長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) 関連作品: 545 同(1)、 694 同(2)、3238 同(5)
目録番号:1208 飽の浦からの長崎港(4) 関連作品:3239 同(6)
目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港
目録番号:4632 飽の浦からの長崎港(7)
目録番号:1694 長崎稲佐海岸(2) 関連作品: 546 飽の浦恵美須神社(2)
■ 確認結果
目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」は、長崎港を望む海岸の高台。2人の人物が松の木の根元に座って憩う。古写真集にほとんど出てくる風景。南山手や浪の平の居留地が前面に見える。
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成7年刊の37頁に同じ写真が載せられ、「図版解説」による説明は次のとおり。
20 稲佐方面の人物と背後の居留地〔彩色〕 長崎大学附属図書館所蔵
上野彦馬の撮影。水の浦付近の丘の先端で休息する2人の人物を配した写真で、遠くの対岸に南山手と浪ノ平から小菅にかけてが望まれる。右手の近景は石炭置場で、左は恵比寿神社。左端に遠く大浦天主堂がみえる。明治中期頃の撮影であろうか。
この古写真の中央から右へ遠く霞む山は戸町岳と熊ヶ峰。手前の鍋冠山との山の重なりから見ると、飽の浦町の「恵美須神社」近くに間違いない。図版説明のとおり「左は恵比寿神社」とすると、「水の浦付近の丘の先端」とはならないのではないか。
2枚目の目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」は、その場所からの左側続きである。右上に松の先端の枝が写り、左側には市街地と背後に彦山の姿を写している。
また、3枚目の目録番号:5298「飽の浦船着場と長崎港」は、高台の松を良く見てもらいたい。同じ木であろう。
4枚目の目録番号:4632 飽の浦からの長崎港(7)は、1枚目の目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」と同じ写真であるが、「内田九一」の撮影である。
ここまではすぐわかった。2枚目の目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」の左に続く写真があった。それが古写真考の前項でふれた5枚目の目録番号:1694 長崎稲佐海岸(2)である。「恵美須神社」を社殿後ろの右方の高台から撮影している。
古写真の連結写真が、三菱重工(株)長崎造船所史料館(飽の浦町三菱構内)に展示されていた。
したがって、1、2、5枚目の古写真は連結作品で、撮影場所は古写真考の前項で説明したとおり、現在の飽の浦町「菱重興産ビル 第二別館」が建っているあたりの岩場だったところから撮影したものと考えられる。HPや古写真集には、こんな図版解説をしてもらいたい。
連結写真の旧・新を作ってみた(クリック拡大)。新は三菱工場、クレーン、ビルが眺望を遮り、同じ場所から写せないので不揃いとなった。
4枚目の目録番号:4632「飽の浦からの長崎港(7)」は、次のとおり説明している。
「従前、上野彦馬撮影とされていた古写真は、近年、「明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場(海上?)には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田の献納写真に同じものがあり、撮影者が九一であることがわかった」。
この「長崎港の4枚組写真の一枚」の所在を、まだ解しかねている。
最後の写真は、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成7年発行の33頁に掲載されている「16 対岸から居留地を望む」の古写真から、恵美須神社と思われる所の拡大写真。