月別アーカイブ: 2014年10月

たかくまふれあいの森のスダジイ  鹿屋市下高隅町

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たかくまふれあいの森のスダジイ  鹿屋市下高隅町

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。「たかくまふれあいの森」は場所がわかりにくいので、地図を載せる。

たかくまふれあいの森  鹿屋市下高隅町

「たかくまふれあいの森」は鹿屋市下高隅町の谷田バス停近くの林道から入り、1.4kmの地点にある。この森は、森林保護・森林教室用として大隅森林管理署が管理している「水源かん養保安林」である。低地ながら、南日本特有の照葉樹林をつくるアカガシ、シイノキ、タブノキ、イスノキなどの天然広葉樹が原生に近い形で残っており、学術的にも貴重な場所である。

森の中のスダジイ(イタジイ)の巨木は、推定樹齢250年、樹高22m、幹周り609cmもあり、林野庁の「森の巨人たち100選」に選ばれている。森の近くには「神水の池」と呼ばれる一日当たりの湧水量が190万ℓの神秘的な池がある。「たかくまふれあいの森」は、里山で登山というより照葉樹自然散策や自然観察に適した場所である。近くには九州電力谷田発電所や谷田の滝、観音淵などの名所・遺跡がある。

樹林内は南日本特有の照葉樹林を形成する樹齢250年余りのタブ、クス、シイ、カシなどが原生林に近い形で残されている。80種類ほどの樹木がみられ、それぞれ樹木には樹木名プレートが付けられ、クイズ形式で各樹木の特性等が記してある。

高隅山地・高隅城跡・高隅ダム(大隅湖)  鹿屋市上高隅町ほか

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高隅山地・高隅城跡・高隅ダム(大隅湖)  鹿屋市上高隅町ほか

鹿屋市街から国道504号により高隅ダムまで行く。高隅山地・高隅城跡・高隅ダム(大隅湖)の風景。
ウィキペディアフリー百科事典、じゃらんnetによる説明は、次のとおり。

高隈山地
高隈山地(たかくまさんち)は、大隅半島中央部の鹿児島湾沿いに連なる山地である。一般には鹿児島県鹿屋市と垂水市との境界付近に横たわる南北約25km、東西約15kmの山地を指し、その中心部にそびえる大篦柄岳や御岳などを含む標高1,000m以上の山岳群を総称して高隈山(たかくまやま)と呼ぶ。
地理
日本におけるブナ林の南限があり、「森林生物遺伝資源保存林」に指定されている。また、高峠、大隅湖、猿ヶ城渓谷などの景勝地は「高隈山県立自然公園」に指定されている。高隈山(日本三百名山及び九州百名山に選定されている。) 大篦柄岳(おおのがらだけ)- 最高峰、標高1,236m[1]
歴史
古くから山岳信仰の対象とされており、江戸時代末期の毎年3月から4月にかけて盆山、大篦柄岳、小篦柄岳、妻岳、権現岳、中岳、近戸宮を巡る七岳参詣が行われていた。盆山、大篦柄岳、小篦柄岳、妻岳は樹木を御神体としていた。[2]
地質
地質学における高隈山地は高隈山付近から霧島山の南東付近まで連なる南北約60キロメートルの山地を指す。白亜紀に堆積した四万十層群と呼ばれる地層が隆起したものを基盤とし、阿多カルデラ、姶良カルデラ、加久藤カルデラなどの火山活動による噴出物が積み重なっている。
大篦柄岳の西側斜面には第三紀に形成された直径約7キロメートルの花崗岩ドーム「高隈花崗岩体」があり、その周辺部にタングステン、モリブデン、金、ビスマス、ウランなどの鉱脈が存在する。大篦柄岳や御岳などの山塊は、花崗岩の形成に伴い周辺の地層が加熱され緻密なホルンフェルスとなったため侵食から取り残されたものである。

高隈城址
中世に築城されたものと推定される。『三国名勝図会』にみると、永禄(1558)のころは肝付兼続に属し、そのあと伊集院忠棟の所領と変わり、文禄4年(1595)には細川幽斎が豊臣秀吉から与えられている。そして慶長4年(1599)には島津義弘の征韓の軍功によって、また島津氏に復したと記されている。

