月別アーカイブ: 2010年7月

川原木場の海岸岩場キャンプ  平成22年7月

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川原木場の海岸岩場キャンプ  平成22年7月

平成22年7月17日(土)午後3時集合、食料買出し後18日(日)午前中まで、長崎市川原木場の海岸岩場でバーベキューキャンプ。参加5人、翌朝に宮さん親子が来た。
蛇紋岩の大岩があり、川が傍に流れるきれいな所である。朝日は島原半島の雲仙岳。
宮さんの翌日参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/25409003.html

野母崎海岸で発見された長崎初の恐竜化石

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野母崎海岸で発見された長崎初の恐竜化石

毎日新聞2010年7月3日付の記事は次のとおり。レプリカが長崎市野母崎行政センターで16日まで展示されているので見に行った。資料は会場パネルとなった配布されたパンフレット。
レプリカは7月21日から長崎市科学館(油木町)で展示され、化石実物が9月初めから同館で公開される。
1962年、高島炭鉱から見つかった上腕骨は、日本最初の恐竜化石ではなく、哺乳類と訂正されている。最後の写真は野母崎行政センター玄関ホールの壁画。

長崎初恐竜の化石 ハドロサウルス類と確認 野母崎で

長崎市野母崎の海岸から白亜紀後期(1億年〜6500万年前)に生息した大型草食恐竜ハドロサウルス類の化石が見つかったと、福井県立恐竜博物館が2日、長崎市で発表した。
全国で恐竜化石出土例は二十数例あり、長崎県内から恐竜化石が発見されるのは初めて(全国18道県目)。ハドロサウルス類は幅広いくちばしを持ち、主に二足歩行したという。化石は左ひざ頭部分で幅約28センチ、高さ約30センチ。個体の全長約10メートルと推測される。

同博物館の宮田和周(かずのり)主任研究員が04年、西九州の地層研究のため野母崎を訪れて発見。形状などから09年にハドロサウルス類の化石であることを確認し、修復作業を経たうえで発表した。
同博物館の東(あずま)洋一特別館長は2日、長崎市役所で田上富久長崎市長に報告。「恐竜化石で、部位がわかりやすいものはまれ。長崎市の地層から今後も重要な資料が発掘される可能性が高い」と話した。
5日から長崎市役所などでレプリカが公開され、9月初めから実物が長崎市科学館で展示される。  (毎日新聞 2010年7月3日)

大瀬戸町の主な史跡 (4)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (4)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  2  (14) 瀬戸の六体地蔵

当地蔵尊は、瀬戸西浜郷の、国道202号線沿いの峡戸(瀬波戸)に奉祀されている。本尊として、六体地蔵が岩壁に彫り付けられているが、この地蔵尊は、桜井宰相兼繁卿の3男といわれる、初世院円順が彫り付けたものといわれる。
円順は、萱瀬村(大村市)の石場郷にある、熊野大権現の宮司であったが、その後、実子の教順に宮司を譲り、自らは領内(大村藩)を巡歴し、各地の破損した神社の再建に努めていたが、その折に瀬戸を訪れて、長濱大明神の石鳥居を建てたり、石段を築くなどしたといわれるが、当時、甚だ狭くて通行に困難していた狭戸の海岸に石垣を築き、新道を造って人々の難儀を救ったという。その折円順は、それまでこの地で亡くなった者の霊を祀り、あわせて以後の安全を祈願するため、狭戸の岩壁に、六体地蔵を彫刻したと伝えられている。
瀬戸に住むこと7年、円順は東川棚に移り住み、かねてから信仰していた岩屋大権現の神殿を、岩窟をうがって造り、30段の石段を築いたといわれる。円順はその後、再び萱瀬村に帰り、
88歳で世を去ったという。
以前は、入江の県道沿いにあった六体地蔵は今もなお、交通頻繁な国道沿いに鎮座し、交通安全を願っている。

