みさき道の道塚」カテゴリーアーカイブ

徳道里程道塚の昭和38年当時の写真が見つかる

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徳道里程道塚の昭和38年当時の写真が見つかる

上の古い写真を見ていただきたい。現存する「みさき道」の道塚No.⑦、徳道の車道三叉路に立つ里程道塚の昭和38年当時の姿である。「長崎ヨリ五里」「御嵜ヨリ二里」「文政七年申十一月 今魚町」(1824)と刻んだ有名な碑である。
この道塚のことは、私が平成17年8月、「三和町郷土誌」の編さんに当られた高崎市郎先生(川原宮崎に住む)を自宅にお訪ねして話を聞き、これはぜひ書きとめておきたいと研究レポート第1集において次のように報告していた。

6 野母崎徳道の大きな里程道塚⑦は、道路工事の受難に会っていた
後のレポートに引用しているが、新小が倉1丁目にある「従是南佐嘉領」の藩境石にまつわる峠の会の本「くにざかいの碑」に紹介されているブルドーザー掘り起こし記事とまったく同じような扱いを、徳道の道塚も受けていたのである。以下宿に下る野母崎町の町道改修工事の時と思われ、時期は先生もよく覚えていないが、無造作に工事現場に放置されていたそうである。先生が通りがかってすぐ野母崎町へ連絡し、貴重な道塚を大事にするよう意見され、今の位置に据え付けられた。明治地図を見ても以下宿に小径がまっすぐここから下りていて、位置はあまり違いはないようである。
こういうことはやはりあったのだろうか。ダイヤランド内の道塚を始め、前で記したここにもあったという道塚は、そんな運命を辿って壊され、土の中に埋まってしまったのかも知れない。西山台上の殿様道にあった大村領の藩境石も、立っていたと思われる畑所有者の三川町自宅の庭へ移されていた。道塚は位置をあまり動かさないでほしい。

偶然にも、この徳道道塚は受難前の姿の写真が残っていた。昨日(平成19年11月3日)「長崎学さるく」の準備のため、「みさき道」の草刈り整備をした。長崎史談会幹事でもある餅田勇さんが参加され、「こんな写真があるよ」と現地で見せてくれた。
長崎の歴史話をコンパクトに田栗杢作氏が編集していた長崎手帖社「長崎手帖 第三十一号」昭和38年4月発行の中の「碑をたずねて 24 里程碑」。上のとおりの写真と記事である。文は田栗杢作氏と思われる。カメラは井上桂二氏。

「長崎手帖」の碑の記事は、先に「長崎の古写真考」の項で紹介している。興善町の写真店「春光社」の現社長が、「長崎手帖」1〜40号まで全巻保存版を持っておられる。一度訪ね、私は見せてもらって故永島正一氏「居留地境石標」文など載せたが、この時に肝心な第31号を見落としていたようだ。

当時の写真を見て気づくのは、刻面の向きと背景。二の岳の山裾が後に写り、のどかな田んぼや畑が道塚のすぐ近くで広がっている。今ある道塚は、高崎先生が話されたとおり、いつの時期かわからないが野母崎町の町道改修工事のとき、位置と向きを少し変えられてこの三叉路に据え付け直されたのである。貴重な写真が見つかった。

最後は、写真集「三和町今昔2」から川原宮崎海岸と徳道の昔日を参考のため。海ガメが産卵にきていたし、徳道の山道4kmは当時の子どもの通学路であった。

現在残っている「みさき道」の道塚(12本)の場所・刻面等

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現在残っている「みさき道」の道塚(12本)の場所・刻面等

① 十人町の石段脇
上部はすっかり磨耗していて、刻字不明 地元の話では変体仮名で「みさき道」と刻まれていたという
② 二本松山中(上戸町)
正面「みさき道」 左側面「今魚町」
③ 高比良園芸内(新小が倉)
正面「御崎道」左側面「文政六年葵未二月」 右側面「今魚町」下の部分は土中に埋もれている (1823)
④ 蚊焼西大道
正面「みさき道 今魚町」
⑤ 蚊焼元松尾 
正面「 今魚町」 上部は欠損
⑥ 岳路海水浴場前バス停下
正面「みさき道」 右側面「今魚町」
⑦ 徳道車道三叉路
正面「御嵜ヨリ二里」 右側面「長崎ヨリ五里」 左側面「文政七年申十一月 今魚町」 (1824)
⑧ 野母崎ゴルフ場裏門内
墓石を転用、文字は重複 正面は地蔵彫刻 右側面「右御崎道」 左側面「左川原道」
⑨ 同上道塚の5mほど奥
正面「みさき道 今魚町」 左側面「上 川原道」
⑩ 観音寺の境内石段脇
正面「道塚五拾本」 右側面「天明四年 辰八月吉日 勝山町石工 山下左吉」 左側面「今魚町」(1784 寄進の意味か)
⑪ 脇岬海岸国道上
正面「従是観音道」 左側面「山道十丁」 裏側「元禄十丁丑九月吉日 願主敬建」 (1697)
⑫ 三和「みさき駅」前
正面「みさき道 今魚町」(県養護学校近くにあったのを移設展示)

