月別アーカイブ: 2016年10月

大浦のイチョウ  名護市大浦 ( 沖縄県 )

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大浦のイチョウ  名護市大浦

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。名護市の南東部、国道329号の二見北交差点から分岐、国道331号により大浦まで行く。大浦橋を渡った先の公園に「大浦のイチョウ」があった。

■ 大浦のイチョウ
市指定天然記念物
指定年月日 平成18年2月15日

イチョウはイチョウ科の落葉樹(らくようじゅ)で、葉は扇形(おおぎがた)をしていて秋になると美しく黄色に変化(へんか)し、冬に落葉します。また、秋になると黄色い実をつけますが、これは「ぎんなん」といって食べることができます。
大浦のイチョウは明治35年8月から大正3年3月までの12年間、久志の尋常(じんじょう)高等小学校で校長をしていた志々目新太郎(ししめしんたろう)氏が、当時の久志村の収入役(しゅうにゅうやく)をしていた比嘉浩(ひがひろし)氏と親交(しんこう)を深め、その記念として、沖縄ではめずらしいイチョウを出身地の鹿児島県喜入村(かごしまけん、きいれむら、現在の鹿児島市)から3本持って来て植えたといわれています。
太平洋戦争のころまでは2本が残っていましたが、そのうちの1本も戦後になってかれてしまいました。たった1本残ったこの木も、戦争中には幹(みき)の上の部分を焼き失ってしまいましたが、奇跡的(きせきてき)に生育(せいいく)を続けて現在の姿(すがた)になりました。高さは13m、胸(むね)の高さでの周囲は約1.9m、樹齢は93年ぐらいだといわれています。沖縄県では他にはない巨木(きょぼく)で、区民から親しまれ大切にされている樹木です。

旧大宜味村役場庁舎  大宜味村大兼久 ( 沖縄県 )

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旧大宜味村役場庁舎  大宜味村大兼久

大宜味村HPの県指定文化財による説明は、次のとおり。国道58号塩屋橋を渡り大宜味村に入る。約4km先の右奥に現在の大宜味村役場があり、この現庁舎手前に「旧大宜味村役場庁舎」が残る。

旧大宜味村役場庁舎
公共建築物としては、県内初の本格的な鉄筋コンクリート造の建築物で、大正14年に竣工。大正期にメートル法を用いた画期的設計で意匠的に沖縄の気候・風土を十分に考慮に入れ、特に台風による風圧を軽減するため、八角の平面形状を取り入れるなどすぐれた特徴を有している。
大正時代のコンクリート建築物として県内に存在する唯一のもので、鉄筋コンクリート造技術の導入や、構造法の歴史を知るうえで貴重とされている。
指定年月日 平成9年11月18日
設計者 清村勉(熊本出身者)

なお、「沖縄タイムス+プラスニュース」2016年10月21日記事は、次のとおり。

国の重要文化財に大宜味村役場旧庁舎 沖縄で最も早い鉄筋コンクリート造り 文化審答申

国の文化審議会(馬淵明子会長)は21日、沖縄県大宜味(おおぎみ)村役場旧庁舎(村大兼久)を重要文化財(建造物)に指定するよう松野博一文部科学相に答申した。旧庁舎は県内で最も早い時期に建てられた鉄筋コンクリート造りで、現存では最古。近く官報に告示され、正式に認められる。県内の国指定有形文化財は32件目(国宝含む)で、建造物としては2009年指定の津嘉山酒造所施設に次いで22件目。現庁舎に隣接する位置にある旧庁舎は、1925年(大正14年)に竣工(しゅんこう)した。木造建築が主流の時代に、台風や白アリ対策のために鉄筋コンクリート造りを採用したとされる。設計は国頭郡の建築技師の清村勉氏。

