月別アーカイブ: 2015年10月

豊前道・跡  中津市高瀬〜野依 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

豊前道・跡  中津市高瀬〜野依

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道663号へ左折して永添交差点先のスーパー大栄を過ぎて進むと、県道左側歩道に古代豊前道跡の史跡説明板がある。
資料は、中津市教育委員会パンフレット「古代のドアを、開けてごらん!」8〜9頁・古代のメインストリート「古代豊前道(県道万田四日市線・663号線)」から。ほぼ同じ地点から県道663号の現況写真を撮影した。
http://www.city-nakatsu.jp/doc/2013041600083/file_contents/1.pdf

豊前道・跡 ぶぜん
中津市 (高瀬〜野依) 道路 8世紀頃 市教委/現地解説板 一部県道663・一般道として利用(条里と平行しており、官道の直線性が保持) 2 B

相原の道標(湯屋の辻の道標)  中津市湯屋 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

相原の道標(湯屋の辻の道標)  中津市相原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道663号へ左折して700mほど進んだ鶴居小学校先のハートフル動物病院の対面駐車場角にこの道標が立つ。
刻字に関連したその延長線上の県道1号「高瀬の道標(高瀬の辻の道標)」は、前記事を参照。

相原の道標(湯屋の辻の道標) あいはら
中津市 相原・交差点 石道標 江戸期 市教委/WEB 昭和60年頃、水路改修工事中に上半分だけが発見→中津市史民俗資料館→平成23、相原の交差点に移設・復元 (正面)「從是南 玖…」、(右面)「從是東…」、(左面)「從是西…」、(裏面)「從是北…」 4 C

高瀬の道標 (高瀬の辻の道標)  中津市高瀬 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

高瀬の道標 (高瀬の辻の道標)  中津市高瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道1号へ右折、すぐの県道110号を通り過ごして進むと、次角の左手民家前にこの道標が立つ。
次の記事とする県道663号「湯屋の道標」と刻字で関連があり、その延長線上の道標のため確認に訪ねた。

高瀬の道標 (高瀬の辻の道標) たかせ
中津市 <勅使街道・日田街道> 石道標 市史跡 江戸期 市有形民俗 市教委/WEB 原位置/中央で水平に折損→修復 (正面)「從是南 日田 玖珠 ミ・チ」、(右面)「從是東 豊後 宇佐 ミ・チ」、(左面)「從是西 小倉道」、(裏面)「從是北 中津道」 1 C

七辻十三曲がり  中津市上宮永町 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

七辻十三曲がり  中津市上宮永町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。「七辻十三曲がり」とは中津城に続く中津市城下内の街道道だが、さてさて、私にはどの路地のことか、まったくわからない。中津市教育委員会が平成25年10月実施した官兵衛ウォークHPに、黄囲線のとおりの写真があった。
写真の状況から現地を探すと所在図の左下のとおり、県道110号の西裏通り上宮永町の貴船神社近くと判明した。屋敷・レンガ塀・木立・水路の状況が合う。近所に聞くと、この通りは「馬場道」と呼んだ昔の街道道だと言うから、このあたりに間違いないだろう。教委は土曜休み、これ以上の確認調査はしなかった。

七辻十三曲がり ななつじ
中津市 <豊前道> 道路 正保以前(〜1644) 市教委 住宅地化/道の形は残る/若干拡幅 城部外辺の防備を考えて作られた鍵手状の街道構造→普通の鍵手なら2回屈曲するだけだが、13回屈曲するのは他に例がない 2 A

(2015年11月3日 追 記)
遺産サイトから連絡があり、中津市教育委員会へ照会したところ、当時の「七辻十三曲がり」とは、地図の赤線どおりということなので、図を追加した。これに基づき10月25日現地を再訪し、宮永の貴船神社あたりから、レンガ塀屋敷先の曲がり角まで、馬場道の曲がり具合を写してきたので、写真を後ろに追加する。

中 津 城  中津市二ノ丁本丸 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

中 津 城  中津市二ノ丁本丸

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

中津城

中津城(なかつじょう)は、豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった日本の城。黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた(中津藩も参照)。

構造
周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。

中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。また、吉富町にある八幡古表神社と薦神社とを結ぶ直線上に位置する。鬼門である北東には、闇無浜神社(くらなしはま)がある。

天守
天守の存在については不明である。江戸時代の絵図には天守は描かれていない一方、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、天守の存在をうかがわせる記録もある。江戸時代後期の「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。

堀・石垣
中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。

城下町
扇状の旧城下町には、今でも築城した黒田官兵衛に因んだ「姫路町」や「京町」等の町名が残る。

歴史
天正15年(1587年) – 黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡12万3000石(一説には16万石・その後の検地で18万石となる)を与えられる。当初、馬ヶ岳城に入城した。
天正16年(1588年) – 黒田孝高(如水)は、領地の中心である山国川河口に中津城の築城を始めた。
同年-熊本の一揆征伐で黒田孝高(如水)が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れて、惨殺する。
慶長5年(1600年) – 黒田家は関ヶ原の戦い時に、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断される。
同年 – 細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始する。
慶長7年(1602年) – 小倉城築城に着手し、忠興は小倉城を主城、居城とする。修築中の中津城の城主は細川興秋になる。
元和7年(1621年) – 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。
寛永9年(1632年) – 細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。以後、中津城は中津藩藩主家の居城となる。
享保2年(1717年) – 奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城となった。
安政3年(1856年) – 海防強化のため、海から城への入口に当たる山国川河口(現在は支流の中津川河口)の三百間突堤に砲台を建設。
文久3年(1863年) – 本丸に松の御殿を新築する。この御殿は小倉県、福岡県、大分県の中津支庁舎として転用された。
(以下、略)