高隈ダム(大隅湖)
高隈ダム(たかくまダム)は鹿児島県鹿屋市下高隈町古園、一級河川・肝属川水系串良川に建設されたダムである。
かんがいを目的に農林水産省九州農政局が管理する農林水産省直轄ダムで、堤高47.0mの重力式コンクリートダムであり大隅半島では最大規模のダムである。長年不毛の大地であった笠野原台地への農業用水を供給する「国営笠野原農業水利事業」の根幹施設として建設された。ダムによってできた人造湖は旧国名である大隅国より大隅湖(おおすみこ)と呼ばれている。
歴史
鹿屋市市街地の北東部に広がる笠野原はシラス台地と呼ばれる保水力の小さい火山灰土壌の高台であり、川は深い谷を穿っているため農業用水や生活用水を得ることが困難な土地であった。このため地域によっては80メートル以上の深さの井戸を掘り、牛の力を借りて水を得る有様であった。このような状況を改善するために1947年(昭和22年)頃からダム建設の検討が行われ、1959年(昭和34年)に着工され、1967年(昭和42年)3月に完成した。ダムの建設に伴い約200戸の住民が移転を余儀なくされた。灌漑面積は4,807ヘクタール[1](笠野原自体は6,000ヘクタール[2])におよぶ。

肝付兼経夫妻の宝篋印塔  東串良町川東

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肝付兼経夫妻の宝篋印塔  東串良町川東

現地説明板は、次のとおり。柏原小学校西側の乾馬場という一帯が武家屋敷の続く通り。萩原家武家門のところに石敢當があったが、この通りの奥が熊野神社。宝篋印塔は境内左にある。

町指定文化財[史跡]  肝付兼経夫妻の宝篋印塔   昭和54年4月1日指定
宝篋印塔はもともと仏舎利及び宝篋印陀羅尼経を納める塔であったが、平安時代の末頃から供養碑等にこの形が用いられるようになりました。
この石塔は相輪の宝輪数その他の彫刻、形状等から鎌倉時代のものである。
更に笠石の連弁刻出は肝付氏をあらわしており相輪の文様、伏鉢の刻出は時代的に見て肝付氏二代兼経夫妻のものと言われる。
これは昭和52年に南九州古石塔研究会の黒田清光等によって発見考証された貴重な石塔であります。
東串良町教育委員会

川東の石敢當  東串良町川東

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川東の石敢當  東串良町川東

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。柏原小学校西側の乾馬場という一帯が武家屋敷の続く通り。萩原家武家門の左側石垣下に石敢當があった。最後の写真が柏原港。

川東の石敢當 かわひがし
(肝属)東串良町 石敢當 (自然石、凝灰岩) 高57㎝,幅24㎝,厚13㎝ 元禄14(1701)? 日本の石敢當p159 下方が石垣に埋もれている/上部が一部破損 周囲の石垣から推定すると元禄14の建立となり、それが正しければ、全国で3番目に古い 3 C

辰巳屋氏HP「街並みめぐり」鹿児島県による説明は、次のとおり。石敢当の写真が「萩原宅武家門」のところにあった。

街並みの名称  柏原     所在地  東串良町川東    訪問日  平成21年5月5日
肝付川河口左側にある浦で、対岸の高山郷波見(はみ)浦とともに漁業と交易の拠点であった。柏原が貿易港、漁港として発展をみるのは柏原と唐仁との間の干拓が行われた江戸時代中期以降とされる。
伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では、柏原浦は家数211軒とみえる。河口近くに浦番所が置かれており、郷士29軒は、浦役または番所の役目に就いていたとも考えられる。

萩原宅武家門(江戸前期の武家門特有の門構を今に伝える)
武家屋敷の続く通り
石敢当

柏原海岸・ルーピン畑  東串良町

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柏原海岸・ルーピン畑  東串良町

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。   

柏原海岸・ルーピン畑 東串良町   

志布志湾を望む東串良町の柏原海岸は,白砂青松の海岸線が続く景勝地。日南海岸国定公園の南端にあり、県下三大名勝地に数えられる。東串良から志布志までの海岸は長さ16km、巾500〜700mにおよび優美な景観を見せ雄大である。柏原海岸の広大な砂丘地には毎年春になるとにルーピンの花が咲き乱れ、訪れた人たちの目を楽しませてくれる。ルーピンは同町の町花で畑は砂丘地の南北約1キロにわたり、約5ヘクタールに約100万本が咲き誇る。4月にはルーピン祭りも開催され、潮干狩り等のイベントで浜辺は賑わう。

柏原ルーピン畑

ルーピンは、海岸沿い約5ヘクタールに約50万本が植えられ、海岸一面は黄色いじゅうたんを敷き詰めたような景観になり甘い香りが漂う。4月には広大な砂丘にルーピンの花が咲き乱れルーピン祭りが盛大に開催される。
ルーピン(黄花ルピナス)とはマメ科一年草の草花で原産はアメリカ・地中海沿岸・南アメリカ。花ことばは母性愛。花のかたちや咲き方から日本では「ノボリフジ」と呼ばれ、藤と同じマメ科の植物で、花の形も似ている。

