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琴海の主な史跡など (3)  琴海形上町・琴海大平町・琴海尾戸町

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琴海の主な史跡など (3)  琴海形上町・琴海大平町・琴海尾戸町

琴海の主な史跡などの説明は、琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の1076頁以降「第五章 史跡史話」などから抜すい。

写真  1〜 4   1 琴海のカネコシダ群落  (琴海形上町)

県指定天然記念物。「大子」バス停手前の大子橋から県民の森へ通じる車道を上がる。かなり登って楠原公民館を過ぎ、琴海町防犯灯NO.8からの右斜めの旧道へ入る。トタン小屋と奥に廃家あり。ここが以前の尾崎宅。川を渡った谷間の斜面が群落指定地。説明板がある。
(長崎県の文化財HPから)
琴海のカネコシダ群落  県指定天然記念物
指定年月日:昭和58年8月30日  所在地:長崎市琴海形上町
中の川内楠原の尾崎氏宅に隣接した町有の細道に沿って、延長およそ100m、高さ20〜30mの急斜面にウラジロと混生した大群落である。カネコシダは、ウラジロ科ウラジロ属の植物で、正月に用いるウラジロに似ているが、葉の裏が白くないことなどが特徴。日本では、明治37年に佐賀県黒髪山で発見され、牧野富太郎が新種として、学名とカネコシダの和名を付けた。本県では千葉常三郎が昭和10年頃、西彼町亀岳で小さい産地を発見、現在では西彼杵半島内に数か所小さい産地が見つかっているが、ここは指定地(2,875㎡)も大きく、町が公有化し保護している。

写真  5〜 7   2 旧明治県道の一里標  (琴海形上町)

形上近く「大子小浦」バス停から小川沿いに右に入る。「株式会社平田形上工場」の裏側へ回る小道が旧明治県道。石祠を過ぎしばらく行くと、内山宅入口先の草の茂みの中に折れた標石がある。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2865
(町史 590頁) 交通の発達から
⑪形上地区  現在の「吉野浦」バス停から県道は海岸沿いに迂回していた。そこには衆議院議員中村不二男の豪邸があった。それを過ぎると大子との界をなす形上の内山家、この内山家の所に楠の木と藤の木があった。ここは夏の憩い場であり、その下に一里塚の標柱が立っていた。
高さ1mほどの角柱「正面の下部に”長崎縣”、右側面の上部に”長崎へ八里”、左側面上部に”面高へ七里”」とあった。現在は露出部45cmが残って、正面の”長崎縣”のみが現存、左右は”里”のみを残し、上半分は折れている。思えば18cmの角柱、約1mの標柱であった。…

写真  8〜11   3 形上小学校跡  (琴海形上町)

「形上」バス停から形上保育園の方へ入る。形上公民館後ろの迫宅が、「形上尋常小学校」の跡地。当時の校門?が残るが、庭にあった町史に記す明治31年建「学碑」は、近年、近くの形上小学校校庭へ移されていた。形上小学校は平成18年、創立100周年を迎えている。
(町史 1104頁)
筆者(町史の執筆者山口博氏)の記憶に残る戦前の当地は、草茫々の広場、時々活動写真が催される所であった。敷地は80×50mくらい。今、民有地となった当地を訪ねると、明治三十一年建立の学碑が建って365個の漢字で学校創立事情を語る。それによると当地に学校が竣工したのは明治29年10月、景観宜しき地に、地元民の熱意により起工した旨を記すが、それ以前については、「形上学校は民屋を借ること殆んどニ十年」と記すのみで、その始まりについては触れていない。… 

写真 12      4 山 神  (琴海形上町)

「形上」バス停から形上公民館と形上保育所との間の坂の車道を上がる途中にある。
(町史 1104頁)
150年ほどの年輪を思わせる楠、クチナシ、榊が境内を蔽う中に、15×15mの平地が開かれ、奥まった所にトタン葺きの覆い堂あり、そばの石灯籠礎石には「形上村氏子中」と記される。正月、11月16日には賑やかな祭りが行われた。覆い堂の中には、台石とも高さ1mほどの入母屋式妻入り石祠がある。当町の石祠は多く明治に成るもので入母屋式屋根の平入り石室、台石、基礎の三部から成るのを常とする。しかし、当地の山神祠堂のみが、入母屋式妻入り石祠があることは銘記されてよい。

写真 13〜18   5 城の辻(舞岳城跡)  (琴海形上町)

