月別アーカイブ: 2015年10月

伊万里・有田と下関の陸軍省要塞地帯標  高橋氏資料 ( 長崎県 )

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伊万里・有田と下関の陸軍省要塞地帯標  高橋氏資料

佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた伊万里・有田と下関の陸軍省要塞地帯標調査に関する新聞記事写しと資料。内容が少し理解しがたいが、そのまま載せる。

木橋の大浦橋(大浦石橋)が写った古写真など  長崎市大浦町 ( 大分県 )

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木橋の大浦橋(大浦石橋)が写った古写真など  長崎市大浦町

入江氏の研究により、大浦橋(大浦石橋)について、次のとおり報告があった。当時の大浦川の様子と架かっている場所から、「大浦橋」に間違いないだろう。
目録番号は、長崎大学附属図書館古写真データベースの番号とタイトル。「大浦橋」の解説はない。  

大浦橋(大浦石橋)についてお知らせします。木造の大浦橋が写っている古写真などがあります。
大浦橋は、伊能忠敬の測量日記では文化十年八月二十七日「大浦川尻巾八間」としか書かれていません。長崎の古地図などには橋は描かれていますが、木橋とは書かれていません。

添付画像 大浦橋 1
目録番号5385 「大浦川と居留地(2)」 撮影者 F.ベアト
撮影年代は幕末
弁天橋から撮影された一枚です。
画面中央に欄干の低い木造の大浦橋が写っています。
橋脚は3基のようです。

添付画像 大浦橋 2
目録番号5318 「大浦川と居留地(1)」 撮影者 上野彦馬
撮影時期は明治初期
同じく弁天橋から撮影されています。
画面中央に鉄製と思われる欄干のある橋が移っています。
欄干かその前に帆布のような白い布が掛けられていますので全体像が判りません。

添付画像 大浦橋 3
これは一関市博物館所蔵「長崎港図」川原慶賀筆です。
この絵の右に木造アーチ型の大浦橋が描かれています。
ベアト撮影の橋と同じ橋だと思いますが、誇張されているようです。

現在の大浦橋(石橋)については、本ブログ次を参照。
大浦川の暗渠下に残るアーチ石橋「大浦橋」   https://misakimichi.com/archives/792

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータ及び現地説明板は、次のとおり。

№3,325  大浦橋
長崎市大浦町
橋幅:4.0m  径間:10.0m  環厚:43cm

大浦橋
「石橋バス停前の道路には大浦橋(石橋)が架かっていました。実は、今でも道路の下を川が流れていて、かつての石橋が残っています。路面が盛り上がっている所がその目印で、親柱は、同バス停横にあります。昔は河口からこの辺りにも小舟が入っていたそうです。大浦橋は、当初、木橋だったといわれていますが、明治初期に簡素な石橋となり、明治19年(1886)、地元の有力者により、この写真の石橋に架け替えられました。」
管理者:長 崎 市

東竹原の甲斐有雄道標  山都町東竹原(日向泊) ( 熊本県 )

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東竹原の甲斐有雄道標  山都町東竹原(日向泊)

高森峠トンネル先から国道325号へ入る。約3km行くと、右側に旧蘇陽町東竹原集落への入口があるが、そのまま国道を進むと、今度は左側に日向泊入口の案内標識がある。この道が国道の旧道だったのだろう、奥の日向泊集落まで入ると、集落はずれの電柱下に針金でくくった石道標があった。
移設したものか、旧街道の道は、私にはわからない。この先はまた国道へ出た。

横35×幅18×高さ60cmほどの自然石。正面に「右 竹の原 下ハ日向泊 左 くさのべ通 日向道」、右面に「明治十八 秋 千二百九十一号」、左面に「甲斐有雄 建」のように刻む。
高森生まれの甲斐有雄が、主に明治初期、熊本県や宮崎県などの一帯に多く建てた石道標のうちの1本だったので、参考に記録しておく。甲斐有雄の道標は、本ブログ次を参照。

甲斐有雄の道標群  高森町・高千穂町   https://misakimichi.com/archives/4723

東竹原の道標(彼の石の板碑)  山都町東竹原 ( 熊本県 )

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東竹原の道標(彼の石の板碑)  山都町東竹原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。前回、地元に聞いても所在がわからず、資料をあたり大分県からの帰りに再び訪れた。今回の場所調査は、地元野原の栗屋氏(旧町文化財保護委員)にたいへん世話になった。
最後の写真は、高森峠展望所から阿蘇山を望む。資料は、蘇陽町郷土誌から。

高森峠トンネル先から国道325号に入る。しばらく行くと東竹原集落の入口があるが、国道をそのまま約3kmほど直進する。案山子茶屋先に国道が大カーブするところがあり、ここが里道との四叉路となっている。
左を見上げると白い史跡標柱があり、榎が立った大岩が「彼の石の板碑」だった。全面に苔がひどく、はがさないと識字は困難。本来は奉祝御甲申という板碑。左右を示す地名は特に小さな刻みで、はっきりわからなかった。

