月別アーカイブ: 2014年6月

深堀陣屋跡の現況 (8)  長崎市深堀町5丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

深堀陣屋跡の現況 (8)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922
現況(6)は、https://misakimichi.com/archives/3943
現況(7)は、https://misakimichi.com/archives/3957

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年7月末完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

深堀陣屋跡は、文化財保護法に基づく「埋蔵文化財包蔵地」として周知されている。史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。市民や地元住民に対する説明がない。
長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。私たちが知りたいのは、発掘調査の結果、どこにどのような遺構と出土品があり、どのような歴史的価値があるかである。それにはまったく答えない。長崎県にも尽力するよう意見したが、回答は思わしくない。

破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

次は、大分県杵築市の例。きのう2014年6月26日付朝日新聞社会面に載った。長崎の場合とは、もちろんカトリック教会それも納骨堂部分(私有地)と市立中学校校舎(市有地)の違いがあるが、考古学関係者の指摘や市長の史跡保存に対する英断は大いに見習うべきだろう。

杵築藩主の御殿遺跡、一転保存へ  校舎の建設計画 市長が変更表明

大分県杵築市の市立杵築中学校の校舎建設予定地から、杵築藩主御殿長屋跡など近世の遺跡が見つかった問題で、永松悟市長は25日、遺跡を全て保存し、校舎は隣接地に建てるよう計画を改める、と発表した。
市は2012年3月、校舎の現在地建て替えを決定。その後の調査で藩主御殿の一角をなす長屋跡や豊臣期の石垣などが確認された。昨年末から九州考古学会や日本考古学協会が「御殿や庭園を城下町と一体となすものとして保存・整備する必要がある」と求めていた。
永松市長は「重要な遺跡が校舎に囲まれるのは適当でない。学術的な意見を尊重して保存を決めた。観光にも生かせると思う」と話している。校舎は当初計画の2016年2月完成が、2年半前後ずれ込む予定。校舎はすでに取り壊され、生徒はプレハブ校舎で学んでいる。

「深堀陣屋跡」の現地説明板、及び中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は、次のとおり。
遺構の存在は、地元では以前からわかっており、本ブログでも現況(1)で最初から指摘していた。

深堀陣屋跡
この地に深堀能仲が地頭として下向したのは、建長7年(1255)のこと。深堀氏、本姓は三浦で、上総国深堀(千葉県大原町)の出身。
能仲が、承久の乱の勲功により戸八ケ浦と呼ばれていたこの地へ下って来ると、ここは領主の名をとって深堀と呼ばれた。深堀陣屋とは、深堀藩主の居城のことであり、通称は御屋敷と呼ばれていた。現在地(註 説明板設置の幼稚園の場所)は囲馬場(かこいばば)のあったところである。

(24)御 屋 敷(5丁目272,292)
正式には深堀陣屋、通称は御屋敷。深堀藩主の居城である。今幼稚園の処が囲馬場の有った処。現在書院の一部が残っているが大部が修築されているが其の俤を偲ぶに足るものがある。書院より一段高い所に御座(おざ)があった。これは明治40年頃迄建っていたが自然損耗して当時の礎石のみが残っている。御座は二階建てで庭には川原の黒石が敷きつめられていた。

深堀陣屋御屋敷の当時の詳細図面は、長崎や佐賀の県立博物館史料でほとんど見当たらない。現在の国土地理院地形図に、鍋島藩作成の古地図(長崎歴史文化博物館所蔵 文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」深堀本村部分)を重ねたものを入江氏が作成してくれているので、参考としていただきたい。

(2014年7月4日 追 記)
後ろの2枚の資料は、長崎市文化財課が簡単に作成した発掘調査結果報告書。7月3日入手した。納骨堂基礎工事の状況は、現況(5)写真と教会広報紙を参照。

長崎県の珍百景 橋岩山「偶然が生んだ石の橋」  佐世保市鹿町町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