中央ホールの周囲に執務空間を配し、ホール上方には屋上から突き出すように八角形の塔屋があるなど、役場庁舎としては独創的な造りになっている。新庁舎建設に伴って72年に役場機能を終え、その後は関連団体の事務所などとして使われた。現在は村史編纂(へんさん)室が利用している。
米須邦雄村教育長は「旧庁舎から現庁舎に移転した際、取り壊さずに残すという選択をした当時の判断が今につながった。旧庁舎には、建設した大工をはじめ先人たちの思いがこもっている。今後は国や県と連携し、大切に保存・継承していきたい」と話した。

大宜味村の猪垣  大宜味村押川六田原ほか ( 沖縄県 )

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大宜味村の猪垣  大宜味村押川六田原ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道58号塩屋橋を渡り大宜味村に入る。すぐ先の塩屋入口交差点から国道331号へ右折、屋古の宮城新昌翁(世界初牡蠣養殖の父)頌徳碑前まで行く。案内標識が消えてわかりにくいが、左折する車道が六田原展望台への入口。急坂の車道をかなり上がる。
展望台広場に着き休憩舎・WCのところに、猪垣史跡説明板と遊歩道詳細ルート図(拡大のこと)がある。遊歩道登り口から約30分ほど塩屋富士先の③地点まで登ると、長い石塁が現れる。ここが村指定史跡区間「大宜味村の猪垣」の一部で、古い集落写真の説明板があった。この先は時間がなく引き返した。

大宜味村の猪垣 おおぎみ・いがき
(国頭)大宜味村 猪垣(石塁) 総延長約1.5㎞ (指定距離1.3㎞),高2.1m-1.2m 1782年改修 村史跡 WEB 樹林中に明瞭に残る 塩屋、屋古前田、田湊・渡野喜屋・根路銘の住民が1776-85年に大改修当時「万里の長城」にちなんで、「十里の長城」とうたわれた 2 B

大宜味村HPの村指定文化財による説明は、次のとおり。

大宜味村の猪垣(ヤマシシガキ)第1号 村指定文化財
【種 別】史跡
【指定名称】大宜味村の猪垣(オオギミソンノヤマシシガキ)
【所在地】大宜味村全域を囲むように喜如嘉〜津波まで 全長約31km
【村指定区域】字押川六田原(前ホテルシャーベイ跡地付近)〜根路銘棚原山林間(上原ハキンジョウ)
【村指定距離】約1.3km(詳細地図)
【猪垣の説明】
私達大宜味村の先祖は、杣山(現在村有地)と農耕地(畑)との境界に猪垣を築き、畑地へのヤマシシの侵入を防ぎ、畑を守ってきた。殊に猪垣に隣接する土地の所有者は代々自分の畑を守るためにも、大宜味村全域の畑を守るためにも、自分の土地に接する猪垣を責任を持ってその保全に努め、崩れたら直ぐに補修をして猪垣を維持してきた。
1776 年から 1782 年にかけて、塩屋、屋古前田、田湊・渡野喜屋・根路銘等の住民が各むらの役人の指揮のもとに、猪垣の大々的な補修工事が行われ、高さ七尺(約 2.3メートル)より四尺(約 1.3メートル)の石垣を完成したところであり農閑期や月夜に石を集めてつんだとも記録されている(『球陽』尚穆王〔ショウボウオウ〕より)。そのため、1605年に野国総監が沖縄に芋苗を持ってきて、作物として定着した頃、初めて猪垣が構築されたと思われる。

その後も代々の私たちの先祖は、生きるために猪垣を維持し、戦後も村民を最大動員して大宜味村全域を囲い込む猪垣の補修を行ってきた。戦後60年、今も村有地と個人有地の境界に、その猪垣が残っている。
私達の先祖は何世代にもわたって、個人としても、むら全体としても猪垣の保全に万全を期してきた。大宜味間切としては内法を定め、むら役人は猪垣を巡回し、猪垣が壊れた箇所があればそこの猪垣管理者に修繕を命じ、次に巡回したときになお修繕がなされていない者には科料米ニ升の拠出を命じたものであった。
畑へのヤマシシの侵入は、主食であるイモやすべての作物を失うことにもなり、農民の生存にかかわることだけに、猪垣をもってヤマシシの侵入を防ぐことは農民の生きるための戦いでもあった。
猪垣には私達村民の先祖の歴史が刻まれている。大宜味村全域を囲い込む猪垣は「十里の長城」とも呼ばれ、構築から改修・保全と大宜味村に住んでいた人々の長い歴史の証しである。私達村民の先祖の歴史を語ってくれる貴重な文化遺産である。

