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明治時代地形図の「烽火山番所道」

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明治時代地形図の「烽火山番所道」

国土地理院の明治時代の旧版地図上で、「烽火山番所道」を確認してみよう。

上の地形図が明治17年(1884)測図。中央上に烽火山の高いピークと南肩鞍部に大荷床。西側谷間の鳴滝奥から細い点線の小径が、大荷床まで上り表示されている。これが長崎市史に記す新番所跡と旧番所跡を通る旧時の正道「烽火山番所道」であろう。

この地形図で、「烽火山番所道」のルートを確認できる。この頃までまだ道が残り、利用された形跡がある。
本ブログの誤って削除した書庫の記事に、昭和30年代、越中哲也先生が「烽火山番所道」を歩かれた資料を載せていた。その資料が何だったか、今、思い出せず調査中。

下の地形図が明治34年(1901)測図。前記の番所道の小径はもう表示されていない。大荷床を越し、東側の秋葉山や妙相寺へ下る道は、明治17年測図と同じく描かれている。この道も廃道となっていたが、私たちは江越先生と復元し、道の分岐上下にプレートを付けた。

烽 火 山  長崎新聞コラム「水や空」から

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烽 火 山  長崎新聞コラム「水や空」から

2007年5月31日付、長崎新聞コラム「水や空」の記事は、次のとおり。21日(日)開催した「烽火山番所道を登る」催しに、長崎新聞社の文化部長が同行された。

烽 火 山 (2007年5月31日付)

長崎市東部の烽火山(標高426・2メートル)に登った。江戸時代に異国船入港を知らせた烽火台跡を訪ねる歴史散歩。大水害などで荒れ放題だった本来の登り道が復活し、企画された▲道筋は「長崎市史」にのっとり郷土史家・江越弘人さん、らが跡付けた。鳴滝から七面山妙光寺下を経る道のり。「道はいよいよ険しく、左右雑木に覆われ、番所谷とはこの辺りである−」などと市史にあるように、急坂で滑りやすく難儀した▲張り番の詰め所・新旧の番所跡や薪(まき)置き場の大荷床で説明を聞き、峠を越えて秋葉山で昼食。再び頂上を目指した。約3時間の登山。釜状に築かれた烽火台の大きさに驚いた。高さ約3・6メートル、直径約5メートル。さぞかし大量の薪を必要としたことだろう▲文人・大田南畝(なんぽ)(蜀山人)の詩碑が忘れられたように建っている。高さ約1メートル、横1メートル弱、厚さ約50センチの自然石。「滄海春雲」などとうたい起こし「西連五島東天艸 烽火山頭極目看」と四囲の絶景をたたえる。南畝もここに立ったのだ▲長崎奉行所勘定役として1804(文化元)年に赴任。翌年の建立。刻まれた文字を指でなぞり、思いをはせる。「廃虚に立つと何時も胸疼くのを感じる−。廃虚にはそこに住んだ人間臭と人生とが残っている」(遠藤周作「狐狸庵 歴史の夜話」)▲南畝も同じようになぞったのではないか? 往時の人々と感応し、歴史に身を委ねる安らぎに浸った烽火山行だった。(成)

「烽火山番所道を登る」 江越先生作成資料  2009年5月

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「烽火山番所道を登る」 江越先生作成資料  2009年5月

『白帆注進』などの著者江越弘人先生の、永年の懸案であった「烽火山番所道」(「長崎市史」に記録がある鳴滝から新番所跡と旧番所跡を通り大荷床へ登る旧時の正道)は、私たちと踏査の上、歩けるよう整備して復活した。
平成19年5月21日(日)に「烽火山番所道を登る」催しを開催した。長崎新聞により広報し、参加者は50人以上だった。これはそのときの参加者配布用資料である。
写真は当日の催しのではない。番所道の状況がわかるよう、直近の日撮影などを載せている。その後、学さるく行事でも2回実施した。

烽火山と番所道
烽火山に狼煙台が設置されたのは寛永15年(1638)のことであった。島原の乱を鎮めた老中松平伊豆守信綱は、乱後長崎に立ち寄り、野母の権現山に遠見番所を、そうして長崎村の斧山に狼煙台を設置するように命じた。そこで、斧山に烽火台が設置され、以後この山を烽火山とよぶようになった。
「野母の遠見番所で異船を発見すると、その合図の信号は小瀬戸から十人町、永昌寺と各遠見番所をリレーされ、長崎奉行に報告された。さらに、近隣の諸藩に応援を求める際は、烽火台から烽火を揚げたが、烽火は琴尾岳(長与町・諫早市多良見)、烽火山(諫早市高来)とリレーされた。番所は山頂付近にあり、烽火詰と呼ばれた遠見番が詰めた他、人夫の徴発や薪等の保管等は長崎村庄屋森田家が当たった。烽火台(県・史跡)は円形で、外壁は高さ2間、深さ3間で、坑の直径は2間4尺、その縁は石灰で塗り固められ、外壁の下部に3ヶ所の火入口があった。烽火台の周囲は、竹矢来で囲まれ、内部への立入りは厳しく禁止されていた。」(長崎の史跡 南部編 長崎市立博物館)
※ この説明は、元禄元年(1688)に小瀬戸遠見番所が設置されてからのものである。

今日、烽火山狼煙台へ登るには、片渕中学校前から焼山の中腹を通るか、あるいは仏舎利塔から健山を越えて片渕中学校からの道と合流し、尾根伝いに登る道が一つある。そのほか、七面山妙光寺本堂背後から登る道、東側の妙相寺から秋葉山を経て登る道、蛍茶屋から武功山を伝って登る道、さらに木場峠から縦走してくる道など、いろいろな道があり、烽火山は多くの市民から親しまれている。
ところで、江戸時代、烽火山の狼煙台を守る人々は、どの道を使っていたのであろうか。この登路については、長崎市史に文化年中(1804〜17)に調べた松浦東渓の説明と著者の福田忠昭の説明とが載せてある。そこで福田氏の説明を簡単に紹介してみよう。