「形上」バス停から形上公民館と形上保育所との間の坂の車道を上がりきった広い交差点に、「舞岳城跡」の案内標識がある。道は狭いが車はまだ上まで行く。終点から城跡の山頂まで遊歩道を5分登る。
(町史 1102〜1103頁)
『郷村記』に、「舞岳の古城。荘屋門前より亥(北北西)の方五町余の処にあり高さ麓より登りニ町三〇間。頂上東西一ニ間南北一町今は野畠なり。乾(北西)の方石垣築立、腰郭の形あり、艮(東北)の方絶壁、巽(南東)の方石垣あり、南の方大手と見へたり。元禄の記に、此城相川知仙と云者籠り、喜々津主殿と云者と迫合、右時代取合の様子不分明と云々」。以上の『郷村記』どおり、山頂の標高126mの所に石垣、腰郭が現存する。江戸期に至って廃城となり、毘沙門天王が祀られる。当神は仏教守護の四天王の一の武神とされるところからみると、山城時代から祀られたのかもしれない。

しかし、当祠堂は江戸期のもので高さ75cm、屋根1m×50cmの切妻造り平入り石祠。中に高さ20cm、幅10cmほどの金銅像あり、右手に槍、左手に宝珠を捧げる武装忿怒形で岩座の上に直立する。側に「宝暦九年五月、奉寄進石灯籠、願主中村定右衛門」とあり、宝暦9(1759)年前後の石祠ではあるまいか。鎮座地は10mを一辺とする三角形で、30cmほどの落差で広い境域となり南へ70mほど延びる。11月18日ともなれば、形上郷中の祭りとなり、砂を載せた牛を引き、牛の安全を祈願したもの。牛と毘沙門天の関係は明白でないが、毘沙門天は武神のほか、郷中の氏神となるなど、造立目的は多岐であり、当毘沙門天は郷中守護の神として祀られ、人間のみでなく、生業に必要な牛の守護神としても崇拝されたのではあるまいか。現例祭は12月18日。

写真 19〜20   6 谷頭の山神と稲荷さん  (琴海大平町)

形上交差点から右折、尾戸半島のつけ根「大平橋」まで行く。北から小川が流れ左へ曲がると、上流に「江ノ平 大平公民館」がある。公民館すぐ裏手の急なコンクリート道を車で登ると、一番上のビニールハウスに出る。ハウスの右上に山神の石祠が見える。
谷頭は西側の谷。遠回りで山道が荒れてわかりにくい。昔(昭和25年か?)、祠を谷頭から移転したと聞く。「江ノ平の山神」というべきだろう。
(町史 1094頁)
『郷村記』に「谷頭、山神、所中祭之、例祭正月九日、十一月十六日、石祠、木鳥居壱、境内四畝」。境内入り口の両脇に巨大な白樫が立ち、根元から10本ほどの巨幹が分枝して神の依代となり、巨岩盤座を背に鎮座する。現在の石祠は昭和25年、前田藤吉建立、眼病の御願成就に奉献したとものという。隣って、高さ120cmほどの稲荷大明神が巨岩、山桃の木を背に鎮座する。両祠とも入母屋平入りの石室である。

写真 21〜23   7 尾戸又兵衛のデジマノキ  (琴海尾戸町)

尾戸半島の南端の方。ぺニシシュラオーナーズGC入口を過ぎ、終点小口港1つ手前「又兵衛」バス停まで行く。左へ下ると3軒の家があり、先の岳本宅入口石垣上にデジマノキが立つ。幹囲1.4m、樹高8mほど。岳本氏は住んで140年となる。その前から生えていたと話す。出島にしかないといわれる木が、ここにもあった。最後の写真は、又兵衛下の海岸「塩垂島」。
長崎市・出島資料館の側にそびえているデジマノキは、歴史ある大木で県天然記念物。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/383
(琴海文化センター展示「琴海エリア」資料から)
出島の木  幕末の頃、オランダ人がジャカルタにあったナンヨウスギ科常緑高木、学名アガチスハルマを出島に移植したもので、出島の木といわれている。

琴海の主な史跡など (2)  琴海戸根原町・長浦町

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琴海の主な史跡など (2)  琴海戸根原町・長浦町

琴海の主な史跡などの説明は、琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の1076頁以降「第五章 史跡史話」などから抜すい。

写真  1〜 2   1 神上墓地のクロガネモチ  (琴海戸根原町)

「自証寺前」バス停少し先の墓地。国道から左坂道を上がる。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/451
(町史 1123頁)
当町内の墓地で平地に建つのは、当墓地のみではあるまいか。樹齢数百年を思わせるシラ木、空洞化しながらも、なお夏には緑陰を作って、祖霊を安住させるが如くに立ち続ける。日本人の考えでは33年忌が済むと、祖神となるという。祖神の依代として、シラ木が立つ当平地が選ばれたのであろうか。新旧型の墓石が混じて約150基、寛永4(1792)年、天保2(1831)年の頭頂櫛形の古墓石が見いだされる。

写真  3〜 5   2 土井ノ浦海岸のアコウ  (琴海戸根原町)

