月別アーカイブ: 2010年5月

高来烽火山の烽火台跡  諫早市高来町小峰

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高来烽火山の烽火台跡  諫早市高来町小峰

諫早市高来町の「いこいの村長崎」後ろに「烽火山」(標高554.3m)という山がある。。他の場所の烽火山と区別するため「高来烽火山」と呼ばれている。平成17年に復元されている烽火台があるので見学に行った。
実際の烽火台は、山頂にあったのではない。烽火台跡は山腹の「小峰」という所にあった。現在の烽火台は見学できるよう、「いこいの村長崎公園」の多良岳へ向かう林道分岐角に復元されている。現地説明板は次のとおり。
小峰烽火山について

この烽火台は、烽火山中にあるものを復元したものです。「烽台」(ともしびだい)は、現在烽火山という地名として残っている。天智天皇が「和銅元年(七一三)諸国の「造」(みやっこ)に命じて庶民の生活状況を求めた」と肥前風土記にあるが、この烽火台はその年代の史跡である。
天智天皇は唐・新羅軍の来襲に備え六三三年西国に防人を置き城を築かれた。同時に烽火台を設け、昼は煙で、夜は火炎で敵の来襲を伝達する方法をもとられたのである。
伝達経路は、西彼野母崎の権現山や諫早有喜の普賢岳、本町の小峰峰火山、太良の風配というように次々に伝達され、大宰府に届くしくみであった。
江戸時代になり、黒船の来襲を告げるため、寛永十五年(一六三八)新たに長崎に狼煙台が設けられたが、ここからこの烽(ともしび)も同じ経路で幕府に伝達する役割を持っていた。小峰烽火山はかかる役目を果たした史跡である。
平成十七年三月     諫早市教育委員会  高来文化協会

公園角に復元されている烽火台は、直径2.5m、高さ1.5mほどの丸い石積み。小型な烽火台である。下部4箇所に通気穴がある。
烽火台が実際あった場所は、林道を上へ行き、林道から100m位入ったヒノキ林尾根の上。位置を示す史跡表示板と同じような説明板があった。今は植林に囲まれ、視界が利かない。有喜・太良方面は、近くから写した。
林道をさらに上がると、烽火山山頂まで車道がある。諫早湾干拓の堤防道路が良く眺められる。烽火山の反対側は轟渓谷へ林道が通じ、途中に歩いて登る「烽火山遊歩道」入口案内板があるが、遊歩道は荒れている。

戸町電波塔山から大久保山・魚見岳台場へ  平成22年5月

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戸町電波塔山から大久保山・魚見岳台場へ  平成22年5月

平成22年5月30日(日)快晴。戸町電波塔山から大久保山・魚見岳台場へ。参加17人。長崎港口東側の展望の良い岩めぐりし大久保山(標高233.7m)へ登る。小ヶ倉上揚から魚見岳台場までは古街道歩き。
戸町バス停9時30分発ー電波塔山ー女神大橋トンネル上ー大久保山ー砕石場跡草原ー小ヶ倉上揚ー白崎藩境石ー魚見岳台場14時40分着(徒歩距離 約12km)

戸町2丁目の一方通行バス通り途中から、右手竹林を直登する道があり、電波塔のある岩山へ着く。長崎市立戸町小学校の運動会が上から見えた。ここが「つく尾城跡」と思っていたが、地元の人に聞くと違う。南東尾根を伝っていったん畑小屋へ出、稜線へまた上がる。
尾根を登って行くと先にまた展望の良い岩がある。女神大橋が真正面に見え、大久保山が左にどっしり立つ。女神大橋トンネル上を通る。歩きなれた登山路となり、竹林内を急登すると、展望なし三等三角点の大久保山である。山頂11時50分着。少し下って藩境塚のあるいつもの林間で昼食。

12時40分発。砕石場跡草原へ。伐採され、見晴らしが良くなっていた。工事中の長崎南環状線唐八景トンネルが星取山下に見える。草原を下り、右の山道へ入る。荒れた道で草刈りしながら小ヶ倉上揚の墓地へ出る。
白崎バス停上の民家まで行くと、石垣に組込まれた「従是南佐嘉領」の藩境石と水場がある。この道は古街道で、魚見岳二ノ増台場まで今も続いて残るが、山道をもう歩く人はいない。4年前探して整備した道である。女神大橋近く、魚見岳台場下段の三ノ増台場は14時40分着解散。
最後の写真は、戸町墓地より見た電波塔山から大久保山への稜線。奥は八郎岳。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/24924431.html

