琴海の主な史跡など (1)  西海町・琴海村松町・琴海戸根町

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琴海の主な史跡など (1)  西海町・琴海村松町・琴海戸根町

琴海の主な史跡などの説明は、琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の1076頁以降「第五章 史跡史話」などから抜すい。

写真  1〜 2   1 石切り場  (西海町)

国道206号が、新長崎漁港方面へ分岐する「西海交差点」あたりで岩山が見える。
(町史 1148〜1149頁
西海川に沿う国道筋を通ると、西側間近に、片側が削られて聳立する大山が眼前に迫る。当地を谷門と字名し、当山を谷門岳と呼ぶ。良質の安山岩を産し、業者は組合を作って石材採取する。その始まりは明和年間(1760年代)、千綿村石工太之助なる者が、両親の菩提石を尋ね歩く間に、当地の石材に着目採取したとの、孝行美談説で開花する。寛政10年(1798)に、大村藩家臣が御用石を切り出してから、藩の御用石場指定となった。

民間人による開発は、場所を異にして天保年間(1830年代)、千綿村石工により始まった。弘化年中の大村藩・長崎屋敷の地伏盤石には、この西海石が使われる。明治に至り、民間業者への払い下げとなった。毘沙門天王への石段が、大正3年の石工35名による献納を思うとき、その盛期を窺うことができよう。石材採取も杭打ち、叩き出しからハッパ、削岩機へ、手工研磨から自動研磨機へ。石船から馬車、自動車輸送となり、現在は墓石、踏み石として、販路を県内外に広げている(『彼杵半島の史蹟めぐり』参照。岩下菊治氏から懇篤な教示を受けた)。

写真  3〜 4   2 村松村古城  (琴海村松町)

村松バス停先から左折、村松川沿いに上流へ行く。「城の尾橋」手前左上が城跡。
(町史 1142頁)
「村松村荘屋より西方、後川内と云ふ処にあり、元禄の記に曰く、高さ六十五間、麓より五十八間の処に引廻しの石垣あり、長さ六十五間、高さ四尺、石垣の内にニ間半の武者走りあり、此処南の方に長さ四間ニ尺の石垣あり、頂上は竪十二間横六間程の平地あり、水の手葛山川流あり、西より北東まで城下大構の如く相見る、由緒・時代不知」(『郷村記』)。
筆者(町史の執筆者山口博氏)の山城研究も15年ほどになるが、村松城は恵まれた地形を利した点で典型的山城である。東を大手門とし、背面と北側は桂山・大石岳の滴り水を集め流れる村松川に囲繞(いにょう)され、標高50mほどの独立山嶺をなす。城下支配の絶好の地形、山城というより、丘城の感が深い。

写真  5〜 6   3 猪垣跡  (琴海村松町)

「城の尾橋」から琴海戸根町境の車道を登って行き、中腹の集落上で見かけた。入口標柱には「1740年施工」。西海市中浦北郷に残る県指定史跡「西彼杵郡半島猪垣基点」の標石には、「享保七寅年」(1722年)の文字が刻まれている。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2394

写真  7〜 8   4 寺 島(現在は「詩島(うたしま)」という)  (琴海戸根町)

オーシャンパレスGCの方へ行き、その先の脇崎集落波止場から正面に見える。
(町史 1133頁)
「浦沖十町程の所にあり、周廻四町九間、四面荒磯なり。嶋中小松間原に生し、其風景大によし」(『郷村記』)。現在は著名歌手さだまさしの別荘地となり、週刊誌などを賑わしたこともある。寺島なる名称は「聖教寺院の跡から起これるもの、沿岸陸地に古寺口なる字地あり」と里人は語る。寺島の名にふさわしく、現地は大宰府天満宮が勧請しある由。

写真  9〜10   5 阿蘇神社のケヤキ  (琴海戸根町)

国道中央幼稚園の後方に神社はある。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/448
(町史 1129頁)  
…健磐龍命は熊本県阿蘇神社の祭神で、降雨の神、護国救民の神として信仰される。神殿は流れ造りで拝殿に続き、拝殿は三間×三間の18畳敷き。境内地は東西35m、南北12m、その周囲は雑木林で囲まれ、殊に50の石段の両脇の雑木、その中に交じる高さ40mの巨大な欅(けやき)は、神木として、神社に一層の景観を添える。

写真 11〜12   6 庭に巨石ある民家  (琴海戸根町)