戸根か長浦から、パサージュ琴海アイランドGCの方へ向かう。半島東側の入江が土井ノ浦海岸で、公園として整備され、外海町から移植されたアコウ記念樹がある。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/449
(現地説明板)
琴海町のアコウ樹
アコウは、アコギまたはアコノキなどいわれるクワ科の常緑高木です。イチジクのような小果を結びわが国では九州、四国、本州の暖地に分布します。県内では本土の沿岸暖地や五島・平戸・壱岐・鷹島等のキリスト教信者の多い島に多く大木を見ることができます。亜熱帯植物で奇観を呈することが多いですが、琴海町のアコウ樹は県内でも一級の巨樹の部類に入ります。大きさは根回り6.5メートル、胸高幹回り4.8メートル、高さが10.4メートルとなっています。このアコウは護岸整備竣工の記念樹として外海町から移植したものです。

写真  6〜10   3 小崎の城  (琴海戸根原町)

国道から東方に見え、パサージュ琴海アイランドGC道路へ入る。その途中にあって、現在は「琴海中央公園」として整備されている。城跡は展望台西側の高地。
(町史 1124頁)
土井の浦にあって、海を背に、前面を戸根原川に臨む要塞地。戸根原川と山城間に開かれた水田は、江戸期開拓の新田であり、中世末期までは、葦茂る浜辺であったと考えられる。当城を『郷村記』にみると、「高さ平地より壱町(109m)程、四方深谷、北の方絶壁なり。頂上平地あり、七間方(13m四方)程野地なり、西の方に少しの平地あり。其の間に堀切の形残れり、東北の間海なり、城主築立由緒不知」とある。土地の人は「こじょうじ城」と呼ぶ。古城の地跡の意であろう。

写真 11〜13   4 神上の山神  (琴海戸根原町)

国道からパサージュ琴海アイランドGC道路の反対側へ入る。河内川に沿った車道を行くと、上流に「山の神橋」あり。その手前が神社である。
(町史 1122〜1123頁)
戸根原川上流の河内川南側、大岩石の中に鎮座する山神で、『郷村記』に載る古社である。同伴の西浦春次が「こりゃ、ええ所におらるざい」と思わず口ばしる。筆者(町史の執筆者山口博氏)も当町内で数か所の山神、畿内では数多く訪ねたが、巨大な石鳥居、常夜灯の立つ山神は初めてである。境内は奥行き30m、幅2m、向かって右に川、左に巨岩聳立、境内は全て石畳を思わせる岩盤、奥まった所にニ祠あって、いずれも入母屋平入り、一は台石とも80cm、奥まった所に建つ小祠は30cm、石室に「三千万山之神」と記してある。神酒、マガリが供えられてある所は当社のみ。供え物については、山神の概説の項で述べたが、山を支配する山神の鎮座地として、これほどの格好の地は全国的にも珍しい。

写真 14〜15   5 長浦橋  (長浦町)

「長浦」バス停から手崎川へ向かい、旧県道の道へ入る。手崎川に昭和4年3月竣工の「長浦橋」。次に古い橋は、琴海形上町の四戸川に昭和6年5月竣工の「四戸川橋」(写真16)。
(町史 589頁) 交通の発達から
⑦長浦地区  旧県道は戸根原から直進して国道を横切り、長浦川を直角に渡る。この橋は現存する琴海町最古の橋で、長さ6m50、幅4m、昭和4年3月架橋。鉄棒を芯棒にセメントで包み固め、ランカンも中柱で空間をつくることなく、全部がセメント塗り、高さ30cmで扇子形をなしている。昭和4年ころの道幅を示す橋としても大切な橋といえよう。… 

写真 17〜19   6 「萩原峠越え」の古道標  (長浦町)

長浦バス停から手崎川へ向かい、左右岸の車道を1kmほど上流に行く。手崎川が角々に曲ったあたりに坂本宅がある。坂本宅入口と橋の間の右石垣上に古道標が立つ。
幅15cmほどの角柱、高さ50cm。正面「右 かめのうら かたがみ 道」、左面「左 山 道」、右面に「明治八年 乙亥十一月 施主 佐木喜代作 濱口直左エ門 小林辰蔵 溝口共吉」?と刻む。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2866
(町史 148〜151頁) 往還道から
…大子から手崎へは無人地帯の山系を通った。「さやの首」と呼ばれる所に「籠立石」があって、現国道から2kmの西側山中に位置する。いよいよ萩原峠越えとなる。鬱蒼たる山中道は、約200mで手崎農道に出た。楠原や長浦岳が展望されて急に天地が開けた。農道は旧道の石垣を残して拡幅されており、東へ300m歩くと、ミカン収納庫がある。農道を離れて山中へ分け入ると、古道の面影を盛り土道に残している。横断する農道を3つほど横切り、畑中の古道を駆け下ってようやく手崎川に出た。これが「萩原峠越え」である。…

写真 20〜22   7 三社大神のヤマモモ・ホルトノキ  (長浦町)

