烽火山などの「長崎市史 地誌編」による記録はどんなものか

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烽火山などの「長崎市史 地誌編」による記録はどんなものか

著作権者長崎市役所「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」昭和13年発行 昭和42年再刊 清文堂出版による記録は、次のとおり。
烽火山図は、長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」から。大田南畝の肖像は、(谷文晁筆、『近世名家肖像図巻』/東京国立博物館蔵)から。

第三章 舊 蹟 四、国防に関する史跡 一、烽火山御番所の項   534〜545頁
烽火山十景 延宝六年時の長崎奉行牛込忠左衛門は好学の士で南部艸壽、彭城宣義、林道榮等の碩儒を延ひて廔佳筵を開き議して烽火山十景を定めた。即ち
染筆狐松  飲澗龜石  廻麓鳴瀧  積谷清風  罨畫奇巒
潮汐飛颿  漁樵交市  崎江湧月  碧峰夕照  高臺雪鑑
此の内で龜石の所在が判らない。染筆狐松は俗にフデソノマツと稱し十四五年前迄は老松鬱として存して居たが今は枯れ朽ち其處より弐丈許りの若松数株が老樹を継いで居る。而して樹下に建てられたる染筆松と書せる碑石は淋しげにその位置を守り若樹の成長を待ち顔である。(略)

現  状  烽火台廃止後既に六拾壱年、勤番廃止後百四年を経過せる事とて新旧番所跡は共に雑木林と化し去り、唯その石壁が斯る山中にしては不似合なると時に茶碗土瓶等の破片を掘り出す事ありてその旧址たる事を知ることが出来るのみである。又山頂の烽火台は其の儘旧態を存して依然たれども竈の縁邊の崩れや竈中埋没物にてその深さを滅ぜる等は流石に年月の流れ深きを思はしむるものがある。周囲の竹矢来や水溜や小屋などは元より其の遺址すら判明していない。

登攀道路  登攀路は是又昔時に比して路面著しく劣悪となつて居る。古老談 往時は三ヶ村百姓等毎年二回づゞ道路改修に当つて居たが維新後この事亦絶えし為め劣悪に向ひしは蓋し当然であらう。
烽火山に登るに数線がある。その一は旧時の正道で桜馬場よりするものである。即ち今の長崎県師範学校の東側桜馬場町七拾四番地旧二本杉の地より左折す。此処より絶頂まで約十五丁昔も今も変ることはない。一丁余にして右に鳴滝あり、県立長崎中学校寄宿舎がある。これより右武功山左城ノ越では道は其の谷間を北にシーボルト宅址や長崎中学校体操場を過ぎ 此処まで人家蜜なり 七面山妙光寺の下手に居たりて岐路に入る。此処より苔の細道次第に急に、次第に嶮に岐路より二丁許文化年度新開の道路辿るに至れば左右雑木鬱乎として嶮坂愈加ふ。番所谷と云ふのは此の邊である。登ること更に二丁許で稍平坦の地に達す。此所に、右に高サ四尺位刀の如き石が立てられ染筆松(ソメフデマツ)の三字を題す。長崎奉行牛込忠左衛門の筆である。碑の前面上手が新番所の地で長崎港を正面に見下す位置である。更に二丁余右上手に竹と雑木の繁れる一区画が旧番所址である。旧番所跡を過ぐれば市有林の原野で近時松杉等が植え付けられて居る。大荷床に近く右手路傍藪間に清泉あり。水浅けれども清冷掏すべし。如何なる旱天にも源涸れざれば遊客は元より峯通る杣も牧草刈る賤の男女も常に掏して渇を醫す。旧番所に用いた泉である。泉を過ぐる数十歩の地が大荷床で昔放火用薪が茲に積まれて居た。巡見の長崎奉行はこゝに床几を置き小憩の場とした。此処を東に下れば秋葉山南に進めば狗走で一ノ瀬に到る。大荷床より頂上まで三丁余、その長崎を正面に俯瞰する部に設けられたる九十九折なる道路は文化五年に新開したるもので迂回数節之を辿れば登攀の難苦大に和げらる。大荷床より頂上に通ぜる道は旧道で一時廃せられて居たが近時青年輩の登山者により却つて復活せられて居る。
以上記載の道程は松浦陶渓が実測せし順路で当山の大手である。
二は片淵町三丁目八番地角より又は春徳寺より城ノ越、八気山を越えて 或は三丁目御城の谷より字大久保を過ぎて 健山に到り峯伝ひに山頂に到るもので四道中眺望最も佳良であるけれども路程稍遠く而して最も嶮阻である。三は中川町高林寺の側より一ノ瀬山を峯伝ひに本河内低部貯水池を右麓に見下ろしながら進んで狗走より大荷床に達するもの、四は本河内町妙相寺より登り秋葉山を経て大荷床に到るものである。右の外に木場町より健山に或は頂上に登る途があるけれども裏道で何れも嶮阻である。

