月別アーカイブ: 2014年10月

ねじめ陽石  南大隅町根占山本

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ねじめ陽石  南大隅町根占山本

国道269号佐多街道。根占のガソリンスタンドで見かけた。旅行・観光・歴史ガイド「旅豆」に、次の記事があった。これにはさすがに写真はない。

成武建設(株)セイブ石油
造成工事中に土中から出てきたという奇妙な形の石がご神体として展示されています。「ねじめ陽石」と名付けられて、ガソリンスタンドに立ち寄る人たちが拝んで行きます。

南蛮船係留の大くす  南大隅町根占川北

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南蛮船係留の大くす  南大隅町根占川北

現地説明板は、次のとおり。国道269号の雄川河口、塩入橋のところに立っている。

南蛮船係留の大くす   町指定文化財(天然記念物) 昭和43年12月10日指定
今から約500年前の頃、雄川の河口はこのあたりまでも水も深く天然の良港であった。唐や南蛮、琉球の船が出入りする貿易港で入港した異国船はこのくすにともづなを結び珍奇な交易品を荷上げしたと伝えられている。また唐船と南蛮船との間に争いが起こり池端弥次郎重尚がこれを仲直りさせようとして唐人の火矢に当たって戦死したと古い記録に見える。
この頃この附近一帯には唐人町もでき港は繁栄した。この大くすは樹齢千年を重ね、南大隅町根占の栄枯盛衰の歴史を見守ってきた老木である。大事に保護していこう!!
平成18年2月   南大隅町教育委員会

山川からフェリーで根占へ  指宿市山川

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山川からフェリーで根占へ  指宿市山川

2006年(平成18年)1月1日 、指宿市は山川町・開聞町と合併(新設合併)し、新たに指宿市となった。
山川駅は、鹿児島県指宿市山川成川にある九州旅客鉄道指宿枕崎線の駅である。旧・山川町の代表駅。鹿児島中央駅からのほとんどの列車が当駅で折り返し、この先枕崎駅方面は本数が大幅に減る。
山川・根占フェリーは、指宿市の山川漁港と南大隅町の根占港とを50分程度の所要時間で結んでいる。

平成の縄文杉モニュメント  鹿児島市喜入一倉町

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平成の縄文杉モニュメント  鹿児島市喜入一倉町

県道232号により知覧から喜入へ出た。県道234号との交差点手前、屋久杉工芸見学工場前に展示していた平成の縄文杉。屋久島縄文杉の大型模型で繊維強化プラスチック製。
説明板から、次の記事と関係があるよう。

屋久島縄文杉の大型模型、鹿児島市にお目見え(読売新聞) – goo ニュース

世界自然遺産に登録されている鹿児島県・屋久島の縄文杉の大型模型が、鹿児島市喜入瀬々串町のアリヨシ民芸品店の前にお目見えしたそうです。
模型は、繊維強化プラスチック製で、幹回りが実物と同じで、高さは約8メートル。様々な角度の写真を基に、くぼみやこぶの一つひとつまで忠実に再現したそうです。
本物の屋久島縄文杉を見てみたいと思っていたのですが、この模型を見れば屋久島へ行った気分になれるのでしょうか。

里程標  南九州市知覧町東別府

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里程標  南九州市知覧町東別府

現地説明板は、次のとおり。県道232号知覧喜入線の途中にあった。

里 程 標
現在の県道知覧喜入線に立つ石柱の里程標です。里程標は街道の一里毎に建てられた、通行する人々の道しるべです。幹線道路には数多く建っていましたが、現在知覧町内にはほとんど残っていません。この里程標は、加世田を起点として、明治時代に建てられたと考えられています。三面に『距加世田六里』『知覧ヘ一里二十九丁』『喜入へ二里二十五丁』と刻んであり、昭和61年に町指定文化財となっています。

