月別アーカイブ: 2011年8月

轟渓谷大渡橋先上流の沢登り 平成23年8月

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轟渓谷大渡橋先上流の沢登り 平成23年8月

平成23年8月28日(日)快晴。諫早市高来町の轟渓谷大渡橋先上流の沢登り。参加5人。みさき道歩会の例会。21日が大雨のため延期した。。
大渡橋9時30分発ー沢登りー小松尾公園12時20分着(昼食)—山道ー大渡橋14時着(徒歩距離 約3km)

7月10日に大渡橋まで「銀鈴渓自然歩道」を歩いた。きょうはその先の渓谷を小松尾公園まで遡行する。前回の様子は、 https://misakimichi.com/archives/2842
長崎を車1台で8時出発。有喜・長田バイパス経由で轟渓谷へ。「大渡橋」手前の広場に駐車する。前回の昼食岩場まで戻り、9時30分頃から沢へ入る。水量はやや多い。
すぐ大渡橋の下をくぐるが、沢を歩くまでもない。巨木原生林の遊歩道を歩いて、ヒメシャラの大木などを見学した。轟の滝奥地原生林は、 https://misakimichi.com/archives/2486

その先の3段滝の所から本格的な沢登りをした。小松尾公園までは、約1km。渓谷の上流部となるので、沢はなだらか。滝らしい滝もなく、涼を味いながら、ゆっくり2時間ほどで、上流の林道橋に出た。普通は30分コース。途中、右岸側で原生林にあった幹囲1.75m(推定樹齢150年)クラスのヒメシャラ2本が、別に見つかったのは収穫だった。

林道橋は右へ行くと、すぐグリーンロードに出る。小松尾公園に12時20分に着き、13時まで昼食とした。大正元年に植えられた山犬谷200年杉、幹囲2.79mの大木探しに行きたかったが、またとする。そのまま、大渡橋まで山道を下った。「ひめしゃら橋」は流されていた。14時に大渡橋の車へ戻った。

長崎の古写真考 ボードインアルバム: 2 長崎の町と精得館(医学校) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 ボードインアルバム: 2 長崎の町と精得館
(医学校) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ボードインアルバム 見開き: 2 長崎の町と精得館(医学校)【4枚組の①②③④】
ボードインアルバム 見開き: 3 海からの出島【2枚組の①②】
ボードインアルバム  26頁:28 海から見た大浦居留地
ボードインアルバム  29頁:31 飽の浦からの汽船と南山手
ボードインアルバム  37頁:40 金比羅山か
ボードインアルバム  48頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の①②③】
ボードインアルバム  50頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の④⑤⑥】
ボードインアルバム  53頁:51 稲佐山から見た長崎のパノラマ
ボードインアルバム  61頁:54 長崎のパノラマ
ボードインアルバム  64頁:56 高鉾島
ボードインアルバム  68頁:60 中島川の一瀬橋

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」長崎文献社が、最近、2011年6月10日発行されている。
「長崎大学コレクションⅠ 明治七年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社2007年11月9日発行に続く第2集の古写真集。定価(税込み)2940円。

画像解説で理解しにくいところが、第2集にもある。撮影場所の現地確認があまりなされていない。本ブログの「長崎の古写真考」において、疑問点や撮影場所をすでに説明しているので、次の記事を参考とし研究を進めてほしい。

ボードインアルバム 見開き: 2 長崎の町と精得館(医学校)【4枚組の①②③④】
目録番号:6678 長崎のパノラマ(10)
https://misakimichi.com/archives/2817

ボードインアルバム 見開き: 3 海からの出島【2枚組の①②】
目録番号:6196 海からの出島鳥瞰
https://misakimichi.com/archives/2180

ボードインアルバム  26頁:28 海から見た大浦居留地
目録番号:6272 海から見た大浦居留地
https://misakimichi.com/archives/2878

ボードインアルバム  29頁:31 飽の浦からの汽船と南山手
目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3)
https://misakimichi.com/archives/2186