国道中央幼稚園から左折、100mほど行って田んぼの右手の民家。斜めから見ると両脇が巨石から囲まれている。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2861
(町史 1152〜1154頁)
高さ、長さ、ともに約6m、幅4mの巨石が庭の一隅にあって、古い民家が建つ。戦中には1斗笊笥(そうけ)10杯分のバッチ(注:方言で干し芋、カンコロのこと)を干したという。ご主人から丁寧なご説明を頂く。「琴海の民家」の1項目を設けて記述したいと思った。全体の民家調査をなし得ず、本書に記載し得なかったことを申し訳なく思っている。他日、県または町文化財指定の機ある時に執筆したい。

写真 13〜14   7 戸根渓谷ヒスイ  (琴海戸根町)

市指定天然記念物。国道中央幼稚園から左折、「ほたるの郷」上流の戸根渓谷らしいが、指定地は明らかにされていない。琴海文化センターの展示史料には「民家の石垣、川底などに10数個の翡翠輝石(原石)が確認されている」とあった。
(長崎市の文化財HPから)
戸根渓谷ヒスイ  市指定天然記念物
指定年月日:平成18年1月4日  所在地:長崎市琴海戸根町2044番地ほか
ヒスイは軟玉、硬玉、様々な種類を含むが、透明で深緑色のものは、古来、東洋では第1級の宝石「翡翠(ひすい)」として珍重されてきた。平成15年(2003)1月に戸根渓谷で発見されたヒスイは、宝石としての価値は低いものの、ヒスイ輝石岩中に石英(せきえい)の含有分が多く、地質学的に大変珍しいものであることから、市の天然記念物に指定された。

写真 15〜18   8 自証寺と五輪塔  (琴海戸根町)

寺名のバス停前。自証寺開基の因とされる大村純忠の娘マリイナ(自証院)の五輪塔が最上段墓地にある。地輪部の右側面に「大村市辻ノ堂墓地ニアル自證院墓所ヨリ分骨シ原型ニ模シテ塔ヲ建立シ以テ当山始祖ノ菩提ニ擬ス 平成二年七月吉日 本住山廿七世日恒」と記す。
寺入口に樹齢250年を越えるというイチョウの大木2本。
(町史 1125〜1127頁)
「本経寺末・日蓮宗一致派・本住山自証寺。本堂・万治元(1658)年開山日円。縁故・当寺ハ旧領主大村家長臣浅田左門、実母自証院菩提ノ為メ創建開基。日円ヲ帰依セシメ爰(ここ)ニ住職トス」(以上、明治八年寺院明細調帳)。大村八か寺の一で、明治8年檀家1100戸を持つ大寺院である。大村八か寺は慶長10(1605)年の本山・本経寺に始まり、寛文8(1668)年、千綿の本地寺建立までの50年間に成立する。

自証寺は庵の形で出発し、万治元(1658)年8月、浅田左門前安の子安昌が大村純長を開基として、祖母自証院菩提のために創建したものである。大村藩士は24階級に分かれるが、浅田家は大村城下、三重、長崎、戸根に413石を有する大村藩家老の要職にあった。浅田家系図を見ると、寛永9(1632)年12月14日没の本住院常安、寛永16(1639)年正月7日没の自証院妙安がいる。浅田前安の両親、安昌の祖父母に当たり、殊に自証院はキリシタン大名として学校教科書にも現れる大村純忠の娘、棄教を肯(がえ)んぜず、当地戸根に隠れてキリシタン信仰を続けたと伝えられる。この自証院から自証寺を称し、その夫純盛と考えられる本住院から山号をとり、本住山自証寺を称した。

…この自証寺の裏山は墓地となり、8段ぐらいに削平して400基ほどの墓石があり、開祖歴代の墓も最上段の所に建つ。これらの墓石群、また自証寺については、60頁に記述した。

写真 19〜22   9 琴海のヒイラギ  (琴海戸根町)

県指定天然記念物。戸根バス停からオーシャンパレスGCの方へ入る。途中から左の坂道を崎山の浦江宅へ登る。シイの大木も隣りに立つ。
本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/450
(長崎県の文化財HPから)
琴海のヒイラギ  県指定天然記念物
指定年月日:昭和58年8月30日  所 在 地:長崎市琴海戸根町547番地
ヒイラギは、モクセイ科モクセイ属の常緑高木で、葉の形が独特な樹木である。わが国では関東以南の本州、四国、九州、沖縄に自生する。庭園樹などとして広く植栽され、よく知られている樹木である。
指定のヒイラギは地上40cmの幹囲が3.6m、その上が三大支幹に分かれている。枝張りは、北へ1.70m、南へ3.00m、東へ3.70m、西へ7.00mあり、ヒイラギの珍しい巨木である。