三府龍脉碑記  名護市東江1丁目 ( 沖縄県 )

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三府龍脉碑記  名護市東江1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。「三府龍脉碑記」1750年の石碑は、名護市立名護博物館(東江1丁目)に現物が保管・展示されている。
複製された現在の碑は、名護の市街地、ひんぷんガジュマルの下に立つ。昭和37年(1962)に新しく建てられたもの。

三府龍脉碑記 さんぷりゅうみゃく
名護市 名護博物館 石碑(隅丸型) 1750年 県有形 (歴史資料) 名護博物館/WEB(みさき道人) 沖縄戦で所在不明→幸地川の河床から破片の一部が発見 /18世紀中頃に名護湾〜羽地内海を結ぶ運河開削を望む声が上がったのを制止するため蔡温が建てた碑文 3 B

(正面)「三府龍脉碑記/竊惟天分星宿地列山川而天地列相孚之美誠莫切焉故在地成形者峙而為山岡瓏阜散而為/平原郊濕皆莫非二氣之凝布矣是以察岡瓏之所来則知平原之發跡所謂萬山一貫是也吾/國三府四十一縣岡瓏平原分合向背成乎虎伏龍蟠之勢得乎同幹異枝之宜而龍脉綿綿大/顯天然之姿是誠萬世洪福之國也前古/天孫氏首出闢國始建/王城於首里府是由神眼之所相豈係常人之臆度奈至後世妄懐愚見或有言曰首里嶇岨不若/名護平担之為愈或有言曰屋部港自西横東古我地港自東横西而其間唯有一丘爲隔矣國/頭羽地及大宜味三縣船隻遠經郡伊二嶋屢爲海風所阻何不劈開是丘而與船隻往還之便/也云爾鳴呼/王城及是丘悉皆微茫龍脉之所累豈可妄移/王城於他方乎豈可妄劈是丘而作水路乎今帰仁本部二縣唯頼是丘一脉而爲三府一體三府/亦頼是丘一脉而保球陽雄勢若劈是丘而作水路則二縣龍脉不唯不相属球陽却失大體雄/勢也必矣方今/君主生質天縦徳學日新思之深慮之切特命臣温以鐫斯文於碑石永俾後人知龍脉之係乎邦家/景運而有萬山一貫之理矣 旹」

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。

■ 三府龍脉碑(さんぷりゅうみゃくひ)
県指定有形文化財(歴史資料)
指定年月日 平成3年1月16日

三府龍脉碑(さんぷりゅうみゃくひ)は、名護の市街地(しがいち)の中に立つ、ひんぷんガジュマルの下に建っています。現在建っている碑(ひ)は、昭和37年(1962年)に新しく建てられたものです。乾隆(けんりゅう)15年(1750年)に建てられた元の碑は、太平洋戦争の時に破壊(はかい)されましたが、あとでその一部が幸地川(こうちがわ)から見つかり、現在(げんざい)は名護博物館で保管(ほかん)されています。
この碑が建てられた当時、琉球王府(りゅうきゅうおうふ)では首都を首里(しゅり)から名護に移(うつ)す意見(いけん)や、屋部(やぶ)と古我知(こがち)の間の丘(おか)を切り開いて水路を作る意見がありました。碑は、当時琉球王国の三司官(さんしかん、今のだいじん)だった具志頭親方蔡温(ぐしちゃんうぇーかたさいおん)がこのような意見をしずめるために建てたものです。
碑には「琉球の国土(こくど)は一つの山脈(さんみゃく、龍脉)のようなものである。丘を切り開くのはこの山脈を切ることになってしまい良くないので、国家の繁栄(はんえい)に悪い影響(えいきょう)を与える」という内容の文が刻(きざ)まれています。