国指定名勝 旧円融寺庭園  大村市玖島

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国指定名勝 旧円融寺庭園  大村市玖島

国道34号線の西本町交差点からJR大村駅の方へ向かう。途中の裁判所前バス停から右折し、内田川の橋を渡ると、その先に護国神社がある。ここが国指定名勝 旧円融寺庭園である。
護国神社の左上に春日神社があり駐車でき、庭園を上から眺めることができる。
「国指定文化財等データベース」長崎県による詳細解説は次のとおり。

名称: 旧円融寺庭園
ふりがな: きゅうえんゆうじていえん
種別1: 名勝
指定・登録・選定年月日: 1976.12.27(昭和51.12.27)
指定・登録・選定基準: 一.公園、庭園
所在都道府県: 長崎県
所在地(市区町村): 大村市玖島

詳細解説
S52-1-006[[旧円融寺庭園]きゆうえんゆうじていえん].txt: 承応元年(1652)藩主大村純長が創建し、明治初年廃絶した天台宗円融寺の旧地にある。寺域南限の山畔中央の高所に巨石を据えて三尊石を組み、これを中心として斜面全般に400余個の石を立てまたは臥せ、地形の起状に従って作り出した枯滝・枯流等によってこれらの石組の配置を抑揚豊かなものに構成している。また左手に7段から成る枯滝を作りその水落石には白色の石炭岩を用いるなど、全体としてその意匠は華麗でかつ創意にあふれ江戸時代初期作庭の特色をみることができる。  長く荒廃しツツジ等の徒長した樹叢に埋もれていたが、昭和44年現況に復旧されたものである。

三浦半島の日岳公園と長崎仏舎利塔  大村市日泊町ほか

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三浦半島の日岳公園と長崎仏舎利塔  大村市日泊町ほか

大村湾の南東にある三浦半島。国道34号線の諫早市貝津交差点から左折し、大村市久原まで、普通は海沿いの県道37号線を行くが、津水大橋を渡り長崎自動車道ガード下をくぐって、大村市域へ入ったすぐの溝陸町から案内標識により「日岳農免道路」を登る。

三浦半島の山を縦貫した道路が整備されており、日岳山頂(標高258.3m)の日岳公園や、山麓の長崎仏舎利塔は展望が良い。日岳公園から主に諫早市内・雲仙岳、長崎仏舎利塔から大村市内・多良岳・大村湾方面が見渡せる。日岳と言われるとおり、山頂の石祠は天照大神である。
日岳農免道路は仏舎利塔から下って行くと、鈴田川河口の三鈴橋の所に出る。

旭神社のクスノキ  大村市東本町

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旭神社のクスノキ  大村市東本町

国道34号線の西本町交差点からJR大村駅の方へ向かう。大村浜屋前の次の道角を右折すると、奥のアパート群の公園一角にクスノキの根元を囲った「旭神社」がある。
HP「樹の国・日本の大きな樹」長崎県の巨樹・巨木・名木を参照。同データは次のとおり。
確認に出かけたが、本幹の上部が折れ、空洞の内部は枯れかけている。「東彼杵郡」と刻んだ古い標石があった。長崎街道新道がここで曲がったようである。

旭神社のクスノキ   http://www.hub24.jp/takamikk/sys/index.asp?ID=1239
所在地 長崎県大村市東本町   樹 種 クスノキ   指 定 なし  
幹 周 9.1m   樹 高 10m   撮 影 2001年10月

後ろの3枚は、長崎医療センター近く、直線新道沿いの大村市木場町「野田神社」の神木スタジイ。幹囲5mほど、そんな大木でない。神石もあった。
”ひるじげドン”あの街この街 大村市レインボーロードによると、大村市今富町の大神宮神社境内に、「石割りがし」という珍しいアラカシの木があるのを今、知った。