長浦バス停を過ぎ、国道がカーブする所の上に歩道橋が渡る。手前から右方の狭い車道を登り左の道に入ると、三社大神宮の鳥居前へ出る。社殿周りの森には巨木が林立している。
板根になったホルトノキの大木もある。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/452
(町史 1114頁)
明治八年神社調帳では、「三社大神、建立年代不詳、社地六畝一八歩、境内・末社山神、祭神大山祗命」とあり、『郷村記』も同様記事を載せる。明治9年長浦村社に列せられ、戦時中には小学校全員が挙って参拝した思い出がある。旧長浦村内神社五社のうち、創建年代不詳と記されるのは当社のみ。鳥居3基の第1鳥居は明和元(1764)年建立。
社地に入ると、平地ではあるが社地広大、緑の巨木鬱蒼と茂り、長年月の間神域として崇拝されてきた歴史を物語る。中でも社域入り口のヤマモモの木は、樹齢数百年を思わせ、洞穴の直径2m余。これを神の依代として、天文8(1539)年に三社大神を祀ったのに始まる。…

写真 23      8 真珠養殖  (長浦町)

形上湾内で見られる真珠養殖所と海面の浮玉。写真は小島が浦手前の長浦町深江真珠。
大村湾の天然真珠は「肥前風土記」から表れる。大村藩時代は、藩の直営産物とし、一般人の採取を禁じていた。
(町史 1039頁)
…大正七年『村松村誌』は、「九、特産」で真珠について次のように記す。
本村ノ浦内ハ波穏ヤカニシテ、海底ノ傾斜徐ニナルガ故ニ、真珠貝ノ棲息ヲ易カラシメ、其他砂礫ノ状態温度亦繁殖ニ適スルアリ。其産格ニ於テ其品質ニ於テ夙ニ名声アリ。県当局ニ於テモ其養殖ニ最モ適所ナルヲ認メ、数回試殖ヲナセシモ、其結果非常ニ良好ナリキ。現今数区ニ分チ、個人ノ経営スルトコロトナリ、天然養殖ノ外、人工養殖ノ方法ヲ案出シ、独特ノ技術ヲ施シ、其成績ハ頗ル良好ニシテ品質優秀殆ンド天然物ト識別スル能ハス、実ニ洋々タル前途ヲ有ス。
村松村の西村真珠養殖所と、楠木真珠養殖所は大正二年創業。大村湾、長崎県真円真珠養殖の草分け的存在であった。…

琴海の主な史跡など (1)  西海町・琴海村松町・琴海戸根町

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琴海の主な史跡など (1)  西海町・琴海村松町・琴海戸根町

琴海の主な史跡などの説明は、琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の1076頁以降「第五章 史跡史話」などから抜すい。

写真  1〜 2   1 石切り場  (西海町)

国道206号が、新長崎漁港方面へ分岐する「西海交差点」あたりで岩山が見える。
(町史 1148〜1149頁
西海川に沿う国道筋を通ると、西側間近に、片側が削られて聳立する大山が眼前に迫る。当地を谷門と字名し、当山を谷門岳と呼ぶ。良質の安山岩を産し、業者は組合を作って石材採取する。その始まりは明和年間(1760年代)、千綿村石工太之助なる者が、両親の菩提石を尋ね歩く間に、当地の石材に着目採取したとの、孝行美談説で開花する。寛政10年(1798)に、大村藩家臣が御用石を切り出してから、藩の御用石場指定となった。

民間人による開発は、場所を異にして天保年間(1830年代)、千綿村石工により始まった。弘化年中の大村藩・長崎屋敷の地伏盤石には、この西海石が使われる。明治に至り、民間業者への払い下げとなった。毘沙門天王への石段が、大正3年の石工35名による献納を思うとき、その盛期を窺うことができよう。石材採取も杭打ち、叩き出しからハッパ、削岩機へ、手工研磨から自動研磨機へ。石船から馬車、自動車輸送となり、現在は墓石、踏み石として、販路を県内外に広げている(『彼杵半島の史蹟めぐり』参照。岩下菊治氏から懇篤な教示を受けた)。

写真  3〜 4   2 村松村古城  (琴海村松町)

村松バス停先から左折、村松川沿いに上流へ行く。「城の尾橋」手前左上が城跡。
(町史 1142頁)
「村松村荘屋より西方、後川内と云ふ処にあり、元禄の記に曰く、高さ六十五間、麓より五十八間の処に引廻しの石垣あり、長さ六十五間、高さ四尺、石垣の内にニ間半の武者走りあり、此処南の方に長さ四間ニ尺の石垣あり、頂上は竪十二間横六間程の平地あり、水の手葛山川流あり、西より北東まで城下大構の如く相見る、由緒・時代不知」(『郷村記』)。
筆者(町史の執筆者山口博氏)の山城研究も15年ほどになるが、村松城は恵まれた地形を利した点で典型的山城である。東を大手門とし、背面と北側は桂山・大石岳の滴り水を集め流れる村松川に囲繞(いにょう)され、標高50mほどの独立山嶺をなす。城下支配の絶好の地形、山城というより、丘城の感が深い。