横瀬古墳  大崎町横瀬エサイ町

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横瀬古墳  大崎町横瀬エサイ町

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

横瀬古墳
【所 在 地】曽於郡大崎町大字横瀬字エサイ町 1427,1428
【種  別】国指定史跡
【指定年月日】昭和 18 年9月8日

大崎町役場から南へ約 3.2km,大字横瀬の平坦な水田地帯にある前方後円墳で,5世紀後半代と推定されている。全長 129m,後円部の高さ 15.4m,前方部の高さ 13m の墳丘を持つ。後円部の中心よりやや前方部よりに,竪穴式石室が露出している。過去に盗掘を受けており,鉄製直刀などが出土したといわれている。石室の葺石には花崗岩が使用されている。墳丘の北側に沿って農道があるために後円部北側は多少削り取られている。また,前方部の端には祠が祀られている。
本格的な発掘調査は行われていないが,かつて後円部から須恵器,円筒埴輪,形象埴輪(楯形埴輪など)が多数出土している。また,昭和 52,53(1977,78 年)年の試掘調査によって,周溝の存在も確認されている。古老の話によると,古墳の周辺の水田の中にも小墳丘が点在していたらしいが,現在は残っていない。おそらく前方後円墳を中心とした古墳群が形成されていたものと思われる。
前方後円墳は,わが国の特徴的な古墳の形式で,円形の墳丘と方形の墳丘が接続した形をしている。命名者は江戸時代の学者で勤王家として知られる蒲生君平である。その発生については諸説があるが,3世紀中頃に畿内で発生し,6世紀の終わり頃まで続く。県内では大隅の志布志湾沿岸に集中して分布しており,その数は 21 基にのぼる。最も古いものは志布志町ダグリ岬の飯盛山古墳であるが,近年の調査で墳丘の一部が残存しており,壺形埴輪などの出土が確認されている。

唐仁古墳群  東串良町唐仁、小新地ほか

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唐仁古墳群  東串良町唐仁、小新地ほか

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。国指定史跡碑地しか写していない。

唐仁古墳群
【所在地】肝属郡東串良町
【種 別】国指定史跡
【指定年月日】昭和9年1月 22 日

東串良町字唐仁,小新地,大塚,大塚原にまたがる日本南端の畿内型の大古墳群である。古墳時代前期から後期に及ぶものといわれる。
昭和9(1934)年指定の折は前方後円墳7基,円墳 125基となっていたが,昭和 37(1962)年の調査では前方後円墳5基(うち1基は不明)円墳 113 基,計測不能の円墳 14 基,台帳に記載されてない円墳6基である。昭和 57(1982)年夏に東串良町教育委員会が綿密な調査を行った。それによると前方後円墳7基のうち3基は変形して残っており,円墳125基のうち3基が所在不明で,122 基は所在がはっきりしている。最大の大塚古墳(第1号墳)は周溝をめぐらせた前方後円墳で,主軸の長さ 130m,前方部から周溝の端までの長さ 185m である。後円部の高さは 11m で,その上に大塚神社が建立されている。渡り廊下の下に堅穴式石室があり,内部に舟形石棺を納めている。
大塚古墳の規模は,全国的にみても規模が大きいものに属する。前方部は非常に低く、後円部の本来の高さは 12m と推定される。最高部がけずられて大塚神社が建っている。この形式は前期のものとされる。中期になると前方部が高くなり,後期になると更に高くなる。

高山新溝記  肝付町新富神之市

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高山新溝記  肝付町新富神之市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。石碑は補修され、二階堂家住宅へ着く手前の高山川橋脇の土手に建っていた。

高山新溝記 こうやま
(肝属)肝付町 新溝 石碑(板碑型) 高約180㎝,幅約100㎝,厚約20㎝ 寛文11(1671) 町教委 風化が激しいため、側面と頂部をC補強 (正面)「此國肝付郡高山府新富野崎之二邑田疇広而流水乏得甚/雨則農夫鞭牛耕遇旱夫則厮児繋馬秣其稼秀而不実者矣/歳無之此故憂多而楽少矣、惟島津氏久通翁世英傑而□開/國政人向化□□凡之竹其農功盛烈山高水長此民憂請君/以引河流而濯乾田䟽溝洫而開広埜君許以諾也、翁又命又/命士宰之士自承、翁之命寤□思眼清禾完哉笠臨□頭黄昏星/還屋裡還謀」(緑字は2文字で1つの文字→のぎへんに“完”)/上記の「岩渕上の隧道」を含む新溝の完成を記念して建立 2 C

「岩渕上の隧道」は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/4090

雄川の滝 (2)渓谷遊歩道から滝壺へ  南大隅町根占川北

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雄川の滝 (2)渓谷遊歩道から滝壺へ  南大隅町根占川北