長崎の古写真考 目録番号:3235 中島川と編笠橋(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3235 中島川と編笠橋(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3235 中島川と編笠橋(3)   関連作品 目録番号: 982 同(1)ほか(7)まであり
〔画像解説〕 
写真左側に松の大木、川面に編笠橋の影を映し、橋の袂の山門後ろに工場の煙突、森の中に諏訪神社、背景には左側に金比羅山の稜線が見える。橋の袂にある山門は、明和3年(1766)建立の太平寺の山門である。太平寺は、寛延3年(1750)この地に建立され、宝暦7年(1757)に新橋町(旧日本赤十字社跡地)、明治10年(1877)現在地の浪の平に移転した。編笠橋は、元禄12年(1699)岸村夫妻が今博多町と本紙屋町間に架けたアーチ石橋である。この石橋は中島川に架けられた最後の石橋となった。寛永の頃、この辺りに遊女屋があり、世間体をはばかり深編笠で顔を隠して廓通いをしたので、この名が付いたと言われる。本紙屋町は、昔紙漉町(かみすきまち)といって、紙を漉く職人で出来た職人町である。写真左側の松の木の下に漉いた紙を乾燥している風景が見える。昭和57年(1982)の長崎大水害で崩落し、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わった。

■ 確認結果

長崎新聞に本年1月から”龍馬動く”の企画として、長崎大学附属図書館協力「長崎遠めがね 古写真に見る町と人」が掲載されている。
2010年4月25日のシリーズ<14>は、“■中島川と編笠橋■  紙すき職人の姿はっきり”
長崎新聞HPにあり参照。http://www.nagasaki-np.co.jp/press/ryoumaugoku/kikaku6/14.shtml

目録番号:3235「中島川と編笠橋(3)」の古写真で、データベース上の画像解説は上記のとおり。編笠橋を中島川の少し下流の左岸から撮影した作品だろう。
新聞記事では「橋の左の門は、諏訪神社の跡地に移転した天満宮(松森神社)のあとに建てられ、維新後廃寺となった大行寺の門である」となった。データベース上の解説「明治10年(1877)浪の平に移転した大平寺の旧山門」から説明が変わった。そのいきさつは、次にあるようだ。

「長崎くんち関連年表#1(近世編)」を参照。http://voc.hp.infoseek.co.jp/hist/text/hist01.htm
1626 寛永3 丙寅  肥前松浦郡の浪人川上久右衛門光房、今博多町の自宅の側にほこらを建て、天満神を祭る。1630寛永7年、同町中島川畔に仮殿を造営、翌年初めて例祭を執行。1656明暦2年、旧諏方の地に移し、1680延宝8年社殿を改築したが、このころ、社号を松ノ森天神と称した。
1656 明暦2 丙申  8 28 天満宮を今博多町から元諏方の地に移す。1680延宝8年、奉行牛込忠左衛門の命名で松ノ森神社と称す。今博多町の跡地には修験者が住み、1723享保8年、再び天満宮を建て広徳山大行寺と号した。維新後、大行寺は廃寺となり、天満宮のみとなったが、昭和44年4月25日都市計画で、松ノ森神社内に移った。

解説の変更は、以上を調べてわかった。「廣徳山大行寺」は、長崎市史 地誌編佛寺部下第12章廃寺820〜821頁に記録がある。「天保十三年(1842)十二月に本門を再建した」と記す。長崎市史の記録は次のとおり。

第九 廣徳山大行寺
所在  長崎市今博多町弐拾八番地即今の今博多天満宮の地
沿革  寛永三年今博多町に天満天神を祭神とする一社が創立されたが、明暦二年九月拾五日に至り、同社を松の森の地に遷座したので、萬治元年に大行院常学と云ふものがその跡に一草庵を結んだ。これが当寺の起原である。其の後当寺には代々弘才の僧侶が住して経論を講することとなり、之を流法席と称した。安禅院の正覚院もこゝに退院(滞院?)したことがあつた。正徳三年改めて寺となし大行寺と号した。
享保八年八幡町なる修験道般若院の住職映澄 同院三代 と云ふもの大行寺の地を獲て天満宮を建立し、本山 白川聖護院 に請ふて廣徳院大行寺と号した。
文化十年祈祷所を、文政十一年寺坊を、天保十三年十二月に本門を再建した。
明治元年寺院を廃して純一の神社となつた。今の今博多町天満宮が即ち是れである。
境内  百七拾弐坪

同地は現在、区画整理事業後の中島川通りの一部となっている。「宮の下公園」の手前角地あたりである。データベース上の画像解説はすぐ訂正できないのだろうか。すぐ下流の古町橋脇に我が国尺八文化の重要な伝承地、虚無僧止宿所「松壽軒跡」(普化宗)碑がある。ここが「太平寺」跡地のようだ(長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」73頁太平寺の項)。