南 畝 石 文化元年九月長崎奉行肥田豊後守手附勘定役として来崎した南畝太田直次郎は翌年此の峯に昇り絶景を賞して一詩を賦した。
滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看
此の詩は後年山頂西側の巨石に鐫刻せられ今に嚴存す。此の石は何時の頃よりか當地詩客の間に南畝石と名づけられて居る。此の他人面巖 山の東に在り人の顔に似たりとて名を得たり 傴僂巖(カウコウイハ) 山の下にあり などがある。
太 田 直 次 郎
春日野にあらねと高き山の名の飛火もたつてうこきなき御世
此の詩は岳麓七面山に詣でし詩であろうが当山の風光を詠ぜしものであるから茲に掲げた。

同 第二章 名 勝  中央部  二、諏訪公園 の項     167頁
12 蜀山人天門山碑
元日桜碑の背後茶店の側にあり、此の碑は元蛍茶屋一ノ瀬橋の右側巨石の上に建てゝあつたのを何時の頃か此処に移したものである。
天門山斷海門開岸上人烟擁鎭臺處々白雲飛不止秋風一片布帆來
南 畝 太 田 覃
あらそはぬ風の柳の糸にこそ堪忍袋ぬふべかりけれ
四 方  歌 垣

同 第二章 名 勝  東 部  六、英 彦 山 の項    260〜261頁
英彦山は中秋の候名月其の頂より現はるゝ時山容豊艶相映じ形容辞すべきものがないので古来「彦山の月」と称して市民諏訪神社より坂上神社より或は西山よりその好景に憧憬し詩に歌に人口に膾炙せるもの少からず。題して眉嶽秋月と言ふ。
眉が岳の月をみて長崎の方言を綴る  四 方  赤 良
わりたちもみんな出て見ろ今夜こそ彦山やまの月はよかばい
長崎の山から出てた月はよかこんげん秋はえつとなかばい

同 第二章 名 勝  西 部  二、天 門 峯 の項    289頁
瓊 浦 秋 望           南 畝 太 田 覃
天門山斷海門開、岸上人烟擁鎭臺、處々白雲飛不止、秋風一片布帆來
此の詩は唐人錢了山なるものゝ請により和韻せしものなりと云ふ。

同 第三章 舊 蹟  経済貿易  七、唐人屋敷 の項   721〜722頁
詩 歌  唐人屋敷に関する詩歌は随分に多く四方に伝播されて居る。左に長崎名勝図絵や文人名士の見聞私記等より二三を摘録することゝする。
唐     舘           太 田 覃
天后土神關帝祠、幾番船主賽崎陽、門聯扁額多相似、疑入蘇州桂海涯

同 第五章 詩 歌                     1007頁
瓊 浦 秋 望            太 田 南 畝
天門山斷海門開、岸上人烟擁鎭臺、處々白雲飛不止、秋風一片布帆來

そのほか、次があるようだ。
故郷に飾る錦は一と年をヘルへトワンの羽織一枚    蜀山人 大田直次郎
披楱踰嶺踏烟雲 七面山高海色分 一自征韓傳奏捷 至今猶奉鬼将軍     大田  覃