道塚の種別等による分類

今魚町系  コース①②③④⑤⑨⑫ 岳路⑥ 花崗岩里程⑦ 五拾本⑩  計10本 
異 質   墓石転用 川原道⑧
観音道   花崗岩里程⑪

道塚の刻面がある建立年別
(建立者不明)
元禄十年(1697)⑪ 脇岬海岸国道上     正面「従是観音道」左側面「山道十丁」

(今魚町建立)
天明四年(1784)⑩ 観音寺の境内石段脇   正面「道塚五拾本」左側面「今魚町」
文政六年(1823)③ 高比良園芸内(新小が倉)正面「御崎道」左側面「文政六年葵未二月」右側面「今魚町」
文政七年(1824)⑦ 徳道車道三叉路     正面「御嵜ヨリ二里」右側面「長崎ヨリ五里」左側面「文政七年申十一月 今魚町」

(注) この表は、中島勇氏資料『観音信仰「みさき道」』などを参考に作成した。

現存の外「みさき道」道塚があったとされる地点

次は、現在までの調査で判明した現存する12本の道塚のほか、参考の関係資料または記憶談の聞き取りによって私達が把握している「みさき道」の道塚があったとされる地点である。コース順に並べてみる。一部重複したり、場所誤りも考えられるようだが、資料等のとおりそのまま掲げてみる。

1 石   橋         原田氏「観音信仰と御崎街道」
2 出雲湧き水地点       中島氏「野母半島とみさき道図」説明
3 ダイヤランド 峠付近    蚊焼山村氏記憶談 (三菱地所開発問合せ不明)
4 同 旧地図山頭地点     蚊焼山村氏記憶談 ( 同 )
5 同 旧地図一本松地点    蚊焼山村氏記憶談 ( 同 )
6 平山台上タンク地点     蚊焼桑原氏記憶談
7 平山台三叉路        中島氏「野母半島とみさき道図」説明
8 国道蚊焼入口        蚊焼桑原氏記憶談
9 同上坂の途中        蚊焼桑原氏記憶談
10 同上坂上の平地       原田氏「観音信仰と御崎街道」中島氏「野母半島とみさき道図」説明
11 草積祠の先         蚊焼桑原氏記憶談
12 蚊焼峠推定地点       蚊焼桑原氏記憶談
13 妙道尼信女墓地点      蚊焼桑原氏記憶談
14 堂 山 峠         原田氏「観音信仰と御崎街道」

(コース外)
1 川原前小池裏字池平     明治32年建立 宮崎高崎氏記憶談 三和中央公民館保管中
2 二ノ岳ピーク間       何かの石柱 高浜在住の人の記憶談

「みさき道」の道塚 ① 十人町の石段脇

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上部はすっかり磨耗していて、刻字不明。地元の話では変体仮名で「みさき道」と刻まれていたという。
館内町唐人屋敷近く。太閤寿司裏手の右石段登り口にある。
平成7年「さるく博」のため、説明板が取り付けられた。

[説明板文面] みさき道(御崎道)の道塚
十人町から南へ7里(28km)先の野母崎の観音寺までの街道で、観音寺を参詣するため整備された。この道塚から始まり、かつては「みさき道」と刻まれていた。

(川上氏HPから修正作成)

「みさき道」の道塚 ③ 新小が倉高比良造園内

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正面「御崎道」 左側面「文政六年葵未二月」 右側面「今魚町」 (1823年)
ダイヤランド入口相光石油裏 高比良造園内の電柱支柱根元にある。

[近くにある力士墓と源右衛門茶屋跡の碑文]
この力士墓は天保十年ごろ東京相撲で活躍した「二子島力士」と慶応四年ごろ宮相撲の強豪であった「熊ヶ谷力士」のものである。
往時この界隈は、御崎道の主要路で岬の「観音寺」参りの商人や深堀武士達の往来も激しく一軒の茶屋があったと伝えられ、今でも「ゲンネン茶屋」(源右衛門茶屋)と呼んでいる。
近年団地開発が進み付近の様子もすっかり変りこの碑の存在が忘れられ、おろそかにされてきた経過もあったが、父茶屋仙次郎の遺志をくみ、土地造成を機会にこの地に再建立したものである。
平成四年七月吉日      再建者 茶 屋 義 行   筆者 園 田 義 光 

(川上氏HPから修正作成)