ボードインアルバム  37頁:40 金比羅山か
目録番号:6268 金比羅山
https://misakimichi.com/archives/2271

ボードインアルバム  48頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の①②③】
ボードインアルバム  50頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の④⑤⑥】
目録番号:6199  軍艦入港で緊迫する長崎港
拡大写真がなくわからなかったが、写真集6枚目の②が、目録番号:6272「海から見た大浦居留地」と同じ写真。目録番号:6272 の撮影地は、「出島」からとなっている。
https://misakimichi.com/archives/2878

ボードインアルバム  53頁:51 稲佐山から見た長崎のパノラマ
目録番号:6165 稲佐山から見た長崎鳥瞰
https://misakimichi.com/archives/2804

ボードインアルバム  61頁:54 長崎のパノラマ
目録番号:6158 長崎鳥瞰
https://misakimichi.com/archives/1928

ボードインアルバム  64頁:56 高鉾島
目録番号:6160 高鉾島(46)
https://misakimichi.com/archives/2712

ボードインアルバム  68頁:60 中島川の一瀬橋
目録番号:6162 中島川一の瀬橋(2)
崎陽八景の版画は、「市瀬晴嵐」となっている。

長崎の古写真考 長崎古写真紀行:48 南山手居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真紀行:48 南山手居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎古写真紀行:48 南山手居留地
〔画像解説〕  石炭積み込みの汽船が停泊する長崎港
飽の浦から見た明治中期の長崎港。対岸は鍋冠山山麓の南山手居留地から浪の平町、古河町である。港内には多くの汽船が停泊している。左手前の船には何本ものはしごが掛けられ、大勢の人が、団平船で運んできた石炭を船に積み込んでいる。当時は陸から直接積み込むことができず、海上で石炭を積み込んでいた。
長崎港は、高島炭鉱等で良質の石炭が産出したため、明治期には石炭の補給港としてにぎわった。貿易額では、横浜港の1割以下しかなかったが、汽船の寄港数は横浜の数倍に達していた。

目録番号: 987 飽の浦からの汽船と南山手
〔画像解説〕  超高精細画像
長崎市街地の西岸、飽の浦と立神の中間岩瀬道の身投崎付近から、鍋冠山麓の南山手外国人居留地南限と古河町を写した写真である。年代を特定できる構造物はないが、南山手の居留地の進展状況から、明治10年(1877)代後期から明治20年(1887)代前期の撮影である。長崎港に3艘の大型の船が撮影されている。1艘の船に石炭が積み込まれている。高島炭鉱等で良質の石炭が算出したために、長崎港は明治期には石炭の補給港として賑わった。陸上からの石炭を補給する施設がないために、和船で運んできた石炭を補給している。船の向こうは、南山手居留地の南限であり、大規模な洋館が鮮明に撮影されている。明治後期に造られる、マリア園や現在保存されている建物は見られない。石炭を補給している船の向こうに見えている坂道は、現在のどんどん坂である。写真の左隅に、後にロシア領事館と教会が造られる場所が見える。海岸線は、浪の平町から古河町の日本人住居地域である。

■ 確認結果

目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」が、最近発行された柴多一雄氏(前長崎大学附属図書館長)著「長崎古写真紀行」長崎文献社2011年6月刊118頁に掲載されている。
長崎新聞龍馬が動く関連企画「長崎遠めがね 古写真に見る町と人」をまとめた古写真集。右下に現在の写真を対比させているが、撮影場所がビルに隠れてわかりにくい。

データベース画像解説の「身投岩」の岬とは、現在の長崎市岩瀬道町「三菱重工業(株)長崎造船所本館」が建つところ。古写真の「右下」ではなく、「左下」の岩が「身投岩」のようである。この間に湾入があり、現在は第3ドックができている。浪の平の背後の山は鍋冠山。真ん中に星取山がわずかに覗く。右奥の遠い山は戸町岳である。

「三菱重工業(株)長崎造船所本館」は入構禁止なので、私は現在の写真を正門前から写した。実際の撮影場所は、鍋冠山をもう少し下から見上げているので、本館ビル下、迎賓館「占勝閣」となった先端あたりからではないだろうか。
本ブログの次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1590