長崎県の珍百景 橋岩山「偶然が生んだ石の橋」  佐世保市鹿町町 

テレビ朝日「ナニコレ珍百景 〜2時間スペシャル〜」で、2014年4月30日(水)に放送された。バックナンバーによると内容は次のとおり。関係記事が下記ブログなどに表れるが、場所説明がない。

【珍百景No.1883】 「偶然が生んだ石の橋」 長崎県佐世保市  ★黒川新さん(82歳)
平原地区の山の中で2つの岩の間に偶然岩が挟まって生まれた石橋を発見! 自然が作ったこの石橋は人も渡ることができ、地元では「度胸試しの橋」と呼ばれている。
石橋はかなり古くからあるらしく、このあたりは地元の人に「橋岩山」と呼ばれ、絶景ポイントになっているそう。  ※ここを渡る場合は安全管理のもと自己責任でお願いします。

amebatoysさんの佐世保ブログ
http://ameblo.jp/amebatoys/entry-11815704102.html
朝長則男(佐世保市長)さんのfacebook
https://www.facebook.com/tomonaganorio/posts/261950980676982

場所は佐世保市であるが、鹿町町平原の「橋岩山」と呼ばれるところ。6月13日、小佐々町のアーチ式石橋「岳下橋」を確認に行きながら、この珍百景「橋岩山」は下調べしていなかったので、近くとなるのに通り過ぎた。無駄足となったため、きのう鹿町町を再び訪れた。
佐世保市鹿町支所に電話して聞くと、その場所は、県道18号(佐々鹿町江迎線)小佐々町との町境あたり。所在場所は地図のとおり。

見返橋や楠泊橋を渡って、北九十九島海岸線を行く県道18号を鹿町町まで北上する。上矢岳バス停先が町境で鹿町町へ入る。丸一水産燻製工場の背後に伐採された山が見える。県道脇に「ようこそ鹿町町へ 長串山公園3km」の案内板がある工場手前から山手の細い車道へ入る。少し行くと、右方山へブルが工事した道があり、登ると数台の駐車広場がある。
橋岩山のすぐ下まで行き、テレビ撮影用にわざわざ伐採し、工事をしたようである。アザミが生えかけた斜面の踏み跡を登ると、橋岩山の「偶然が生んだ石の橋」に着く。

下から覗くと、石の隙間にはコンクリート補強をしているようだが、「この石橋は大変危険です、渡らないで下さい。責任は負いません。平原地区」の警告板と渡り口に柵があった。反対側はこれまた約20mの断崖。危険きわまりない。もちろん、私は渡らなかった。反対側には伐採跡があり、橋の渡り口手前から木の幹を掴んで降りられたので、反対側からの写真も写してきた。
この近くには、県道脇に佐世保市指定天然記念物「波状漣痕化石」も見られ、海岸が隆起した地形と思われる。

後ろの写真は、帰りの冷水岳公園からの展望。田原へ下った。小佐々町と鹿町町に残るアーチ式石橋は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/959
https://misakimichi.com/archives/965

世知原中学校校庭の「若鮎橋」   佐世保市世知原町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

世知原中学校校庭の「若鮎橋」   佐世保市世知原町

佐世保市(世知原町)に残るアーチ式石橋については、本ブログ前の記事を参照。世知原中学校校庭の「若鮎橋」を次のとおり紹介していた。  https://misakimichi.com/archives/929
写真 12  若 鮎 橋  (世知原中学校グランド)
雲仙普賢岳の噴石を使用して、生徒達が組み上げた石橋。
生徒達は試作の「ぐらぐら橋」からスタートして、この150個の噴石を組み合わせた石橋を完成させた。切石で無い石橋は古里に架かる小さな石橋を思わせる素朴で懐かしい佇まいを見せていた。
架橋 平成15年12月8日  橋長 4.0m  幅員 0.8m 
(若鮎橋の説明は、HP「長崎県の石橋を訪ねて」から)

先日、2014年6月13日(金)に世知原中学校を再び訪ね、この「若鮎橋」を詳しく写してきた。その後、中学校が設置している現地説明板や架設アルバムなどは、次のとおり。
石橋を守る会の末永先生が当時、世知原中学校に赴任されており、架設にたいへん尽力された。