なお、関連作品の目録番号:2886「中島川と編笠橋(2)」の超高精細画像は、タイトルが以前の「中島川の風景(3)」のまま、間違っていた阿弥陀橋を画像解説している。撮影者は「玉村康三郎」ではないのか。また目録番号:982「中島川と編笠橋(1)」は、超高精細画像のタイトルが「同(2)」となっている。

長崎の古写真考 目録番号:5642 崇福寺竜宮門遠景 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5642 崇福寺竜宮門遠景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5642 崇福寺竜宮門遠景     関連作品 目録番号:6130 同(2)
〔画像解説〕 
大光寺の境内から崇福寺の山門の竜宮門を望んでいる。崇福寺は、寛永19年(1642)に当時在留していた中国・福建出身者が創建した黄檗宗の寺院である。その山門は寛文13年(1673)単層の八脚門形式で建てられたが、嘉永2年(1849)の再建時に今日の竜宮門形式となった。日本人棟梁・大串五郎平の作。石と瓦の練積みに漆喰塗り。重要文化財。

■ 確認結果

長崎新聞を読んでいなかったため知らなかったが、本年1月から”龍馬動く”の企画として、長崎大学附属図書館協力「長崎遠めがね 古写真に見る町と人」が掲載されている。
2010年3月28日のシリーズ<10>は、“■崇福寺竜宮門遠景■  日本人棟梁が建立”
長崎新聞HPにあり参照。http://www.nagasaki-np.co.jp/press/ryoumaugoku/kikaku6/10.shtml

目録番号:5642「崇福寺竜宮門遠景」の古写真で、データベース上の画像解説は上記のとおり。隣りの大光寺境内から撮影された作品だろう。
新聞記事では、「大光寺」が「光寺」となっている。新聞社の間違いと思われる。そのままHPに載せているのはどうだろうか。

崇福寺の竜宮門は、「崇福寺三門(楼門)」の名称により国指定重要文化財となっている。「三門」の意味は、現地説明板のとおりであるので、データベース上とも解説に配慮をお願いしたい。
末尾の写真が現在の大光寺と、同寺鐘楼から見た崇福寺の竜宮門。高いビルが建ち、古写真どおりの景色を写せない。

(追 記)他の用件あり、6月15日長崎新聞社へ電話し、「光寺」は「大光寺」に修正された。HP上だけの入力間違いだった。

長崎外の古写真考 目録番号:1774 京都御所建礼門 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1774 京都御所建礼門 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1774 京都御所建礼門
〔画像解説〕
京都御所建春門と御所東側築地塀を大宮御所前大通より北北西に望む。建春門は向唐破風の堂々とした構えで、築地塀には穴門と呼ばれる出入口が5つ設けられている。地面は現在と異なり小砂利が敷かれず、雑草が生え、小石が転がっている。男性2人が牽く荷車には藁袋が積まれている。内田九一撮影。

目録番号:1503 京都御所建春門
〔画像解説〕
建春門を東南東から西北西の方角を向いて撮影している。京都御所を取り囲む築地塀の東側、南端近くに位置する。もともとは日御門(ひのごもん)と呼ばれ、内侍所(ないししょ)への通路とされた。安政期(1853〜59)の改修時には建春門と呼ばれたことがわかっている。檜皮葺(ひわだぶき)、向唐破風(むかいからはふ)の屋根を備えた最も豪華な門である。現在は皇后が入る門とされているが、これは近年の風習である。門の前には木柵があり、その左右に樹木が植えられている。5人写っている人物のうち、樹木のそばに立つ左右二人の人物は帽子、ズボン、靴などの洋装から見て御所警護の官吏と思われる。他の三人は、着物、はんてんなど和装である。門の内側に、屋根が檜皮葺、瓦葺きなどいくつかの建物が見えるが、現在この位置に建物はない。また、築地塀の後ろから、現在では背の高い松の木が何本も姿をのぞかせているが、この写真には樹木の姿は見えない。

目録番号:6549 京都御所

■ 確認結果

京都御所の内門を撮影した3作品。いずれも同じ門で、向唐破風の屋根を持つ四脚門「建春門」である。
京都御所には内講を固める6つの門があり、位置図のとおり天皇が通る南面正門の「建礼門」と、皇后・皇太子・外国元首などが通る東面の「建春門」は別である。