写真  5〜 6   3 猪垣跡  (琴海村松町)

「城の尾橋」から琴海戸根町境の車道を登って行き、中腹の集落上で見かけた。入口標柱には「1740年施工」。西海市中浦北郷に残る県指定史跡「西彼杵郡半島猪垣基点」の標石には、「享保七寅年」(1722年)の文字が刻まれている。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2394

写真  7〜 8   4 寺 島(現在は「詩島(うたしま)」という)  (琴海戸根町)

オーシャンパレスGCの方へ行き、その先の脇崎集落波止場から正面に見える。
(町史 1133頁)
「浦沖十町程の所にあり、周廻四町九間、四面荒磯なり。嶋中小松間原に生し、其風景大によし」(『郷村記』)。現在は著名歌手さだまさしの別荘地となり、週刊誌などを賑わしたこともある。寺島なる名称は「聖教寺院の跡から起これるもの、沿岸陸地に古寺口なる字地あり」と里人は語る。寺島の名にふさわしく、現地は大宰府天満宮が勧請しある由。

写真  9〜10   5 阿蘇神社のケヤキ  (琴海戸根町)

国道中央幼稚園の後方に神社はある。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/448
(町史 1129頁)  
…健磐龍命は熊本県阿蘇神社の祭神で、降雨の神、護国救民の神として信仰される。神殿は流れ造りで拝殿に続き、拝殿は三間×三間の18畳敷き。境内地は東西35m、南北12m、その周囲は雑木林で囲まれ、殊に50の石段の両脇の雑木、その中に交じる高さ40mの巨大な欅(けやき)は、神木として、神社に一層の景観を添える。

写真 11〜12   6 庭に巨石ある民家  (琴海戸根町)

国道中央幼稚園から左折、100mほど行って田んぼの右手の民家。斜めから見ると両脇が巨石から囲まれている。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2861
(町史 1152〜1154頁)
高さ、長さ、ともに約6m、幅4mの巨石が庭の一隅にあって、古い民家が建つ。戦中には1斗笊笥(そうけ)10杯分のバッチ(注:方言で干し芋、カンコロのこと)を干したという。ご主人から丁寧なご説明を頂く。「琴海の民家」の1項目を設けて記述したいと思った。全体の民家調査をなし得ず、本書に記載し得なかったことを申し訳なく思っている。他日、県または町文化財指定の機ある時に執筆したい。

写真 13〜14   7 戸根渓谷ヒスイ  (琴海戸根町)

市指定天然記念物。国道中央幼稚園から左折、「ほたるの郷」上流の戸根渓谷らしいが、指定地は明らかにされていない。琴海文化センターの展示史料には「民家の石垣、川底などに10数個の翡翠輝石(原石)が確認されている」とあった。
(長崎市の文化財HPから)
戸根渓谷ヒスイ  市指定天然記念物
指定年月日:平成18年1月4日  所在地:長崎市琴海戸根町2044番地ほか
ヒスイは軟玉、硬玉、様々な種類を含むが、透明で深緑色のものは、古来、東洋では第1級の宝石「翡翠(ひすい)」として珍重されてきた。平成15年(2003)1月に戸根渓谷で発見されたヒスイは、宝石としての価値は低いものの、ヒスイ輝石岩中に石英(せきえい)の含有分が多く、地質学的に大変珍しいものであることから、市の天然記念物に指定された。

写真 15〜18   8 自証寺と五輪塔  (琴海戸根町)

寺名のバス停前。自証寺開基の因とされる大村純忠の娘マリイナ(自証院)の五輪塔が最上段墓地にある。地輪部の右側面に「大村市辻ノ堂墓地ニアル自證院墓所ヨリ分骨シ原型ニ模シテ塔ヲ建立シ以テ当山始祖ノ菩提ニ擬ス 平成二年七月吉日 本住山廿七世日恒」と記す。
寺入口に樹齢250年を越えるというイチョウの大木2本。
(町史 1125〜1127頁)
「本経寺末・日蓮宗一致派・本住山自証寺。本堂・万治元(1658)年開山日円。縁故・当寺ハ旧領主大村家長臣浅田左門、実母自証院菩提ノ為メ創建開基。日円ヲ帰依セシメ爰(ここ)ニ住職トス」(以上、明治八年寺院明細調帳)。大村八か寺の一で、明治8年檀家1100戸を持つ大寺院である。大村八か寺は慶長10(1605)年の本山・本経寺に始まり、寛文8(1668)年、千綿の本地寺建立までの50年間に成立する。