烽火山番所道
「烽火山に登る道は幾つかあるが、その一つに、旧時の正道で桜馬場から登る道がある。桜馬場町(旧長崎街道)の旧二本杉の所から頂上まで十五丁(約1.5キロ)。まず、鳴滝まで1丁余り(約百メートル)、ここから右が武功山道、左が城の古址道、本道はシーボルト宅跡や長崎中学校体操場(鳴滝高校運動場)を過ぎ、七面山妙光寺下手から岐路に入る。
ここから急な坂道で、二丁ばかり(2百メートルほど)文化年間に新たに開かれた道を登る。道はいよいよ険しく、左右雑木に覆われ、番所谷とはこの辺りである。さらに2丁ばかりでやや平坦地に達する。ここに高さ四尺ばかりの刀のような石が立てられ『染筆松』と刻んでいる。長崎奉行牛込忠左衛門の筆である(※この石は現在見当たらない)。碑の前面上手が新番所の地で、長崎港を正面に見下ろす位置にある。
さらに2丁ばかりの上手が旧番所跡である。旧番所から植林の中を登ると大荷床の近くに泉がある(今では水は出ていない)。旧番所に用いた泉である。泉を過ぎる数十歩で大荷床で、昔烽火用の薪が積まれていた。巡見の長崎奉行はここに床几を置き小休の場とした。
ここから東に下れば秋葉山で、南に進めば狗走である。大荷床から頂上まで3町余り(三百メートル余り)で、長崎港の正面に付けられた九九折の道は文化5年(1806)につけられたものである。大荷床から直上するのは旧道であるが、近頃却って復活している。」

南 畝 石
江戸時代一世を風靡した文人大田南畝は、文化元年(1804)に長崎奉行所の勘定役として赴任した。翌2年に烽火山に登り、絶景を賞して一詩を作った。
「滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看」
この詩は、山頂西側にあり、南畝石と呼ばれている。烽火山にはこの他、人面岩・傴僂巖(山の下)と呼ばれる岩がある。

烽火山の歴史と終焉
寛永15年(1638) 斧山に狼煙台を設置する。番所には近郷の百姓が2人づつ勤番した。
正保 4年(1647) ポルトガル船2隻来航する。狼煙が焚かれ諸藩の兵士が集合する。
万治 2年(1659) 勤番役に、地役人の遠見番が担当するようになった。
延宝 4年(1676) 長崎代官支配から長崎奉行管下に入る。(末次氏改易により)
延宝 6年(1678) 長崎奉行牛込忠左衛門、烽火山十景を詠った。
この時、「染筆松」の碑が建てられた。(福田氏が確認しているが、現在見当たらない)
元禄 元年(1688) 登山口(鳴滝高校運動場付近)に制札が建てられた。
明和 元年(1764) 烽火山勤番を廃止する。(烽火台は存続)
文化 5年(1808) フェートン号事件で、番所を再建し、勤番を復活させた。
文化 6年(1809) 狼煙を揚げて、非常事態の予行練習を行った。
文化12年(1815) 烽火山勤番を廃止し、番所を取り崩した。
番所道は毎年2回3ケ村(長崎村、浦上村山里・淵)から道の改修に当っていたが、その後完全に見捨てられてしまった。
平成19年(2007) 192年振りで番所道が通れるようになった。

七高山巡りと烽火山
江戸時代には、正月の行事に1日かけて七高山参り(巡り)を行うことが盛んであった。今日でも、中高年の健康ブームで昔に増して七高山巡りが行われるようになった。
今日、烽火山も七高山の一つとして必ず頂上が踏まれている。しかし、昔の書物を見ると烽火山が、七つの高山に入れられていないものと入っているものとがある。
(関係資料は掲載略)
考察 このような混乱があるのは、狼煙台付近が立入り禁止になっていた時代には、烽火山は七高山参りから外されていたためではないだろうか。

烽火山下の「傴僂巖」(カウコウイハ)は、七面山入口にあった

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烽火山下の「傴僂巖」(カウコウイハ)は、七面山入口にあった

「長崎市史」の烽火山の記述は、次のとおり。「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」(昭和13年発行 昭和42年再刊)の第三章 舊蹟 四、国防に関する史跡 一、烽火山御番所の項である。
534〜545頁に烽火山に関わるおもしろい記述がある。

「南畝石」においては、「文化元年九月長崎奉行肥田豊後守手附勘定役として来崎した南畝太田直次郎は翌年此の峯に昇り絶景を賞して一詩を賦した。
滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看
此の詩は後年山頂西側の巨石に鐫刻せられ今に嚴存す。此の石は何時の頃よりか當地詩客の間に南畝石と名づけられて居る。此の他人面巖 山の東に在り人の顔に似たりとて名を得たり 傴僂巖(カウコウイハ) 山の下にあり などがある」と記す。

烽火山山頂かま跡近くに「南畝石」、山の東の妙相寺からの登山道に「人面巌」、烽火山山頂の南畝石近くに烽火山十景の「亀石」の存在がわかった。染筆松の碑石は、旧時の正道(番所道)の新番所前にあったが、今は失われたようだ。
石や岩の調査の最後は、「傴僂巖」(カウコウイハ)。「山の下にあり」。 

長崎文献叢書「長崎名勝図絵」27頁は、次のとおり記す。南畝の「春日野に…」の歌は烽火山の末尾に載せているが、「南畝石」は記してない。「図絵」は文化、文政年間の執筆であったとされる。
49人面巖 烽火山の東。奇峻にして形ははなはだ怪しと書かれている。
50傴僂巖 烽火山の下。その形からこの名がある。(せむしのことを、長崎では、こうごうという)

「傴僂巖」が烽火山の下とは、場所がはっきりしない。烽火山というより、「七面山」の下にあった。同じく長崎文献叢書「長崎古今集覧 上巻」(松浦東渓著 校訂森永種夫)450〜452頁の「七面権現祠」は、次のとおり。記述を見つけてくれたのは、中尾先生(西山)である。
「長崎記云、七面権現ハ中川村二在リ…中川郷カウガウ岩ト云処ハ、七面谷ノ古名也、今其巌ハ善兵衛宅ノ裏手二在リ、長崎図志云、人面岩、存二烽火山東、奇峻形甚恠、又曰傴僂巖在二烽火山下ト、コノ傴僂巖ノ事ナラン」

「長崎市史 地誌編 仏寺部 下巻」135頁の「七面山妙光寺 明治四十八年創立」にも記述があった。
「所在 七面山妙光寺は長崎市中川郷字七面谷四百弐蛮地に在る。即ち烽火山の西南麓なる七面山の森の中に在りて、前は深渓に臨み、風光の佳なる、亦崎陽の一名勝たるを失はず。
沿革 …男子は通称を吉右衛門と云ひ、初め本大工町で酒屋を営んで居たが、後烽火山の麓なるコウゴウ岩 七面谷の古名である。長崎図誌に傴僂巖とあるは之を謂うのであらう の邊に隠居し、名を宗受と改めて農作を業とした。…」 