目録番号:1774「京都御所建礼門」は、画像解説で「建春門」を説明しながら、タイトルが「建礼門」となっているのはどうしたことだろうか。
同作品は、内田九一が大阪で開業した現内田写真株式会社所蔵写真。2010年1月に東京ウォーカーで開催された「貴重な写真約130点を展示!坂本龍馬と幕末を知る写真展」に展示され、タイトルは「西京御所建春門」となっている。
この項は次を参照。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo05.html

京都御所の「建礼門」は最後の写真どおり、まったく門構えが違う(HP「きょうの京都」2007.05.11記事から)。

長崎の西空の夕日  10−07

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長崎の西空の夕日  10−07

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 2  平成22年 5月 5日の19時08分頃
写真  3〜 4  平成22年 5月 7日の19時23分頃
写真  5〜 6  平成22年 5月13日の19時04分頃
写真  7〜 8  平成22年 5月14日の19時07分頃 7枚目かすかに五島列島
写真  9〜10  平成22年 5月15日の18時50分頃
写真 11〜12  平成22年 5月16日の19時12分頃 団地入口付近みさき道歩き帰り
写真 13〜14  平成22年 5月21日の18時54分頃

長崎の古写真考 目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

■ 確認結果

目録番号:6063「大浦川中流域から東山手を望む」は上野彦馬撮影。画像解説がない。タイトルもこれで仕方ないだろう。長崎大学附属図書館企画編集「長崎大学コレクション 明治七年の古写真集」長崎文献社2007年刊44頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

34 大浦川中流域から東山手を望む  271×207 
南山手26番付近から大浦および東山手の居留地を展望している。手前の大浦川左岸には空き地が目立つ。東山手の丘には唯一12番のアメリカ領事館がみえる。手前大浦川を挟んだ対岸は角から右に29番(H・ホー商会)、左には15、14番(外国人のバー)の邸宅である。建物は和風擬洋式で、コロニアルなベランダが特徴的である。

次に説明する古写真が、長崎大学附属図書館に所蔵がないのか、データベース上で見当たらないため、同じ通りを写したこの目録番号:6063の作品を借りて説明する。
朝日新聞社「写真集 ”甦る幕末” オランダに保存されていた800枚の写真から」1986年刊の巻頭「風景いまむかし」9頁に掲載されている作品。
「幕末の外国人の目に映った日本の美しい風景のなかから、12の地点をより選って(選りすぐって?)、今日の姿を同じアングルで”定点観測”してみた」そうである。

2枚目の対比写真がそれ。右の現在の写真は、松が枝橋脇の長崎市営駐車場がまだ見当たらないので、中華料理店四海楼の階上から撮影されたのか、「大浦海岸通り」を写している。
古写真と対比するとこの国道通りが、古写真右側のまっすぐ広い通りのように感じられるが、右側の通りは大浦海岸通りでない。
東山手突き当たり高台に、12番アメリカ領事館が見えるとおり、現在、NTT長崎病院と孔子廟前の通りである。大浦海岸通りから奥へ4番目の通りとなる。

古写真の撮影場所は、長崎大学の「明治七年の古写真集」では、「南山手26番付近から」と解説している。一帯は高いビルが建ち、この通りや大浦海岸通り、長崎港奥が見えなくなっている。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1931
https://misakimichi.com/archives/2176

この通りがまっすぐに古写真どおり写せるのは、妙行寺先の「南山手26番」前付近になるのは間違いないが、南山手地区町並み保存センターに展示している大浦居留地模型から判断すると、「南山手26番」よりまだ少し先の道あたりになるようである。
背景の山は金比羅山と右奥に帆場岳(三ツ山)。現在、現地では孔子廟前の通りが見えないため、南山手レストハウスへ登る途中のコーポ吉野からと、レストハウス上のグラバースカイロード展望台高台からこの通りを確認した。

ところで、朝日新聞社「写真集 ”甦る幕末”」。9頁の左側古写真は、少し上へずらすと山の稜線など合い、まともな組写真となるはず。撮影場所は「松が枝橋付近」からではない。解説の「長崎・現在の南山手」は、「南山手から大浦居留地を望む」が正しいだろう。
同じ景色を現在、簡単に写せない事情はわかるが、権威ある写真集の巻頭写真の編集として粗雑。撮影場所の誤解が生じないようお願いしたい。