月別アーカイブ: 2016年10月

伊是名島のその他の風景  伊是名村 ( 沖縄県 )

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伊是名島のその他の風景  伊是名村

伊是名島のその他の風景。写真順に、本部半島の今帰仁村・運天港フェリー発、伊是名村・仲田港着、尚円王御庭公園と金丸(尚円)像、ギタラ展望台から海・陸ギタラなど望む、伊是名城跡の岩山、仲田港からのフェリー帰り

ウィキペディアフリー百科事典による「伊是名島」の説明は、次のとおり。

伊是名島
伊是名島(いぜなじま)は日本の南西諸島、沖縄本島北西部の伊平屋伊是名諸島に属する島。沖縄県島尻郡伊是名村の主島。

概要
伊是名村で唯一の有人島。面積は14.12km²で[1]、近接する伊平屋島よりも標高は低く、海岸に面して平坦な地形が広がっている[2]。島内最高峰は大野山(うふやま、別名・チジン山)の標高119.9メートル。かつては屋ノ下島と呼ばれる島が隣接していたが、伊是名場外離着陸場を整備した際に干拓され現在は伊是名島の一部となっている。伊平屋島にはハブが生息しているのに対し、伊是名島にはハブが生息しておらず、仲田港には「ようこそ ハブのいない伊是名島へ」と書かれた看板が設置されている[3]。

伊是名場外離着陸場と沖縄本島など他の島を結ぶ定期航空路線は存在せず、仲田港と本部半島の今帰仁村・運天港の間を1日2往復する村営フェリーが事実上、島外との唯一の交通手段となっている。近接する伊平屋島との定期航路は存在しないが、野甫島との間には、北部の内花港から不定期の渡船が運航している[4]。

主な施設・名所
・伊是名城跡
・尚円王生誕地
・尚円王御庭公園
・銘苅家住宅
・伊是名村ふれあい民俗館

サムレー道(侍道)の石畳  伊是名村伊是名 ( 沖縄県 )

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サムレー道(侍道)の石畳  伊是名村伊是名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。仲田港から県道178号により高台の伊是名村役場まで行き、左折して県道をそのまま伊是名集落へ下る。「ギタラ展望台」へ行く道に左折してしばらく進み、「←サムレー道」の左分岐に入る。奥まで行くと、「サムレー道」の標柱と史跡案内板がある。
「ギタラ展望台」先の道にも、同じような「サムレー道」の標柱と説明板があった。私は訪問順により説明しているが、仲田港からは、逆回りが近い。
場所は、観光協会観光マップ参照。 http://www.izena-kanko.jp/detail.jsp?id=48814&menuid=10463&funcid=1

サムレー道(侍道)の石畳
(島尻)伊是名村(伊是名島) 石畳道 長約2㎞ 琉球王国時代 村史跡・名勝 WEB/村教委 全長にわたって石畳がそのまま残る 伊是名集落にある銘苅家とグスク跡を結ぶ旧道 1 A

現地説明板は、次のとおり。

村指定文化財(史跡)  サムレー道   平成5年7月20日指定
12、13世紀の頃から戦後島内一周線が開通するまでの長期にわたり、元島と伊是名南西部を結ぶ唯一の生活道路であった。山越えの傾斜地約五百メートルは、雨水の浸食を防ぐため大小様々な硅石(マー石)が敷かれ、何百年の長い年月人々に踏まれたその石は表面が磨かれたようにすべすべしていて歴史の重みを感じさせる。
また、その昔ユトヌチ(御殿、銘苅家、両タハダ(伊禮家・玉城家))が伊是名玉御殿の清明祭の参道を目的にその道を利用した。硅石の中で、武士の足形に似ていると言うことが伝えられサムレー道と呼ばれた。

伊是名集落のサンゴ石塀とフクギ並木  伊是名村伊是名 ( 沖縄県 )

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伊是名集落のサンゴ石塀とフクギ並木  伊是名村伊是名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。仲田港から県道178号により高台の伊是名村役場まで行き、左折して県道をそのまま伊是名集落へ下る。その途中、「ギタラ展望台」へ行く道に出る手前、県道右側の古い集落に入る道の両側に、「伊是名集落のサンゴ石塀とフクギ並木」が見える。
場所は、観光協会観光マップ参照。 http://www.izena-kanko.jp/detail.jsp?id=48814&menuid=10463&funcid=1