「傴僂巖」の場所は、鳴滝の奥まで進み、七面山妙光寺の参道坂段登り口の橋と寺への車道が分かれるところである。七面谷とわかったので、私が現地調査したのは、研究レポート第3集発行後、平成19年4月末頃である。
渓谷沿いに車道を挟んで、数台の駐車場スペースがある後ろ山手は、孟宗竹の林となっていた。竹越しに大きな岩の輪郭が見える。場所の記述と「せむしのことを、長崎では、こうごうという」形から、この岩が古書に記す「傴僂巖」に間違いないだろうと確信した。祭祀物が少し残る。

妙光寺を訪ね寺に確かめたが、古い歴史までご存知ない。文献の本を見せるとかえって喜び、数日後には、孟宗竹を伐り開き、大村まで運ばれた。「傴僂巖」は、昔の姿となっていた。寺も名所の岩ができたであろう。
岩の上部も登って調べたが、特に遺跡らしいものはなかった。

烽火山十景の「龜石」は、山頂の南畝石すぐ近くにあった

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烽火山十景の「龜石」は、山頂の南畝石すぐ近くにあった

「長崎市史」の烽火山の記述は、次のとおり。「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」(昭和13年発行 昭和42年再刊)の第三章 舊蹟 四、国防に関する史跡 一、烽火山御番所の項である。
534〜545頁に烽火山に関わるおもしろい記述がある。

「烽火山十景」については、「延宝六年時の長崎奉行牛込忠左衛門は好学の士で南部艸壽、彭城宣義、林道榮等の碩儒を延ひて廔佳筵を開き議して烽火山十景を定めた。即ち
染筆狐松  飲澗龜石  廻麓鳴瀧  積谷清風  罨畫奇巒
潮汐飛颿  漁樵交市  崎江湧月  碧峰夕照  高臺雪鑑 」である。
市史発行の昭和13年当時すでに「此の内で龜石の所在が判らない」。染筆狐松は「フデソノマツと稱し」「樹下に建てられたる染筆松と書せる碑石(長崎奉行牛込忠左衛門の筆である)は淋しげにその位置を守り若樹の成長を待ち顔で」、昭和13年頃は存在していたように記している。

染筆狐松は、「フデソノマツと稱し」「樹下に建てられたる染筆松と書せる碑石(長崎奉行牛込忠左衛門の筆である)」とある。所在場所は、現在の登山ルートではなく、「登攀道路」の項で、鳴滝から大荷床へ上がる烽火山旧時の正道(旧番所や新番所があった「番所道」)を登る。新番所前の長崎港を正面に見下す位置に「高サ四尺位刀の如き石が立てられ、染筆松の三字を題す」となっているが、付近一帯をいくら探しても、この碑石はわからなかった

さて、飲澗龜石の「龜石」の方である。市史発行の昭和13年当時、すでに「此の内で龜石の所在が判らない」と、はっきり書いている。何のことはない。かま跡がある烽火山山頂広場の大田南畝の歌碑「南畝石」すぐ近くに、まったく大きな亀の形をした石を見つけた。
研究レポート第3集を発行した平成19年4月直後のこと。烽火山山頂広場から健山の方へ下り、「南畝石」の方を振り返った。見上げると、写真のとおりの大石があった。

正に亀が首と口を上に持ち上げ、飲澗の格好をしている。「龜石」に間違いないだろうと、判断した。昔から有名となる石は、深い山中にあるのではなく、通常の道筋で見かける石だろう。長崎市史が「所在が判らない」としたのは、著者の調査が行き届かなかったためか。
「龜石」は、烽火山山頂のすぐ直下にある。登山するとき気をつけて見てもらいたい。本会の説明プレートを、「南畝石」「人面巌」とともにつけておいた。

その後、平成23年3月、宮さんが風頭山山頂広場で、晧台寺の「晧境目」と、自然岩の面に刻むのを見つけている。烽火山の「龜石」近くにも、苔むした石面の下に何か字が彫ってあるという。
5月の例会のとき、みんなで確認したが、「多久志満?」のような刻み。「龜石」とは関係ないようである。別の石には、「1919」の年号も見かけた。 

「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (3)

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   「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (3)

これは、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集60〜66頁に収録した記録をそのまま再掲したものである。平成19年4月発行のため、当時の調査記録である。資料類は一部省略。レポートを参照。
その後の調査で判明した旧時の正道、亀石、傴僂巖などは、関係資料を載せ、後ろの記事により詳しく紹介するので、あらかじめ了承をお願いしたい。

前の記事から続く。

(8) 長崎市内にある大田南畝のほかの歌碑

再掲となるが、烽火山山頂の歌碑以外、市内にある大田南畝のほかの歌碑は、次のとおりである。資料10の長崎市立博物館「長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年から、そのまま説明を掲げてみよう。関係資料の4〜9も参照。歌碑写真は、私が最近現地で撮影したものである。

6 蜀山人天門山碑(所在地:上西山町19番地 長崎公園内)    4頁
歌碑はもとは一ノ瀬橋のかたわらにあり、「あらそはぬ 風の柳の糸にこそ 堪忍袋 ぬふべかりけり」と刻まれているが、何時の頃かこの地に移されたといわれる。

7 蜀山人歌碑 (所在地:上西山町18番15号 諏訪神社境内)  4頁
歌碑は、平成2年(1990)諸谷義武等によって建立され、「彦山の 上から出る 月はよか こげん月は えっとなかばい」が刻まれている。
大田蜀山人(1749〜1823)は、江戸牛込に生まれた。本名を覃、通称直次郎といい、蜀山人は狂歌名である。蜀山人は、狂歌や狂詩、洒落本、黄表紙、随筆など多方面にわたって活躍する一方で学問吟味に首席及第して支配勘定に躍進、大阪、長崎などに転任した。長崎では、奉行支配勘定方などに従事するとともに、各地を見聞して、その情感を詠じている。