模擬天守
昭和39年(1964年)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的に建てられた。
奥平昌信が中心となって構想し、小倉城や名古屋城などの天守外観の復興に携わった、東京工業大学教授の藤岡通夫が設計を手がけた。 鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りを模し、外観5重内部5階(5重5階)構造で高さは23メートルある。

模擬天守は中津城(奥平家歴史資料館)として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した陣羽織、徳川家康からの軍法事書など古文書類が展示されている。
同時に、模擬天守南に望楼型の二重櫓も建てられているが、かつてこの場所には南東隅櫓があり、層塔型で多門櫓を続櫓として付属させている姿が写る古写真がある。

利用情報
模擬天守(奥平家歴史資料館)入館料金 大人は高校生以上が400円 子供は中学生以下まで200円
開門時間午前9時から午後5時
休館日年中無休
所在地〒871-0050 大分県中津市二ノ丁本丸

アクセス
JR九州日豊本線中津駅より徒歩15分

参考文献
西ヶ谷恭弘/編 『定本 日本城郭事典』 秋田書店 2000年 441−442ページ

泉神社の湧水  宇佐市辛島 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

泉神社の湧水  宇佐市辛島

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。宇佐市街の中心部、国道10号辛島交差点北角に泉神社はある。湧水は宝池となっている。

泉神社の湧水 いずみ
宇佐市 (辛島) 湧水 応永30(1423)? WEB/現地解説板 平成初めに下水道工事で水脈が切断し湧水量が減少 『宇佐宮造営日記』の応永30年6月18日の項に,和泉御社の池から17日に霊酒が湧き出したという記載がある/四周を石護岸で囲まれ湧水池内に石の小さな祠がある 2 B

化粧井戸  宇佐市北宇佐 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

化粧井戸  宇佐市北宇佐

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。宇佐神宮の西へ国道10号により北宇佐交差点まで行く。コバック宇佐店前に案内標識があり、国道沿い右の細い市道に入ると、奥に化粧井戸がある。

化粧井戸 けしょう
宇佐市 (北宇佐) 石井戸(3基) 神亀元(724)? 市史跡 WEB 3基とも太い石材で造られた柵で囲まれている/井戸内部の石積が残る 福岡県吉富町鎮座の古表神社と中津市藤田鎮座の古要神社のご神体である“傀儡人形”が化粧するための井戸 1 B

長洲の石干見  宇佐市長洲 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

長洲の石干見  宇佐市長洲

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道23号宇佐市長洲小松橋手前から県道528号に入り、長洲漁港まで行く。海岸埋立地の先端駐車広場に、宇佐ロータリークラブが「石干見復元記念日時計」を設置している。
海岸一帯を覗くと、円弧の魚垣が見えた。豊後高田市で小田原の道標探しに時間を取り過ぎたが、ここ石干見の潮時には何とか間に合った。

長洲の石干見 ながす、いしひび
宇佐市 長洲海岸 魚垣 径約180m 江戸期?? WEB 平成18に復元 昭和10年代に7基使われていたことは分かっているが、その起源が近世由来の可能性もある/復元されたのは7基のひびの中の「宮ひび」 3 B

小田原の道標  豊後高田市小田原 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

小田原の道標  豊後高田市小田原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。豊後高田市街から県道34号により南東の小田原地区へ向かう。浄周寺手前から集落内の道に入り白鳥神社まで行く。西2つ目の道角にこの道標がある。所在図参照。
白鳥神社あたりと聞いて出かけたが、地区で知る人と会わず、アジサイの茂みに隠れ私は見落とした。豊後高田市教育委員会に調査を依頼したので、画像撮影提供は同市である。

小田原の道標 こだわら
豊後高田市 白鳥神社・西の三叉路<奈多行幸会道> 石道標(蒲鉾型) 天保3(1832) 歴史の道・奈多行幸会道p26 原位置(ただし、民家の生垣内) (正面)「是ゟ、右 きよたき道/左 いしぶつき道 きつき道」 2 C

新屋敷の石畳  豊後高田市玉津 ( 大分県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

新屋敷の石畳  豊後高田市玉津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道29号豊後高田市役所先の玉ノ井橋から左折し光圓寺奥まで行く。高台へ登る坂道があり、ここが新屋敷の石畳である。上部の未舗装部分に石畳が残る。

新屋敷の石畳 しんやしき
豊後高田市 <肥後街道> 石畳道 長約20m 江戸期 歴史の道・肥後街道p29 新屋敷付近と新屋敷から小高野の途中の坂道に残る 角形をした大きな石板をきれいに並べた構造→江戸期としては稀 2 C