付記 一説には、円順が大村に来たのは元禄9年(1696)であるが、六体地蔵は、天和2年(1682)前に彫刻されてあるので、円順が彫刻したものではないといわれる。
(大瀬戸町郷土誌 本町の神社196〜197頁から)

写真  3〜  9  (15) 目一ツ坊の洞窟

目一ツ坊は、河通川の南岸に聳える、標高330mの、峻険な山塊の頂上に近い急斜面にあり、その頂上にある巨大な岩山を目一ツ坊岩と呼んでいる。この岩山を遠くから眺めると、ちょうど帽子をかぶったように見える。この周辺には、かつての石鍋製作所跡があり、現在もその未完成品が散在し、滑石露頭面にはその痕跡をとどめている。
なおこの近くには、高さ6〜7mの断層間の間隙に、通称「弁慶岩」という洞窟があるが、この洞窟については次のような話が伝えられている。
「巨岩の内には洞窟があり、この洞窟に近づくと、その身に凶禍が及ぶ」といわれ、この洞窟には誰1人入った者はいないという。また「この洞窟の奥には石棺が置いてある」とも伝えられるが、それをまた見た者はいないといわれる。
一説には、かつての古代人の住居であったとか、キリシタン信者の隠れ場所であったとかいわれるが、いずれも定かではない。
(大瀬戸町郷土誌 口碑・伝説・民話228〜229頁から)

写真 10〜 14  (16) 小田貝塚遺跡

小田貝塚遺跡は、大正13年に長崎考古学会によって発掘調査が行われ、弥生時代の貝塚として周知されている。そのときの発掘記録によれば、石鏃・石斧・土器の破片・人骨の一部・獣骨・石乳棒に13種類の塩水産・淡水産の貝殻が出土しており、本県西南部地域における弥生遺跡の特徴が伺える貴重な遺跡といわれている。
遺跡は、雪浦川支流である小田川と河通川に北と南を挟まれており、両河川の合流点にも近い。標高は7〜14mほどである。なお、貝塚周辺の山地や河通川の上流には、鳥越城跡・石鍋製作所跡・つがねの滝・岩背戸渓谷・オシドリ渕などの史跡名勝がある。
(現地説明板から)

写真 15〜 17  (17) つがねの滝

河通川は河路延長約8kmである。つがねの滝、おしどり渕等高度200m前後には大きな遷移点がある。地形の侵食が進んでいる。この滝の高さは約20m。周辺では多くの種類の動植物を観察できる。
この川には、つがねがよく育ち水の流れとともに滝に落ちることから「つがね落としの滝」の名がある。美しい景観と涼を求めて訪れる人が多い。夏の風物に清流でのソーメン流しがある。
(大瀬戸町郷土誌 郷土の自然10頁から)

写真 18〜 19  (18) 多以良柳海岸の化石層

西彼杵半島県立公園柳浜海水浴場の先。多以良柳海岸の化石層(タマキガイ 蛇の目層)
(大瀬戸町郷土誌 郷土の自然28頁から)

写真 20      (19) 玄武岩の岩脈? 

場所:西彼杵郡大瀬戸町高帆山西海岸  約8800万年前頃の中生代白亜紀の終わり頃にできたかこう岩の割れ目に,約800万年前の玄武岩マグマ(黒い部分)が割り込んで(貫入)いる様子が観察できます。柳海岸から南西へ約1.5km,海岸沿いに歩いたところにあります。
(長崎県の地質現象HPから)

大瀬戸町の主な史跡 (3)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (3)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  2  (10) 奥浦の金山跡

