月別アーカイブ: 2015年3月

肥前嶋境石  久留米市安武町武島 ( 福岡県 )

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肥前嶋境石  久留米市安武町武島

久留米市HPの「久留米市の文化財」による説明は、次のとおり。県道47号安武小学校前交差点先のガソリンスタンド角から県道754号に入り、安武町武島へ行く。大久保宅の正門奥の庭にこの境石が見える。

84 肥前嶋境石

種 別:有形民俗文化財(昭和62年2月21日 市指定)
所在地:久留米市安武町武島 個人蔵
一般に肥前と筑後の境界は、筑後川の中心で決められてきました。しかし、安武町武島の大島部落の北東方部では、洪水のため本流が移動し、その結果肥前領の一部が筑後側に取り残されてしまいました。肥前側では、そこの所有権を明らかにするために、この領地に「肥前嶋」と名前をつけ、石柱を南面して2個建て、境界を明らかにしました。
これらは、大正期の洪水後の堤防工事の際に撤去されてしまいました。現在残っている境石はその内の1つで、「肥前嶋境石」と銘が記され、大きさは高さ約170cm、幅・奥行きとも約30cmになります。なお、もう一方は行方不明です。
肥前嶋境石は、境界を示す印として郷土の歴史を見守ってきました。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストのデータに、次のとおり登載された。

安武町武島の国境石(肥前嶋境石) やすたけ、たけしま
久留米市 境界石(自然石→上部は角柱状に整形) 高170㎝,30㎝角 江戸期 市有形民俗 WEB(みさき道人) 移設→個人宅 (正面)「肥前嶋境石」/肥前国〜筑後国/両国の国境:筑後川の本流の中心で決められていた→洪水で流れが変り肥前領の一部が筑後側に取り残された→所有権を明らかに肥前側が建立 3 B

間地先の荒籠  柳川市七ツ家間 ( 福岡県 )

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間地先の荒籠  柳川市七ツ家間

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道767号により柳川市七ツ家まで行く。筑後川左岸の永松荒籠へ出て、漁港の先の間で写真のとおりの荒籠を見た。4枚目写真が、データの荒籠のようである。

間地先の荒籠 はさま、あらこ
柳川市 筑後川(左岸) 石水制 長約40m 江戸期? WEB(みさき道人) 破損→水制の機能はない/江戸期のものとの保証はない 筑後川の荒籠群(小型) 3 C

中山の大フジ  柳川市三橋町中山 ( 福岡県 )

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中山の大フジ  柳川市三橋町中山

現地説明板は、次のとおり。県道89号と県道96号が交差する柳川市三橋町中山に中山の大藤バス停がある。立花いこいの森公園へ向かうと奥に熊野神社がある。最後の写真は、かんぽの宿のひな飾り。

福岡県指定天然記念物
中山の大フジ  所在地:柳川市三橋町中山 熊野神社

この藤の由来は、享保年間(1716〜1735)、中山村で酒造業を営んでいた通称「万さん」が上方見物に出かけた際に、「吉野の桜」「野田の藤」と並び称される藤の名所として有名な河内野田(現在の大阪市福島区)から藤の実を持ち帰り、自宅に植えたものと伝えられています。数十年後、毎年4尺ほど(約1メートル20センチ)の見事な花を咲かせるようになり、花見の時期には見物客で賑わうようになりましたが、酒に酔った武士が刀を抜き乱暴を働いたために、藤の木は熊野神社境内に移されました。
現在は地元保存会のみなさんが手入れをし、毎年4月中旬から末頃には多くの花見客で賑わいます。

福岡県指定天然記念物 中山の大フジ 昭和52年4月9日指定
柳川市  市の花  藤           平成18年9月1日制定      平成22年3月 柳川市  

二ッ川堰・二ツ川水門・二ツ川  柳川市三橋町 ( 福岡県 )

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二ッ川堰・二ツ川水門・二ツ川  柳川市三橋町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道83号により柳川市三橋町久末の沖端川に架かる沖端橋まで行く。すぐ下流に二ッ川堰・二ツ川水門・二ツ川がある。

二ツ川堰 ふたつがわ
柳川市 沖端川→二ツ川 取水堰 長43.6m,幅14.3m 江戸期 市教委 改修の有無不明 掘枠面張の上に岩を積み上げる割石積立堰(二ツ川水門から二ツ川に引き入れる)/堰中央部で水を流下させる 2 B