93 大田南畝七面山詩碑(所在地:鳴滝2丁目19番地)     89頁
文久2年(1862)宇野霞峰等が建立した。大田南畝(1749〜1823)は、通称直次郎、名は覃。御徒大田正智の子で、青年期は狂歌師や黄表紙の作家として活躍した。支配勘定に躍進、文化元年(1804)長崎奉行所に出役、約1年間長崎に滞在した。南畝の墓が日蓮宗の本念寺(東京都文京区白山)にあるように、南畝は日蓮宗の熱心な信者であったので、七面山の参道沿にこの碑は建てられた。
(注)どじょう会「長崎の碑 第五集」によると、詩文は次のとおり
披楱踰嶺踏烟雲 七面山高海色分 一自征韓傳奏捷 至今猶奉将軍   大田 覃

(9)長崎談叢第九十輯所収 新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」の記述

歌碑の「文化二丑年 杏花園」は大田南畝の別号。「中村李囿命工鐫焉」は、何となく読んだ長崎県高等学校教育研究会国語部会編「長崎の文学」昭和47年の114頁の中に「二月四日は、中村杏園(長崎の商人で歌人)たちと花見に出掛けた…中村杏園は春の磯の香を漂わせて、さざえのつぼ焼に酒まで用意して来ていた」とあった。中村の同一人と思われるが、南畝の「杏花園」と同じような「杏園」と出てき、歌碑刻字がよく判読できないため、少し混乱しかかっていた。「鐫」は「セン のみ ほ・る」の意。「中村杏園」は歌碑上からも「中村李囿」が正しいと思われる。

そんな折、3月12日、宮川先生から電話をいただき、長崎史談会の事務局を訪れた。海星高校の先生である新名規明氏が長年、大田南畝を詳しく研究されており、見せていただいたのが、平成14年5月発行の「長崎談叢 第九十輯」。この中の57〜79頁に同先生の稿「大田南畝の長崎(四)」が掲載されており、烽火山の歌碑にふれられた記述があったので、資料11に関係部分を載せた。前3輯から続いた最終回。宮川先生もこれを読み、烽火山に歌碑があることをお知りになったそうである。
「中村李囿」とは、長崎に於ける豪商の一人中村作五郎、朝夕岩原官舎の所用を承る。李囿と号し風雅な人でもあり、特に南畝の事は何くれとなく世話をした。江戸へ帰ってからも、親交が深かった。
彼が烽火山、七面山、金毘羅山、彦山、愛宕山など七高山に詩碑の建てようとしたが、実現されたのは、烽火山と七面山のものであろうと、双方の往復書簡から推測されている。
大田南畝の長崎に関わる生涯と、残された歌碑についてすばらしい調査と研究であった

(10) 終わりに

昭和13年発行「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」烽火山御番所の記述から始まった烽火山の昔をたどる探訪は、旧時の正道探しなどはまだ行ってなく、とりとめのない報告に終った。しかし、烽火山の山頂広場に、貴重な史跡となる大田南畝(蜀山人)の歌碑があることがわかり、ほかの歌碑と作品を私なりにまとめて紹介でき、彼の長崎での生活ぶりと人となりは、少しは理解されたと思う。
たいていの人が烽火山の歌碑の存在を知らない。長崎の史跡案内や歌碑紹介の刊行本にも、ほとんど記述されていないのが現状で、もったいなく思われる。今になって感じるのは、南畝石がかえって門外漢の私を呼んだような気がしている。

烽火山へは、西山木場から木場峠に車で上る。チェーンがある中尾峠方面へ行く林道に入り、その途中から別れて、平坦な山道の尾根歩きをすると、約30分で山頂に立てる。最後にやや急な登りとなるが、ロープが張られそんなにきつい行程でない。中尾峠との分岐には立派な指導標がある。山頂から長崎港と市街の眺望は素晴しい。壮大な詩文を景観と味わい、かま跡も見てもらいたい。
市文化振興課へのお願いしたいのは、歌碑の保存はもとより、周辺を整備して碑の存在がわかるようにし、「かま跡」と同じような説明板を設けてもらえないかということである。
歌碑は、長崎公園、諏訪神社、鳴滝2丁目、烽火山頂の順。烽火山地図は「新版 長崎県の山歩き」から。

「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (2)

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   「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (2)

これは、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集60〜66頁に収録した記録をそのまま再掲したものである。平成19年4月発行のため、当時の調査記録である。資料類は一部省略。レポートを参照。
その後の調査で判明した旧時の正道、亀石、傴僂巖などは、関係資料を載せ、後ろの記事により詳しく紹介するので、あらかじめ了承をお願いしたい。

前の記事から続く。

(5)大田南畝とは

大田南畝とはどのような人で、どんな名前や別号であったか。有名な人だからいろいろな本は中央で出版されている。市図書センターに日本歴史学会編集人物叢書 浜田義一郎著「大田南畝」(吉川弘文館 昭和61年新装版)あり、長崎奉行所時代が189〜203頁に記されている。
手っ取り早くは、インターネットのHPである。歌碑の「杏花園」は南畝の別号だった。

大田南畝 出典:フリー百科事典『ウィキベティア(Wikipedia)』
大田南畝(おおたなんぼ)寛延2年3月3日(1749年4月19日)−文政6年4月6日(1823年5月16日)は天明期を代表する文人・狂歌師。漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよくし、膨大な量の随筆を残した。名は覃(ふかし)。通称、直次郎、七左衛門。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園。狂名、四方赤良。または狂詩には寝惚先生と称した。
江戸の牛込生れ。勘定所幕吏として支配勘定にまでのぼりつめたが、一方、余技で狂歌集や洒落本などを著した。唐衣橘洲(からころもぎっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。寛政の改革により戯作者の山東京伝らが弾圧されるのを見て狂歌は止める。蜀山人はそれ以降の筆名。墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある。

私の娘の高校時代の副読本が、家に残ってあった。最近の新版より詳しく載っている。以下この抜粋。
長崎県高等学校教育研究会国語部会編 「新訂 長崎の文学」 同研究会 平成3年第三刷
大田 蜀山人(おおた しょくさんじん)           160〜166頁
(1749〜1823)天明期の狂歌・狂詩・狂文の中心的存在。長崎には長崎奉行所支配勘定役として1804年(55歳)から翌年まで在任した。
付 記 ②彼は漢学者としては大田南畝、狂歌には四方赤良などの号を主として用いている。明和4年(1767)19歳で初の狂詩集を出版した時には「寝惚先生文集」と題しているし、その他にも巴人亭、四方山人などその号は豊富で長崎における著書には多く「南畝」「杏花園」の号や「覃」という名を署名している。これは彼の長崎における文学傾向が漢詩・漢学・漢籍に傾注されていた証左といえよう。

