長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6042 大浦川沿いの居留地 ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点についてこれまで5記事とした。以下は、本ブログによりすでに指摘している目録番号の古写真が多く、詳しい説明を省略し、疑問の要点のみを述べる。
古写真コレクションは昨年7月、国登録有形文化財となった。こういった内容の出版物が企画・編集され、まだそのまま一般に市販されているのは、誤解を生み問題があろう。
長崎大学関係者によって、現地確認のうえ早急なデータベースの整備をお願いしたい。
写真集 38頁 29 大浦川沿いの居留地 273×214
■ 確認結果
目録番号:6042 次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1876
「大浦川沿いを上流(現北大浦小学校下)の斜面から撮影している」としているが、大浦川がこの向きとなり、撮影場所の高度が高いから、もう少し上となるドンの山の中腹、上大浦小学校跡のグランド角あたりから撮影しているものと思われる。
グランドは北大浦小学校の運動場となっていたが、同校は新設の大浦小学校に統廃合されている。
写真集 44頁 34 大浦川中流域から東山手を望む 271×207
■ 確認結果
目録番号:6063 次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1931
「南山手26番付近から大浦および東山手の居留地を展望している」としている。右端の通り、正面上に東山手12番館がきて、孔子廟前通りがまっすぐとなるのは、妙行寺先の「南山手26番」前あたりから撮影されたのは間違いないようだが、同じ通りの向きを変えた目録番号:4806「南山手からの大浦居留地(4)」と目録番号:6148「東山手の画像」があり、3作品とも現地再確認をお願いしたい。
写真集 51頁 40 小島からの長崎医学校と唐人屋敷 275×214
■ 確認結果
目録番号:6066 次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1607
「小島から長崎医学校と唐人屋敷越しに長崎港を遠望している」としているが、唐人屋敷は長崎医学校の下にあり、写真には写っていない。撮影場所も「小島から」では具体的でない。初めて見た古写真のため、撮影場所は後日調査したい。
写っているのは、丸山から大浦中へ出る道路であり、道路を正面に望む中小島2丁目の高台からと思われる。梅香崎橋が医学校のすぐ左上に覗く場所となる。
写真集 52頁 41 稲佐のロシア人居留地桟橋 270×209
■ 確認結果
目録番号:6045 次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2151
「長崎港湾奥の西岸に稲佐地区が半島のように突き出ていた」ほどはない。「この半島の付け根にはロシア人の居留地があった。この写真はその上陸桟橋である」。志賀の波止の写真と思われる。上陸桟橋は場所が違うのではないだろうか。「稲佐風土記」著者・長崎日ロ協会会長松竹先生へ確認していただきたい。対岸「右に出島」までは写っていないと思われる。
写真集 53頁 42 稲佐の岬 267×215
■ 確認結果
目録番号:6094 次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1872
「明治26年(1893)11月に稲佐のお栄(道永えい)がこの丘の上にロシア人相手の「ホテル・ヴェスナー(春)」を建てた。船着き場はそれ以後「お栄の桟橋」と呼ばれる」。「お栄の桟橋」と呼ばれるのは、この稲佐崎の反対側の突端にあったようであり、この写真の場所ではない。