川上の蔡温松  名護市川上 ( 沖縄県 )

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川上の蔡温松  名護市川上

現地説明板は、次のとおり。国道58号により名護市の北東部、川上交差点まで向かう。右方の新川上橋を渡って川上公民館に上がる。広場の東隅にこの史跡説明板があり、対面の小高い丘の上に「川上の蔡温松」が見える。

名護市指定文化財(天然記念物)  昭和24年10月1日指定
川上の蔡温松 (かわかみのさいおんまつ)
名護市字川上168番の小高い丘に生育するリュウキュウマツは、「蔡温松」と称され区民に親しまれている名木である。
かつては同規模のリュウキュウマツが隣接して3本生育していたことから「三本松」とも称されていたが、その内1本は隣家への倒木の危険性があることから平成15年に伐採され、もう1本も平成23年5月29日に襲来した台風2号の被害にて倒木した。
同区に所在する蔡温松として貴重な1本となっている。推定樹齢は約150年、樹高約16m、胸の高さでの幹周りは4.55m(直径145m)を測る。
蔡温松の名称は琉球王府時代に三司官を務めた蔡温(1682〜1761)に由来する。蔡温の山林政策による思想が受け継がれたリュウキュウマツであり、蔡温とその時代の羽地地域にまつわる歴史を学ぶことのできる貴重な植物であることから、名護市指定文化財(天然記念物)に指定された。
平成25年(2013年)2月 名護市教育委員会

源河ウェーキ  名護市源河 ( 沖縄県 )

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源河ウェーキ  名護市源河

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。名護市の北東部、国道58号源河交差点から右折して、県道14号に入る。源河宮の対面に「稲嶺尋常小学校源河文教場跡地」碑があり、右折して白い建物の民家下坂道を回り込むように高台へ登って行くと、石塀の屋敷跡「源河ウェーキ」がある。

■ 源河ウェーキ(げんかうぇーき)
市指定有形文化財(建造物)
指定年月日 平成3年12月22日

源河ウェーキは、名護市字源河にある古い屋敷跡(やしきあと)で、源河集落の小高い丘の上に建っています。「ウェーキ」とは土地や財産(ざいさん)を多く持っている富豪(ふごう)のことです。源河ウェーキに屋敷が建てられたのは19世紀はじめと考えられています。数十年前から人は住んでいないので、母屋(おもや)は古くなってしまい、平成5年(1993年)に解体(かいたい)工事が行なわれました。建物に使われていた建築材料(けんちくざいりょう)は現在も保管(ほかん)されています。
屋敷内(やしきない)の建物の配置(はいち)された跡(あと)から、屋敷の北側にフール(石づくりの豚小屋)と便所、西側に裏門(うらもん)・正門・旧倉敷跡(きゅうくらしきあと)、中央に母屋があったことが分かります。現在は、道ぞいにつくられた「あいかた積(つ)み」の石垣(いしがき)とフールだけが残っています。源河ウェーキは近世の一般的(いっぱんてき)な住居の形をしていて、木造建造物(もくぞうけんぞうぶつ)の屋敷の配置、建築材料や建築技術(けんちくぎじゅつ)の見本をしめすものとして重要(じゅうよう)です。

改決羽地川碑記  名護市田井等 ( 沖縄県 )

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改決羽地川碑記  名護市田井等

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。「改決羽地川碑記」1830年の石碑は、名護市立名護博物館(東江1丁目)に現物が保管・展示されているので、見学してから出かける(写真 1〜3)。
複製された現在の碑は、国道58号により北東の羽地川中流域、川上交差点まで向かう。左方の住宅地市道先に桜の公園があり、坂段を上がった高台に立つ。石碑碑文は史料のとおり(写真 4〜10)。
羽地大川を見下ろす川上公民館広場にあるのは、また別の碑。1971年建立「羽地大川改修顕彰碑」だった(写真11〜14)。