伊是名集落の石塀とフクギ並木 いぜな
(島尻)伊是名村(伊是名島) 伊是名集落 石塀(珊瑚石)、フクギ 集落全体 不明 WEB/村教委 島の原風景がよく保存されている 珊瑚石は沖縄の島嶼部の典型、フクギは防風林 1 A

アーガ山の逢火台(火立所)  伊是名村伊是名 ( 沖縄県 )

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アーガ山の逢火台(火立所)  伊是名村伊是名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。仲田港から県道178号により高台の伊是名村役場まで行き、左折して県道をそのまま進むと、伊是名中学校の対面に公園駐車場がある。駐車場奥の下の方の遊歩道階段を登ると、アーガ山に着くらしい。
県道の少し先にも、別の公園駐車場があり、ここに「アーガ山ふれあいパーク」案内図があった。アーガ山登り口はこの2箇所で、案内図(ズーム拡大)によると、ふれあいパーク展望台近くに「アーガ山の逢火台(火立所)」跡があるようだが、往復に20分は要する。公園利用者がいないのか遊歩道も草が生え荒れている。
後の予定がありフェリー便に間に合わないので、訪ねるのは略した。村教育委員会に画像提供をお願いしたが、①手元に画像はなく、②雑草刈りをしないと近づけない、③他の者が持っていれば提供するが、あってもがっかりするようなものだとか、ということである。

アーガ山の逢火台(火立所)
(島尻)伊是名村(伊是名島) 遠見台、火番盛 1644年以降 村史跡 WEB/村教委 雑草に覆われ到達困難 先島諸島の火番盛群とは別系列の逢火台/小規模な土盛り 4 –

参考には、HP「沖縄の地域研究」に、2007年の現地記事と写真がある。
【伊是名島の「火立所」と「雨乞い場所」】 (2007年1月31日)   http://yannaki.jp/izenaaza.html

金丸の逆田  伊是名村内花 ( 沖縄県 )

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金丸の逆田  伊是名村内花

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。仲田港から県道178号などにより伊是名村役場などある村の中心部高台へ上がる。県道177号に入り伊是名小学校の右から左折、村道を伊是名生コン(有)まで進むと、あと0.5kmの案内標識がある。次の0.1kmで左折してバラス道を谷奥まで行くと、下部が説明銘板となっている史跡「逆田」碑が立つ。
場所は、観光協会観光マップ参照。 http://www.izena-kanko.jp/detail.jsp?id=48814&menuid=10463&funcid=1

金丸の逆田 かなまる、さかた
(島尻)伊是名村(伊是名島) 棚田 面積946㎡ 15世紀前半 村史跡 WEB/村教委 現役の水田 第二尚王統の開祖尚円王が、伊是名島で耕作していた水田/水飢饉の際にも枯れなかったと言われる(尚円王のために村の娘達が密かに下流から水をくみあげた、という言い伝えがある) 1 C

現地説明板は、次のとおり。

史 跡  逆   田 (さかた)
尚円王は、1415年に首見邑・今日の字諸見において生誕され若き頃を「北の松金」と呼ばれ、後に、名を「金丸」に改め、1470年「尚円王」となり、琉球国の王様となった。
この逆田は、尚円王が島を離れるまで耕作したと伝えられており後世になってから「御持ち田」という敬称で呼ばれるようになった。
伊平屋島旧記によれば、この逆田は、毎年のように豊作がつづき、又、いかなる大旱魃のときでも、決して水が涸れることはなかった。これを見た下の田主達は、「水をよこし入れた」と思い違いをし、それならばと、ある晩のこと、下の田圃に水を流れるように、畦を切り開きました。
ところが、翌朝いって見ると、我が田圃の水は涸れ、上の北の田圃だけが、水を満々と堪えていました。
これは不思議なことだ、さては「水が逆さに流れたんではないか」と巷に噂がながれ、「水が逆さに流れた田圃」ということで「逆田」の名がつけられたと伝えられている。
平成4年7月17日 村文化財指定   伊是名村教育委員会

潮 平 井  伊是名村諸見 ( 沖縄県 )

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潮 平 井  伊是名村諸見

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。名護市の北、今帰仁村運天港から伊是名島仲田港へ、1日2便のフェリーがある。「尚円王御庭公園」は仲田港からすぐ北の高台にあり、その途中、園内の修景された水路へ下る遊歩道脇のところに、「潮平井」の石積井(湧水、半月型)がある。
小さな目の硬い鋼製網で覆われ、石積井の内部は写せない。