奥浦部落の広瀬神社の登り口から、雪浦ダムへ約100m程行った「やなば」という道路傍に、人が立っても出入りが出来るほどの坑道がある。この坑内に溜まっている水は、どんな旱魃の時でも、その水位が変らないといわれており、またその深さはどのくらいあるか見当がつかないという。この坑跡が、かつてここから金を採掘したといわれる奥浦の金山跡である。
この奥浦金山は、町内の長畠にある岩山(タカの巣)の金山とともに、寛永7年(1630)に、大村藩主喜前(よしあき)が藩の経済力を確保する目的で、豊臣秀吉の生涯の雄図であった文禄・慶長の役が終って朝鮮から帰ってから、朝鮮各地の金山を参考にして、寛永4年(1627)に、大串(西彼町)を中心として着手した金山開発の内の1つであった。
この金山採掘については、当時大村藩の家老職であった大村彦右衛門が、寛永7年に京都から深江屋助右衛門、田中助兵衛の2人を招き、大串金山を採掘させた同じこの年に、雪浦金山の開鉱を図って採鉱させたといわれる。
しかし、わずか1年たらずで中止していることから、さしたる鉱脈も発見できなかったものと思われる。…

写真  3〜  6  (11) 松島の狼煙場跡・遠見番所跡

松島の狼煙場は、標高218mの遠見岳の頂上に設けられ、文化6年(1809)大村藩主純昌の代から始められた。この狼煙場は、長崎異変の際に、神浦の大野岳からの火を受継ぎ、狼煙をあげて村中に異変を知らせ、更にこの火を隣村の多以良、七釜、太田和へと伝えた。

松島の遠見番所は、安政5年(1858)に、大村藩主純熙が外国船の来航、漂着、密貿易などを監視させるため、外洋の展望のきく、狼煙場の遠見岳頂上に設けた。

写真  7〜  8  (12) 松島炭鉱跡とその変遷

松島を一周すると、松島炭坑の全盛時代を物語るボタ山や、赤レンガの廃屋に、焼山、仁崎に残る水没犠牲者の弔魂碑や供養塔が、かつての大惨事を思い起こさせる。
郷村記によると、松島の石炭山の歴史の始まりは、天明元年(1782)とあり、五平大石の発見から約200年後のことである。…
明治18年になって、三菱合資会社が竪坑を掘り採炭を始めたが、出水多量のため採算がとれず、明治21年に中止していたものを、明治38年、佐賀銀行の創始者古賀善兵衛がこれを買収して事業に乗り出し、明治39年に第1坑、引き続いて第2、第3坑と開坑した。
大正2年(1913)に松島炭坑株式会社がこれを買収し、大正3年に第4坑の開坑に着手したが、大正5年に第2坑が浸水、翌大正6年には第4坑が完成したものの、大正8年に第1坑が水没した。それでも第4坑の完成により、出炭量も年間40万トンにも達し、大正10年には約51万5千トンを記録して、松島石炭産業の全盛期を迎えた。釜浦の海岸通りや、対岸の板浦が、夜の訪れとともに弦歌で賑わったのもこの頃である。…
時代のすう勢はとどめがたく、約180年間にわたる変遷と盛衰の歴史を残し、昭和38年、石炭の島に終止符を打つことになった。

写真  9〜 13  (13) 高帆山の狼煙場跡

多以良の高帆山は、本村の西北端にある火受山とともに聳立する、海抜232mの山で、頂上には狼煙場跡がある。この狼煙場は、文化6年(1809)に、大村藩主純昌の代から始まったといわれ、長崎異変の際、松島の遠見岳の火を受継ぎ、狼煙をあげて村内に異変を知らせ、更にこの火を隣村の七釜、太田和へと伝えた。
一説には火受山が当時の狼煙場であったとも伝えられる。

写真 14〜 19  (14) 多以良の岩倉神社

多以良内郷字高尾の高台に、権現岩と呼ばれる巨岩がそそり立っているが、この岩は、高さ約33m、周囲約30mといわれる円筒形の奇岩で、岩上には樹木が生えている。この岩の根本に、祭神天照大神を奉祀した岩倉神社がある。
当岩倉神社は、寛文5年(1665)に創建され、寛政7年(1795)に社殿が建立された…
なお、多以良内郷字江里にある現在の社殿は、明治38年(1905)12月に、拝殿として建立された… (大瀬戸町郷土誌 本町の神社175〜176頁から)

大瀬戸町の主な史跡 (2)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (2)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  7  (5) 石鍋工房跡(国文化財指定)