自証寺は庵の形で出発し、万治元(1658)年8月、浅田左門前安の子安昌が大村純長を開基として、祖母自証院菩提のために創建したものである。大村藩士は24階級に分かれるが、浅田家は大村城下、三重、長崎、戸根に413石を有する大村藩家老の要職にあった。浅田家系図を見ると、寛永9(1632)年12月14日没の本住院常安、寛永16(1639)年正月7日没の自証院妙安がいる。浅田前安の両親、安昌の祖父母に当たり、殊に自証院はキリシタン大名として学校教科書にも現れる大村純忠の娘、棄教を肯(がえ)んぜず、当地戸根に隠れてキリシタン信仰を続けたと伝えられる。この自証院から自証寺を称し、その夫純盛と考えられる本住院から山号をとり、本住山自証寺を称した。

…この自証寺の裏山は墓地となり、8段ぐらいに削平して400基ほどの墓石があり、開祖歴代の墓も最上段の所に建つ。これらの墓石群、また自証寺については、60頁に記述した。

写真 19〜22   9 琴海のヒイラギ  (琴海戸根町)

県指定天然記念物。戸根バス停からオーシャンパレスGCの方へ入る。途中から左の坂道を崎山の浦江宅へ登る。シイの大木も隣りに立つ。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/450
(長崎県の文化財HPから)
琴海のヒイラギ  県指定天然記念物
指定年月日:昭和58年8月30日  所 在 地:長崎市琴海戸根町547番地
ヒイラギは、モクセイ科モクセイ属の常緑高木で、葉の形が独特な樹木である。わが国では関東以南の本州、四国、九州、沖縄に自生する。庭園樹などとして広く植栽され、よく知られている樹木である。
指定のヒイラギは地上40cmの幹囲が3.6m、その上が三大支幹に分かれている。枝張りは、北へ1.70m、南へ3.00m、東へ3.70m、西へ7.00mあり、ヒイラギの珍しい巨木である。

平谷越のモミ  佐賀県鹿島市平谷

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平谷越のモミ  佐賀県鹿島市平谷

萱瀬ダムから平谷黒木トンネルを抜けたところが、佐賀県鹿島市の平谷である。奥平谷キャンプ場から経ヶ岳(標高1075.7m)へ登る登山道がある。
馬の背まで約1時間、さらに20分ほどで、前の記事の「千年樫」(アカガシの老樹)に着く。
https://misakimichi.com/archives/2867

経ヶ岳の稜線「平谷越」までは、まだ25分ほどかかり金泉寺方面からの道と合う。「平谷越」へ出る途中、「千年樫」から10分ほど登ったあたりから、こぶのあるアカガシ、モミ大木、夫婦モミ、ヒメシャラなどを見る。
ひときわ大きいのは、登山道右下に見える上部で支幹が横に分かれたモミ。根元へ行ったら、幹囲5m、樹高25mほどあった。

枯れた白木の背後に見える高いピークが、経ヶ岳である。裏側から見ると、岩峰もこんな山だ。「平谷越」までは、まだロープを張った危険な岩場があった。奥平谷を13時30分出発、写真を撮りながらであったので、平谷越に15時45分着いた。
経ヶ岳まではあと20分かかる。日も暮れかかり、山頂往復はやめ、馬の背へ戻った。

馬の背には右へ下る「旧道歩道」の標識がある。駐車場がトンネル出口にあるため、平谷側に寄った「自然の館」へ出る旧道は、ほとんど利用されないが、渓谷沿いのなかなか良い道だった。
下ったところは、鹿島市「平谷郷土の森」。林内は多良岳山系に残された最後のケヤキの巨木群が自生している。自由に入林でき、案内図には樹齢200年とあった。「自然の館」にどの木か聞いてもわからなかった。

看板を国道側に出さないと、ここに「平谷郷土の森」があり、経ヶ岳の別ルート登山口であることがわからず、旧道は荒れる一方となるだろう。昔はこの道で登った記憶がかすかに甦った。

平谷越の千年樫  佐賀県鹿島市平谷

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平谷越の千年樫  佐賀県鹿島市平谷

鹿島市平谷温泉の記憶は、もう30年くらい前。龍頭泉から大野原へ上がり、春日越えして、道なき山の斜面を平谷へ下り、裸電球の湯で一泊。翌日、経ヶ岳へ登ったことが数回ある。
経ヶ岳へは急な登りできつかった思いが強く、このコースは敬遠気味だった。ひなびた温泉は新装され、有明海産の高級料理屋となった。

大村・鹿島間の国道444号が、1999年(平成11年)3月にでき、萱瀬ダムから平谷黒木トンネルを抜けると、平谷へはすぐ行ける。宮さんが先週、奥平谷から経ヶ岳へ登った。
「千年樫」と巨木の森を写している。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28259539.html
あれ、そんな巨木があったかな。”さが名木100選”も、佐賀・長崎県境の名山「多良山系」の巨木調査が完全にもれていると思い、きょう確認に行った。

