長崎の古写真考 目録番号:6044 飽ノ浦神社 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6044 飽ノ浦神社 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。

この写真集の解説の疑問点についてこれまで5記事とした。以下は、本ブログによりすでに指摘している目録番号の古写真が多く、詳しい説明を省略し、疑問の要点のみを述べる。
古写真コレクションは昨年7月、国登録有形文化財となった。こういった内容の出版物が企画・編集され、まだそのまま一般に市販されているのは、誤解を生み問題があろう。
長崎大学関係者によって、現地確認のうえ早急なデータベースの整備をお願いしたい。

写真集 55頁  45 飽ノ浦神社  279×218
■ 確認結果
目録番号:6044  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589 
「稲佐の飽ノ浦神社の境内越し長崎港を遠望している」は、飽ノ浦も渕村だったが稲佐とはならない。「左は飽ノ浦の集落とその先の岬り向こうに長崎造船局が見える」は、神社の左は水の浦と今は三菱電機となっている大鳥崎であり、左右をまったく間違って説明している。
目録番号:1694 に「同じ作品が上野彦馬アルバムに所蔵されている」と説明しているのが、この作品だろう。

写真集 56頁  46 ねずみ島から見た長崎湾口  278×217
■ 確認結果
目録番号:6047  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1923
タイトルの「長崎湾口」、解説文の「長崎港口」はふつう女神あたりを言うのでまぎらわしい。ねずみ島から湾外、港外を向いて撮影している。「後方右の半島は神ノ島さらに後方は伊王島」ではない。右は小瀬戸で、左が神ノ島。海峡の後方は福田崎である。この方向で「左には高鉾島の端」は写らない。前記の神ノ島を間違っている。

写真集 56頁  47 高 鉾 島  282×210
■ 確認結果
目録番号:6040  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1916
高鉾島を「長崎市街の対岸にあたる稲佐側の神ノ島から写したものである」としているが、神ノ島ではなく、ねずみ島から撮影している。高鉾島の後方に細長く香焼島が写り、右側は神ノ島の現在マリア像が立つ岩礁が手前に写り、後方は伊王島である。

写真集 57頁  48 高鉾島と貨物船  273×217
■ 確認結果
目録番号:6046  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1916
「神ノ島から撮影された高鉾島」としているが、前の「47 高鉾島」の写真と見比べてもらいたい。高鉾島の形はまったく同じ。後方は香焼島なのである。したがって神ノ島からでなく、ねずみ島の海岸を高鉾島に少し近寄って撮影していることがわかるだろう。

写真集 60頁  51 海上からの出島パノラマ組写真(1)  272×208
写真集 61頁  52 海上からの出島パノラマ組写真(2)  271×212
写真集 62頁  53 海上からの出島パノラマ組写真(3)  277×212
■ 確認結果
目録番号:6075〜6077 次記事を参照。https://misakimichi.com/archives/1924
51〜53は3枚組。解説文中に撮影場所の説明はないが、タイトルに「海上から見た出島」としている。当時の写真機と写真術で船上から撮影できただろうか。なにも海上からではなく、大浦海岸通りの梅香崎側に突堤(運上所跡で最初の長崎税関前波止場)があり、そこから出島や新大橋をこのように撮影できたと思われる。