石鍋は、滑石(温石 おんじゃく)でつくられ、古代人とか、平家の落人が厨房具として使用したのではないかと云い伝えられて、町内の山奥でよく見ることができた。石鍋が、我国の生活史上に登場するのは、平安末期から鎌倉時代といわれるが、その起源や消滅した時期については明らかでない。現在、京都や奈良をはじめ、近畿地方から西日本一帯、南は石垣島にいたる各地から、多数の石鍋が出土しているが、その生産地は数少ないといわれる。

西彼杵半島に石鍋の製作所跡が点在していることは、すでに大正時代から紹介されていたが、昭和54年度、本町内にある石鍋製作所跡の分布調査を実施し、8箇所の遺跡を確認した。8箇所の遺跡のうち、保存状況、遺跡の規模・内容等に、特にすぐれた羽出川郷のホゲットウ遺跡は、我国でも最大のものといわれ、昭和56年9月8日国の史跡として指定された。

ホゲットウは、標高120mで、地形険阻にして、特に山頂の東南部は屹立する岩壁をなしており、容易に人跡を入れぬ地形になっている。「ホゲットウ」の字名は、石鍋製作にかかわるもので、「ホゲル・ホガス」(穴があく・穴をあける)という採掘行動を示す動詞と、「トウ・ツウ」(穴・洞)という名詞が複合したものといわれる。11箇所の製作所遺構のうち、第6製作所は、60mにもおよぶ石鍋製作岩壁をもち、見るものを圧倒するものがある。

滑石は、柔らかで、加工しやすく、しかも熱を逃がさない性質があることから、古くからよく利用されていた。縄文時代前期から中期にかけては、土器の粘土に混ぜて使われたり、弥生期には漁具の「おもり」に、古墳時代には、土器の表や内側をならしたり、文様をつけるための「スタンプ」形のものに使用され、古代には「経文」を納める「経筒」に加工し、また佛像の素材にも利用されていた。

(注 「ホゲットウ遺跡」の場所は、長崎からは雪浦橋を渡りすぐ右折。雪浦川沿いに雪浦奥浦郷の集落を過ぎ、広瀬神社先まで行くと案内標識がある。左の橋を渡って瀬戸羽出川郷の新しくできた広域林道へ入る。すぐ道路右脇に写真の史跡説明板があるが、ここは山道の入口で、遺跡まで約750m、20分ほど歩いて登る。山道は案内標識が整備されている。途中で最後の写真の猪垣遺構が見られる)

写真  8〜 10   大瀬戸歴史民俗資料館の「ホゲットウ遺跡」展示品 

写真 11       (6) 瀬戸大番所跡

旧藩時代の約200年間にわたって、キリシタン取締り、異国船警戒の元締めとしての役割を果たした瀬戸大番所は、旧瀬戸小学校跡地、現在の大瀬戸町コミュニティーセンターの敷地に設けられていた。この地を俗に「瀬戸の谷」と呼んでいる。
この地に番所が設けられたのは、寛永13年(1636)で、幕府の命をうけた、時の長崎奉行榊原飛騨守、馬場三郎左衛門尉の指示により、藩主大村純信が、当時異国船の航路であった、外海地方の戸町、福田、三重、神浦、瀬戸、中浦、面高の7ヵ所に番所を設けた。

瀬戸番所は、全体の支配をなす押番役の馬廻1人と足軽3人を置き、それに附属した番船1艘と水主8人が常駐し、他の6番所には、小身待1人と足軽2人が配属され、外国船の警備を初め、海難船舶の救助、密貿易の監視、キリシタン禁制の取締りにあたらせた。
その後、鎖国が完成した寛永16年(1639)に、瀬戸番所を大番所に昇格して支配権を強化し、外海大番所と改称、馬廻役より1人、番所待上下9人と番船1艘、ならびに水主8人に増強した。…