改決羽地川碑記 かいけつ、はねじ
名護市 名護博物館 石碑 (蒲鉾型、砂岩) 高134㎝,幅57㎝ 1745年→1830年再建 県史跡 WEB(みさき道人) 移設/記念碑が残っているだけで、事業そのものは、視認不可/1735年の大水害に対し、蔡温(三司官=宰相、風水思想)が10万人を動員して3ヶ月で行った河道変更事業の記念碑 2 B

(正面)「改決羽地川碑記/蓋以國家之事千態萬般其端無窮而其大要唯在於務本而己故曰凡事皆湏務本夫民者國家之本/而安其心者即政法之本也然則為民防患興利者乃君相本分之要務也窃惟山北羽地郡田畝最廣/内有大川源出于東南萬山之間流達西北轉抵運天以通乎海而其曲直殆與水性相逆毎値大雨横/流汎溢屢壊田畝而庶民不堪修葺之役然而往往國人任意決川嘗無以知水性順逆之法者但毎年/川澮値雨即敗値敗即修而人民不堪其憂也非一日矣雍正乙卯秋七月間暴雨大降川水奔騰民田/盡敗無力可施不啻庶民憂之/君相亦深憂之於是/特命法司官蔡温改決其川以防庶民之憂爰蔡法司即率官僚至于羽地度其地勢審其順逆朝出夕歸悉/従治水之法改決其川以致順流重修田畝而正經界且構橋四座使民得往来之便所謂双亀橋者是/也鳴呼偉矣非特一時之功實萬世之利也自本年八月念三日經之營之至十一月十七日既告其成/焉自今以往居者無泛濫之憂行者鮮褰裳之苦春耕夏耨隨時務業而萬姓咸忻百官具慶僉曰/明君錦福履于億萬斯年遍歡呼于三十三嶋風調雨順物阜民安未有如今日之盛者也茲文龍奉/憲令記之不敢以固陋辭因述決川之顛末使知/君相務本之治人民永安之盛矣爰勒諸石以埀不朽云」

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。

■ 改決羽地川碑記(かいけつはねじがわひき)
県指定史跡
指定年月日 昭和44年8月26日

「改決羽地川碑記」は1735年に琉球王国の三司官(さんしかん、今の大臣)だった具志頭親方蔡温(ぐしちゃんうぇーかたさいおん)という人によって行なわれた、羽地大川(はねじおおかわ)の工事の様子を記したものです。
1735年7月に大雨が降って羽地大川は大洪水となり、羽地ターブックヮと呼ばれた広い田んぼが大きな被害を受けました。そのため蔡温(さいおん)が、洪水が起こらないように川の工事を行ないました。工事は、1735年9月2日から11月17日までの間に10万人以上の人たちが参加した大工事でした。
碑は、この工事のことを未来に伝えるために、1744年に建てられました。その後、古くなったので1830年に新しく建て直されました。しかし、建て直された碑も古くなり、書いてある文章も読めなくなってきたので、1997年にまた建て直されました。今、建っている碑はそのときのもので、1830年の石碑は名護博物館に保管・展示されています。
蔡温の工事のあとも川は時々洪水を起こしました。そのため、1917年に洪水を防ぐため、川の流れる道を変えて、それまで呉我(ごが)に流れていた川を仲尾次(なかおし)の海に注ぐように工事を行ないました。機械の無い時代だったので、人の力だけで行なう難しい工事でした。結局、この工事は1938年に終わりました。この工事に力を尽(つ)くした人たちをたたえるため、1971年、羽地大川を見下ろす川上公民館広場に「羽地大川改修顕彰碑(はねじおおかわかいしゅうけんしょうひ)」が建てられました。

名護番所跡のフクギ群  名護市東江1丁目 ( 沖縄県 )

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名護番所跡のフクギ群  名護市東江1丁目

名護大百科事典 Nagopedia 試行版による説明は、次のとおり。国道58号東江4(北)交差点から県道84号に入る。年金事務所の先に「名護市立名護博物館」がある。