若 鮎 橋 (わかあゆばし)    現地説明板
架設…平成15年(2003年)12月
橋長…3.4m 橋幅…0.8m 径間…1.6m 拱矢…0.8m 石材…角閃石安山岩
学校教育に総合的な学習の時間が導入され、生徒たちは「ふるさと」をテーマに学習を始めた。その中から「私たちのふるさとにはたくさんの石橋がある。私たちも架けてみたい」という生徒の発想が生まれ、教職員と地域の方々の協力を得て架けられた。
使用した石は、雲仙普賢岳の噴石(角閃石安山岩)で、島原振興局、国立公園管理事務所のご理解・ご協力で実現した。
2005年3月20日におきた福岡沖地震の折りには、この地域は震度4で大きく揺れたが、壊れることはなく、石橋の耐震性を証明した。

なお、長崎県には都市計画課所管「長崎県美しい景観資産登録制度」がある。同石橋HPでは、世知原は中学生がせっかく造った「若鮎橋」、千々石は千々石町郷土誌にも紹介する「水道橋」が登録されていない。
建築年代は問わないので昨年11月 県へ意見したら、登録には市町の申請、審議会の審議が必要であるという。関係者すべておかしな判断であろう。
後ろの写真は、近くにある世知原町旧松浦炭鉱事務所の石造アーチ門と、山口神社の石造倉庫アーチ門。

小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査と整備  2014年6月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査と整備  2014年6月

2014年6月15日(日)曇り。小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査と整備。参加5人。みさき道歩会の例会。今回は柿泊側から歩く。
かきどまり運動公園前10:00—旧道調査—流水路手前12:10(昼食)12:40—2つ穴防空壕13:31—小江14;20(徒歩距離 約4km)
1回目の調査は、 https://misakimichi.com/archives/3855
2回目の調査は、 https://misakimichi.com/archives/3942

小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査と整備は、3回目のリベンジ。今回は逆歩きして調査する。大波止9:29発春木経由相川行乗車。かきどまり運動公園前を10:00から歩きだす。堤から小浦の里の方へまっすぐな市道を進み、柿泊から上がってきた旧道の分岐点まで行く。
明治34年旧版地図のとおり、ここが十字路で、小江へ向かう旧道の入口があったはずである。やぶとなって、入口がわかりにくかったが、伐り開くときちんとした道跡が出てきた。
下って行くと小沢と出会い、小さいが見事な桁石橋が残る。この道が明治県道に間違いないだろう。

平坦な道跡はまだ続き、倒木や茨を伐り開く。根本から倒れた巨木の先に、えぐられた道のような崖があり、突然、平坦な道跡が消える。先がわからない。ここから下るのだろうか。総合運動公園の急な流水路工事跡広場へすぐ出るだろうと思って昼食とした。
どうもこのあたりの道跡が、工事のため分断されて、よくわからない。急な流水路へ出たが、少し登り過ぎであった。ロープを使って深い流水路を渡り、以前に小江側から確認していた道跡まで対岸を下った。このあたりの再調査がまた必要となった。

後はイノシシ除けのフェンス沿いに、2つ穴の防空壕まで行く。先も雑木林と昔の段々畑の中の山腹の道。特に迷うことはないが、要所に黄色ペンキとテープ巻きをしていった。果樹畑まで出ると、眼下に小江の集落と海岸が広がる。松林のグランドが、昔の福田中学校跡である。この道は、昭和30年代までは、集落を結ぶ道や通学路として大いに利用されていたと思う。
畑道となり、歩きやすくなり下って行くと、新小江橋ではなく、小江橋の住家の間に出た。これで福田方面の道と繋がり、納得できる明治県道の道跡となった。
掲載写真が暗いのは林間と、新パソコンで映像館やGIMPソフトがうまく作動しないためで、了承願いたい。