写真 12〜 14  (7) 瀬戸遠見番所跡

瀬戸の遠見番所は、大番所より約600mの北方にあり、かつての往還が通っていた多以良越の道筋にあたる標高155mの山頂にあったといわれる。見張所は、約100㎡の広さの所にあって、2m四方の杉皮の屋根で、まわりは板壁であった。
ここは眺望がよく、南は相撲灘から蟇島、西は江島、平島、五島灘、北は崎戸、大島、平戸までも望むことが出来たので、ここに遠見番所を置いて、外国船の来航や、遭難船の見張りなどの任にあたらせた。
この遠見番所は、正保元年(1644)に、大村藩主純信によって設けられ、初めの頃は瀬戸の百姓の中から勤番したが、貞享元年(1684)4月1日から青木八太夫と小佐々惣右衛門の2人で勤番することになった。…
(注 「瀬戸遠見番所跡」は、現在、瀬戸樫浦郷の琴平神社となっている)

写真 15〜 17  (8) 真光寺学寮跡

真光寺に開講された、学寮の由緒については定かではないが、天保年間(1830〜1844)に、その頃の地方の寺では珍しい学問所、学寮が設けられて、代々研鑽につとめてきたが、なかでも、真光寺中興の祖とも仰がれる11世の住職勲能(1778〜1860)は、大学者として名高く、彼の名声と真光寺学寮の名は九州一円から四国、中国地方にまで及び、遊学の僧や学問を志す人達がはるばるこの雪浦の辺地まで訪れて、その教えを請うたという。…

写真 18〜 19  (9) 猪垣遺構

西彼杵連山の山腹のあちこちに、まるで万里の長城を小さくしたように、細長く延々と続く石垣を見ることができる。これが、西海町中浦を基点として琴海町まで、約70kmも続くといわれる西彼杵半島猪垣の一部である。
これは、当時の幕府が断行した享保の改革を受けて、大村藩でも藩政のたてなおしのために、種々の事業に着手したが、その中のひとつとして、当時から多かった西彼杵半島北部の猪害から農作物を守る手段として、この猪留石垣の造築を思いたったのである。…
(注 写真は石鍋工房跡「ホゲットウ遺構」へ行く途中の、山道で見られる大瀬戸町の猪垣遺構)

大瀬戸町の主な史跡 (1)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (1)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  4  (1) 雪浦の古城跡

雪浦の古城跡は、本村の北方、通称「城の越」と呼ばれる、標高70.9mの山頂にある。山頂にある本丸跡は、110㎡の平地で草木が繁茂し、東から東北側にかけては高さ約3mの石壁になっており、大手は東向きで、木戸は今なお現存し、二の丸・物見台・帯郭・石塁などの跡が見られる。
なお、その下には回廊状の通路が設けられ、麓を流れる雪浦川・小田川・河通川を天然の堀としたこの城郭は我国中世期における山城の形態をよく備えている。
この城は、豊前国田川郡(福岡県田川市一帯)の庄司であった田川氏が、正平年間(1346〜1370)雪浦にやって来て、本村の「城の越」の峰尾に城郭を築き、居城としたといわれ、この城を「鳥尾城」とも呼ばれた。…

写真  5〜 10  (2) 多以良の古城跡

多以良の小佐々城跡は、標高133mの断崖絶壁に囲まれ、南側と東側を周回して流れる多以良川と、北側と南側を深い谷となって流れる清水川を天然の堀とした、要塞堅固な小峰の城ノ辻の山頂にある。
山頂にある2ヵ所の平地は、当時の本丸と二ノ丸跡といわれ、枡形の石組みが残っているが、その近くに、矢戦用の盾にした「矢止岩」がある。なお、南斜面下の平坦地は「城」と呼ばれ、小佐々一族の館跡と伝えられる。
小佐々城は、戦国争乱の応仁年中(1467〜1469)に、肥前国彼杵郡小佐々村(北松浦郡小佐々町)から多以良に移住した、小佐々弾正定信が築いた城で、従来単なる「平山城」と見なされてきたが、当時は、七釜港の入江から、城ノ辻斜面下まで海で、入江の奥にあるため外海から見えない「隠し城」となっており、中世の典型的な水軍城(海城)の遺構といわれる。
したがって、小佐々城の船溜り(軍港)であった七釜港は、戦国前の江戸初期までは、国内や大陸の交易港として栄えた港で、小佐々水軍はこの地を拠点として長年にわたり、大陸との海上交易路としての、極めて重要な五島灘海域の制海権を一族で支配しつづけており、その間小佐々弾正の名は、戦国期の勇将として知られた。
弾正はまた、五島灘に浮ぶ島々に出城を築いて、小佐々城の北西に聳える高帆山の烽火台を交信所にし、海の要塞を形成した。 