東竹原の道標(彼の石の板碑) ひがしたけばる
(上益城)山都町 <日向往還> 石道標(自然石) 高240㎝,幅350㎝,厚280㎝ 文化13(1816) 町史跡 町教委 原位置 (正面)「右ハ ひうがゑ/左ハ あそ山 くまもとゑ」/街道沿いの自然の巨石に道しるべを刻んだもの 1 B

石坂石畳道  日田市花月坂ノ下ほか ( 大分県 )

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石坂石畳道  日田市花月坂ノ下ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。日田市の北島部、国道212号により向かう。花月集落の左手に入口案内標識があり、花月川上流の橋の先まで行く。
私が訪ねたのは、坂道入口付近のみ。

石坂石畳道 いしさか
日田市 (市ノ瀬〜伏木峠)<日田往還> 石畳道 長1.21㎞,幅2.2-2.8m 嘉永3(1850) 県史跡/歴史の道百選 市教委/現地解説板 保存状態良好/石畳の中央と両側部で風化の度合いが異なり他に例のない2色の石畳となっている 隈町の掛屋・京屋作兵衛が周防の石工に私財で造らせた石畳道/牛・馬の歩行の便を考慮して工夫して作られている/16ヶ所の屈曲部をもつ峠道/石畳の中央部分(約96㎝)には堅い切石、その両側(各約60㎝幅)に山の自然石を敷く/勾配の急な部分には牛馬の通行を考え2・3歩進んでは1段上がるよう緩い段差が設けれている 1 A

羅漢寺橋  中津市本耶馬溪町 ( 大分県 )

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羅漢寺橋  中津市本耶馬溪町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道212号中津市本耶馬渓町の耶馬渓橋から約1.1km上流に架かる。

№430  羅漢寺橋

本耶馬溪町大字曽木-跡田
山国川
橋長:89.0m  橋幅:4.5m  径間:26.25m  拱矢:4.6m
3連アーチ
架設:大正9年(1920)
石工:岩渕万吉、松田新之助
耶馬渓橋より国道212号線を1.1Km南下、左折すぐ架かっています。

青の洞門  中津市本耶馬渓町樋田 ( 大分県 )

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青の洞門  中津市本耶馬渓町樋田

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道212号中津市本耶馬渓町の耶馬渓橋の上流川岸にある。県道44号トンネル歩道側に入口がある。

青の洞門

青の洞門(あおのどうもん)は、大分県中津市本耶馬渓町樋田にある洞門(隧道、トンネル)である。

概要
名勝耶馬渓に含まれ、山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置する。全長は約342mで、そのうちトンネル部分は約144m。大分県の史跡に指定されるとともに、耶馬日田英彦山国定公園の域内にも含まれる。晩秋の紅葉時期は特に観光客が多い。
地形の関係上、一部では幅員が狭いため信号を使った片側交互通行が行われている。

歴史
1750年(寛延3年)に第1期工事が完成し、最終的に開通したのは1763年(宝暦13年)であった[1]。
諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる。
1750年(寛延3年)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている[1]。
1854年(安政元年)から1856年(安政3年)にかけて制作された歌川広重の『六十余州名所図会』には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、この洞門が豊前国の名所として描かれている。
1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて陸軍日出生台演習場への輸送路整備のために大改修が行われ、車両が通過できるよう拡幅された。この工事の結果、完成当初の原型はかなり失われたが、明かり採り窓等の一部に手掘りのノミの跡が残っている[1]。

恩讐の彼方に
1919年(大正8年)に発表された菊池寛の『恩讐の彼方に』は、禅海和尚の逸話を元にして書かれたものである。ただし、この小説では、隧道は「樋田の刳貫」と呼ばれ、「青の洞門」という名称は用いられていない。また、主人公の僧の名は了海とされている[2]。この小説とは別に、1923年(大正12年)の『尋常小学国語読本 巻十二』でも教材として取り上げられ、これらによって青の洞門は広く世間に知られるようになった[1]。