二ツ川水門 ふたつがわ
柳川市 石水門(布積) 幅3.7m,高4.5m(1門) 江戸期 市教委 巻き上げ装置は、自動化 両脇の石積み(算木積)が残る 3 C

二ツ川 ふたつがわ
柳川市 放水路 江戸期 市教委 両岸は鋼矢板、川床は砂地→生態系は維持 自然河川を整備しながら運河機能も兼ねて整備された河川と考えられている 3 C

仲絶の二里石  みやま市瀬高町下庄仲絶 ( 福岡県 )

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仲絶の二里石  みやま市瀬高町下庄仲絶

庄福BICサイト「三池街道 みやま市編」による説明は、次のとおり。国道209号みやま市真木交差点から旧三池街道に入り、夜鳴き観音を過ぎしばらく北上すると、道脇に新しく建てられた「二里石」がある。右手に国道の瀬高警察署建物が見えるあたり。

【一里木(いちりき)】 瀬高町下庄仲絶

道路標識などない時代に通行人の目印になるような木を柳川城から二里(8km)の地点、仲絶に植えたのでしょう。通行する人々にとって周りの風景とこの一里木が場所の目安となりここの集落を「一里木」と呼ぶようになった。正確には二里木(8km)になり、後に二里石に改められました。
戦国時代の天正年中、肥前勢となった、元大木城主の大木統光が宮園城を攻めたが,逆に城主の今村舎人(とねり)に、ここの街道で追い討ちにされ惨敗。統光は命からがら矢部川に追い込まれて川中にて追い付かれ右足を高股より切り落とされている(今村家記)。江戸初期の貞享4年(1687)の観世音菩薩の石像と十坪余の仏堂がある。「夜鳴き観音」と呼ばれ近隣からの参拝客で賑わった。前の道が三池街道で行き交う旅人も参拝し休憩したであろう。江戸後期から下庄の八朔祭り時には恭(うやうや)しく神を迎える門「ちょうぎり」が部落に建てられました。

徳島地先の水刎  みやま市高田町徳島 ( 福岡県 )

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徳島地先の水刎  みやま市高田町徳島

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道208号浦島橋手前から高田町徳島の矢部川左岸下流側の堤防道路に入る。写真のとおり祠の建つ場所に水刎と荒籠を見た。これではないだろうか。

徳島地先の水刎 とくのしま
みやま市 矢部川(左岸) 石水制 長約23m 江戸中期? 筑後川河川事務所 江戸期の荒籠かどうか不明 筑後川の水刎群(小型) 3 C

新開村旧隄記碑  みやま市高田町黒崎開 ( 福岡県 )

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新開村旧隄記碑  みやま市高田町黒崎開

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。場所がわかりにくいから所在地図を載せる。「距手水門」があるみやま市南永治交差点から、国道208号(有明海沿岸道路)に並行する県道
18号を約3km北上すると、写真の地蔵がある。ここから右へ堤防道路下ガードをくぐると、説明板と奥に「新開村旧隄記碑」が見える。フェンスは施錠されているが、傍らから中に入れる。

新開村旧隄記碑 しんかい
みやま市 永治堤防 石碑(自然石) 高250㎝ (台石2段を含む) 天保6(1835) 県史跡 市歴史資料館出典 移設
(正面)「新開村舊隄記/江都佐藤担撰文 朝散大夫林皝篆額/柳河藩今村五郎兵衛藤原長利以延寶中爲普請役相新開村海/濱斥鹵可以墾闢乃築石隄以防風濤隄長一里南自堀口北抵三/開之閘其内得膏腴若干畞至正徳中田尻總馬太神維安繼其職/又繕治之然後風濤不能為害也至其後村民更築土隄於舊堤之/外又得若干畞而風濤一至輒蕩然潰決如此者數矣文政乙酉有/司相議曰隄非石不堅而運之於遠則勞費亦不貲不如耴石於舊/隄移諸此之爲易也乃如其言後三年戌子西國濤変瀕海莫能免/其害而此隄巍然獨得全焉於是有司更増修之至甲午之春始大/成矣然皆資諸舊隄以成之則其功實二子之是繇也有司恐舊功/之或泯没也欲碑而傳之遠索記於余之畧記其顛末云/天保六年龍集乙未冬十月中澣 淡海關研書字」/永治堤防竣工の翌々年(文政11)に来襲した台風で堤防が決壊しなかったことから、永治堤防の石材の一部供給源となった黒崎堤防を称える意味で潮止地点に建立したもの 2 A