写真 11〜 12  (3) 瀬戸の古城跡

瀬戸の古城跡は、樫浦部落し西浜部落との境にある、標高30m余の、通称「城山」と呼ばれる山頂にある。この城は、戦国期に武将として、西彼杵半島の外海一帯を制覇し、五島灘の制海権を確保した、多以良の領主小佐々弾正が、南方海上の監視のため、本城の小佐々城の出城として築いた城といわれる。
本丸跡は、現在の瀬戸小学校付近で、その下の長濱神社や光明寺は曲輪跡といわれ、南方海上を監視するための小佐々城の出城であった。現在は埋めたてられて陸続きになっているが、かつては樫浦と福島の間は海峡で、城山の北側の谷を瀬戸ノ谷と呼ばれ、江戸時代には、外海一帯の警護と取締りのため大番所が置かれたが、現在は町役場やコミュニティセンターが建てられている。
ここ瀬戸ノ谷は、かつては深い入江であって、小佐々水軍の船溜りになっていたといわれる。…

写真 13〜 16  (4) 小佐々氏の古廟

小佐々氏の古廟は、多以良下郷の山口という所の、東西約13m、南北約16mの墓所にある。この古廟は、小佐々氏一族の古墓所で、小佐々弾正定信が、菩提寺として創建した東楽寺の墓所であったが、その後、小佐々弾正純俊が大村純忠と共に、横瀬浦で受礼してキリシタンに改宗した際、仏教式の墓碑を廃棄したと伝えられる。
この古廟には、永禄12年(1569)夏の、宮村(佐世保市)の葛の峠の合戦で、後藤貴明と松浦鎮信の連合軍と戦った大村純忠を援けるため、後殿として奮戦し討死した小佐々弾正純俊(多以良殿)と、小佐々甚五郎純吉(中浦殿)の武勇と戦功を称えて祀られた廟所と伝えられる。ここは、長年にわたり「純俊様」と呼ばれ、小佐々家の家来衆が代々祀ってきたが、その後、住吉神社(住吉様)と改称されている。
正面の切石平塚と、その後方の2基の切石積みの墓は、日本の墓碑としては極めて珍しい特異な様式であり、また、大小2基のキリシタン墓碑(屋根型長墓)の保存状態も良好なことから、歴史的価値が評価され、平成2年11月16日、長崎県文化財史跡に指定された。

大瀬戸町に残る方角を刻んだ道標  西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷ほか

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大瀬戸町に残る方角を刻んだ道標  西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷ほか

西海市大瀬戸町から県道12号線により大串の方へ向かう。長崎県立西彼杵高校グランド先に西海市立大瀬戸中学校があり、左折してこの道へ入る。1kmほど走ると、右脇に立派な標柱が立っている。
正面「紫雲山公園登山口」、右面「新四国八十八ヶ所霊場入口」、左面「昭和三十四年四月吉日」と裏面に建立者を刻む。23m角、高さ1.6m。本題はこの石柱ではない。

ここからまた少し走る。登りきった所が旧街道の変則四差路になって小高い丘が残り、真ん中に方角・集落名を刻む道標の標石が立っている。
4面に刻面があり、「東 大串」「北 多以良」「西 板ノ浦」「南 かしノ浦」と刻んでいる。19cm角、高さ65cm。小さな標石だが、昔から重要な往還道分岐だったのだろう。このあたりの地名は板浦大抜というようで、瀬戸樫浦郷との境となる。

