大瀬戸町の主な史跡 (2)  西海市大瀬戸町

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大瀬戸町の主な史跡 (2)  西海市大瀬戸町

西海市大瀬戸町の主な史跡。大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の第5節郷土の史跡117〜156頁による説明は次のとおり。項目の番号は調整。

写真  1〜  7  (5) 石鍋工房跡(国文化財指定)

石鍋は、滑石(温石 おんじゃく)でつくられ、古代人とか、平家の落人が厨房具として使用したのではないかと云い伝えられて、町内の山奥でよく見ることができた。石鍋が、我国の生活史上に登場するのは、平安末期から鎌倉時代といわれるが、その起源や消滅した時期については明らかでない。現在、京都や奈良をはじめ、近畿地方から西日本一帯、南は石垣島にいたる各地から、多数の石鍋が出土しているが、その生産地は数少ないといわれる。

西彼杵半島に石鍋の製作所跡が点在していることは、すでに大正時代から紹介されていたが、昭和54年度、本町内にある石鍋製作所跡の分布調査を実施し、8箇所の遺跡を確認した。8箇所の遺跡のうち、保存状況、遺跡の規模・内容等に、特にすぐれた羽出川郷のホゲットウ遺跡は、我国でも最大のものといわれ、昭和56年9月8日国の史跡として指定された。

ホゲットウは、標高120mで、地形険阻にして、特に山頂の東南部は屹立する岩壁をなしており、容易に人跡を入れぬ地形になっている。「ホゲットウ」の字名は、石鍋製作にかかわるもので、「ホゲル・ホガス」(穴があく・穴をあける)という採掘行動を示す動詞と、「トウ・ツウ」(穴・洞)という名詞が複合したものといわれる。11箇所の製作所遺構のうち、第6製作所は、60mにもおよぶ石鍋製作岩壁をもち、見るものを圧倒するものがある。

滑石は、柔らかで、加工しやすく、しかも熱を逃がさない性質があることから、古くからよく利用されていた。縄文時代前期から中期にかけては、土器の粘土に混ぜて使われたり、弥生期には漁具の「おもり」に、古墳時代には、土器の表や内側をならしたり、文様をつけるための「スタンプ」形のものに使用され、古代には「経文」を納める「経筒」に加工し、また佛像の素材にも利用されていた。

(注 「ホゲットウ遺跡」の場所は、長崎からは雪浦橋を渡りすぐ右折。雪浦川沿いに雪浦奥浦郷の集落を過ぎ、広瀬神社先まで行くと案内標識がある。左の橋を渡って瀬戸羽出川郷の新しくできた広域林道へ入る。すぐ道路右脇に写真の史跡説明板があるが、ここは山道の入口で、遺跡まで約750m、20分ほど歩いて登る。山道は案内標識が整備されている。途中で最後の写真の猪垣遺構が見られる)

写真  8〜 10   大瀬戸歴史民俗資料館の「ホゲットウ遺跡」展示品 

写真 11       (6) 瀬戸大番所跡

旧藩時代の約200年間にわたって、キリシタン取締り、異国船警戒の元締めとしての役割を果たした瀬戸大番所は、旧瀬戸小学校跡地、現在の大瀬戸町コミュニティーセンターの敷地に設けられていた。この地を俗に「瀬戸の谷」と呼んでいる。
この地に番所が設けられたのは、寛永13年(1636)で、幕府の命をうけた、時の長崎奉行榊原飛騨守、馬場三郎左衛門尉の指示により、藩主大村純信が、当時異国船の航路であった、外海地方の戸町、福田、三重、神浦、瀬戸、中浦、面高の7ヵ所に番所を設けた。

瀬戸番所は、全体の支配をなす押番役の馬廻1人と足軽3人を置き、それに附属した番船1艘と水主8人が常駐し、他の6番所には、小身待1人と足軽2人が配属され、外国船の警備を初め、海難船舶の救助、密貿易の監視、キリシタン禁制の取締りにあたらせた。
その後、鎖国が完成した寛永16年(1639)に、瀬戸番所を大番所に昇格して支配権を強化し、外海大番所と改称、馬廻役より1人、番所待上下9人と番船1艘、ならびに水主8人に増強した。…

写真 12〜 14  (7) 瀬戸遠見番所跡

瀬戸の遠見番所は、大番所より約600mの北方にあり、かつての往還が通っていた多以良越の道筋にあたる標高155mの山頂にあったといわれる。見張所は、約100㎡の広さの所にあって、2m四方の杉皮の屋根で、まわりは板壁であった。
ここは眺望がよく、南は相撲灘から蟇島、西は江島、平島、五島灘、北は崎戸、大島、平戸までも望むことが出来たので、ここに遠見番所を置いて、外国船の来航や、遭難船の見張りなどの任にあたらせた。
この遠見番所は、正保元年(1644)に、大村藩主純信によって設けられ、初めの頃は瀬戸の百姓の中から勤番したが、貞享元年(1684)4月1日から青木八太夫と小佐々惣右衛門の2人で勤番することになった。…
(注 「瀬戸遠見番所跡」は、現在、瀬戸樫浦郷の琴平神社となっている)

写真 15〜 17  (8) 真光寺学寮跡

真光寺に開講された、学寮の由緒については定かではないが、天保年間(1830〜1844)に、その頃の地方の寺では珍しい学問所、学寮が設けられて、代々研鑽につとめてきたが、なかでも、真光寺中興の祖とも仰がれる11世の住職勲能(1778〜1860)は、大学者として名高く、彼の名声と真光寺学寮の名は九州一円から四国、中国地方にまで及び、遊学の僧や学問を志す人達がはるばるこの雪浦の辺地まで訪れて、その教えを請うたという。…

写真 18〜 19  (9) 猪垣遺構

西彼杵連山の山腹のあちこちに、まるで万里の長城を小さくしたように、細長く延々と続く石垣を見ることができる。これが、西海町中浦を基点として琴海町まで、約70kmも続くといわれる西彼杵半島猪垣の一部である。
これは、当時の幕府が断行した享保の改革を受けて、大村藩でも藩政のたてなおしのために、種々の事業に着手したが、その中のひとつとして、当時から多かった西彼杵半島北部の猪害から農作物を守る手段として、この猪留石垣の造築を思いたったのである。…
(注 写真は石鍋工房跡「ホゲットウ遺構」へ行く途中の、山道で見られる大瀬戸町の猪垣遺構)