なお、目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊62頁にも掲載されている。同解説は次のとおり。撮影年代は「1890年頃」となっている。
85 長崎港 ca.1890 長崎
鎖国時代唯一の外国貿易港は、明治になっても良港として外国船の出入りでにぎわった。この角度では船影がまばらだが、港全体はパノラマ撮影によらなければ写せない。稲佐山側から港内を撮影したもの。

長崎の古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6272 海から見た大浦居留地

■ 確認結果

目録番号:6272「海から見た大浦居留地」が、朝日新聞長崎地域版2011年8月20日付「長崎今昔」(ズーム拡大)に掲載された。
「外国人居留地の一等地、大浦バンド(現・大浦海岸通り)の1865年ごろの姿です。ボードイン博士が、自身が住む出島から撮影しました」と解説している。

撮影地は「出島」の西端あたりからに間違いないだろう。本ブログ2009年7月の次の記事で、状況判断できる近くの長崎水辺の森公園へ行って確認している。
https://misakimichi.com/archives/1870
データベースで不可解なのは、タイトルをなぜ「海から見た」のままとしておくのだろう。海上の船からの撮影ではない。陸地の「出島」から撮影できるのである。

そして、この作品は、これまでのデータベースと一体化されていないが、「超高細精画像」があり、「画像解説」がいつの頃か、数点に作成されている。
別のHP”日本古写真アルバム ボードイン・コレクション”の「幕末アルバム大VOL.3」か、「長崎のパノラマ 文久・慶応年間の長崎」を開き、確認しないとわからない。横断システムといいながら、そう構築されていない。どうやら私は、タイトルから無駄足を踏んだようだ。
ボードインコレクション解説は次のとおり。 

大浦居留地のバンドと呼ばれた海岸側を出島から撮影しています。右手には元治元(1864)年に創建された大浦天主堂が見えています。大浦海岸通りにはこの時期、11番にアメリカ人ファルリーヘルト、10番にフランス人ヒグネトル、9番に同カーイマンス、7、8番にイギリス人オールト、6番に同モルトハイ、5番に同グラバー、4番にオランダ人フワンドルテーキ、3番にアメリカ人ウォーラス、2番にイギリスのジャーディン・マセソン商会、1番にイギリス人ロイスが入居していました。
-6272- 

福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (3)

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福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (3)

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」の発見経過。(1)(2)の記事とも参照。

高橋輝吉氏稿  大島の「FZ」標石を探せ

昭和10年2月、「蓋井島」と「蓋之島」が要塞地に成った。昭和10年10月、「大島」が要塞地に。海軍制度沿革誌に有り。日本築城史にも、下関要塞の中に「大島」の事有り。此んなに早く決まるのかと思い、軍縮の時に…
大島へ行って見た。坂口さん案内にて。私が日本築城史を読んでた事、知りません。何となく解しない事が有った。今一度と思い、船にて一廻りして見た。4本は確認し、陸より行って見た。

船は2回見です。1回目の時、砲台横草原の中に、「←蓋井島」、「←蓋之島」の石2本。写真に撮る。此れが大「ヒント」になった。
此れが「蓋井島」山口新聞の記事、「蓋之島」読売新聞の記事と成った。
https://misakimichi.com/archives/68
https://misakimichi.com/archives/300
此の間、「大島」は2年位休み。

3回目、朝日新聞さんと、大島の「軍道」探しと成る。「陸」と刻んだ石、10本位有ったかなー。「海軍水測計」を朝日新聞さん、写真に撮る。砲台所より、水測は真下に見える。
https://misakimichi.com/archives/2530 (記事は蓋井島)
4回目、朝日新聞さんと、「第三号」地へ行く。坂口さん宅にも、色々な話し有りが、標石の写真なし?
朝日新聞に最近、載ったのは、灯台下の下関要塞第一区地帯標「第五号」です。
https://misakimichi.com/archives/2875

「第五号」と「第三号」の中間位の所に、下部のみの石有り、写真のとおり。「第三号」とサイズは同じ石です。上部なしだが、「第四号」?
此れで大島の「FZ」(Fortified Zoneの略 「要塞化された所」)が解かりました。
壱岐要塞の「小呂島」は、1回行った。平島先生は退職。