平谷黒木トンネルを出たところに、駐車場と奥平谷キャンプ場がある。ここが経ヶ岳登山口。馬の背まで約1時間。下山中の鹿島市立古枝小学校の子どもたちと会った。展望岩を過ぎ、あと「千年樫」まで20分ほど登る。
「千年樫」はアカガシの老樹だろう。幹囲4.5m、樹高12mほど。主幹は6mほどで折れ、中は空洞となって空が見えるが、左片枝が伸び葉は繁っていた。樹齢「千年」はオーバー過ぎる。

千年樫から平谷越まで、まだ25分はかかる。モミ・アカガシ・ヒメシャラなどの巨木地帯となったので、次の記事とする。

明治8年建「萩原峠越え」の古道標  長崎市長浦町

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明治8年建「萩原峠越え」の古道標  長崎市長浦町

琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の148〜151頁は次のとおり。大子から手崎との間の往還道「萩原峠越え」について記している。掲載写真の「萩原峠越えの標識」(旧県道手崎川の上流1km地点)と「籠立石」(手崎への山中道大子側にある)を探しにきのう行った。琴海文化センターに場所はあらかじめ聞いた。

第九節 往 還 道

最寄り家との間には畠道、田の畦道道路あり、山間を分け入る近道もあったろう。この中にあって集落と集落を結ぶ主要幹線道路を往還道と呼んだ。現在の国道に匹敵する江戸期までの主要道であった。この道は、牛と人が通れば足りる道幅の三尺道路で足りた。路肩の両脇には雑草が生えて真ん中は地道、主要道たるの標識でもあった。…

大子から手崎へは無人地帯の山系を通った。「さやの首」と呼ばれる所に「籠立石」があって、現国道から2kmの西側山中に位置する。いよいよ萩原峠越えとなる。鬱蒼たる山中道は、約200mで手崎農道に出た。楠原や長浦岳が展望されて急に天地が開けた。農道は旧道の石垣を残して拡幅されており、東へ300m歩くと、ミカン収納庫がある。農道を離れて山中へ分け入ると、古道の面影を盛り土道に残している。横断する農道を3つほど横切り、畑中の古道を駆け下ってようやく手崎川に出た。これが「萩原峠越え」である。

「萩原峠越え」について、筆者(注:町史の執筆者 山口博氏)は父からよく聞かされた。明治36年の県道完成までの往還道。この道筋を通って、形上ムラ地区の子どもは、明治27年設置の長浦高等小学校へ往復した。1日に1足の草履を踏み潰したという、父祖が通った「萩原峠道」を辿るべく、筆者はついに手崎川の標識から登り上って、現在の手崎公民館道の農道の西方部に出た。これからが萩原峠越えであることは判明した。しかし、手崎から大子への道筋辿りの詳細は分からず、古道歩きは断念しつつも諦め得ずにいた。機会が巡ってきた。平成2年11月の婦人会(長岳峯子会長ら約20名)の史跡案内日のこと、同行の前会長佐木幸子が、大子の「籠立石」を知っているという。行事終了後、当地を自動車で案内していただいた。その節は日没時、ここが分かったらいつの日かと思いつつも時は過ぎていく。

執筆終了、帰阪の数日前の快晴日和、教委の神近正(昭和35年生)に依頼し、籠立石から手崎農道へ出る。手崎川沿いの坂本忠一宅付近に立つ「古道標」を目指すも不明。畑仕事中の手崎・山本喜市(大正6年生)に尋ねると、手を休め、古道の案内をしていただいた。こうして既述どおりの道筋で父祖の歩いた萩原峠を越えて手崎川に出ることができた。これで故郷史執筆終了の喝采感を得る。…

「萩原峠越えの標識」は、長浦バス停から手崎川へ向かい、左右岸の車道を1kmほど上流に行く。手崎川が角々に曲ったあたりに坂本宅がある。坂本宅入口と橋の間の右石垣上に古道標が立つ。
思ったより小さく、幅15cmほどの角柱、高さ50cm。正面「右 かめのうら かたがみ 道」、左面「左 山 道」と刻む。町史写真ではわからなかったが、右面に「明治八年 乙亥十一月 施主 佐木喜代作 濱口直左エ門 小林辰蔵 溝口共吉」?とあった。

この道が往還道だったと坂本氏に聞き、道標右の古道を登ってみた。藪道の尾根を200mほどで手崎農道上部へ出た。辺りはミカン山となっており、しばらく行って農道を離れて山中へ分け入ると、古道の面影を盛り土道に残した小山のピークに達した。ここが「萩原峠」だろうか。ピークの広場には大石が散乱していたが、写真の「籠立石」とは異なる。
ピークから大子側に古道を農道と最初に出合う所まで下った。あたり一帯を探しても、「籠立石」はわからず、往還道がこんなに高く迂回していることに驚いた。海岸部がそんなに険しかったのだろうか。私の場所と道間違いかも知れない。