潮平井 スンジャ・ガー
(島尻)伊是名村(伊是名島) 尚円王御庭公園 石積井(湧水、半月型) 径約3m 1415年以前 村史跡 WEB/村教委 全体が金網で覆われている/内部は未調査で詳細不明 第二尚王統の開祖尚円王が生まれてすぐ浸かったとの伝承がある 3 C

辺戸大川  国頭町辺戸 ( 沖縄県 )

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辺戸大川  国頭町辺戸

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道58号により沖縄本島の北端、辺戸岬の分岐まで行く。国道は辺戸御嶽の麓を回り込むように続くので、そのまま進むと辺戸集落入口のバス停に着く。
集落内に入ると、平屋ビルの辺戸共同売店があり、手前角の電柱に消えそうなマジック字で、「大川→100m」と書いている。左折して急坂を登ると、神屋の堂と広い駐車場あり。その先の最後の民家の手前の山道を谷間まで下る。2つの小川が合流し、左の沢がお水取り行事写真の「辺戸大川」水汲み場だろう。夕方の谷間となり、写真は暗くなった。

辺戸大川 ヘド・ウッカー
(国頭)国頭村 水汲み場 琉球王国時代 WEB 首里王府と関わる重要な祭祀場/5月と12月に御水取りが行われる 1 B

主な参考HPは、次のとおり。

「健康長寿の島・沖縄」
【沖縄タイムス】2011年12月19日/ 沖縄県内ニュースから現地写真 http://nuchi.ti-da.net/e3661692.html
■ 祈り捧げお水取り 国頭 王朝儀式を再現
琉球王朝時代、国王の年始儀式に使うために行っていた「大川のお水取り」(主催・同実行委員会)が18日、国頭村辺戸区で再現された。女優の美良樹(みらい)吟呼さんが神女役を務め、集落各地で神々に祈りを捧げ、長命の水が流れるとされる大川(アフリ川)から水をくみ取った。那覇市首里当蔵町自治会の会員、県立芸大の学生、辺戸区の住民らが参加した。
「お水取り」は国王の年始儀式「お水撫で」のため、大川の清らかな水を首里城に献上する行事。1999年に120年ぶりに復活し、今年で13回目。25日には、大川の水を首里公民館から首里城まで運ぶ「美御水(ぬーびー)奉納祭」が執り行われる。

辺 戸 岬  国頭村辺戸 ( 沖縄県 )

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辺 戸 岬  国頭村辺戸

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。辺戸岬は沖縄本島にある最北端の岬。那覇空港からは沖縄自動車道(高速)と一般道(国道58号など)を利用しても、車で約2時間30分以上のロングドライブとなる。最後の写真は、ヤンバルクイナ展望台から望んだ辺戸岬。

辺 戸 岬
辺戸岬(へどみさき)は、沖縄県国頭郡国頭村辺戸に属し、太平洋及び東シナ海に面する岬(東経128度15分56秒、北緯26度52分18秒)。沖縄島の最北端(「沖縄県」の最北端は、久米島町の硫黄鳥島)にある。好天の日は、22km離れた奄美群島の与論島や沖永良部島を望むことができる。沖縄海岸国定公園に含まれる。
地理
・サンゴ質の絶壁から成り、岬上は広い台地となっている。
・沖縄県がアメリカの統治下にあった頃、本土復帰を願って、ここからのろしを上げた。また年に1度、辺戸岬と与論島との間(北緯27度の海上)で、本土との交流集会も行われていた。
・1972年(昭和47年)の沖縄返還にさいして建立された「日本祖国復帰闘争碑」がある。
・茅打バンタの北側に位置する辺戸岬ドームは、世界的にも珍しい海底の鍾乳洞で、ダイビングスポットとして知られる。
周辺の観光地
・茅打バンタ – 岬へ至る南西岸の絶壁。かつては交通の難所だったが、現在は国道58号のトンネルが短絡している。
・奥集落 – 古くからの民家が引き継がれている。奥ヤンバルの里(資料館・宿泊施設)あり。
・辺戸岬灯台
・ヤンバルクイナ展望台
・金剛石林山
交通
自動車 国道58号利用が便利である(南は80km以上離れた恩納村山田から、東海岸ではうるま市石川東恩納の国道329号から国道58号経由での距離案内が表示されている)。

嘉陽層の褶曲  名護市底仁屋ほか ( 沖縄県 )