(6) 「長崎市史」に記述がある南畝の作品

南畝が長崎在任時代にどのような作品をつくったか。まとめたものがわからないので、「長崎市史」中の記述から次のとおり彼の作品と思われるものを抽出してみた。詳しくは関係資料の抜粋に掲げた。使用名号は、記述のとおりとした。
滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看  杏花園 大田南畝
春日野にあらねと高き山の名の飛火もたつてうこきなき御世      太 田 直 次
天門山斷海門開、岸上人烟擁鎭臺、處々白雲飛不止、秋風一片布帆來  南畝 太田 覃
あらそはぬ風の柳の糸にこそ堪忍袋ぬふべかりけ           四 方 歌 垣
わりたちもみんな出て見ろ今夜こそ彦山やまの月はよかばい
長崎の山から出てた月はよかこんげん秋はえつとなかばい       四 方 赤 良
天后土神關帝祠、幾番船主賽崎陽、門聯扁額多相似、疑入蘇州桂海涯  太 田   覃
故郷に飾る錦は一と年をヘルヘトワンの羽織一枚           蜀山人 太田直次郎
「長崎市史」に記録はなかったようだがあと1つあった。鳴滝2丁目にある歌碑の詩文。これはどしょう会の「長崎の碑 第五集」と岩永弘著「歴史散歩 長崎東南の史跡」などに記載がある。
披楱踰嶺踏烟雲、七面山高海色分、一自征韓傳奏捷、至今猶奉将軍   大 田   覃

(7) 烽火山南畝石の記録

烽火山山頂かま跡近くにある「長崎市史」に記した南畝石の歌碑は、こうして現存していることがわかった。この歌碑は資料10の長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年刊に紹介されてないため、他に資料がないか調べることとした。
長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ)」と岩永弘著「歴史散歩 長崎東南の史跡」「長崎周辺"石・岩・陰陽石"」「長崎奉行史跡」は、資料10と同じく山上の碑まで調査は及んでいない。

どじょう会にはあと1つ、資料8のとおりの長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書(追加 その一)」平成5年があった。「一、城郭の分(東部)1、烽火山」とし、平成3年5月調査の記録。
本文では「また烽火台の北西側に表示板及び標示石、祭祀物などが設けられている」と説明し、別図によると当該場所に「烽火山標示石」とし、「烽火山頭極目着 ○○○○○○ ○○○○○○ 文化二丑年中村季圃命」。全横約1.0、高さ約1.8mの碑の図がある。これが歌碑のことだが「標示石」とされている。刻は私が読んだのは、「着」は「看」、「中村季圃命」は「中村李囿命工」となり、詩文の配列も違う。鳴滝の歌碑にある「此詩中村某嘗欲刻之」は同一人だろう。

問題は写真にある。当時の石祠を写した「写−1 山頂祭祀物」(写真左)に、石祠の後ろに本来立っているべき歌碑が左側に斜めになって完全に倒れている。石祠も台座があったのか地面から少し高く、現況と違う。碑面がどの方向を向いていてこの字の刻が読まれ、いつ倒れた歌碑をだれがいつ起こしたか。疑問が深まる。どしょう会の当時調査に当たった人に聞きたいが、わからないでいる。今回写した写真を見ても、石の左根元が損傷しているようであり、一時倒れていたためなのかも知れない。

次は、資料9のとおり宮川雅一著「長崎散策 歌碑・歌跡を訪ねて」出島屋プロダクション平成
15年である。「大田南畝」は9〜11頁において、地元川柳関係者が建立した諏訪神社境内に立つ『彦山の月』碑を紹介、最後に「南畝については、その漢詩を刻んだ石碑が市内に散在している」として、
(1)烽火山山頂の石碑 中村李囿建
(2)七面山入口の石碑(現在は鳴滝二丁目十四番地の川沿にある)
(3)長崎公園呑港茶屋前(かつては一の瀬<蛍茶屋あたり>にあったという)の『蜀山人之碑』
の3箇所を場所だけ掲げられている。
この本は、鶴見台森田氏が長崎市中央公民館の蔵書で見つけてくれた。烽火山山頂の歌碑の存在は、宮川先生など知る人はやはりおられたのである。大田南畝の市内に残る最も立派な歌碑なのに、詩文など詳しい紹介が本になかったのが惜しかった。
宮川先生にお聞きすると、碑は実際見られてなく、「らめーる」関係の方で蜀山人を詳しく研究されている方がおられ、連絡を取ってみたいということだった。

次の記事へ続く。

「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (1)

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   「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (1)

これは、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集60〜66頁に収録した記録をそのまま再掲したものである。平成19年4月発行のため、当時の調査記録である。資料類は一部省略。レポートを参照。
その後の調査で判明した旧時の正道、亀石、傴僂巖などは、関係資料を載せ、後ろの記事により詳しく紹介するので、あらかじめ了承をお願いしたい。

(1)はじめに

公民館講座を多く持つ江越先生の滑石公民館平成17年10月講座資料「山手の古跡をさるく2 烽火山を登る」は、烽火山について次のように記している。
7 烽火山・狼煙台窯跡
烽火山は、長崎市街地を巡る山々の中では最も高く、標高427メートルあり、寛永15年(1638)に山頂に狼煙台を設けられてから『烽火山』と呼ばれるようになった。江戸時代には、山全体が原野であったが、明治時代になって長崎市有林となり、植林が行われ、今日全山樹林に覆われるようになり、その姿を一変させている。
現在、県指定の史跡となっている山頂の狼煙台窯跡は、文化5年(1808)に改築されたもので、外壁の高さ3.6メートル、坑口の直径4.8メートルの円堤である。竈の西側には狼煙用の薪を貯える薪小屋が、東北側には消火用の水溜が設けられていた。また、山頂は竹矢来で取り囲まれ、一般の人々が立ち入ることを禁止していた。
番所は、頂上から西南に5丁(約550メートル)下った所(旧番所)に、文化5年に改築された時には、新番所はさらに約2百メートル下手に造られた。狼煙台までの登路は、現在では相次ぐ災害で荒廃してしまい、全く辿ることが出来ないが、『長崎市史』の記述を簡単に述べて登路復元の資料とする。

