改決羽地川碑記  名護市田井等 ( 沖縄県 )

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改決羽地川碑記  名護市田井等

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。「改決羽地川碑記」1830年の石碑は、名護市立名護博物館(東江1丁目)に現物が保管・展示されているので、見学してから出かける(写真 1〜3)。
複製された現在の碑は、国道58号により北東の羽地川中流域、川上交差点まで向かう。左方の住宅地市道先に桜の公園があり、坂段を上がった高台に立つ。石碑碑文は史料のとおり(写真 4〜10)。
羽地大川を見下ろす川上公民館広場にあるのは、また別の碑。1971年建立「羽地大川改修顕彰碑」だった(写真11〜14)。

改決羽地川碑記 かいけつ、はねじ
名護市 名護博物館 石碑 (蒲鉾型、砂岩) 高134㎝,幅57㎝ 1745年→1830年再建 県史跡 WEB(みさき道人) 移設/記念碑が残っているだけで、事業そのものは、視認不可/1735年の大水害に対し、蔡温(三司官=宰相、風水思想)が10万人を動員して3ヶ月で行った河道変更事業の記念碑 2 B

(正面)「改決羽地川碑記/蓋以國家之事千態萬般其端無窮而其大要唯在於務本而己故曰凡事皆湏務本夫民者國家之本/而安其心者即政法之本也然則為民防患興利者乃君相本分之要務也窃惟山北羽地郡田畝最廣/内有大川源出于東南萬山之間流達西北轉抵運天以通乎海而其曲直殆與水性相逆毎値大雨横/流汎溢屢壊田畝而庶民不堪修葺之役然而往往國人任意決川嘗無以知水性順逆之法者但毎年/川澮値雨即敗値敗即修而人民不堪其憂也非一日矣雍正乙卯秋七月間暴雨大降川水奔騰民田/盡敗無力可施不啻庶民憂之/君相亦深憂之於是/特命法司官蔡温改決其川以防庶民之憂爰蔡法司即率官僚至于羽地度其地勢審其順逆朝出夕歸悉/従治水之法改決其川以致順流重修田畝而正經界且構橋四座使民得往来之便所謂双亀橋者是/也鳴呼偉矣非特一時之功實萬世之利也自本年八月念三日經之營之至十一月十七日既告其成/焉自今以往居者無泛濫之憂行者鮮褰裳之苦春耕夏耨隨時務業而萬姓咸忻百官具慶僉曰/明君錦福履于億萬斯年遍歡呼于三十三嶋風調雨順物阜民安未有如今日之盛者也茲文龍奉/憲令記之不敢以固陋辭因述決川之顛末使知/君相務本之治人民永安之盛矣爰勒諸石以埀不朽云」

名護市教育委員会社会教育課「なごわらびーネット なごしキッズサイト」による説明は、次のとおり。

■ 改決羽地川碑記(かいけつはねじがわひき)
県指定史跡
指定年月日 昭和44年8月26日

「改決羽地川碑記」は1735年に琉球王国の三司官(さんしかん、今の大臣)だった具志頭親方蔡温(ぐしちゃんうぇーかたさいおん)という人によって行なわれた、羽地大川(はねじおおかわ)の工事の様子を記したものです。
1735年7月に大雨が降って羽地大川は大洪水となり、羽地ターブックヮと呼ばれた広い田んぼが大きな被害を受けました。そのため蔡温(さいおん)が、洪水が起こらないように川の工事を行ないました。工事は、1735年9月2日から11月17日までの間に10万人以上の人たちが参加した大工事でした。
碑は、この工事のことを未来に伝えるために、1744年に建てられました。その後、古くなったので1830年に新しく建て直されました。しかし、建て直された碑も古くなり、書いてある文章も読めなくなってきたので、1997年にまた建て直されました。今、建っている碑はそのときのもので、1830年の石碑は名護博物館に保管・展示されています。
蔡温の工事のあとも川は時々洪水を起こしました。そのため、1917年に洪水を防ぐため、川の流れる道を変えて、それまで呉我(ごが)に流れていた川を仲尾次(なかおし)の海に注ぐように工事を行ないました。機械の無い時代だったので、人の力だけで行なう難しい工事でした。結局、この工事は1938年に終わりました。この工事に力を尽(つ)くした人たちをたたえるため、1971年、羽地大川を見下ろす川上公民館広場に「羽地大川改修顕彰碑(はねじおおかわかいしゅうけんしょうひ)」が建てられました。