Yahoo!JAPAN Tポイント獲得が1000点を超す

イメージ 1

Yahoo!JAPAN Tポイント獲得が1000点を超す

ヤフーブログ マイページ画面に「2日前の『訪問者数ランキング』上位のためTポイントを差し上げます。今後も、よい投稿をお願いいたします。」と通知される。
2014年6月10日現在で通帳を確認すると、獲得ポイントの累計が1001点となっていた。

Tポインにどんな特典があるか良くわかからないが、昨年7月から始まっているサービス。私ブログは地味な内容の地域ブログにかかわらず、ランキング末端には入っているようで、丸1年近く毎日のように3点以上を獲得している。本ブログをいつも見てくれるみなさんのお陰であり、深く感謝したい。

鷺の巣俊寛の伏所  長崎市伊王島町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

鷺の巣俊寛の伏所  長崎市伊王島町

伊王島の史跡地図にも表れず、あまり紹介されていない。場所は位置図のとおり。現地説明板は次のとおり。説明板は最近できた広い市道入口に立っている。ここから50m歩いて下る。分岐は右へ。岩窟ではなく、谷間の平地が伏所か、手前の水場に井戸跡の標柱もあった。
後ろの写真は、左へさらに下った西ノ浦海岸の様子。右手先端に千畳敷岩場のフェンスが見えた。

鷺の巣俊寛の伏所
平家謀叛の罪に捕らえられた俊寛僧都。藤原成経、平康頼は島に遠流に処せられた。やがて成経、康頼は許されて都に帰されたが、俊寛僧都は平清盛の怒りが解けず、一人だけ島に残された。
俊寛僧都は、西の浜辺(鷺の巣)の岩と岩の間に岩窟があるのを見つけ、近くに清い流水もあったので、そこを ねぐら(伏所) にしていたと言い伝えられている。
この付近は、一年中海草や魚介類などの海の幸が豊富で、松林がうっ蒼としており、鷺が巣を作っていたので「鷺の巣」という地名になっている。
俊寛僧都の伏所は、ここより約五十m先にある。また、その近くに俊寛僧都が使用していた井戸(前の川)がある。
長崎市教育委員会

深堀のペーロン練習と伊王島港のブラックダイヤモンド

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

深堀のペーロン練習と伊王島港のブラックダイヤモンド

2014年6月1日(㈰)朝方撮影。深堀のペーロン練習、タッちゃんのMIE丸、深堀カトリック教会の建設状況、伊王島港での軍艦島クルーズ船ブラックダイヤモンドの風景

高島一周ウオーキング  2014年6月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

高島一周ウオーキング  2014年6月

2014年6月1日(日)快晴。高島一周ウオーキング。参加5人。みさき道歩会の例会。5月25日分を延期して実施。
高島港—高島海水浴場—飛島磯釣公園—高島公園—権現山—西海岸公園—高島港(徒歩距離約8.7km)

長崎港ターミナルビルに集合。8:50コバルトクイーン乗船。私は自宅が近い伊王島港から乗るつもりだったが、途中、深堀でペーロン練習を写していて乗り遅れた。次船便は、12:15。伊王島で時間をつぶし、昼から島内バスで追いかけた。
先発組も高島島内は、権現山近くまで登りグラバー別邸跡までで、半周しかしなかったという。ターミナルへ戻りかけていた百間崎あたりで、やっと合流した。

したがって、一周写真はない。これは前回2009年8月の記事と写真を参照いただきたい。
その(1)は、https://misakimichi.com/archives/1952
その(2)は、https://misakimichi.com/archives/1953
今回の掲載写真は、私の合流後の写真。長崎市高島行政センター建物後ろ側の旧炭鉱坑口跡を主に訪ねた。特に説明することはない。
ただ、おもしろい木は、「安産の木」と名付けられていた。後ろから見ると、どうしても「うん○の木」だろう。
ターミナル付近の岸壁では、年1回の「高島トマトとヒラメ祭り」が開催されていて、船客と人出は多かった。
高島港14:35発で帰着。