(2)烽火山の「長崎市史」記述

「長崎市史」の記述とは、資料3のとおり「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」(昭和13年発行 昭和42年再刊)の第三章 舊蹟 四、国防に関する史跡 一、烽火山御番所の項である。
534〜545頁に烽火山に関わるおもしろい記述があり、一気に引き込まれた。

まず、「烽火山十景」においては、「延宝六年時の長崎奉行牛込忠左衛門は好学の士で南部艸壽、彭城宣義、林道榮等の碩儒を延ひて廔佳筵を開き議して烽火山十景を定めた。即ち
染筆狐松  飲澗龜石  廻麓鳴瀧  積谷清風  罨畫奇巒
潮汐飛颿  漁樵交市  崎江湧月  碧峰夕照  高臺雪鑑 」である。
市史発行の昭和13年当時すでに「此の内で龜石の所在が判らない」。染筆狐松は「フデソノマツと稱し」「樹下に建てられたる染筆松と書せる碑石(長崎奉行牛込忠左衛門の筆である)は淋しげにその位置を守り若樹の成長を待ち顔で」昭和13年頃は存在しながら、この碑石が現在はわからなくなっている。

「登攀道路」においては、「以上記載の道程は松浦陶渓が実測せし順路で当山の大手」である。この文中に記している〔桜馬場—七面山下手で岐路に入り—新番所—旧番所跡—山頂南肩大荷床に上り九十九折で—山頂〕へ行くルートが、江越先生が復元を図りたい「旧時の正道」登路と思われる。
「高サ四尺位刀の如き石が立てられ染筆松(ソメフデマツ)の三字を題」した碑石は、この新番所の手前にかつてあった。「大荷床に近く右手路傍藪間に清泉」もまだ水をたたえてあるのだろうか。

「南畝石」においては、「文化元年九月長崎奉行肥田豊後守手附勘定役として来崎した南畝太田直次郎は翌年此の峯に昇り絶景を賞して一詩を賦した。
滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看
此の詩は後年山頂西側の巨石に鐫刻せられ今に嚴存す。此の石は何時の頃よりか當地詩客の間に南畝石と名づけられて居る。此の他人面巖 山の東に在り人の顔に似たりとて名を得たり 傴僂巖(カウコウイハ) 山の下にあり などがある」とのことだった。

(3) 旧時の正道と染筆松(ソメフデマツ)碑石・亀石の調査

調査はまだ未済である。昨年来より江越先生から話を聞き、先生をはじめ有志によって一度は踏査したいと思っているが、なかなか実現しないのでまだ何も報告することがない。
「長崎市史」の同項には、資料抜粋では省略したが、松浦陶渓が当時実測した道程と順路が詳しく記述されている。
また、資料2の、長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡 (南部編)」平成14年刊の「165烽火山(所在地:鳴滝3丁目・木場町)」15頁には、当時の烽火山頂へ至る登路が絵図によって描かれ、掲載されている(図右上)ので、大いに参考となる。

(4)南畝石(ナンボイシ)・人面巖((ジンメンイハ)・傴僂巖(カウコウイハ)の調査

「南畝(なんぼ)」大田直次郎は、後年の別号「蜀山人」。長崎奉行所支配勘定役として赴任したのは文化元年(1804)9月(55歳)。翌年烽火山に昇り絶景を賞した。その一詩が
「滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看」
後年、山頂西側の巨石に刻まれ「南畝石」と名づけられてあるという。他に山の東には人の顔に似た「人面巖」、山の下に「傴僂巖」(カウコウイハ せむし・かがむの意)があると記している。

もう200年が経過した。この歌碑は資料10の長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年刊に紹介されていない。本当にまだあるのだろうか、人に尋ねても知らない。1月8日会の七高山めぐりを兼ねた山行が、ちょうど烽火山を通るので探してみた。
見事に山頂かま跡の西側すぐ手前10m位のところにあった。立った大きな岩の上に一円玉ばかりのの賽銭。根元に小さな古い石祠。傍らの木に朝霧山の会「←仏舎利塔方面」の白いプレートが付けられている。この道脇の賽銭を乗せた大きな岩の裏面が歌碑だった。誰も裏にまわらない。そのため誰からも気づかれないで、長年建っていたのだろう。碑は人の背丈、全幅は1m位。刻みの磨耗はあまりない。
流麗な字は読める。詩文の末に「文化二丑年 杏花園」「中村李囿命工鐫焉」とあった。拓本をとりたい歌碑である。「杏花園」とか「中村李囿」の名はどのような人か(後述)調べねばならない。

この日は中尾峠から日見峠へ向かったので、21日妙相寺からまた烽火山に登った。人の顔に似た「人面巖」は山の東とあり、山頂に出る手前50m位の道脇左側に同行の妻がすぐ見つけた。あまり大きな岩でない。手前道角に子人面もあり愛嬌だ。
山の下の「傴僂巖」は、この記述で特定できないが、中尾峠へ向かうため山頂から北に、ロープを掴んで下りきった斜面下にある丸い岩でないだろうか。「亀石」にも似てる。岩はほとんど道脇にある岩に名をつけただろうし、気をつけて探さないとなかなかわからない。

長崎文献社刊「長崎名勝図絵」27頁は、次のとおり記している。南畝の「春日野に…」の歌は烽火山の末尾に載せているが、「南畝石」は記してない。「図絵」は文化、文政年間の執筆であったとされる。
49人面巖 烽火山の東。奇峻にして形ははなはだ怪しと書かれている。
50傴僂巖 烽火山の下。その形からこの名がある。(せむしのことを、長崎では、こうごうという)

以下、次の記事に続く。

新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」による記録はどんなものか

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新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」による記録はどんなものか

長崎史談会「長崎談叢 第九十輯」平成14年5月発行57〜79頁所収の新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」は、次のとおり。