手崎農道はグルグルとカーブしながら手崎へ下っていた。歩いてはまっすぐ下れる別の道がある。これが往還道のようでもあるが、手崎のどこへ続いて降りるのか、はっきりわからなかった。
なお、「大村郷村記」長浦村往還道筋の記録は次のとおり。古道標は設置年代から、この「傍爾石」ではない。

同手崎川より右の方形上道追分傍爾石まで壱町拾壱間、此間左右田・人家あり
同形上道追分傍爾石より萩原の辻まで七町四拾間、右田畠・人家・野、左畠野にて、此間上り坂あり
同萩原の辻よりさやの首まて四町弐拾壱間、此間左右畠野なり、長浦往還道此処にて終る

琴海地区の旧明治県道の一里標

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琴海地区の旧明治県道の一里標

琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年刊の597〜598頁は次のとおり。琴海町史は「一里塚」と記しているが、本ブログではほかの記事に合わせ、「一里標」として統一する。
「一里標」は「亀高村(現・西海市)では白似田の山中バス停付近」、「(現・長崎市琴海地区では)形上の内山家の藤の木の下(下半分は現存・写真付)、手崎の田添さん宅附近(三社大神参道入り口、現在の手崎公民館入り口付近)、戸根の川尻の山際、次は琴海高校の前」(大江・西川一夫談)に建っていたと記す。

四 旧県道の一里塚

旧県道は村松村は明治34年、長浦村・明治36年、長崎面高間の内海県道の完成は、明治
38年ごろであろう。この旧県道に一里塚が建立された。
これについて、村松小学校大正13年卒の梅園藤男は、「確か川尻といったと思うが、県道の曲り角のところに里程標がたっていた。”長崎へ六里、面高へ九里”と書かれていた」(昭和53年刊『村松小一世紀の歩み』)から判じて、一里塚は明治末期にに建てられたのではあるまいか。県道完成の祝賀碑といえよう。

一里塚は「亀高村では白似田の山中バス停付近、形上の内山家の藤の木の下(下半分は現存)、手崎の田添さん宅附近(三社大神参道入り口、現在の手崎公民館入り口付近)、戸根の川尻の山際、次は琴海高校の前」(大江・西川一夫談)に建っていた由。西川一夫は筆者と幼友達、一里塚所在を電話で尋ねると、反射的な返事「オレは、長崎までよく歩いたから知っている」には驚嘆した。

当時、よく歩いたにも驚嘆したが、今は歩こうにも歩けない。自家用車あり、トラックあり、バスありの自動車地獄となった。手崎から大子まで家並みなき2km間を、歩いている人を見ることはできない現状にある。もし国道の歩道部を歩いたと仮定したら、形上内山家から長崎への八里は、六里に短縮されているに違いない。琴海町域で各里道へ入るとするなら、昔も今も県道、国道経由で里道へ入った。里道が村道に指定され、村政からの補助金が出るようになったのは、長浦、村松両村とも、大正3年ごろからと思われるが、史料を欠く。

このうち、西海市亀岳「白似田の山中バス停付近」は現存。次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2383

今回、琴海町史でわかったのは、琴海地区の「形上の内山家の藤の木の下」で、写真のとおり下半分が現存する。場所は、形上近く「大子小浦」バス停から小川沿いに右に入る。「株式会社平田形上工場」の裏側へ回る小道が旧明治県道。石祠を過ぎしばらく行くと、内山宅入口先の草の茂みの中に折れた標石がある。
折れた上半分は所在不明らしい。現存する下半分の刻字は、「里」「長崎縣」?の2面が読める。「琴海町史」交通の発達590頁が、次のとおりこの標石を詳しく記していた。

⑪形上地区  現在の「吉野浦」バス停から県道は海岸沿いに迂回していた。そこには衆議院議員中村不二男の豪邸があった。それを過ぎると大子との界をなす形上の内山家、この内山家の所に楠の木と藤の木があった。ここは夏の憩い場であり、その下に一里塚の標柱が立っていた(597ページ写真参照)。
高さ1mほどの角柱「正面の下部に”長崎縣”、右側面の上部に”長崎へ八里”、左側面上部に”面高へ七里”」とあった。現在は露出部45cmが残って、正面の”長崎縣”のみが現存、左右は”里”のみを残し、上半分は折れている。思えば18cmの角柱、約1mの標柱であった。…

琴海地区のほかの3箇所も、現地一帯を念のため探したが、標石は見当らなかった。「戸根の川尻の山際」とは、山田GS手前の「パチンコサンライズ琴海店」あたりとなるらしい。戸根川の河口である。(琴海戸根町自證寺前・辻光雄氏の話)

長崎の西空の夕日  11−07

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長崎の西空の夕日  11−07

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成23年 7月11日の19時19分頃
写真  4      平成23年 7月17日の19時34分頃
写真  5〜 6  平成23年 7月27日の19時45分頃
写真  7〜10  平成23年 8月 1日の19時17分頃