知覧城跡  南九州市知覧町永里ほか

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知覧城跡  南九州市知覧町永里ほか

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。県道232号から入る。

知覧城跡
【所在地】南九州市知覧町永里他
【種 別】国指定史跡
【指定年月日】平成5年5月7日

麓川の左岸,麓川に注ぐ小流の浸食したシラス台地の縁にあった山城で,標高 176m を最高地点とする。知覧郡司の初築と伝えられるが不詳である。15 世紀以降,島津氏の門流佐多氏の本拠城となる。
当城は南北 800m,東西 400m,全体約 45ha で,12 をこえる曲輪(平坦地)があり,防衛された虎口や空堀,土塁,櫓台等々の当時の施設を見ることができる。本丸や蔵之城と呼ばれる中心曲輪群と東之栫,西之栫といった外郭部分,さらに殿屋敷,蔵屋敷等々の屋敷群がそれを取り巻いている。
約 24ha が国指定史跡となり,平成 10(1998)年に保存整備に伴う発掘調査が開始された。調査で 15 世紀から 16 世紀ごろの国内外の陶磁器類をはじめ,石なべ,鉄くぎ,かんざし,硯,武具などの城内の生活の様子をしめす出土品の数々や掘立柱の大型の建物跡と共にこの時期,城内に墓を築いていたことも明らかになっている。

知覧のイチョウ  南九州市知覧町郡

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知覧のイチョウ  南九州市知覧町郡

現地説明板は、次のとおり。知覧武家屋敷入口の歩道にある。イチョウの道路対面角に「旧領主御仮屋跡」の碑がある。

いちょうの由来
藩政時代参勤交代の帰途、京都に立ち寄った知覧領主の家臣らは、柳やかえでを郷里に移し植え、ふもとに京の香りを漂わせた。このいちょうも京からのもので、はじめはめおと木であったが、溝をはさんでそびえていた雄木は、大正3年9月に大火で枯れ、この雌木だけとなった。
知覧領主が奉納した豊玉姫神社のめおといちょうは、天にそびえて森巖の気をそそり、旧役場庁舎の巨木は町民に親しまれていた。役場西隣のいちょうは樹齢350年を数え、このいちょうもその頃のもので、根の回りは約7メートルである。
家臣らは、このいちょうを仰ぎながら京の文化に思いをはせ、庭園をつくり、和歌をたしなみ、カラクリに興ずるなど、感動の文化をつくった。明治100年(昭和43年)を記念し、知覧町はいちょうを町木に定めた。     
平成6年3月吉日 知覧町史談会

鹿児島県のアーチ式石橋 矢櫃橋  南九州市知覧町上郡

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鹿児島県のアーチ式石橋 矢櫃橋  南九州市知覧町上郡

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。

№829  矢櫃橋

知覧町上郡
麓川
橋長:14.3m  橋幅:2.8m  径間:   拱矢:
架設:嘉永5年
南九州市役所から県道23号線を800m東、右手に架かっています。
矢櫃橋(やびっばし)
「江戸時代には、お隣の川辺郷と行き来する多くの人馬がよくこの橋を利用しました。
今の橋は嘉永5年(1853)に行われた永久橋修復工事の残石で造られたと伝えられています。川幅の狭くなった自然の地形を利用し、掛けられた美しい姿の眼鏡橋です。」

鹿児島県のアーチ式石橋 奴命橋  南九州市知覧町小田代

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鹿児島県のアーチ式石橋 奴命橋  南九州市知覧町小田代

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。

№827  奴命(ぬめい)橋

知覧町小田代
麓川
橋長:11.0m  橋幅:2.8m  径間:10.0m  拱矢:7.0m
架設:嘉永5年(1852)
県道23号小田代バス停の100m先より左折、500m先に架かっています。

永里の銀山跡  南九州市知覧町永里

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永里の銀山跡  南九州市知覧町永里

現地説明板は、次のとおり。

銀 山 跡
この奥200mのところに江戸時代に掘られた銀山の跡があります。古くは種子田兼備が薩摩藩のお試し銀山として、文政8年(1825)に銀を掘ったと伝えられています。種子田兼備の採掘は長くは続かなかったようで、天保12年(1841)には休止となりました。その後何回か掘られたようで坑道入り口近くには「謹祷銀山昌栄、山元治左衛門中和・同治兵衛中寛・同治助中位、安政5年(1858)戌午六月吉辰」と刻まれた山神様が現存している。