名護番所跡のフクギ群
種別:天然記念物
指定年月日:昭和49年3月18日/県指定
所在地:東江一丁目8番11号

番所とは王府時代の役所のことで、フクギ群は番所の跡の敷地を囲むように生育します。推定樹齢300年近い6本のフクギは、地頭代の屋部菊陰(1695年頃)が植栽したといわれます。樹高は17m〜18m、胸高直径は最大83㎝、以下83、76、67、54、42cm。戦前は県山林会で老樹名木に指定されています。
その他、東江区には名木に指定されたフクギの屋敷林などもありフクギがめだちますが、近年しだいにブロック塀に変わりつつあります。

フクギ(Garcinia subelliptica Merr)は常緑の高木、フィリピン島に分布します。八重山群島で山地に自生し、沖縄島では御嶽や屋敷などに植栽され、時として逸脱することがあります。木の成長は遅いのですが、防風防潮樹としてすぐれています。また樹皮からは黄色の染料がとれ、かつては芭蕉の糸を染めていました。
番所跡は名護町役場、名護市役所と変わり、現在名護博物館となっています。
フクギの高く空を突くような樹冠で、厚く光沢のある葉っぱは、暑い沖縄の景観を特徴づけ、建物をひきたたせてくれます。

名護市立名護博物館所蔵の印部石(ハル石) ( 沖縄県 )

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名護市立名護博物館所蔵の印部石(ハル石)

沖縄県地域史協議会 地域史叢書「沖縄の印部石(しるびいし)」2009年8月発行に、名護市立名護博物館所蔵の印部石(ハル石)は、次のとおり掲載されている。
順不同、展示されている一部を名護博物館の許可を得て撮影してきたが、印部石の状況写真として見ていただきたい。サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストは、現地に現存する印部石のみ登載対象としている。

46p 印部石 め きちる原  56×25×7.5cm 硬砂岩 名護市指定文化財
48p 印部石 た こくてん原 56×24×13cm  安山岩 名護市指定文化財
49p 印部石 き さきやま原 67×23×20cm(最大値) 泥 岩
53p 印部石 キ たこ川原  61×25×16cm  石英はん岩
54p 印部石 テ なかをす原 63×27×20cm  砂 岩 名護市指定文化財
55p 印部石 き まてきや原 55×23.5×14.5cm 砂 岩 名護市指定文化財
57p 印部石 □ ・・・     55.5×24.5cm  流紋岩
68p 印部石 ち かうち原  69×22×12cm  石英はん岩 名護市指定文化財
69p 印部石 ゆ 寸ろき原  58×25×12cm  砂 岩 名護市指定文化財
72p 印部石 く せなか原  54×20×16cm  砂 岩 名護市指定文化財
76p 印部石 ヨ ふくち原  32×15×3.8cm  陶 製 名護市指定文化財
78p 印部石 ヱ ゐまた原  56×25×12cm  砂 岩 名護市指定文化財

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。

■ 名護博物館所蔵のハル石(なごはくぶつかんしょぞうのはるいし)
市指定有形民俗文化財  指定年月日 平成4年12月1日
ハル石は印部土手石(しるびどていし)ともいいます。1737年〜1750年に琉球王国の三司官(さんしかん、今の大臣)だった具志頭親方蔡温(ぐしちゃんうぇーかたさいおん)という人が行なった検地(けんち)の時に建てられたものです。検地とは、農民の田畑などをはかって調査することです。ハル石は土地をはかるのに必要な基準点(きじゅんてん)として建てられました。石には、建てられた場所の地名と、ひらがなやカタカナがきざまれています。ひらがなやカタカナは、ハル石を建てた順番を表していると考えられています。
沖縄全体で7,000〜8,000基も建てられたといわれていますが、今ではその中の200基ぐらいしか見つかっていません。名護市では37基が見つかっていて、その中の12基が名護博物館に展示されています。
ハル石に刻まれている地名は、今はもう無くなってしまった地名もあります。ハル石はむかしの地名を知ることができるので、地域にとってとても貴重(きちょう)な資料(しりょう)です。

塩 川  本部町崎本部 ( 沖縄県 )