名称
完成した当時は「樋田の刳抜」(ひだのくりぬき)と呼ばれていたが、江戸時代末期から大正時代にかけて、「樋田のトンネル」や「青の洞門」と呼ばれるようになったとされる。 1906年(明治39年)の観光案内書『耶馬渓案内記 : 天下第一の名勝』では「山陰鑿道(さんいんさくどう)又洞門と呼ぶ」と紹介[3]し、洞門を以降で略語として用いている。同書で青地区については「靑(あを) 又靑生(あをふ)と云ふ」「頼翁再遊の帰途即臘月十二日含公と共に一宿せし地(記文 阿保村(あほむら))なれども今其宿舎詳ならず」[4]と頼山陽が訪問したときの故事を紹介している。 1913年(大正2年)の観光案内書『耶馬渓案内記』では伝承を紹介するなかで「之より桟道を樋田の刳貫(ひだのくりぬき)と称し交通頗る便となった」と記し[5]、「耶馬渓靑洞門 Aonodo-mon at Yabakei.」と書かれたトンネル入り口の写真を紹介している[6]。 1914年(大正3年)の『山水随縁記』には「進んて耶馬渓の入口たる靑の洞門に至れは、今尚ほ有名なる樋田の隧道を見む。」とある[7]。 「青の洞門」が用いられた他の初期の例としては、1923年(大正12年)の『尋常小学国語読本 巻十二』や、1942年(昭和17年)の大分県の史跡指定がある[1]。

耶馬溪橋  中津市本耶馬溪町 ( 大分県 )

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耶馬溪橋  中津市本耶馬溪町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道212号中津市本耶馬渓町の耶馬渓橋下流の旧道に架かる。

№431  耶馬溪橋

本耶馬溪町大字曽木-樋田
山国川
橋長:116.0m  橋幅:4.1m  径間:12.8m  拱矢:3.0m
8連アーチ
架設:大正12年
本耶馬溪町役場より国道212号線を北へ700m、左手に架かっています。

耶馬溪橋(オランダ橋) 大分県指定有形文化財
「この橋は、山国川にかかる観光道路、生活道路として大正9年から12年にかけて架橋されたもので、長崎県に多い石積方式であるため通称オランダ橋とも呼ばれている。架橋工事は、地元の岩渕万吉氏が請け負い、地元の石工、石材を使用し架橋された。その工事に要した費用は曽木地区の村山21人の共有林を売却しそれに当てたもので、その額は4万円と言われている。現在、わが国にはこれだけの規模の石橋はなく、8連、橋長116mは共に日本一である。架橋以来、永い間風水害に耐えて来たこの橋であるが、昭和19年の大洪水で大きな被害を受け橋面の高欄等が流失し、コンクリートにおいて復旧されていた。しかし、数年前より橋体にひび割れ等が判明し、通行上非常に危険な状態であったため平成10年から11年にかけて当時の写真等を参考に補強、修復されたものである。
(橋歴)
一、大正9年11月着工 同12年3月竣工
一、昭和19年の水害で橋面が流失したがその後直ちに復旧する。
一、昭和56年3月県指定の有形文化財となる。
一、平成10年2月 補強修復工事着工
一、同11年3月 竣工」

大悟法地区条里遺構  中津市大悟法地区 ( 大分県 )

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大悟法地区条里遺構  中津市大悟法地区

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道663号へ左折して、前記事の沖代地区条里・跡の展望ポイント入口を過ぎ、高台の大貞交差点まで進む。この先の北東一帯が大悟法地区である。

「大悟法地区条里遺構」は、中津市教育委員会パンフフレット「古代のドアを、開けてごらん!」に表れず、具体的な説明のあるものが見当たらない。大貞交差点角の薦神社前にファミリーマート大悟法店があり、ここの裏側がまだ広大な田園地帯となっていた。
遺跡ウォーカーHPの航空写真には、JA大分中津支店や葬祭プリエールなかつなど建物が写されており、このあたり一帯の田園のことだろう。
地区全体を上から見渡せる場所はなかったので、田園の中央付近に立ち、北東と南西方向を写してみた(写真5〜10)。再訪した日(11月18日)はあいにくの小雨で、遠くの山が確認できなかった。

大悟法地区条里遺構 だいごぼう
中津市 条里遺構 8世紀頃 市教委 一部圃場整備を受けている 小規模な条里 3 C

沖代地区条里・跡  中津市沖代地区 ( 大分県 )

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沖代地区条里・跡  中津市沖代地区

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道663号へ左折して永添交差点先のスーパー大栄を過ぎて進むと、県道左側歩道に古代豊前道跡の史跡説明板がある。この中に「沖代地区条理跡」の図もある。

この項は、中津市教育委員会パンフフレット「古代のドアを、開けてごらん!」10〜11頁・奈良時代の風景を残す「沖代地区条里跡」663号線)」を参照。
http://www.city-nakatsu.jp/doc/2013041600083/file_contents/1.pdf
遺産リストには、すでに中津市教育委員会提供の航空写真が掲載されているが、私は同パンフレットが展望ポイントとする豊寿園敷地内から、沖代地区条里・跡を撮影してみた。

沖代地区条里・跡 おきだい 
中津市 条里遺構 一辺109m四方 8世紀初頭 市教委/WEB 旧状を保持/沖代条里展望施設を設置 沖代平野全域の広大な条里(県内最大級) 1 A

写真5〜8は、2015年10月25日再訪した際の状況を追加した。