ここに標石が残っていることは、地元でも良く知られているようだ。大瀬戸歴史民俗資料館から聞いて訪ねたのだが、同じような標石が実は瀬戸下山郷の往還道にも残っている。
大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の廃藩置県以後の各村の村勢(1)里程などの503頁を読んでいて気付いた。古い標石の写真があった。詳しい説明はなく「下山の往還道にあった往時の道標」とのみ記している。

「西 瀬戸」と刻まれ、板浦大抜の標石と刻面が違う。「あった」と過去形のような説明も気になり、瀬戸下山郷へ行ってみた。大瀬戸中学校入口の交差点に戻り、大串方向へ県道12号線をしばらく走ると、「下山」バス停があり、雪浦から羽出川沿いに上がってきた道と合う。
当時の往還道は、この先少し行った小道である。右へ入ると往還道の分岐があった。郷土誌に写真が載っている標石が、畑の土手に無造作に倒されてあった。

立てて見ると3面に刻面があり、「西 瀬戸」「北 大串」「南 雪ノ浦」と刻んでいる。18cm角、高さ75cmの標石である。
放置されているのはもったいない。大瀬戸歴史民俗資料館へ知らせ、立て直しをお願いした。
設置年代はわからない。いずれも明治以前か、明治初期の標石と思われる。

西海町の主な史跡 (1)  西海市西海町

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西海町の主な史跡 (1)  西海市西海町

西海市西海町の主な史跡。西海町「西海町郷土誌」平成17年発行606〜614頁の指定文化財による説明は次のとおり。項目の番号は調整。
七ッ釜鍾乳洞内部と横瀬浦航空写真は同郷土誌から。

写真  1〜  2   1 七ツ釜鍾乳洞(国指定天然記念物 昭和11年12月16日指定)

七ツ釜鍾乳洞については大正9年編纂「七釜村郷土史」の中にも「洞窟」として「中浦北郷清水川に石灰洞あり」「所々に鍾乳石、石筍をのこす。夏期冷気を覚ゆ」と記載がある。
県に保管されている記録に、「昭和3年8月、河野新一元七釜尋常高等小学校長が職員と共に数回にわたり探検を試み、遂に洞口より500mの地点まで極め、更にその後同校訓導山口大三の実査によってこの奇勝は広く世に紹介された」とある。
本格的な洞内の探検が行なわれたことによって、「清水瀧」「踊ノ間」「高野狭」「大石柱」等洞内生成物の名称と説明が記載された資料が作られた。

写真  3        2 南蛮船来航地(県指定史跡 昭和16年1月17日指定)

昭和16年指定時の資料では「横瀬浦は宣教師によって治められる市民性社会としての政治社会史上の意義がある」と記している。
昭和35年頃から顕彰事業のための活動が始まり、昭和37年3月横瀬浦顕彰期成会が発足。同年11月、横瀬浦開港400年記念として来航記念碑、上町、下町、長崎甚左衛門門居宅跡碑、八の子島十字架塔(台座4×11m、高さ8m余)などが建立された。
この顕彰期成会を母体として昭和61年7月、横瀬浦史跡保存会が結成された。
平成2年3月、展望台、トイレ等を備えた横瀬浦史跡公園が完成し、平成16年5月、再整備の後、「横瀬浦公園」と改称された。

写真  4〜  6   3 中浦ジュリアン出生の地(県指定史跡 昭和43年4月23日指定)

天正遣欧使節「中浦ジュリアン出生の地」は、昭和42年、長崎県文化財専門員が中浦の現地を踏査し、「館(たち)」「御園(みその)」等の地名から領主の居宅跡を推定。中浦南郷字御園の指定地をジュリアン出生の地としたものである。
昭和57年2月、天正遣欧使節400年を記念して、帆船の帆と地球儀を形どった中浦ジュリアン顕彰碑が完成、この年から中浦郷では、毎年2月に中浦ジュリアン祭が開催されている。
平成14年2月、「中浦ジュリアン記念公園」が落成した。中浦ジュリアン像、資料展示室、芝生公園が整備され、彩色壁画でジュリアンの生涯を紹介している。