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塩 川  本部町崎本部

現地説明板は、次のとおり。名護市から国道449号により本部町へ向かう。本部町に入ってすぐが崎本部塩川集落である。塩川バス停手前に、国指定天然記念物「塩川」の説明板があった。

国指定天然記念物  塩 川   昭和47年5月15日
この塩川は海岸線より150m余の陸地内部にあって海面上1.29m〜1.42mの岩場から常時海水を湧水している世界でも珍しい川で昭和47年5月15日、国の天然記念物に指定された。
この塩川の湧出機構については岩塩層説、サイフォン説、地下空洞説などいろいろあるが、確定的なものは未だない。
これまでの調査によれば
①潮位と水位(湧水量)は比例する。
②湧出量と塩水濃度は逆比例の関係にある。
③海水と陸水が混合したもので岩塩層説は全く否定される。
海水の流れる川は世界でもここ「塩川」とプエルトリコの二カ所しかなく貴重な川である。
この地域において許可なく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。      本部町教育委員会

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

塩 川 (沖縄県)
塩川(しおかわ)は、沖縄県国頭郡本部町字崎本部塩川原にある全長約300メートル、川幅4メートルほどの小規模な河川であるが、日本国内ではで唯一塩分濃度の高い河川として、沖縄返還当日の1972年(昭和47年)5月15日に、国の天然記念物に指定された[1]。

概要
沖縄本島北部、本部半島の地質には石灰岩が多く含まれており、雨水が石灰岩の亀裂から地下に浸透し、海岸近くで湧水となっている場所が多くあり、地下には多数の鍾乳洞が存在すると推察されている。塩川も鍾乳洞からの湧水を水源とするもので、湧水量は毎秒100リットルを超える本部半島では第一級の湧水であるにもかかわらず塩分を含むことから、古くから「本部の七不思議」のひとつとされてきた[2]。石灰岩の洞口から勢い良く湧き出す水は、そのまま僅か数百メートルの小川となって東シナ海へ注いでいる。

世界には有名な塩湖である死海や、砂漠地帯には岩塩が地表に表れている場所もあるが、これらは水中の塩分が水の蒸発によって濃縮されたもので、気温の高い乾燥気候という特殊な条件下のもとにできたものである。日本のように適度な降水量がある湿潤な気候条件下では地上に塩分が湧出するようなことは通常ではありえない[3]。

塩水の湧出構造
塩川の水は海水が約4.5倍の淡水に薄められたもので、カルシウム分だけが海水における含有量よりも際立って多く含まれており、カルスト由来の石灰分が溶けていることを示している[2]。
陸域からの強い淡水の流れが石灰洞系をつくる流路を海水準下にまで下がって流下するため、海水と地下水(淡水)が混じり合い、その後に地表に湧出すると推定されている[2]が確定的なものは未だにない。

これまでの調査により明らかになっているのは、塩川の湧出量は那覇港の潮位と連動しており、満潮時に湧水量が増加し干潮時に湧水量は減少する。また、湧水量と塩分濃度は反比例の関係にあり、水量が多いと塩分濃度は低くなり水量が少ないと塩分濃度は高くなる。加えて降水量も塩分濃度に影響を与え、24時間降水量が200ミリを超えるような大雨が降ると、約1日遅れて湧水量が急激に増加し塩分濃度は低下する。これは海水と混合する塩川湧水の淡水の供給源が、降雨の影響を受ける鍾乳洞の水を主体としていることを示している[3]。

生物的自然
希少種の海藻が生息しているとして、日本の重要湿地500に選定された[4]。特に危急種に指定されているシオカワモッカは、日本国内では唯一塩川でのみ生息しているが、大雨による赤土流入の影響で、生育環境が悪化している。また近年、塩川周辺を通る国道449号の道路拡張整備により、日当たりが良くなり、アオノリやアオサ等の他の海藻が繁殖し、日陰を好むシオカワモッカの生育を妨げている[5][6]。

参考文献
・加藤陸奥雄他編 『日本の天然記念物』、講談社、1995年3月20日 第1刷 p.918、pp.920-921 ISBN 4-06-180589-4