福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (2)

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福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (2)

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」の発見経過。(1)(3)の記事とも参照。

高橋輝吉氏稿  神崎の大島灯台下は、「第五号外方100(米)以内」

流人の島、要塞の島が平和な島に。私が思うに昔は、東郷駅近くまで海だったのかなー。満潮時には、潮が上がって来てました。現在は広い、広い田園地帯です。島には農地少なく、出稼ぎの時代もあったが、今は漁の通り道なのか、多くの釣人たちです。

「日露」戦いの後、軍部は重要な島々に、目を向け初めた。「壱岐」、「対馬」はもとより、「下関」一帯の島々にも。大正、昭和になってからは、大島、小呂島にも全部が要塞地となり、砲台、軍事地帯となり(宗像大社は別)、証しとして、砲台、標柱はどこに。
小さい杭柱を、何となく写真に撮った。此れが「ヒント」になった。「←蓋井島」と「←蓋之島」と、印しのある有名な石で、何かを示している。

島の中に要塞地帯を示す石が、灯台より下、海側に有った。下関要塞第一区地帯標「第五号」です。他はどこに。船で2回、右廻り、左廻りにて、「第二号」、「第三号」、「第八号」を発見。
「第一号」は、浅瀬に有ったと、船頭さんの話。島の方には、軍事の地図なし、語りのみ。島の一角、加代に、「流人の生活跡」と示す立札が有った。

福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (1)

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福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」 (1)

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の、標石探しと研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料。
福岡県宗像市「大島」に残る「下関要塞第一区地帯標」の調査について、上記のとおり朝日新聞福岡地域版2011年(平成23年)8月10日付(ズーム拡大)に掲載された。

筑前大島の牧場の中に忽然と現れる砲台跡。草原のなか展望公園として整備されている。
現在の写真は、廃墟&近代化遺産(牧場の砲台跡):響とバイクと山遊び:So-netブログの記事参照。  http://hibiki15.blog.so-net.ne.jp/2007-05-06

流人の生活跡 (大島の現地説明板から)
江戸時代の約300年間、ここ加代は福岡藩の流刑場とされた。多くの流人は、自給自足の生活で、幕末には勤皇志士も多数流されてきた。勝 四郎、月形洗蔵、日高四郎らは有名人である。昔は白砂、青松の地であった。

大島砲台  (日本築城史 下関要塞179頁)
福岡県玄海村草崎の北西6キロ、玄界灘と響灘の中間に浮ぶ周囲約13キロ(長さ4.5キロ、巾3.3キロ)の島が大島である。大島砲台は昭和10(1935)年5月着工、同11年11月竣工した。島の北岸岩瀬部落の南西約700メートル、標高120メートルの地域に、45口径15センチカノン砲4門の砲座を構築したものである。岩瀬より軍道を通じた。火砲の首線はNW10度、射界は180度で、玄界灘・響灘方面を射撃する。鉄筋コンクリート地下砲側庫を有し、99式電気式観測所は、砲台背後の独立標高132メートルの地下に構築した。電灯所は砲座の北西約200メートル、二股瀬鼻の南方、標高90メートルに設け、可搬式150センチ射光機を備えた。火薬庫・弾丸庫その他の木造付属建物を配置した。海底線は蓋井島砲台経由で下関要塞司令部と直通した。なお、壱岐要塞小呂島砲台(大島の西方36キロ)と海底線で連絡した。
本工事関係者は築城郡下関出長所長兼工事主任官工兵少佐大河原鉄之助、同じく工兵大尉友末昇、現場監督軍曹広瀬忠治、陸軍技手三上菊雄であった。

ニュータウン? 長崎市南部のXXX団地

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ニュータウン? 長崎市南部のXXX団地

長崎市南部のわが団地。総1007区画。昭和56年(1981)入居が始まる前の写真。ちょうど
30年となった。事業者・売主の当時のパンフレットから。

この航空写真は、「みさき道」がよくわかるように写っています。このあたりの萬延元年(1860)彩色古絵図を、「江戸期のみさき道(往路後半)」の項に載せていますから参照ください。