見つけきれない。

沢の石の状況が変わっているのだろう。この倒れている石がそうだとすると、水流で磨耗している。碑があった場所は間違いないと思う。ここよりさらに50mほど沢を下ると、水量の多い柚木川本流と出合った。
時間をかけて再調査が必要だ。結果がわかり、碑の現在の写真を写せたら、後日報告する。
最後の写真は、九州自然歩道沿いで白岳集落近く、柚木川上流にある滝。