玉林晴朗著『蜀山人の研究』
…玉林著の長崎関係の叙述は「第十四章 長崎出張と海外知識」で述べられている。そこの第五節「中村李囿と烽火山の詩」に注目してみよう。
中村李囿とは何者か。玉林の叙述によると、以下の通りである。
「長崎の人々の内で最も親しかったのは、中村作五郎であらう。この人は茂中屋と称し、長崎に於ける豪商の一人であり、朝夕岩原官舎の所用を承る者であった。李囿と号し風雅な人でもあり、特に南畝の事は何くれとなく世話をした。長崎から江戸へ帰って来て後も、屡々手紙を往復して居り、其の南畝が中村李囿へ宛た書簡は、今も長崎の同家に二十数通現存している。」
李囿中村作五郎は南畝在任当時、岩原目付屋敷御用達であった。それ故、南畝とは親しい関係にあった。何より貴重なことは、南畝帰府後の文化二年から文政元年までの十三年間に亙る南畝の李囿宛書簡が計二十六通保存されていることである。…
中村李囿宛書簡・文化八年閏二月十三日付と文化九年三月中旬頃の中では七高山詩碑のことが出ている。烽火山、七面山、金毘羅山、彦山、愛宕山などに、大田南畝の詩碑を中村李囿が建てるというのである。このうち、実現されたのは、烽火山と七面山のものであろうと推測される。そしてそれらは、今も現存している。…

大田南畝関係の石碑など
1、烽火山山頂付近の石碑
滄海春雲捲簾瀾  崎陽囂市一彈丸  西連五島東天草  烽火山頭極目看
文化二丑年  杏花園  中村李囿命工鐫焉
2、七面山への入口の石碑
披楱踰嶺踏烟雲  七面山高海色分  一自征韓傳奏捷  至今猶奉鬼将軍  大田覃
3、時津のさば腐れ石
4、蜀山人之碑
天門山斷海門開  岸上人烟擁鎮台  處々白雲飛不止  秋風一片布帆來  南畝大田覃
あらそはぬ風の柳の糸にこそ  堪忍袋ぬふべかりけれ  四方歌垣
5、蜀山人歌碑、
彦山の上から出る月はよか  こげん月はえっとなかばい  蜀山
6、南京坊の墓碑

1の石碑は『長崎市史・名勝旧跡部』五四四頁に「南畝石」として紹介されている。これが中村李囿宛書簡に記されている詩碑であろう。2はこれも李囿宛の書簡に記された詩碑のひとつであろう。現在鳴滝二丁目十四番地の川沿いの所に立っているが、以前は旧制長崎中学の上のグランドの所に立っていたそうである。石の裏面には、「石工喜助」の文字の他、二行ほどの文字の列と「文久二戌 季春」の年月が彫られているが、これは後の時代になって刻まれたものであろう。1と2はいずれも自然石に彫られたものであり、七言絶句の漢詩の文字は南畝の筆跡と推測される。
文化八年閏二月十三日付中村李囿宛書簡には次のように記されている。「七高山へ詩を御ほらせ可被下よし、何より之事と追々認メ上ゲ可申候。先出来合候烽火山、七面山上申候。…」 この時の詩碑が今に残されているわけである。
平成十四年一月十二日、私は鳴滝川沿いに七面山への道を行き、まず、2の「七面山詩碑」の前を通る。何度も来て写真に収めている石碑である。当初はまだ上の位置にあったのであろう。七面山妙光寺の境内に至る。ここから烽火山頂上へ登ろうというのである。以前、七高山巡りで、仏舎利塔の所から登ったことはあるが、七面山の方からは初めてである。道らしき道もない所を登る。所々木々に道しるべを巻き付けてくれてある。それを頼りに、広い道らしきところに来た。七高山巡りのコースである。烽火山頂上に達して、かま跡の所を見る。午後二時頃であった。その周囲に日差しが降り注いでいる。南畝が登った時代は、見晴らしがよかったのだろうが、今は木々が遮って、眺望はきかない。かま跡の所だけが広場になっているのである。頂上の外れの木々が生い茂った所に自然石が数個散らばっている。その中の大きな一つには、お神酒などが供えられている。それが南畝石であった。かま跡の日差しの所から見ると裏側に文字が彫られている。暗くてはっきり見えない。以前、竹内光美氏に連れられて、墓碑や石碑の調査をしていた時のことを思い出した。竹内氏は手鏡の反射を利用して文字を判読されていた。私は手鏡を携行していた。手鏡を取り出して、木漏れ日を利用する。ありがたいことに、反射光は碑面の文字を浮かび上がらせてくれた。「文化二丑年   杏花園 / 中村李囿命工鐫焉 」と読み取れる。『長崎市史』には記されていない文字である。しかし、肝心の七言絶句の漢詩の部分が薄れて読みづらくなっている。竹内光美氏は他の光の影響を受けない真夜中に、懐中電灯で碑面を照らすのが一番よいと言われていた。また、宮田安氏や竹内氏に碑面の写真撮影で協力されていた城田征義氏は、日時や天候によって文字が見えなくなったりすることを語られていた。金石文の採取にはひとかたならぬ苦労があるわけである。…

烽火山などの「長崎市史 地誌編」による記録はどんなものか

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烽火山などの「長崎市史 地誌編」による記録はどんなものか

著作権者長崎市役所「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」昭和13年発行 昭和42年再刊 清文堂出版による記録は、次のとおり。
烽火山図は、長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」から。大田南畝の肖像は、(谷文晁筆、『近世名家肖像図巻』/東京国立博物館蔵)から。

第三章 舊 蹟 四、国防に関する史跡 一、烽火山御番所の項   534〜545頁
烽火山十景 延宝六年時の長崎奉行牛込忠左衛門は好学の士で南部艸壽、彭城宣義、林道榮等の碩儒を延ひて廔佳筵を開き議して烽火山十景を定めた。即ち
染筆狐松  飲澗龜石  廻麓鳴瀧  積谷清風  罨畫奇巒
潮汐飛颿  漁樵交市  崎江湧月  碧峰夕照  高臺雪鑑
此の内で龜石の所在が判らない。染筆狐松は俗にフデソノマツと稱し十四五年前迄は老松鬱として存して居たが今は枯れ朽ち其處より弐丈許りの若松数株が老樹を継いで居る。而して樹下に建てられたる染筆松と書せる碑石は淋しげにその位置を守り若樹の成長を待ち顔である。(略)

現  状  烽火台廃止後既に六拾壱年、勤番廃止後百四年を経過せる事とて新旧番所跡は共に雑木林と化し去り、唯その石壁が斯る山中にしては不似合なると時に茶碗土瓶等の破片を掘り出す事ありてその旧址たる事を知ることが出来るのみである。又山頂の烽火台は其の儘旧態を存して依然たれども竈の縁邊の崩れや竈中埋没物にてその深さを滅ぜる等は流石に年月の流れ深きを思はしむるものがある。周囲の竹矢来や水溜や小屋などは元より其の遺址すら判明していない。