写真  7〜  9   4 西彼杵半島猪垣(ししがき)基点(県指定史跡 昭和43年4月23日指定)

西彼杵半島の脊梁を取り囲むように築かれた猪垣は享保年間、中浦の庄屋郡干右衛門の呼びかけで工事が始められたものといわれる。中浦北郷に残る基点標石には「享保七寅年」の文字が刻まれている。猪垣は「中浦村ほか所村の庄屋と農民が行なった農害対策の遺構として農政史上価値をもつもの」としてその基点が史跡として指定された。

写真 10〜 13   5 天久保遺跡(西海町指定史跡 昭和55年2月指定「天久保貝塚と館跡」から名称変更)

俗に「カイガラ畑」と呼ばれ、縄文時代晩期より弥生時代の貝塚、支石墓、箱式石棺や装飾品である管玉が出土している。天久保武蔵とのつながりで考えられている屋敷跡もある。

伊佐ノ浦公園  西海市西海町中浦南郷

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伊佐ノ浦公園  西海市西海町中浦南郷

国道202号線により七ツ釜鍾乳洞の手前まで行くと、ダム湖の伊佐ノ浦公園へ登る車道の案内標識がある。
伊佐ノ浦川(いさのうらがわ)は、長崎県の西彼杵半島北西部を西へ流れ、五島灘(東シナ海)へ注ぐ2級河川である。流域は西海市に属し、優れた自然景観から西彼杵半島県立公園にも指定されている。ウィキペディア百科事典による説明は次のとおり。

伊佐ノ浦ダム

伊佐ノ浦ダムは、伊佐ノ浦川の中ほどに1987年(昭和62年)3月に完成した、畑地灌漑用の利水専用ダムである。河口から3.1km・標高約160m地点にある。
堤高29.7m・堤頂長140.75m・有効貯水量164万m³・集水区域6.7km²・水没面積24.5haの重力式コンクリートダムである。ダム区域には複数の尾根と谷が刻まれ、ダム湖は放射状に入り組んでいる。

ダムからの取水は上流よりさらに東側の木場郷まで一旦ポンプアップされ、西海市西海町域の畑地約500haに供給される。またダムの周囲はキャンプ場、遊歩道(約5km)、ボート用浮き桟橋、サクラ並木などが作られ、「伊佐ノ浦公園」として整備されている。入園時は1人100円の美化協力金が必要である。

河通のアベマキ  西海市大瀬戸町河通郷

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河通のアベマキ  西海市大瀬戸町河通郷

西海市大瀬戸町河通郷のつがねの滝近くに、コルクノキの大木があると、大瀬戸歴史民俗資料館から聞いたので訪ねた。つがねの滝入口の駐車場へ着くすぐ近くの車道左側を見て行くと、人家脇の林間にすくっと立っていた。
地元では「コルクノキ」と呼んでいるが、樹皮が一時、コルクの代用品となったコルククヌギのようであり、和名「アベマキ」として知られる。幹囲3m、樹高15mほどある。長崎県下で2番目に大きい木らしい。最後の写真が「つがねの滝」

諫早市森山西小学校の明治30年植えられた「アベマキ」が、長崎県指定天然記念物になっている。幹囲3.65m、樹高約17mあるから、これに次ぐ木と思える。
森山西小学校のアベマキは、 https://misakimichi.com/archives/380

アベマキ(棈)   ブナ科コナラ属 落葉高木

樹皮はコルク層が発達し縦に不規則に割れる。 葉は互生し、7〜15cmの卵状狭長楕円形で針状の鋸歯がある。葉はクヌギに似ているが葉裏は白い。
4〜5月、雄花序を垂らし、上部に雌花序を1個つける。堅果は翌年の秋に熟する。