矩手水門(苦楽橋)  みやま市高田町永治・黒崎 ( 福岡県 )

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矩手水門(苦楽橋)  みやま市高田町永治・黒崎

HP「土木遺産in九州」による説明は、次のとおり。国道208号の有明海沿岸道路によりみやま市南永治交差点まで行く。市道を少し西へ向かうとレンガ造りの矩手水門が、江戸時代に築造された黒崎堤防と永治堤防の間にある。

矩手水門(苦楽橋) かねてすいもん(くらくはし)  みやま市

所在地・完成年等 施設の形式・諸元
●所在地:福岡県みやま市高田町永治、黒崎
●完成年:明治32年8月
●設計者:不明
●施工者:福岡県
●管理者:福岡県
●文化財指定等:福岡県指定史跡 「旧柳河藩干拓遺跡」として黒崎堤防、永治堤防、矩手水門が指定

【矩手水門】
●敷高:0.83m
●扉幅:2.00m(3門)
●高さ3.00mの暗渠
●煉瓦水門

【苦楽橋(補強アーチ)】
●主径間:4.6m
●厚さ3.00mの全半円の眼鏡橋

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
矩手水門は、江戸時代に築造された黒崎堤防と永治堤防の間にあり、永治開にあった水門を明治時代にひとつにまとめて造ったもので、水門の両岸の壁が倒れないように支えるレンガ造りの橋(苦楽橋)が特徴となっています。
黒崎開は、17世紀後半に立花藩初の藩営で行われた最大の干拓事業で、これに次ぐ規模の干拓事業が19世紀前半に開発された永治開(斗一開、矩手開と呼ばれています)です。
当初の樋門は幅が不足しており排水不良に陥ることが多かったため、明治31年4月から改修がすすめられ、当時の金額で4千数百円(当時の米1俵が3円28銭)と村人3000人の就労をつぎ込んで、明治32年8月に完成しました。工事中には、軟弱地盤対策として石垣の中にレンガの眼鏡張りを行うなどの工法をとっています。この改修により樋門は、敷高0.83m、幅2.00m、高さ3.00mの暗渠三門になり、吐口には主径間4.6m、厚さ3.00mの全半円の眼鏡橋(苦楽橋という)があります。この橋は吐き口の両袖壁が倒伏するのを防ぐためで、水に映る赤レンガが美しい構造物です。
現在は、当時の樋門はなく、苦楽橋だけとなっていますが、南北に伸びる黒崎堤防、永治堤防とともに近世の干拓堤防の景観を良好に残しており、県の指定史跡となっています。

交通アクセス
九州自動車道南関ICから西へ車で約30分
西鉄大牟田線開(ひらき)駅から西へ3.1km

永治堤防  みやま市高田町永治 ( 福岡県 )

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永治堤防  みやま市高田町永治

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道208号の有明海沿岸道路によりみやま市南永治交差点まで行く。市道を少し西へ向かうとレンガ造りの矩手水門が、江戸時代に築造された黒崎堤防と永治堤防の間にあり、両堤防を確認できる。最後の写真が、この南側の黒崎堤防。

永治堤防  えいじ
みやま市 有明海 干拓堤防(石堤) 約1.5㎞ 文政9(1826) 県史跡 WEB コンクリートで被覆 大庄屋・樺島斗一が中心となり開発した干拓事業→「斗一開」と呼称 4 A

吉井町冨永の郡境石  うきは市吉井町富永 ( 福岡県 )

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吉井町冨永の郡境石  うきは市吉井町冨永

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道210号吉井町浮羽研真館高校前交差点から南に入り、千代久地蔵尊まで行く。ここに案内標識があり市道(県道151号の旧道?)を西へ戻ると、市道右脇の梅林畑のところに郡境石はある。

吉井町冨永の郡境石 よしい、とみなが
うきは市 境界石 高190㎝,幅21㎝,厚22㎝ 元禄8(1695) 市有形民俗 市教委 /WEB(みさき道人) 原位置 (正面)「東 生葉郡/西 竹野郡、分界」/生葉郡〜竹野郡/17世紀の郡境石 1 A