登攀道路  登攀路は是又昔時に比して路面著しく劣悪となつて居る。古老談 往時は三ヶ村百姓等毎年二回づゞ道路改修に当つて居たが維新後この事亦絶えし為め劣悪に向ひしは蓋し当然であらう。
烽火山に登るに数線がある。その一は旧時の正道で桜馬場よりするものである。即ち今の長崎県師範学校の東側桜馬場町七拾四番地旧二本杉の地より左折す。此処より絶頂まで約十五丁昔も今も変ることはない。一丁余にして右に鳴滝あり、県立長崎中学校寄宿舎がある。これより右武功山左城ノ越では道は其の谷間を北にシーボルト宅址や長崎中学校体操場を過ぎ 此処まで人家蜜なり 七面山妙光寺の下手に居たりて岐路に入る。此処より苔の細道次第に急に、次第に嶮に岐路より二丁許文化年度新開の道路辿るに至れば左右雑木鬱乎として嶮坂愈加ふ。番所谷と云ふのは此の邊である。登ること更に二丁許で稍平坦の地に達す。此所に、右に高サ四尺位刀の如き石が立てられ染筆松(ソメフデマツ)の三字を題す。長崎奉行牛込忠左衛門の筆である。碑の前面上手が新番所の地で長崎港を正面に見下す位置である。更に二丁余右上手に竹と雑木の繁れる一区画が旧番所址である。旧番所跡を過ぐれば市有林の原野で近時松杉等が植え付けられて居る。大荷床に近く右手路傍藪間に清泉あり。水浅けれども清冷掏すべし。如何なる旱天にも源涸れざれば遊客は元より峯通る杣も牧草刈る賤の男女も常に掏して渇を醫す。旧番所に用いた泉である。泉を過ぐる数十歩の地が大荷床で昔放火用薪が茲に積まれて居た。巡見の長崎奉行はこゝに床几を置き小憩の場とした。此処を東に下れば秋葉山南に進めば狗走で一ノ瀬に到る。大荷床より頂上まで三丁余、その長崎を正面に俯瞰する部に設けられたる九十九折なる道路は文化五年に新開したるもので迂回数節之を辿れば登攀の難苦大に和げらる。大荷床より頂上に通ぜる道は旧道で一時廃せられて居たが近時青年輩の登山者により却つて復活せられて居る。
以上記載の道程は松浦陶渓が実測せし順路で当山の大手である。
二は片淵町三丁目八番地角より又は春徳寺より城ノ越、八気山を越えて 或は三丁目御城の谷より字大久保を過ぎて 健山に到り峯伝ひに山頂に到るもので四道中眺望最も佳良であるけれども路程稍遠く而して最も嶮阻である。三は中川町高林寺の側より一ノ瀬山を峯伝ひに本河内低部貯水池を右麓に見下ろしながら進んで狗走より大荷床に達するもの、四は本河内町妙相寺より登り秋葉山を経て大荷床に到るものである。右の外に木場町より健山に或は頂上に登る途があるけれども裏道で何れも嶮阻である。

南 畝 石 文化元年九月長崎奉行肥田豊後守手附勘定役として来崎した南畝太田直次郎は翌年此の峯に昇り絶景を賞して一詩を賦した。
滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看
此の詩は後年山頂西側の巨石に鐫刻せられ今に嚴存す。此の石は何時の頃よりか當地詩客の間に南畝石と名づけられて居る。此の他人面巖 山の東に在り人の顔に似たりとて名を得たり 傴僂巖(カウコウイハ) 山の下にあり などがある。
太 田 直 次 郎
春日野にあらねと高き山の名の飛火もたつてうこきなき御世
此の詩は岳麓七面山に詣でし詩であろうが当山の風光を詠ぜしものであるから茲に掲げた。

同 第二章 名 勝  中央部  二、諏訪公園 の項     167頁
12 蜀山人天門山碑
元日桜碑の背後茶店の側にあり、此の碑は元蛍茶屋一ノ瀬橋の右側巨石の上に建てゝあつたのを何時の頃か此処に移したものである。
天門山斷海門開岸上人烟擁鎭臺處々白雲飛不止秋風一片布帆來
南 畝 太 田 覃
あらそはぬ風の柳の糸にこそ堪忍袋ぬふべかりけれ
四 方  歌 垣

同 第二章 名 勝  東 部  六、英 彦 山 の項    260〜261頁
英彦山は中秋の候名月其の頂より現はるゝ時山容豊艶相映じ形容辞すべきものがないので古来「彦山の月」と称して市民諏訪神社より坂上神社より或は西山よりその好景に憧憬し詩に歌に人口に膾炙せるもの少からず。題して眉嶽秋月と言ふ。
眉が岳の月をみて長崎の方言を綴る  四 方  赤 良
わりたちもみんな出て見ろ今夜こそ彦山やまの月はよかばい
長崎の山から出てた月はよかこんげん秋はえつとなかばい

同 第二章 名 勝  西 部  二、天 門 峯 の項    289頁
瓊 浦 秋 望           南 畝 太 田 覃
天門山斷海門開、岸上人烟擁鎭臺、處々白雲飛不止、秋風一片布帆來
此の詩は唐人錢了山なるものゝ請により和韻せしものなりと云ふ。

同 第三章 舊 蹟  経済貿易  七、唐人屋敷 の項   721〜722頁
詩 歌  唐人屋敷に関する詩歌は随分に多く四方に伝播されて居る。左に長崎名勝図絵や文人名士の見聞私記等より二三を摘録することゝする。
唐     舘           太 田 覃
天后土神關帝祠、幾番船主賽崎陽、門聯扁額多相似、疑入蘇州桂海涯

同 第五章 詩 歌                     1007頁
瓊 浦 秋 望            太 田 南 畝
天門山斷海門開、岸上人烟擁鎭臺、處々白雲飛不止、秋風一片布帆來

そのほか、次があるようだ。
故郷に飾る錦は一と年をヘルへトワンの羽織一枚    蜀山人 大田直次郎
披楱踰嶺踏烟雲 七面山高海色分 一自征韓傳奏捷 至今猶奉鬼将軍     大田  覃