錦江町と南大隅町の町境にある雄川渓谷の「雄川の滝」を訪ねた。
私は田代麓から県道448号を下った。まず前の記事(1)により九州電力の滝上ダム取水口の南岸にある「雄川の滝(滝の上)展望所」から滝を見た。次は滝壺だが、この展望所からは下れない。下流から雄川渓谷を大回りし、距離と時間がかかる。

滝見大橋を渡り県道448号へ戻ってしばらく県道を進む。「南大隅町」の案内標識により左折して下って行くと、案内図「かごしまロマン街道」➁地点に着く。ここに「雄川の滝⇒4.6km」の入口標識がある。田代麓から下ると標識が見当たらず、なかなかわかりにくいので、次の案内図をくれぐれも参照。
http://www.town.minamiosumi.lg.jp/minami04/ogawatakichizu.pdf#search=’%E9%9B%84%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%BB%9D’ 苦労して訪ねただけ、雄川渓谷の美しさや滝壺側から見る雄川の滝の景観は格別だった。

ふるさと元気風ネットによる「雄川の滝」の説明は、次のとおり。

雄川の滝   南大隅町根占川北

南大隅町の中心街を流れる雄川の上流に落差46m、幅60mの雄川の滝がある。「雄川の滝」は三国名勝図会にも紹介されている名勝の滝で、雄川流域の一部が大隅南部県立自然公園の指定を受けている。大地の末端をえぐった滝の一帯は、荒々しい岩があらわになった渓谷で、雄大な自然が魅力だ。滝の上流が発電所の取水口になっていて水量は少ない。滝壁面の幾何学模様の節理と壁面の伏流水が美しい景観をなしている。滝つぼは深くないが透明感があり、エメラルドブルーに輝く水面が印象的だ。近年、滝までの遊歩道が整備され、雄川の渓谷風景や滝の全景を近くで観察することができる。遊歩道から見上げるアーチ状のけた橋の滝見橋も迫力があり、見所ポイントのひとつだ。

渓谷風景
滝の下流に位置する駐車場から上流の滝までおよそ1200mの遊歩道。断崖絶壁の荒々しい岩場の渓谷が続く。遊歩道から眺める雄川の風景が絶景だ。

ps;
※大隅南部県立自然公園は,南大隅町外之浦から肝付町火崎に至る太平洋に面した海岸部分と,雄川及び花瀬川流域の一部が指定されている。
※三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)は、江戸時代後期に薩摩藩が編纂した薩摩国、大隅国、及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を記した文書。

雄川の滝 (1)滝の上展望所から  錦江町田代川原

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雄川の滝 (1)滝の上展望所から  錦江町田代川原

根占から佐多岬入口の大泊まで行き、古写真の風景を再調査後、風力発電所がある山間県道68号を通って(写真1,2)、錦江町と南大隅町の町境にある雄川渓谷の「雄川の滝」を訪ねた。
私は田代麓から県道448号を下った。まず九州電力の滝上ダム取水口の南岸にある「雄川の滝(滝の上)展望所」だが、案内図は次をくれぐれも参照。滝見大橋を通って行った。
http://www.town.kinko.lg.jp/kinko03/forms/ogawamap.pdf#search=’%E9%9B%84%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%BB%9D’ 滝壺にはこの展望所からは下れない。下流から渓谷遊歩道を大回りするので、次項(2)とする。

ふるさと元気風ネットによる「雄川の滝」の説明は、次のとおり。

雄川の滝   南大隅町根占川北

南大隅町の中心街を流れる雄川の上流に落差46m、幅60mの雄川の滝がある。「雄川の滝」は三国名勝図会にも紹介されている名勝の滝で、雄川流域の一部が大隅南部県立自然公園の指定を受けている。大地の末端をえぐった滝の一帯は、荒々しい岩があらわになった渓谷で、雄大な自然が魅力だ。滝の上流が発電所の取水口になっていて水量は少ない。滝壁面の幾何学模様の節理と壁面の伏流水が美しい景観をなしている。滝つぼは深くないが透明感があり、エメラルドブルーに輝く水面が印象的だ。近年、滝までの遊歩道が整備され、雄川の渓谷風景や滝の全景を近くで観察することができる。遊歩道から見上げるアーチ状のけた橋の滝見橋も迫力があり、見所ポイントのひとつだ。

渓谷風景
滝の下流に位置する駐車場から上流の滝までおよそ1200mの遊歩道。断崖絶壁の荒々しい岩場の渓谷が続く。遊歩道から眺める雄川の風景が絶景だ。

ps;
※大隅南部県立自然公園は,南大隅町外之浦から肝付町火崎に至る太平洋に面した海岸部分と,雄川及び花瀬川流域の一部が指定されている。
※三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)は、江戸時代後期に薩摩藩が編纂した薩摩国、大隅国、及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を記した文書。