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嘉陽層の褶曲  名護市底仁屋ほか

現地説明板は、次のとおり。名護市の南東部、国道329号の二見北交差点から分岐、国道331号により東海岸を大浦から東村の方へ向かう。嘉陽小学校を過ぎて、しばらく山間部を行くところが底仁屋である。
名護市「嘉陽層の褶曲」は、このあたり写真とおりの入口案内標識がある県道70号の旧道箇所崖面で主に見られる。1993年(平成5年)4月、名護市二見−東村平の約30kmの区間は国道331号に昇格している。
天仁屋からバン崎にかけての海岸にみられる嘉陽層も、国道その先に入口案内標識があった。

国指定天然記念物(地層) 平成24年9月19日指定  名護市 嘉陽層の褶曲

嘉陽層という地層は、沖縄島中部以北の東側に分布しています。砂岩・泥岩・層内礫岩および礫岩をともない、それらが交互にかさなっている地層のことで、新生代古第三紀始新世(約5400万年〜3700万年前)に2000mを超える深海底に堆積したものです。
底仁屋にある嘉陽層の褶曲は、東海岸の東端近くに位置する嘉陽から底仁屋にぬける県道70号線の旧道にみられます。その旧道の削り取られた崖に、大きく褶曲した地層が現れています。褶曲というのは、地層が曲がりくねった状態をいいますが、底仁屋の褶曲のように、曲がりくねり、さらにおりたたまれ横倒しになっている褶曲を横臥褶曲といって、大変珍しいものです。
琉球列島の成り立ちを示す地層現象が保存された極めて重要な露頭であることから、天仁屋からバン崎にかけての海岸にみられる嘉陽層とともに、平成24年(2012)9月19日に国の天然記念物(地層)に指定されました。
現在は、県内の各高校の地学実習の場としても利用されています。
平成25年(2013)12月設置     [底仁屋区・名護市教育委員会]

長崎市小ケ倉の褶曲地層(長崎県指定天然記念物 昭和38年7月23日指定)は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/124

大浦アサギ庭(みゃー)のガジマル  名護市大浦 ( 沖縄県 )

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大浦アサギ庭(みゃー)のガジマル  名護市大浦

現地説明板は、次のとおり。名護市の南東部、国道329号の二見北交差点から分岐、国道331号により大浦まで行く。大浦橋を渡った先から少し北の大浦集落センター・区事務所前広場に「大浦アサギ庭(みゃー)のガジマル」はある。

名護市指定文化財(天然記念物)
大浦アサギ庭(みゃー)のガジマル   平成18年2月15日指定
和名は、ガジュマル(Ficus microcarpa L.f.)。漢名で「榕樹」と書く。
クワ科の常緑喬木で屋久島以南・沖縄・台湾・亜熱帯アジア・オーストラリアに分布する熱帯性樹木で、防潮、防風林や緑陰樹としても広く植栽されている。
「大浦アサギ庭のガジマル」は大浦区のアサギ前広場に生育しており、幹は全体的に東に傾き、南東に2m隔てて垂下した気根が大径木のフクギを締めつけ、北東に伸びた幹が直角に曲がり上部樹幹を形成している。多くの気根は幹や枝に巻きつき、垂下する気根は少なく、幹にはアコウが着生している。
アサギ庭を囲むようにアサギとニガミヤーが向かい合い、広場は、エイサー・村踊り・ウシデーク・アブシバレーなど村の行事を行う大切な空間となっている。その広場に涼しげな陰を作り生育するガジマルは、古くから区民に親しまれ大切にされてきた樹木であり、これからも、大浦区をはじめ名護市を代表するガジマルの一つとして、大切に保護すべき樹木である。
樹齢約110年、樹高約16m、胸高周囲約3.3m     平成20年(2008年)3月

以下は、HP【調査報告】沖縄本島 チリ地震津波を伝承する石碑を訪ねてから。

…地域から親しまれているガジュマルの下に石碑がある。津波を体験した大浦地区出身の比嘉勉氏が寄贈したものである。石碑裏には崩落した「大浦橋」の写真もはめ込まれ、伝承の工夫がなされている。

津波襲来の碑
1960年5月 南米チリ中部近海でM8.5の巨大地震が起き大津波が発生 時速700kmの速さで太平洋を横断 5月24日未明 日本近海を襲った
当地では午前5時半頃から数回に亘り襲来 津波高5mにも及び大浦橋が全壊 護岸も決壊 全家屋浸水し 生活用品 家畜等が流失 消滅した
この被害を教訓として地震津波の防災に活かし後世に伝えるためこの碑を建立した